変性意識の技法―【方法論的寓話】「この世の意識」と「あの世の意識」

◆寓話

「この世の意識」と「あの世の意識」がある。

「この世の意識」は、一区画である。
「あの世の意識」の一区画を分化し、分けたものが、「この世の意識」である。
元来は、ひとつのものである。
「この世の意識」も本当の中身(素材)は、「あの世の意識」と同じものである。
中身の「水」は同じものなのである。

「この世の意識」は、時空の世界である。
鏡のこちら側の世界。われわれのよく知る、三次元の時空の世界。
人びとが行き交い、見慣れた風景と自然がある世界である。
因果法則と機械仕掛けの世界である。

「あの世の意識」は、鏡の向こう側の意識、時空を超えた世界である。
われわれの理解を超えた世界、無と無限の意識である。
遍在するまばゆさの意識、遍在する光の世界である。
(そのため、古代のインドでは「存在・意識・至福」(サッチダーナンダ)と呼ばれたのである)

「あの世の意識」と「この世の意識」は、本質的には同じものである。
「あの世の意識」と「この世の意識」は、区画の違いであり、間取りの違いである。

「この世の意識」と「あの世の意識」を区切る〈鏡〉によって、私たちはこの世界の風景を見ている。
この世界は、鏡に映った映像である。

「この世の意識」と「あの世の意識」を区切る〈鏡〉は、浸透性のものである。
透過するものである。
だから、ときに「ヴェール(面紗)」のような表現が使われるのである。

「この世の意識」を通して、「あの世の意識」を体験することも可能である。
私たちはいつも、「あの世の意識」に透過されているからである。
区画の違いでしかないからである。

ただ、単純に鏡を向こうに入ってしまうだけなら、私たちは大して知ることができない。
私たちは、鏡のこちら側の存在、「この世の意識」だからである。
死ぬとは、おそらくそのようなことである。

「この世の意識」とともに「あの世の意識」を理解していくことが「知る」ことである。

私たちがいるのは、鏡があるせいである。
この鏡が割れてしまうと、私たちもまた割れてしまう。
この鏡が無いと、私たちもまた無い。
「私たち」は鏡なのである。

だから、このゲームは、鏡を澄まして、鏡を通して(透過されて)、鏡の向こう側を(向こう側から)知ることである。
鏡の向こう側の世界を、鏡のこちら側でも生きることである。
この逆説が、このゲームの面白さである。

そのことで、私たちの「私たち」は、別のものに「変容」していくのである。

「この世の意識」の区画以外にも、無限の「あの世の意識」の中には、さまざまな区画がある。
われわれの区画は、小さい世界、とても狭く小さな庭だ。
他の区画には、巨大な施設もあれば大きな都市もある。国家もあれば、星々もある。
われわれは、それを神々と呼んだりもする。

この宇宙の意識には果てがない。

ただ、われわれは、宇宙を彼方まで行くと、今ここにたどり着く。
今ここに戻ることになる。
宇宙の彼方に、「今ここ」があるからである。
ある意味、宇宙の果ては、「今ここ」である。

「あの世の意識」は、「今ここ」を目指していた。
(われわれもよく理解していない、このゲームの中では)
「今ここ」が、ゴールである。
われわれは、宇宙に乗り出して、彼方を漂流しつつ、実は「今ここ」を目指している。
いつの日か、無限の「今ここに」いたり着きますようにと。

「この世の意識」としての「あの世の意識」。

「この世の意識」の中に、「あの世の意識」が充分入り、満たされると、「この世の意識」はもはや狭い庭ではなくなる。
その時、世界の風景は、薄皮のようになり、内からまばゆく光りはじめる。
「この世の意識」である今ここは、宇宙のように広大無辺なものになっている。
宇宙自体である、聖霊のような光の息吹である。

「今ここ」であると同時に、時空を超えたものである。
時空を擬態した無限の宇宙である。
そのような「擬態=化身」としてわれわれも在ることになる。

われわれは皆、これを目指している。

 

