変性意識と自己超越の技法―【方法論的寓話】「この世の意識」と「あの世の意識」

以下では、変性意識状態の多様な帯域を踏まえて、寓話の形を借りて、意識拡張や自己超越の方法が語られています。
通常のロジックでは説明できなく、暗喩的な形でしか表現できない、リアリティがあるためです。

◆寓話

「この世の意識」と「あの世の意識」がある。

「この世の意識」は、一区画である。
「あの世の意識」の一区画を分けたものが、「この世の意識」である。
元来は、ひとつのものである。
今も、ひとつづきのものである。

「この世の意識」も、中身(原質)は「あの世の意識」と同じものである。
中身のエネルギー/〈光〉は同じものである。

「この世の意識」は、時空の世界である。
鏡のこちら側の世界。
われわれのよく知る、三次元の時空の世界である。

人びとが行き交い、生活している、見慣れた景色がある世界である。
因果法則と機械仕掛けの世界である。

「あの世の意識」は、鏡の向こう側の意識、時空の外の世界である。
われわれの理解を超えた世界、無と〈無限〉の世界である。
遍在する〈まばゆさ〉の世界、遍在する〈光〉の意識の世界である。
そのため、インドでは「存在・意識・至福」(サッチダーナンダ)と呼ばれていた。

「あの世の意識」と「この世の意識」とは、同じものである。
「あの世の意識」と「この世の意識」は、区画の違いであり、間取りの違いでしかない。

「この世の意識」と「あの世の意識」を区切る〈鏡〉によって、私たちはこの世界の風景を見ている。
この世界は、鏡に映った像である。

「この世の意識」と「あの世の意識」を区切る〈鏡〉は、浸透性のものである。
透過するものである。
そこには任意の交流/遮断がある。
汚れや曇りにより透過しにくくなるものである。
そのため、古来より「ヴェール(面紗)」という表現が使われていた。

「この世の意識」を通して、「あの世の意識」を体験することは可能である。
中身のエネルギー/〈光〉は同じだからである。
われわれは、いつも「あの世の意識」に透過され、その中にいるからである。
その者としているからである。
間取りや部屋の違いでしかないからである。

ただ、単純に鏡を向こうに行ってしまうだけなら、われわれはあまり知ることができない。
われわれは、鏡のこちら側の存在、「この世の意識」だからである。

「この世の意識」を通して「あの世の意識」を理解していくことが「知ること」と言われる。

われわれがいるのは、鏡があるせいである。
この鏡が割れてしまうと、われわれもまた割れてしまう。
この鏡が無いと、われわれもまた無い。
われわれとは、鏡と映った像だからである。

そのため、このゲームは、鏡を澄まして、鏡の向こう側を(向こう側から)知ることである。
鏡の向こう側の世界を、鏡のこちら側で生きることである。
この逆説が、このゲームの興味深さである。

そのことで、われわれは、別のものに変容していき、〈目指していた姿〉を実現するのである。

「この世の意識」の小部屋以外にも、「あの世の意識」の中には、さまざまな区画がある。
われわれの区画は、とても小さな区画、とても小さな小部屋である。
他の区画には、開放的な空間や巨大な施設、大きな都市もある(光の都市もある)。
国家もあれば、星々もある。
(人びとは、それを神々と呼んだりもする)

この宇宙のひろがりには果てがない。

ただ、われわれは、彼方まで行くと、今ここにたどり着く。
今ここに戻ってきている。
彼方の果てに、今ここがあるからである。
宇宙の果ては、今ここである。
われわれはどこにも行かないのである。

「あの世の意識」は、今ここを目指している。
このゲームの中では、今ここがゴールである。
われわれは、宇宙の彼方を目指しつつ、果てを探求しつつ、今ここを目指している。
ほんとうの今ここにたどり着くことを。

「この世の意識」としての「あの世の意識」。

「この世の意識」の中で「あの世の意識」を十全にとらえられると、「この世の意識」は小部屋ではなくなる。
像が流動化し、開放された空間が現れてくる。

見えている風景も、薄皮のように希薄になり、内側からまばゆく放射をはじめる。
夏の日のまばゆさに、すべてが吸い込まれていく
空間が開くように、広大無辺なものになっていく。

