ゲシュタルト療法 背景/歴史的文脈

実存的・ケンタウロス的な心身一元論的心理療法として

ゲシュタルト療法は、通常、心理学の歴史の中では「人間性心理学」の中に分類されているものです。
「自己実現」や「至高体験」のコンセプトで有名なA.マズロー(その提唱者)や、カウンセリングで有名なカール・ロジャーズや、ロロ・メイの実存的心理学らがこの「人間性心理学」に分類されています。

「人間性心理学」は、第二次大戦前のフロイトらの「精神分析」や、スキナーらの「行動主義」に継ぐ、第三の勢力として位置づけられています。つまり、ネガティブな欠乏動機によって因果づけられた機械としてではなく、「生きた人間」の全体性に注目したアプローチ(考え方)でした。実存主義的な傾向や心身一元論的な傾向などに、その心理学的な傾向性があります。

さて、最近、日本では、ゲシュタルト療法は、カウンセリングの手法のひとつというようなスタンスで、受容が進んできましたが、本来のゲシュタルト療法そのものは、もっと大きな自己成長の方法論として、その深化と発展が進んだものでもあります。ここでは、日本で実践されている、こじんまりとしたカウンセリングの手法としてではなく、より大きなコンテクスト(文脈)の中で、ゲシュタルト療法について展望してみたいと思います。
ですので、以下は、教科書的、古典的なゲシュタルト療法の解説ではありませんので、それらの内容が知りたい方は、他をあたっていただければと思います。

さて、ところで、その後の世代の(マズローが立ち上げたとはいえ)やや非正統的で前衛的な心理学流派、トランスパーソナル(超個的)心理学の理論家(現在はインテグラル心理学を名乗っている)ケン・ウィルバーは、その「意識のスぺクトル」理論の中で、ゲシュタルト療法を「ケンタウロス(半人半馬)の領域」にある心理療法であると位置づけました。「ケンタウロス(半人半馬)の領域」とは、彼の理論の中で、心身一元論的・実存的セラピーを位置づけたカテゴリーとなっています。
この位置づけとイメージ(メタファー)は、なかなか言い得て妙でもあるので、このことが指している意味合いをはじめに見て、ゲシュタルト療法の特色と可能性をイメージしてみたいと思います。
ケン・ウィルバー自身が、ゲシュタルト療法の研鑽者であったことからこのようなイメージが出てきたと思われます。

まず、ウィルバーは「意識のスぺクトル」理論によって、世界のさまざまな心理療法を、体系的にタイプ分けするにあたって、さまざまな心理療法各派が「何を、自己の真の主体として見なしているか(主体として同一化しているか)」という「主体(意識)の範囲・内容」の違いによって各心理療法をマッピングしていきました。

※ちなみに、ケン・ウィルバーが、本のタイトルで使っている「意識」を、私たちが通常使っている意味での「意識」と解釈すると、少し意味が分からないでしょう。私たちが通常「意識」という時、この自分の自意識(哲学でいえば現象学などが指すこの「意識」)だけを「意識」と呼んでいます。一方、ケン・ウィルバーが指す「意識」とは、インド思想などで、「ブラフマンは、サッチダーナンダ(存在・意識・至福)である」という時に使われている「意識」のイメージも含めているのです。つまり、万物に遍在していて、鉱物から植物、動物から人間、神々までに共通している「意識」を含めて、大きく「意識」という言葉を使っているのです。

さて、この「〈意識〉が、何を、自分の真の主体として(同一化して)いるのか」という視点は、同時に(逆に/反対に)何を自己として、見なしていないのか(認めて/同一化していないのか)」ということを意味しています。「何を、自己以外のものとして排除・抑圧しているのか」「何と分裂しているか、解離しているのか」という事態を意味することとなります。「人間が行なっている、心の抑圧と分裂を、どのような境界(自己と他の境界線)に見るのか」、反対(逆)に「何と何を統合すると、自己の全体的な統合とするのか」という視点を意味します。そのような視点で、さまざまな心理療法流派を、マップ上に位置づけていったのです。

下図がその図式です。下にいくほど、「自己や主体の範囲(意識の内容物)」がひろくなっていくという図表です。

その本人が「『意識や主体』として、何と同一化しており、反対に、何を『非自己/客体・他者』として抑圧・排除しているのか」、そして「人間が、統合(治癒)されるとは、何と何が統合されることなのか」「統合されたことによる、人間の全体性とは何なのか」。その答えが、各流派によって大きくタイプ分けできるというのがウィルバーのアイディアなのでした。そして、ウィルバーは、一番下の層がそうであるように、すべてが統合されると、東洋的な思想がしばしばそうであるように、「宇宙自体を自己と見なす」そのような境位に到達すると考えていたわけでした。と言っても、その上の層がすべて消えてなくなってしまうというわけではありません。各層が統合されている状態が「統合」という意味なのでした。