◆演技論

「あの世の意識」には時空がない。
そのため、「あの世の意識」としてのわれわれはすべてを知っている。
かつてあったことも、これから起こることも。どこかであったことも、どこかでこれから起こることも。
「この世の意識」にいながら、まれに、そのような「あの世の意識」の情景を、われわれは垣間見ることがある。知ることがある。
われわれの本体は、「あの世の意識」であるからだ。

「あの世の意識」は、時空を超えた非時空の世界、際限のない淵源の光明、まばゆい至福である。
「この世の意識」でありながら、われわれはそれらを知ることがある。経験することがある。
本当は、いつも透過しているものだからである。
われわれは、それに因っているものだからである。

われわれは、光の戯れを楽しむように、それらさまざまな体験や眺望、僥倖を楽しむ。
その不思議さや驚異を楽しむ。

それらの体験が、灰色の日常生活を一掃し、本当の世界の鮮やかなまばゆさを垣間見せてくれるからである。
それらを経験する中に、異質な色彩の混淆、精妙な「意味」の混ざり込みを感じとるからである。
凡庸で退屈な日常と、暗示的なまばゆい光明との、驚異の交錯を感じとるからである。
生を求心する、行き先めいたまばゆさを予感するからである。
目覚ましい極点の振幅があるからである。

この極点の誘引が、振幅のカラフルさが、われわれの快楽であり、歓びなのである。

われわれが、自分を小さな「私」だと見なし、「この世の意識」を生きているのは、この異質な光の体験を、この劇と極点の密度を楽しむためである。
この世界の豊かさと私たちの多様さは、そこに由来する。

同質なものは退屈である。新味と飛躍、新鮮さに欠けている。
同質なものの整いや綺麗さには、驚異が、意外性の振れ幅や超えていく創造性がない。

異質なものが交わり、反発するこことで、炸裂と極点が生まれる。
交錯する炎と愛が生まれ、質感と体験が生まれる。
万華鏡のように極彩色の多様さが生まれ、火のような幻覚が産まれ、目覚ましい未知の創造力が増幅されるのである。

「この世の意識」があるのはそのためである。
「あの世の意識」だけでは、物足りないからである。
宇宙は、より多様な歓喜と体験を求めているのである。

「この世の意識」の奔流に、組織化されたダンスがあり、精妙的な美の交感があり、創造力の強度な飛躍があるのである。

「あの世の意識」は、宇宙そのものである、至福の舞踊である。
「この世の意識」は、そこで演じられている劇と役者たちである。
多くの場合、自分を、劇の登場人物自身だと本気で思い込んでしまっているが。

「この世の意識」は、芝居であり、演技であり、遊戯である。遊びの探求である。
創りだされる劇の〈美〉の中に、「あの世の意識」をふたたび見出すためである。
それらを倍加させ、深めるためである。

だから、われわれはこのゲームを行なっているのである。
このように「私」を生きているのである。

曇った「この世の意識」の風景にも、重要な役割がある。
それは設定の味付け、効果なのである。
苦痛や苦しみ、苦悩や不満でさえ、味付けであり効果なのである。
順風満帆、平々凡々にストーリーが進む劇や映画など、誰が見たがるだろう?

単品では意味がわからずつまらなくとも、満漢全席の中では、しかるべき美味な輝きを放つ。

要は、今ここで、新しい体験の色彩と帯域をひろげ、快苦の強度を合わせ超えた「意識」を練り上げていくことである。
演技とその可能性の領域、ゲームを楽しみ、その挑戦を楽しむことである。
そのために、「あの世の意識」と「この世の意識」を交らわすさまざまな方法論があるのである。

 

◆方法論1

「この世の意識」の中で「あの世の意識」を体験するには、両者の間に浸透性と透過性、組織化をつくる必要がある。
両者の間に、しかるべきエネルギーの流れをつくる能力が必要となる。