宇宙のひろがりであるかのように寄せる〈息吹〉がある。
今ここであると同時に、時空を超えたものがある。
それは時空の中で「役」を演技している、無限の存在がある。
そのような「化身」として、あるようになる。

われわれは皆、これを目指している。

 

◆演技論

「あの世の意識」には時空がない。
「あの世の意識」としてのわれわれはすべてを知っている。
かつてあったことも、これから起こることも。どこかであったことも、どこかで起こることも。
かつてなかったたことも、これからもないことも。
それらのすべてを。

まれに、われわれは、そのような「あの世の意識」の情景を垣間見ることがある。
変性意識状態を通して、知ることがある。
われわれは、「あの世の意識」でもあるからだ。

「あの世の意識」は、非時空の世界、際限のない淵源である。至福の意識である。
「この世の意識」でありながら、われわれはそれらを知ることがある。
それはつねに透過しているからである。

われわれは、普段意識することなく、暗闇の中で〈光〉を探すように、それらの体験や経験を探索している。
日々の中で、その〈光〉を捜している。

それらが、この人生の膜/無明を超えて、宇宙のほんとうの存在/まばゆさを教えてくれると感じるからである。
それらの中に、人間世界とは異質な存在の「意味」、霊妙な「意味」を感じるからである。

人間世界と無限の世界の、二つの極の振幅を感じるからである。
この振幅の謎が、われわれの探索の快楽であり、歓びだからである。

われわれが、自分をわざと小さな自分(私)と見なし、「この世の意識」を生きているのは、両極の振幅による強度な体験、超越的体験を生み出すためである。
超出のプロセスを、劇的に濃密に味わうためである。
英雄の旅もそのことを示している。
この世界の多様さと豊かさは、そこに由来している。

均質なものでは、強度な体験が生れない。
新奇さと鮮烈な体験に欠けるものがある。

均質なものの整いには、驚異や創造力が欠けている。

異質なものが交わることで、摩擦が生れ、炸裂と超出が生まれる。
強度な体験と質感が生まれる。
万華鏡のように極彩色の刺激が生まれ、目覚ましい創造力が増産されるのである。

「この世の意識」があるのはそのためである。
「あの世の意識」だけでは、完全で、飽きてしまうからである。
宇宙は、より多様な存在と刺激、多様な意識と至福を真剣に楽しみたいのである。

「この世の意識」の分化と統合に、壊乱的な演奏があり、創造力の探索があり、美の精妙的なダンスがあるのである。

「あの世の意識」は、至福の三昧である。
「この世の意識」は、夢見られ、配役され、演じられている役者である。
自分を登場人物本人と思い込んでいる劇である。

「この世の意識」は、芝居であり、演技であり、「役」の探求である。
劇の中で、これが「劇」だと気づき、「あの世の意識」をふたたび発見するためのゲームである。
それらをふたたび見出し、探求を深めるためのゲームである。

だから、われわれはこのゲームを行なっているのである。
これは、脱出ゲームであり、侵入ゲームである。
そのように「私」を演じているのである。

くぐもった「この世の意識」にも、重要な役割がある。
それは配役設定(元型)によるダイヤグラム的な味付け、効果と意味である。
苦痛や欲求不満、煩悶でさえ、物語の伏線(プロセス)であり、超出への強度(テイスト)なのである。
順風満帆のストーリーをもった映画など、誰が見たいだろうか。

単発で意味がわからない出来事も、伏線のつながりの中では、しかるべき意味をもつ。

要は、今ここで、快苦の味わいを超えた、存在と意識の〈突破口〉を見出していくことである。
ゲームの屈曲した展開を楽しみ、可能性を探索し、超越を予感し、その挑戦に甲斐を感じることである。
そのために、「あの世の意識」と「この世の意識」を交錯させるさまざまな技法があるのである。

 