ところで、上の図では、オレンジ線の左側が「意識や主体」、右側が「無意識や客体・他者」となっています。
例えば、現在の多くの心理療法が、(近代主義的世界観自体そのような立場ですが)健全な「自我」が確立されることをもって、心理的な統合/ゴールであると見なしています。

というのも、通常多くの場合、私たち現代人は、自分にとって都合のいい「セルフ・イメージ(仮面)」を、自己や自己の主体と見なしています。そして、自分の見たくない部分を抑圧して、それが自分にはないもの(影)のとして生きています。
「仮面」(偽りの自己像・セルフイメージ)を主体と見なして、「影」を抑圧して生きているという状態です。私たち現代人は、それが当たり前だと思って、大体そのようにして生きています。人生で、誰も「心の統合はこうあるべきだ」と教えてくれない場合、現代社会の自然状態では、そのような心の構えになってしまうからです。
しかし、この「仮面」と「影」の分裂が極端に大きくなっていくと、メンタル的な病気となってしまうのです。鬱や神経症もそのようなことで起こってきます。現在、日本の企業においても、このようなメンタル的な病気が多く生じてしまうのは、決して「脳」が原因なわけではなく、さらに大元に、このような心の態勢づくりが大きく関係しているのです。

そして、そのような場合に、通常の心理療法では、「仮面」(偽りの自己像・セルフイメージ)だけを主体として、見たくない「影」を抑圧している人々に対して、「影」の部分を意識化し、主体に受け入れさせて、統合させていくことを、治療的なアプローチとしていきます。

私たちの心の中では、偽りの自己像(仮面)を維持するために、自分のものだと認めたくない嫌な感情を抑圧することで、「影」が生まれてきます。本人が、この嫌な感情を自分のものとして受け入れていくことで、ニセの自己像(仮面)と「影」の境界(区分)が溶け出し、融合し、健全な「自我」主体が確立されてくるというのが、通常の心理療法でのアプローチの考え方となります。

しかし、別の流派(心身一元論派)の視点からすると、このような「自我」主体の確立だけでは、統合が不十分(部分的)であると見なされます。なぜなら、そこでは「身体(肉体)」の存在が抑圧され、排除されているからです。

心身一元論的な心理療法の中では、この身体(肉体)の中にこそ、重要な感情や表現、生の基盤があると考えられているのです。そこでは有機体全体を、全身全霊のひとまとまりの全体性として、主体として生きられることが必要な「統合」だと考えられているのです。

ところで、このような、心と身体を合わせた「有機体」の全体を主体と見なす心身一元論的な心理療法各派を、ウィルバーは「ケンタウロスの領域」の心理療法であると見なしたのでした。その他のケンタウロス的なセラピーとしては、実存主義的なセラピーの各派などがここに位置づけられています。
ところで、ボディワークを重視する心身一元論的な心理療法の多くは、フロイトの弟子のヴィルヘルム・ライヒの理論と実践から出発しています。ゲシュタルト療法は、ボディワークを主体としたローウェン(ライヒの弟子)のバイオエナジェティックスらとともに、この領域の心理療法に位置づけられているのです。
この位置づけは、有機体全体の生命力や、精神と野生との融合を溢れるように発現させるゲシュタルト療法の性格(位置)を、とてもうまく表現していると思われるものです。

ところで、ケンタウロス」とはギリシャ神話に出てくる半人半馬の存在です。腰から上が人間、腰から下が馬の姿となっています。「人間の精神性」と「動物の野生性」とを結合させたシンボルとなっています。馬のような力強い精力で走る存在なのでしょう。このようなイメージは、私たちが通常、自身で考えているものよりも、大きな野生的なパワーを持っている有機体の潜在能力をよく表しているようにも思われます。

ウィルバーが、このイメージを採用したのもその力のポテンシャルゆえでしょう(彼はほかでもさまざまな神話的・元型的イメージを使っています)。
そして、この神話上の存在の姿は、ゲシュタルト療法の持っている野生的で、遊戯的な、十全な生命を発露するその姿勢や方法論をなかなか上手く表現しているとも思われるのです。