浸透性がないと、われわれは何も体験することができない。
浸透性が強すぎると(組織化が弱いと)、われわれは体験を支える(持ちこたえる)ことができない。自己が飽和してしまう。
「あの世の意識」に吸い込まれ、われわれ自身であることを失うからである。

浸透性をつくり出すためには、「この世の意識」の組成をよく磨き、フィルターの汚れや詰まりを除き去り、透けるように存在を澄ましていくことが必要となる。
極薄で、透明な存在(パイプ)にすることが必要なのである。
その澄明な透過の中で、エネルギーや存在、情報が曇りなく流れるようになるのである。

また、「あの世の意識」は、非時空の、ある面、猛威のエネルギーである。
そのような中では、「この世の意識」の堅固な組織化や焦点化する能力がとても大切なものとなる。
粘り強い修練的な組織化の努力を通してのみ、「あの世の意識」を「この世の意識」に導き、エネルギー変換し、活用し、意味を得ることも可能となるのである。

とりわけ、「この世の意識」のとらわれのない流動化と身の軽さである。
なめらかな自由さである。
「この世の意識」が空無である分しか、虚である分しか、「あの世の意識」は入りこむことができないからである。
無闇に信じ込んだ信念や価値観、人間世界の論理(作用反作用)は分厚い虚構であり、その防壁の中には、「あの世の意識」の虹のような精妙さは届かないのである。

「あの世の意識」を知りたければ、「この世の意識」は無心の者として、かの地に赴くしかないのである。
このような接近を通して、「あの世の意識」の非時空なエネルギーの中で、飛躍的な真理を得ることも、「生きている宇宙」を経験することも、可能となるのである。

そして、これらは、継続的に、試練的な取り組みを経ることで得られていくものなのである。

 

◆方法論2

われわれは、「この世の意識」を通して「あの世の意識」を体験する。
「この世の意識」の中に「あの世の意識」の光が多量に透過してくると、世界はまったく違うものとなる。
世界は、光に透過された薄皮のようになる。

鏡の向こう側へ抜けると、そのまぶしいひろがりは、こちら側の世界を内に含んだものとなる。
「この世の意識」は、無限の「あの世の意識」の一部、「あの世の意識」にすみずみまで透過されているものとなる。
まばゆい誰か(われわれ)が見ているものの中に、「見られている私たち」がいるのである。
この世界や私たちは、エピソードのひとつにしかすぎなくなる。

世界はカラフルに透け出し、あらゆる感覚の情報がまばゆく流動化をはじめる。
世界のすべては光りだし、この世界の「本当の意味」が構成されはじめる。

瞬間瞬間の宇宙の光景を通して、知覚と感覚を通して、「生きている意味」が構成されるようになる。
自分がなぜ人生を生きているのか、存在の意味が浮かび上がるようになってくる。

存在のメロディー(旋律)が聴きわけられるようになり、生の楽曲の断片、生の楽曲の全体が聴きわけられるようになってくるのである。

「自分という曲」や「自分に関連する曲」がわかるようになってくる。

この「自分という曲」、それが私たちの生きている意味である。

この曲を自分で聴き、この曲の全体をつかまえ、人にも聴かせていけるようになると、それが私たちの生きている意味の実現となっていく。

この歌を探り、自分で楽しみ、なおかつ人も楽しませていくこと。
この曲を、力強くたしかにしていき、色々な楽想で、さまざまなかたちで展開していくこと。
さまざまなバージョンで、さまざまな場所で、実験的に披露すること。
ささやかにでも、秘めやかにでも、堅固に探っていくこと。

くっきりと力強くなったメロディー(旋律)の流れが、あなたの過去の経験を意味づけ解放し、まわりや未来の展望を明るく照らし出していくこととなる。
それが、生きている意味となるのである。