◆方法論1

「この世の意識」の中で「あの世の意識」を体験するには、「この世の意識」の流動化が必要である。
「この世の意識」は厚い汚れで硬化し、固形化しているからである。
人類のそれは、汚れきった相当酷い状態である。
くまなく掃除し、心身を流動化させる必要があるのである。

その上で、両者の間に浸透性と透過性をつくっていく必要がある。
両者の間に、しかるべきエネルギーの流れをつくだすことが必要なのである。
詰りがとれていないと、パイプに水は流れない。
カラになっていないと、容器に水は入らない。

浸透性がないと、われわれは「あの世の意識」を体験することができない。
浸透性が強すぎると、われわれは体験する(持ちこたえる)ことができない。
自己が飽和してしまうからである。

「あの世の意識」に吸い込まれ、われわれ自身であることを失うのである。

浸透性を得るには、汚れや詰まりを除き去り、透けるような存在の流動性を得ることが前提となる。
透明な無心(パイプ)になることが求められる。
その〈空〉の中で、エネルギーや存在、情報が曇りなく流れるようになるのである。

一方、「あの世の意識」は、非時空の、猛威のエネルギーである。
その過度なエネルギーの中では、「この世の意識」の共振や柔軟性、組織化や焦点化も重要となる。
錬磨を通してのみ、「あの世の意識」を導き、変換し、この世で活用することも可能となるのである。

とりわけとらわれのなさ、力を均衡する力である。
なめらかな自由さである。
われわれが空無である分しか、「あの世の意識」は微細な〈光〉を満たさないからである。
人間的な信念や価値、二元的論理(作用反作用)は分厚い障壁であり、その鈍感さの中には、「あの世の意識」の虹のような霊妙さは透過しないのである。

「あの世の意識」を知りたければ、無一物の者として、赴くしかないのである。
そのような接近を通して、「あの世の意識」の非時空なエネルギーから〈光〉を得ることも、無形の息吹を得ることも可能となるのである。

これらは、継続的な探索と錬磨を通して得られていくものなのである。

 

◆方法論2

われわれは、「この世の意識」を通して「あの世の意識」を体験する。
「あの世の意識」の〈光〉が透過してくると、世界はまったく違うものとなる。
世界は、〈光〉に透過された薄皮のようになる。

鏡の向こう側へ抜けると、そのまぶしいひろがりは、こちら側の世界を内に含んだものとなる。
「この世の意識」は「あの世の意識」の一片、「あの世の意識」の無限にすみずみまで透過されたものとなる。
われわれは、すばやいものに追い抜かれた〈残像〉に過ぎなくなる。
まばゆい「誰か」が見ているものの中に、「見られている私」たちがいるのである。
世界やわれわれは、エピソード(挿話)にすぎなくなるのである。

世界は透け、あらゆるカラフルな知覚情報が、まばゆく流動化をはじめる。
世界は光りだし、この世界の「ほんとうの姿」が構成されはじめる。

瞬間瞬間の宇宙の光景を通して、知覚と感覚を通して、〈生きている意味〉が再把握されるようになる。
自分がなぜ人生を生きていたのか、存在の意味が浮かび上がるようになる。

存在の旋律(メロディ)が透視され、生の楽曲の全体が聴きわけられるようになる。
データ復旧され、自己という曲や自己に関連する曲の全体がわかるようになる。

この曲を自分で聴きとり、創りだし、人に聴かせていけるようになると、それがわれわれの生きる意味となる。
自己という曲、全体の中でのそのフレーズ、それが私たちの生きる意味だからある。

この曲を見出し、再構成し、さまざまな楽想で演奏していくこと。
曲を研ぎ澄ましていくこと。
さまざまな出遭いの中で、さまざまに即興合奏していくこと。
さまざまな時空の枝々のさきで、創造的進化を展開すること。
そのような存在と意識の旋律(メロディ)が、新しい全体を生み出し、われわれの過去(旧い意味)を解放し、新しい伏線を撒布し、未来の創造的な「意味」を創り出していくのである。
…………………………………………………………