そして、ウィルバーも指摘していることですが、心身一元論的セラピーというものは、その体験と統合を充分に深めていくと、隣接したトランスパーソナル(超個的)な領域が自然に開いてくることにもなっているのです。マズローが、自己実現のその先に、連続したものとして、自己超越を見出したようにです。
実際、ウィルバーは、その証左(事例)として、ゲシュタルト療法でのセッション風景を取り上げてもいるのです。このような視点が、ゲシュタルト療法をこじんまりとしたカウンセリング技法に限定するのではなく、自己成長のための方法論に開いていくためにも、留意しておくと良い点なのです。

自我的、文化的な図式化の被覆を取り除かれた感覚意識そのものが、覚醒時の領域に衝撃的ともいうべき鮮明さと豊かさを持ち込んでくる。さらにここまでくると、感覚意識はもはやただの“植物的”ないし“動物的”なものでも、単に“有機的”なものでもなく、より高次の微細(サトル)エネルギーや超個的な諸エネルギーの流入した一種の超感覚的意識になってくる。オーロビンドはいう。『内なる諸感覚を利用して――つまり、感覚力そのものの純粋で……微妙な活動……を用いて――われわれは感覚経験を認識し、周囲の物質的環境の組成に属さない事物の姿やイメージを認識することができる』。
 この“超感覚的”意識は、多くのケンタウロス・セラピストによって報告されており(ロジャーズ、パールズほか)、ダイクマンによって論ぜられ、神秘的洞察の初期段階の一つとしても知られているものである(人がケンタウロスのレベルに上昇し、さらにそれを超越するにつれて現れる)。
 思うに、実存主義の人々さえ、ときとしてさまざまな“超個的”リアリティ――彼ら自身の言葉である――を直観しはじめることがあるのはこの理由によるものだろう。フッサールもハイデッガーもそろって、しだいに超越的哲学への傾きを強めていった(マルセル、ヤスパース、ティリッヒなどの有神論的実存主義者たちはいうまでもない)。メイ博士自身、「非個的なところから個的なものをへて、超個的な意識次元へ向かう」運動について語っている。
 そして、ゲシュタルト・セラピーにおけるフリッツ・パールズの偉大な後継者の一人ジョージ・ブラウンは――なお、パールズ自身、ゲシュタルト・セラピーは純粋な実存主義のセラピーであると認めている――〈今ここ〉への集中というケンタウロス的変換を与えられた個人が、やがて一つの袋小路に突きあたるさまを次のように描写している。
 袋小路はさまざまに言い表すことができる。そこには超個的な諸エネルギーがかかわっており、人々は浮遊感、静けさ、平和といったものを口にする。しかし、われわれはそこで無理強いはしない。『けっこうです。つづけて、自分に何が起こっているか報告してください』と答える。そしてときには、そこに何か触れることのできるものがあるかどうかと尋ねる。もしできなければそれでいい。それができた場合、よくある例として何か光が見えはじめる〔真の微細領域〕。これは、超個的段階への動きと考えよいだろう。光が見えると、人々はしばしばそれに向かっていく。すると、戸外に出て、太陽が輝き、緑なす樹々や青い空、白い雲といった美しいものがある。それから、その体験が完了して目を開くと、色彩は前よりも鮮明になり、ものがずっとはっきり見え、知覚力が高まっている〔超感覚的ケンタウロスの意識〕。
 その時点で、彼らはもろもろの幻想や病理によってかぶせられていたフィルター〔自我的・メンバーシップ的フィルター〕を切り払ったのだ。こうして見ると、実存的ケンタウロスは単に自我、身体、ペルソナ、影(シャドウ)のより高次の統合であるばかりでなく、同時に、さらに上位にある微細(サトル)および超個的諸領域への主要な転換点でもある(スタニスラフ・グロフの研究は、これを強力に裏づけるものであることに注意)。このことは、ケンタウロスの“超感覚的”モードについても、直観、志向性、ヴィジョン・イメージといったその認識プロセスについてもいえることである。それらはすべて、超越と統合を実現したより上位の領域の前ぶれにほかならない

ケン・ウィルバー『アートマン・プロジェクト』吉福伸逸他訳 (春秋社)
(※太字強調は引用者)

↓動画解説「ゲシュタルト療法 概論/背景/文脈」

↓ゲシュタルト療法については、拙著『ゲシュタルト療法ガイドブック:自由と創造のための変容技法』をご参照ください。

↓動画「ゲシュタルト療法と、生きる力の増大」