一方、対極にあるのが、
「この世の意識」だけの世界である。
「あの世の意識」を欠いた「この世の意識」。

単体の「この世の意識」とは、入口と出口を塞いだ無人の施設である。
水を抜いたプールであり、電源の死んだハイテク施設である。

単独の「この世の意識」は、人間だけに通用する閉じた世界(ゲーム)であり、宇宙的には無意味な場所である。
これが、近代人の多くが「現実」だと思い込んでいる、また信じたがっている虚構の世界である。
人間だけの観念の世界である。

人間たちの虚構なので、そこに、生きている本当の「意味」を見出すことはできない。
存在の「意味」は、人間という虚構の外、宇宙の実在から与えられる(吹き込まれる)ものだからである。

しかし、人間は何もわかっていないのに、「生きている意味」を知っているフリをし、ニセの芝居をつづけている。
「生きている意味」を捏造し、自己欺瞞している。
真の動機も意欲も、真の生命もないままに、「人生」という虚構を演じつづけている。

多くの場合、人は、習慣として生きているだけである。昨日やったことを今日やっているだけである。
本当のところは、よくわからないのである。

そのため、われわれは、自分を尊重していなければ、他人も世界も尊重することもない。
自分を虐待しているし、他人も虐待している。嫌になれば、この世界を死んで去ろうとする(実際は、そのように死んでも去れない)。
本当の「生きている意味」がわからないからである。

「生きている意味」がわからないくせに、わかったフリをつづけているのが近代人である。

われわれは、人生のはじめの頃、子どもの頃に、人間たちのこのウソに気づく。
「世の中の人間たち、大人たちは、自分がなぜ生きているのかさえ、本当には理解していない」という事実に、子どもは気づく。
「世の中の人間たち(大人たち)は、人間たち都合の、空疎な虚構を無理に信じこんでいる。もしくは信じていると思い込もうとしている」という不自然な事実(ウソ)に気づく。

しかし、大人たちがついているウソに、気づかないフリをすること、それが子どもが、人生で最初に学ぶことである。
すでに「人間ゲーム」をはじめた子どもは、「大人たちが気づいてほしくないウソには、気づかないフリをする」という、人間たちのルールを知っている。
そのため、気づかないフリをしているだけでなのである。

本当は、子どもは、大人たちがついているウソに、心の底ではみな気づいている。
子どもは、大人の数百倍鋭いからである(また、まだ「あの世の意識」とのつながりが強いからである)。

そのため、「子どもは言ってはいけないことをすぐ口に出す」、これは見せかけであり、偽装にすぎない。
そのような場合、子どもの中の一段高い魂は、その場で言ってはいけないことを知っており、挑戦的に暴露しているのである。
魂や運命について知るところが多い者はそのことを知っている。

しかし、「人生ゲーム」をつづけるために、子どもは、このウソに合わせて、自分でもウソを紡ぐことに同意する。
子どもにとって、ウソしか持たない大人たちに合わせるには、自分でもウソを紡ぐしかないからである。
そうでないと、苦痛が大きすぎるからである。
(虐待されている子どもが、虐待する親を愛し、擁護し、自分を責めるのはそのためである)

そのようにして、いつしかわれわれは、真実を擬態した、ウソだけの「この世の意識」で生きていくようになる。
やがて、これがウソであることも忘れてしまい、本当の「現実」だと思い込むようになるのである。

このようにして、ウソだけで積み上げられた「この世の意識」、この世界がつくり出されていくのである。
これが今の、われわれが生きている世界である。
われわれが、日々、身のまわりに目にしている世界、くだらない情報に満ちたメディアやネットに現れている世界である。

 

◆分身論

われわれは考えたことがないだろうか。
せっかく、この人生に生まれてきたのに、なぜ、人生の三分の一近くを眠って過ごしているのだろうかと。
それらの時間は、無駄ではないだろうかと。