一方、その対極にあるのが、
「この世の意識」だけの世界である。
「あの世の意識」とつながりのない「この世の意識」の世界である。

閉じた「この世の意識」とは、入口と出口を塞いだ無人施設である。
水を抜いたプール、電源の通らない死んだハイテク施設である。

閉じた「この世の意識」は、人間だけが運用する凡庸なゲームであり、宇宙的には無意味な場所、失敗し詰んだ場所である。
これが、人間だけが「現実」と考えている世界である。
人間の観念と言葉の世界である。

人間だけの虚構なので、そこに、われわれが生きているほんとうの「意味」を見出すことはできない。
言葉の意味ではない、ほんとうの「意味」は、人間という観念の外、真の存在からやってくるものだからである。

しかし、人間は「生きる意味」を知っているフリをし、生涯芝居をつづけている。
深い動機も意欲もないままに、「人生」という劇を演じつづけているのである。
実存的に空虚なので、モチベーションを上げようとしても無駄なわけである。

われわれは、惰性として生きているだけである。
物心がついた頃から、「昨日やったことを今日もやる」だけである。
そのため、本当のところ、自分を尊重していなければ、他人を尊重することもない。
自分を虐待しているし、他人も虐待している。
嫌になれば、この世界を死んで去ろうとする。

われわれは、「生きる意味」がわからないのにわかったフリをする。
人生のはじめの頃、われわれは、大人たちのこのウソに気づく。
「世の大人たちは、がなぜ生きるのか、本当には理解していない」という事実に、われわれ子どもは気づく。

しかし、大人たちがついているウソに「気づかないフリをすること」、それが、われわれが子ども時代に学ぶ最初のサバイバル・テクニックである。
すでに「人生/人間ゲーム」をはじめたわれわれ子どもは、大人たちが気づいてほしくないウソには「気づかないフリをする」というルールを知っている。

われわれ子どもは、大人たちがついているウソに、心の底ではみな気づいている。
われわれ子どもは、大人の数百倍鋭いからである。

そして、この(クソ)ゲームをつづけるために、われわれ子どもは、ウソに合わせて、自分でもウソを紡ぐことに同意する。
子どものわれわれにとって、ウソしかない大人たちに合わせるには、自分でもウソを紡ぐしかないからである。
そうでないと、苦痛が大きすぎるからである。

そのようにして、われわれは、真実を擬態し、ウソだけの「この世の意識」で生きていくようになる。
やがて、(苦痛なため)ウソであることも忘れて、それを本当の「現実」だと(上書きして)思い込むようになるのである。
自分自身にウソをつくことを覚えてしまうからである。

このようにして、「この世の意識」、今のこの世界がつくり出されていくのである。

 

◆分身論

われわれは、たまに考える。
なぜ、人生の三分の一近くを眠って過ごしているのだろうか。
眠っている時間は、無駄ではないだろうかと。

われわれは、昼の時間を自分たちの唯一の『現実』の時間だと思っている。
夜の時間を、休息の時間、除外された時間と勘違いしている。

夜の眠っている間の時間。
それは、もうひとりの自分、もうひとりの「私」が目覚めている時間である。

眠っている時間に、もうひとりの「別の私」は活発に活動している。
眠っている時間とは、「夜の私」が目覚めている時間なのである。
夜の私は、「あの世の意識」からやって来ている。

われわれは、皆、双子のようなものである。
分身のような、そっくりな自分がもうひとりいるのである。

われわれが双子を見たとき、眩暈を感じるのは、このことを思い出すからである。
双子は、われわれに、忘れている分身を思い出させるからである。

昼の私は、「この世の意識」である。
夜の私は、「あの世の意識」からやってくる。

昼の私は、一本の樹木のようである。
幹と枝があり、価値の比重は均衡的に整理され、物事を構成している。
世界は、作用反作用の原理に従う機械仕掛けのシステムである。
われわれは、そのシステムに従って生きている。

昼の私は、論理的に考える存在である。
言葉を用い、自動的に解釈しながら、世界を分節化している存在である。
解釈し、比較し、計画し、行動している存在、それが昼間のわれわれである。

昼の私にとって、夜の私は、〈影〉のように感じられている。
何かの痕跡、何かの形跡の中に、昼の私は、夜の私をいつも予感している。
その通りの角を曲がると、ふと後ろを振り返ると、そこにそいつがいるような気がしている。

夜の私は、姿を持っていない。
しかし、あらゆる場所に、記憶の中に、未来の想像の中に遍在している。
われわれの目を通して視ている「誰か」、
それが夜の私である。

昼の私と夜の私は、夢の中で交流している。
夢の中で、さまざまな登場人物として現れるのが、夜の私である。
夢は、秘密アジトの無法地帯から、聖なる霊峰までを含む広大な空間である。
そこでは、敵か味方か、観客か俳優かの区別もつかないようなスパイ劇が展開されている。
芝居か現実かもわからない、形而上的トリックに満ちている。
しかし、夢の中では、夜の私が持つデータ(情報)やネットワークがよくわかる。
また、そのさまざまな透視力や特殊能力の有り様も。

夢での秘密取引を通して、昼の私は、夜の私の力をより利用することができるようになるのである。

…………………………………………………………
眠っている時間は、われわれが、別様に目覚めている時間である。

もうひとりの私にとっての広大な活動時間である。
われわれの方こそ、むしろ、分身かもしれないのである。

伝説では古来より、分離した影やそっくりな分身、失われた魂について語られている。
それらの魂がどこかに彷徨ってしまう危険をつねに警告している。
そのことは、現在においてこそ、真実なのである。

 

◆身体論

われわれは、二つの身体をもっている。
正確にいうと、多様な身体をもっている。

一つ目の身体は、「物理的・客観的な肉体」である。
物質的な輪郭と触感を持ち、「これが私の身体である」と人が考えているものである。
他人から見える自分の身体である。
他人に見ている相手の身体である。

二つ目の身体は、それとは別の、それ以上のひろがりをもって働いている感覚的な身体、「生きている身体」である。
哲学の身体論で語られるような身体、もうひとつの身体である。
しかし、その身体は、そのレベルに尽きるものではない。

われわれが棲んでいるのは、この身体の中である。

われわれが、物を見るとき、その物が「本当にわかる」のは、この身体のためである。
物にこの身体が触れているから、その物が「わかる」のである。
その核心がわかるのである。

この身体が届いていないものを、私たちは「本当に知る」ことはできない。
この身体の基底に働いているのも「あの世の意識」である。

われわれがものを考えるとき、基盤として働いているのも、この身体である。
この身体の基盤の上で、通常、思考の演算処理も行なわれているのである。
身体の稼働性によって、思考の範囲や射程距離も決まってくる。

われわれは、身体で考えているのである。
世の中に、粗雑な思考(大部分)と繊細な思考(稀有)があるのは、そのためである。
繊細な思考は、速い身体によって生まれる。
思考は遅く、身体は速いのである。

通常、これら二つの身体は、身体感覚の中で混在しているため、われわれはこの違いに気づくことはない。

しかし、普段、われわれは、もうひとつの身体を広範囲に伸ばしながら生きているのである。
投影しながら生きているのである。
知らずに、もうひとつの身体をあたりに伸ばし、網の目の宇宙を形成しているのである。
対象に憑依し、その内実を造形しているのである。

だから、
音楽に没入している時、われわれの身体は、楽曲自身として流れている。

映画に没入している時、われわれの身体は、登場人物となって動悸している。
他者と交流している時、われわれの身体は、その人の感じ方を感じようとしている。

「未開人は、写真に撮られると魂がとられると信じた」という話は、写真の像に、身体が投影される(憑依する)という正しい感覚を指している。
(自分の写真をハサミで粉々に切ってみるとわかる)
もうひとつの身体を、客観的物理的な肉体ととり違えることで、われわれのにさまざまな制限や障害が生じることとなる。