これは、われわれが、この昼の時間を、自分たちの唯一の時間だと勘違いしていることによる錯覚である。

夜の時間。夜の眠っている間の時間。
それは、もう一人の自分、
もう一人の「私」が目覚めている時間である。

眠っている時間とは、もう一人の「別の私」が活発に目覚めて、活動している時間なのである。
眠っている時間とは、「夜の私」が目覚めている時間なのである。
「夜の私」は、より「あの世の意識」からできている。

夢は、第二の人生ではなく、「もう一人の私」の第一の人生なのである。
もう一人の私からすれば、この人生が「第二の人生」である。
「昼の私」と「夜の私」を合わさったものが、「自分」の全体である。

われわれは、皆、双子のようなものである。
分身のような、そっくりな自分がもう一人いるのである。

われわれが双子の人を見たとき、どこか心がざわめくのは、このことを思い出させるからである。
双子は、われわれに、忘れている片割れ(自分)を思い出させるのである。

昼の私は、「この世の意識」と深くつながっている。
夜の私は、「あの世の意識」と深くつながっている。

昼の私は、一本の木のようである。
世界には価値の比重、主従に合わせて幹と枝があり、私たちは整合的に物事を構成しつつ生きている。
その世界は、作用反作用に従っている機械仕掛けのシステムである。
そして、私たちは、物事の優先順位に合わせて、行動している。

また、論理的に考えている存在である。
言葉を用い、世界を自動的に分節化・解釈しながら、辻褄を合わせている存在である。
言葉の単線の上を、意識を行ったり来たりさせながら、世界の眺めや心の騒動を制御している存在である。

解釈し、均し、整え、平板にし、計画し、肉体を行使し、世界に働きかけている存在、それが、昼の私である。
しかし、どこかに、「何か本質的に欠けているもの」を感じている存在でもある。
「何かが足りない」と常に感じている存在、
それが、昼の私である。

昼の私にとって、夜の私は、見知らぬ来訪者のように感じられる。
しかし、扉を開けて待っていても、夜の私が姿を現わすことはない。
夜の私は、姿をもたないからである。
そのため、夜の私は気づかれにくいのである。
夜の私は、残り香のようにあるものである。

夜の私は、形を持たない存在である。
作用反作用の分節化を持たない、シームレスななめらかさであり、
鏡映のようゆらめく変幻のひろがりである。

果ての見えない、虹のような流麗な微細の放射である。

精霊のように軽やかで、自在で、息吹の通りのように侵入的である。
瞑想的な注視の中に、まばゆさの泡立ちとして透過してくるものである。

また時に、複数の仮面(人格)をもち、劇人物たちとして話したりもする。
化身したり、変身したり、融合したりする。
微光のようにたえず変化し、姿や位置を確定することがない。
時間を満たしていて(遍満していて)、時間を無駄にすることもない。

昼の私にとって、夜の私は、「光り輝く闇」である。その姿はよく見えない。
けはいや注視を感じられるだけである。

夜の私にとって、自身はのびやかなまばゆい空間である。
尽きることのない速やかさ、非時間的俊敏さと光彩の膨満するエネルギーに満ちている。

昼の私と夜の私は、夢の中で入り混じり、交流している。
夢は、前衛的な芝居である。
そこでは、俳優と観客の区別がよくわからない。
芝居なのか現実なのかもよくわからない。
夢は、昼の私と夜の私の舞台である。
夢を通して、昼の私と夜の私は、よりつながることになるのである。

眠っている時間とは、われわれが、別様に目覚めている時間である。
もう一人の私にとっての、昼の時間である。
非常に活動的で、宇宙的な時間なのである。
(夢から覚めたとき、遥か彼方の宇宙から帰ってきたと感じるのはそのためである)

われわれは、皆、双子のようなものである。
分身のような「もう一人の私」がいるのである。
それは、別の存在ではなく、われわれ自身なのである。
むしろ、この私たちこそ、分身かもしれないのである。

神話では古来より、分離した影や分身、失われた魂について語られている。
神話は、それら魂がどこかに行ってしまう危険を警告している。
われわれが完全な存在として生きるのに、それは欠かすことができない自分自身なのである。

 

◆身体論

われわれは、二つの身体をもっている。
正確には、多数の身体をもっている。

一つ目の身体は、「物理的な肉体」である。
物質的な輪郭と触感を持ち、これが私の身体であると人が思い込んでいるものである。
他人から見える自分の身体である。
他人に見ている相手の身体である。

二つ目の身体は、肉体に重なりあってもいるが、それとは別次元の、それ以上のひろがりをもって働いている感覚的な身体、「生きている身体」である。
もうひとつの身体である。

そして、本当のところ、われわれが棲みついているのは、この身体の中である。

もうひとつの身体は、肉体の範囲に限られることなく、活動している。
われわれが物を見るとき、その物が「わかる」のは、この身体のおかげである。

この身体に物に届き、触れているから、その物が「わかる」のである。触感がわかるのである。

われわれが、遠い風景を見るときも、この身体がそこに届き、触れているのである。

この身体が、物や風景に触れ、それらを取り込み消化することで、私たちは、本当のところで、そのものを「理解すること」ができるのである。
身体が届いていないものを、私たちは本当には知ることができない。
この身体の基底にあるのも「存在・意識・至福」である。「あの世の意識」である。

われわれがものを考えるとき、基盤として働いているのも、この身体である。
この身体のタイプや稼働性能、スピードによって、思考の範囲や射程距離、速度も決まってくる。
本当のところ、われわれは、身体で考えているのである。
粗雑な思考と繊細な思考があるのは、そのせいである。
繊細な思考は、言葉より速い身体によって生まれる。
思考は遅く、身体は速いのである。

通常、これら二つの身体は、思い込み(信念)の上で、また肉体像の中で癒着(混合)しているため、われわれはこの違いに気づけていない。

信念が生まれ、癒着が生じたのは、生育学習の結果である。
われわれが成長する中で、他者の肉体の姿(像)や、自分の鏡に映る姿(像)、それらの像を自分だと思い込み、信じ込む過程で、この癒着(信念)が起きたのである。

しかし、普段、われわれは、もうひとつの身体を広範囲に伸ばしながら生きているのである。
まわりに投影しながら生きているのである。

物理的な肉体に限定されることなく、もうひとつの身体をあたりに伸ばし、放射的な網の目の宇宙を形成しているのである。

音楽に没入している時、われわれの身体は、楽曲自身として展開されている。
映画に没入している時、われわれの身体は、映画の登場人物となって活動している。
他者と交流している時、われわれの身体は、その人自身の感じ方を感じようとしている。

「未開人は、写真に撮られると魂がとられると信じた」という笑い話は、写真の像に、本当の身体が移動する(憑依する)という正しい感覚を指している。
決して間違った感覚ではないのである。
写真に写っている自分の肉体を、ハサミで切り刻んでみれば、その意味合いがわかるであろう。

もうひとつの身体を、客観的物理的な肉体ととり違えることで、さまざまな制限や障害が生じることとなる。

このもうひとつの身体を、物理的な肉体から切り離し、別種の感覚(器)を基盤にできるようになると、われわれは、人生で別種の自由を得られるようになる。
エネルギーとして実際に感じられると、それは「微細な身体(サトル・ボディ)」である。

過去にも、さまざまな秘教的な伝統が、特殊な技法を構築して、そのことを探求してきた。
ときとして、金剛身、気の身体、微細身、光の身体などと呼ばれたりもする。

そのような心身状態が得られると、われわれの思考、感覚、感情、意志、すべての属性が、既存の人間形式(作用反作用)を超過した、それとは別の、まばゆいなめらかさの中にいることになる。
目覚ましいなめらかさがひろがる空間にいることになる。