もうひとつの身体を、物理的肉体から切り離し、別種の感覚で動かせるようになると、われわれは、人生で別種の自由を得られるようになる。
そして、その身体をもう一段深く降りていったところに、さらに「別の身体」がある。
さまざまな秘教的な伝統が、そのことについて語ってきた。
古今東西の教えの中では、微細身、気の身体、金剛身、光の身体などと呼ばれたりもする。
それは、微細な身体(サトル・ボディ)、微細なエネルギーとして透過してくるように感じられる。

そのような身体が得られると、われわれの思考、感覚、感情、意志、すべての領域が、既存の人間形式(作用反作用)を超越してくることになる。
それらは、「別の身体」の基盤/レールの上を走っているものだからだ。
あたかも、義体化されたサイボーグのように、高速的な身体と、ネットワークの意識の拡張を感じるようになるのである。

われわれは、既存の心身とは、〈別の開放空間〉の中に入ることになる。
なめらかさがひろがるシームレスな空間(非時空)に入ることとなるのである。
すべては、如来のような光の身体の、無時間的な空間(基盤)の上にあるからである。

われわれは、別種の存在として、未知の人生を探索していくこととなるのである。


◆自己論

われわれはいつも、自分の「外側」のものに惹きつけられている。

なぜ、われわれはいつも、自分の「外側」のものに夢中になっているのか。
なぜ、われわれはいつも、自分の「外側」に答え(真理)があると思い込んでいるのか。
なぜ、われわれはいつも、「外側」にしか答えを求めないのか。

それは、われわれの基底にある指向と、抑圧(分裂)に関係している。

われわれは、ある要素では他に向かうようにプログラムされている。
そのため、生まれた後すぐ、他者に向かうようになるのである。
また、文化的家族的拘束を通して、そのことが強いられていくのである。

結果、他者と交わる中で、他者と他者像、自己と自己像とを造形する幼少期を持つようになるのである。

その中で、われわれは、他者像と自己像を取り違えるようなっていく。
「他者像のような自己」を想像しだすのである。
「他者像」から模造した「自己(鏡像)」を、本人だと思い込むようになっていくのである。
知らずにおこった錯覚であり、自己催眠である。
そのような「自己(像)」を、われわれは無自覚に生きるようになるのである。

われわれは、われわれの「自己像」である。
われわれは、「自己像」を自分だと思い込んでいる。

しかし、われわれは、われわれの「像」ではない。
われわれは、われわれ自身ではない。
つまり、はじめからスカを掴まされているのである。

そのため、われわれはつねに、空虚を抱えている。
われわれ自身としては生きてないからである。
そのため、つねに欠乏に駆り立てられている。

それは、われわれが、最初から思い違いをしているためである。
自己の「誤った像」を、自分だと思いこんだり、そこに自分を押し込めようとしているためである。
最初のボタンをかけ違えているのである

この存在のズレが、いつも「足りない」と感じさせる理由である。
つねに足りない存在が、われわれなのである。
それが「この世の意識」の特徴である。

その欠乏を充たすために、われわれは、いつも外側に「何か」を求めている。
最初に、取り入れ introjection たのと、同じ経緯である。
外に「何か」があるはずだと信じているからである。
しかし、取り入れること自体が、誤りの根源なのである。
われわれは、われわれ自身を、外から得ることはできない。
ここに在るのが、われわれだからである。

像を充たそうとする、虚構のウロボロス(自らの尻尾を咬む蛇)のように旋回する。
このゲームが、幻妄、マーヤーである。

このことに気づいた時、われわれは、自由になろうとしはじめる。
このことに気づいた時、われわれは、ゲームを抜けようとしはじめる。
このことに気づいた時、われわれは、自由になりはじめる。

われわれが自由になる方法は、最初の誤りに気づくことである。
われわれが自由になる方法は、最初にかけ違えたボタンをはずすことである。
われわれ自身から、自己像(鏡像)から抜け出すことである。
そのことで、われわれは、ほんとうの自己に見つけていくこととなる。

しかし、事態は、不可能的なことに思える。
われわれは、今信じている自己像を介してしか、物事を想像することができないからである。
ほんとうの自己について何も知らないからである。
すべては、知ることのできない、鏡の向こう側の世界にあるからである。