物理的肉体に制限されていない、非時空のまばゆい意識と知覚に透過されることになる。

われわれは、別種の存在として、未知の人生を探索していくこととなるのである。


◆自己論

われわれはいつも、自分の「外側」のものに惹きつけられている。

なぜ、われわれはいつも、自分の「外側」に惹きつけられるのか。
なぜ、われわれはいつも、自分の「外側」に答え(真理)があると思い込んでいるのか。
なぜ、われわれはいつも、「外側」に答えを求めつづけているのか。向かっているのか。

それは、われわれの基底にある指向性と、ある歪み(分断)に関係している。

われわれは、元来、他に向かうようにプログラムされている。
そのため、われわれは、生まれた後すぐ、他者に向かうようになるのである。

そして、他者と交わる中で、他者と他者の像、自己の鏡像と自己の像を生成していく幼年期を持つことになるのである。

その中で、われわれは、他者の像と自己の像を取り違えるようなっていくのである。
「他者の像」から模造した「自己の像(鏡像)」を、われわれ自身だと思い込むようになっていくのである。
結果としての「自己の像」が、今のわれわれなのである。

われわれは、われわれの「自己像」である。
われわれは、「自己像」を自分だと思い込んでいるのである。

われわれは、われわれの「自己像」でしかない。
つまり、われわれは、われわれ自身ではないのである。

そのため、われわれはつねに、充たされないものを抱えている。
欠乏に駆り立てられている。
われわれは、つねに充たされない存在である。

それは、われわれが、自分のことを思い違いしているためである。
われわれが、自己の誤った像を、自分自身だと思いこんで、探しているためである。
最初のボタンをかけ違えているためである

この存在のズレが、いつも「何かが足りない」と感じさせている理由である。
いつも何かが足りない存在が、われわれなのである。
これが「この世の意識」である。

その欠乏を充たすために、われわれは、いつも外側に「何か」を求めている。
他に「何か」があるはずだと信じている。
そして、飢餓のなかを延々と空回りしている。

しかし、そんな「何か」は存在しない。
そもそも、最初の「自己の像」が、何ものでもないからだ。
初めの幻妄から、終わりの幻妄も生まれている。

欠乏欲求を充たそうとする、虚構のウロボロス(自らの尻尾を咬む蛇)が、自己像に同一化したわれわれである。
このゲームが、幻妄、マーヤーである。

このことをつづけていても、どこにもたどり着かない。
何も成就しない。
永遠の空回りがあるだけである。

ただのグルグル回りである。

このことに気づいた時、われわれは、自由になろうとしはじめる。
このことに気づいた時、われわれは、ゲームを抜けようとしはじめる。
このことに気づいた時、われわれは、自由になりはじめる。

われわれが自由になる方法は、最初の誤りに気づくことである。

われわれが自由になる方法は、最初にかけ違えたボタンをはずすことである。
ボタンをかけなおしていくことである。

われわれ自身を、「自己の像(鏡像)」から切り離すことである。
そのことで、われわれは、本当の実在に、はじめて触れていくこととなる。

われわれが自由になるには、逆説的な方法が必要となる。
伝統的な教えが、逆説的な語りをするのも、そのためである。

というのも、われわれは、今信じ込んでいる自己像を介して(に拠って)しか、物事を考える(想像する)ことができないからである。
そこから出発しないといけないからである。
その方法やあり様は、今信じ込んでいるわれわれ(自己像)にとっては、不可能な事態であるからである。
想像もできない世界、鏡の向こうの世界に思われるからである。

しかし、そのことは、さしあたって問題ではない。

想像できないものを想定することからはじめればよいからである。
脱出を意図した時、すでに事態は、背後で彼方から動きはじめているからである。

たとえ、よく理解できていなくともよいのである。
自己像としてのわれわれは、「想像」という事態についても、大してわかってはいないからである。

しかし、そのように出発すれば、われわれが必ず望むものとそれ以上のものを、想像を絶するものを手に入れることができるのである。

ところで、われわれは、無に向かって、自分を投影することはできない。

そのため、伝統的には、実勢にそくした状態がさまざまに語られてきたのである。

そして、萌えてくるそれらの世界を語るには、神話的で、寓話的な語りが必要となるのである。
自己像を回避し、自己像に触れない語りが必要となってくるからである。
同じ凡庸なゲームの駒を拾ってはいけないのである。