そのため、逆説的な方法が必要となるのである。
伝統的な教えの多くが、逆説的な語り方をするのも、そのためである。

そして、さまざまな寓話的な語り方がされているのである。
寓話的に語ることで、別様にエネルギーが配置されるからである。
「この世の意識」と「あの世の意識」の間に、葛藤のわずかなさざ波が起こり、新しい事件が予感されはじめるのである。

そして、われわれは、小さな痕跡をたどるうちに、存在の事件に巻き込まれていく。
その中で、やがて、われわれは、自己を捜し出し、その真実に触れはじめることになる。
われわれは、すばやいものに追い抜かれた〈残像〉に過ぎなくなるのである。

 

◆速度論――〈青空=まなざし〉

「あの世の意識」は、大昔、始原からすでにあった。
インドでは、古来より「存在・意識・至福」と呼ばれている。

別では、宇宙創造以前のプレローマと呼ばれることもある。

虚空としての意識。
ゼロ=無限=無内容として〈意識〉である。

われわれは、投影された身体によって、宇宙を創っている。
宇宙を「体験している」。
それは「この世の意識」である。

見ている者の〈本体〉はプルシャであり、プレローマであり、無際限の、無内容の〈意識〉の遍在である。
それは、超越(超個)的な目撃者、ウィットネス witness である。
根源的な気づき awareness である。
「あの世の意識」である。

投影された身体が、この世界、われわれが見て体感する世界をつくっている。
投影された身体によって、「この世の意識」も生まれている。
投影された身体によって、われわれも生まれている。
「私」とは、見られ感じられている存在(図)のことである。

投影された身体がクリア(清澄)になると、われわれもクリア(清澄)になっていく。
投影された身体が変容すると、われわれも変容していく。
投影された身体が曇りなくすみずみまで透過されたとき、そのとき見られているわれわれは、もはやわれわれではない。

そこでは、
「何者でもないもの」として、見ている者、目撃者が見ているのである。
〈青空=まなざし〉が見ているのである。
それが、存在の彼此にあるものである。

さまざまな伝承が、このことを語ってきた。
古今東西のさまざまな創世神話が、これらの役柄を名づけてきた。

それらは皆、同じことを指しているのである。

われわれの知る像はすべて、投影された身体から来ている。

すべての像は、残像である。

投影される身体が完全に透けると、もはや像はない。

その時、われわれは、像の彼此にいて、まばゆい像なき像を生きているのである。

 

◆化身論

われわれとは、複数の身体である。
それは古来から、さまざまな化身や界として描かれてきた。
それは、われわれ自身の別の(本当の)姿である。

そのような姿は、伝統的には、さまざまな微細身(サトル・ボディ)として語られてきた。
如来たちの世界、天使たちの世界、祖形(元型)たちの世界である。
近代では忘れられた、そのような体験‐存在領域があるのである。

心身を解き放ち、流動性を高めていくと、われわれは徐々に、旧来の自己像、日常的自我から離脱するようになる。
世界は流動化し、別の次元に離脱しはじめることになるのである。

粗大な身体を離れ、これら微細化した流れる身体、摩擦のない超電導のような身体、光のつらなるような滑らかな身体を感じるようになるのである。
透過してくるようになるのである。
その身体の無時間的な速さ/まばゆさが、世界を殻/粒子のような残像に変えていくのである。

その時、われわれは、ほんとうの自己(果肉/真我)といわれる世界に交わりはじめるのである。
人間の造ったものではない、シームレスな〈開放空間〉に入りこんでいくこととなるのである。

それは、古今東西、さまざまに描かれてきた、燦然とまばゆい、もうひとつの世界、ほんとうの世界である。

ところで、像のボタンがかけなおされると、かつての自己像や人間像は修復され、「配役」のひとつとして再び利用されていくこととなる。
〈光〉に吸い込まれ回収された後、ふたたび送り返され、「配役」のひとつとして設定され、演じられるようになるのである。

われわれは、人間の姿をとり、世界で人々と交わっている「何者か/まばゆさ」として、生きていくことができるようになるのである。

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