しかし、寓話的に語ることで、事態がつくられてくる。
エネルギーがつながり、波に乗れるようになるのである。
ここで語られている言葉が、そのようにあるようにである。

そのため、われわれは、次のようにいうことができる。

われわれの本当の自己は、「遍在する非時空の自己」であると。
われわれの本当の身体は、「遍在する非時空の身体」であると。

それは、光の放射のように見える。
それは、光の放射のように感じられる。
そのなめらかさ、ひろがり、透徹、すばやさ、まぶしさ、非線的な瞬時の動き……

そのため、その姿は、伝統的には、さまざまな微細身(サトル・ボディ)として語られてきたのである。

それは、如来たちの世界、天使たちの世界、祖形(元型)の世界として語られてきたのである。

われわれが、この流動化した身体、摩擦のない超電導の身体、光の身体を見定め、同期し、それとつながるようになると、われわれは「自己の像」から離脱するようになる。
離陸するようになる。

離岸するようになる。

われわれは、空に、海に、果てしない宇宙に乗り出すことになるのである。

伝統的に「ほんとうの自己」といわれていたような世界につながるようになるのである。

そうなると、われわれは、ほとんど「人間」ではないもののような自由と開放を生きていくこととなる。
それは、さまざまに描かれてきた、燦然と光り輝く広大な自己の世界である。

ところで、ボタンがかけなおされると、「かつての自己の像」「人間の像」は、「仮面」「役」のひとつとして収まっていく。
それと同一化することなく、「役」のひとつとして演じられるようになるのである。

われわれは、人間の姿をして、人々と交わっている天使として、生活していくことができるようになるのである。

 

◆速度論――〈青空=まなざし〉

ほんとうの意識は、始原からすでにあった。
「存在・意識・至福」と呼ばれるようなものである。

宇宙創造以前の「プレローマ」と呼ばれるようなものである。

虚空としての意識、ゼロ=無限=無内容として意識である。

われわれは、投影された身体によって、宇宙を見ている。

見ている者自身、「本体」はプルシャであり、プレローマであり、無際限の、無内容の意識の遍在である。
それは、目撃者、ウィットネスである。

投影された身体が、われわれが見ているこの世界、体感する世界をつくっている。
投影された身体によって、「この世の意識」も生まれている。
投影された身体によって、われわれも生まれている。
われわれとは、見て感じられる存在である。

投影された身体がクリアになると、われわれもクリアになっていく。
投影された身体が曇りなく、すみずみまで透過されたとき、そのとき見られているわれわれは、もはやわれわれではない。

「何者でもないもの」として「見ている者」「目撃者」が見ているのである。
〈青空=まなざし〉が見ているのである。
それが、存在の基底にあるものである。

古今東西のさまざまな伝承が、このことを語っている。
古今東西の宇宙神話、創世神話が、この二つの役割をさまざまな名前で呼んできた。

それは皆、同じことを指している。

われわれの知る像はすべて、投影された身体から来ている。

すべての像は、残像である。

投影される身体が完全に透けるようになると、もはや像はない。

像の向こうの世界から、像なき世界を生きているのである。

 

FEATURED POSTS

  1. セミナー

    2022/7/2 無料オンラインセミナーのご案内…
  2. 心の扱い方

    「苦痛な気分」―その構造と解決法…
  3. 変性意識状態

    ホドロフスキー氏とサイコマジック/サイコシャーマニズム…
  4. 変性意識状態

    さまざまな言葉・語録・参考ヒント〈第一集〉…