作用するNLPの条件とは

【目次】

◆セッションでの現場感覚
◆現場という「生きている空間」について
◆暗黙知と明示知の交錯

 さて、別に、NLP(神経言語プログラミング)自体が位置している、文化的なコンテクストについて書きました。
 それは、NLPのテクニックの効果的に使用するためにも、その心意気や「元ネタのセラピーにおける場面」を理解しておくことが必要であるという意味合いでです。
日本のNLP(神経言語プログラミング)は、なぜつまらないなのか―サイケデリックSFの視点

 今回は、より実践的な側面に焦点を絞って、セッションの中におけるNLPテクニックの「解体的利用」について考えてみたいと思います。

 さて、上記のセクションで、NLPとは、単なる「心理学ツールの寄せ集めである」としました。
 そして、NLPの各手法を効果を出すように使うには、その「元ネタのセラピーにおける場面」の意味合いを理解することが重要であるとしました
 その意味合いについて、もう少し具体的に言うと、元々のセラピーで、それが現れていた「場面性・現場性・状況性・文脈にまで遡る」ことが必要であるということなのです。
 なぜなら、NLPが、モデリングの抽象化の中で、「逃してしまった魚」を知ることで、「そのテクニックが喪わせているものを復旧して」、使用することができるからです。
 しかし、それだけなら、「元々のセラピーの方法論でいいではないか?」ということになるのですが、元々のセラピーが気づけていない部分を、NLPが視てとっている要素もあるのです。
 そこが、NLPの利点なのです。
 そのような「反面教師」として、NLPのテクニックは、色々なことを教示してくれるのです。

◆セッションでの現場感覚

 しかし、実は、これは表面的には、NLPが売り物にしている要素と「真逆」の事柄となります。
 普通、NLPは、誰もが簡単な手続き(テンプレート/フォーマット)でインスタントな効果を発揮できるというのが謳い文句、売り文句だからです。
 し
かしながら、この、現場感覚(肌感覚)への感度を欠くことが、「NLPは効果が出ない」と言われる一番の要因をつくり出している点でもあるのです。

 そのため、その有効な活用方法とは、セッションの現場の複雑なプロセスの流れにそった形で、NLPのテクニックを解体し、セラピー的な文脈で再解釈し、使っていくということなのです。

 教科書NLPにあるような形で、はじめにテクニック/演習ありき、ツール(処方箋)ありきで、人に無理やり当てはめても、大して効果は生まれないのです。
 そのクライアント、プロセス、場面の中で、NLPテクニックを溶解する中で、有効な使用法も見出せていけるものになるのです。

◆現場という「生きている空間」について

 さて、通常、NLPコースの売り文句では、あたかも、NLPの整理によって、パールズ、エリクソン、サティア等のセラピーの天才の謎が解き明かされたかのように喧伝されます。

 しかし、冷静になってよく考えてみれば分かるように、NLPが行なったことは、その天才たちの深遠な技法のきわめて「特定の一部分を抽出した(抜き出した)だけ」というのが、正しい解説です。
 なぜなら、達人(マスター)の技を、そんなに簡単に取り出すことができたら、「奥義」など存在しないし、「弟子」なども世に存在しなくなってしまうでしょう。

 NLPは、彼らが行なっているセラピーにある暗黙知のごく一部分を抽出し、「明示的な方法論(ツール)にした」というのが実態です。
 そこに、バンドラー博士の「モノマネの天才」としての才能が活かされたということです、
 そして、素人にも使いやすくしたということです。
 抽出された道具類(簡易ツール、簡易キット)がそこにあるのです。
 天才たちの才能からすれば、抽出されたものは、氷山の一角のようなものです。

 そして、冷静になって考えてみれば分かるように、天才といわれるミルトン・エリクソンの、(あれほど本を出している)膨大な数の弟子たちが、エリクソンほどには治癒成果を出せてないという厳然たる事実は、常識的にも納得できることかと思います。
 そのことで、誰も責められていません。それは、ごく当たり前のことだと、私たちにも思えるからです。
 弟子たちが行なったことといえは、天才エリクソンのやっていたことのごく一部(或る側面)を、体系化・理論化したものでしかないからです。
 悪く言えば、二番煎じ、出し殻みたいなものです。
(それらの技法は、エリクソンの身体/生きた技を離れた時点で「香り」が飛んでしまっています)

 そして、一方、エリクソン自身が行なっていたことといえば、ずっと現場的、感覚的、身体的、直観的なことでした。
 クライアントとの間で、現場に生ずる生きた情報を、相互作用させ、交流させ、クライアントの潜在意識に影響を与えていくという、「全身的で多次元的な作業」でした。

 一方、弟子や研究者たちが行なったことは、エリクソンが、「全身で多次元的に」行なっていることを、任意の要素にわけて、ピックアックし、ラベリングし、その機構と働きを、自分たちの理解できる因果関係で、記述するということでした。
 しかし、そこには、当然、明示的に取りだせない微細で膨大な情報が、(それもクライアントに働く重要な要素が)膨大にあるわけですが、それは皆、フィルタリングされ、落とされてしまうわけでした。
 いわば「香り」が飛んでしまっているわけです。

 それは、喩えると、音楽の採譜のようなことかもしれません。
 楽譜や音楽的イディオムに還元できない音楽の質性も、世の中にはたくさんあります。
 楽譜や音楽的イディオムは、音楽をとらえるごく一部の視点でしかないのです。
 そして、楽譜や音楽的イディオムを積み上げたところで、その元の音楽が完璧に再現されるわけではないことはいうまでもありません。
 部分の集積は、全体にはならないのです。

 NLPのテクニックも同じことです。天才たちのすべての本質的要素が、そこに在るわけでも表現されているわけでもないのです。
 そのごく表層的なわずかな部分が、そこに抜きとられているのです。

 しかしながら、また一方、楽譜や音楽的イディオムから、何かしらの音楽は、再現したり、創り出すことはできるのです。
 楽譜を「生きた音楽」に変容させるのは、今度は、演奏家自身の力量です。
 演奏家自身の持つ、経験値や身体感覚、暗黙知、またイマジネーションが、その音楽を創りだすのです。

 この喩えからも分かるように、NLPを使う人は、まずもって自分自身が充分なセッション経験や現場感覚を持ち、さまざまな流派の技法を身に着け、NLPテクニックの原理(その背景)を理解していて、かつセッション現場でのナマな情報を感覚的・身体的につかみ取れないと、使いこなせないのです。

 ところが一方、実際のNLPの世界は、真逆の風景です。
 また、
多くのNLPでやっている実践の風景とは、さきの喩えを使うと、あたかも、その楽器を習熟していない人が、楽譜を見ながら、一音一音つま弾くような事態になってるのです。
 つまり、音楽(曲)にさえなっていないという状況なのです。
 さらにもっとひどい場合には、そもそも音楽自体をロクに聴いてもこなかったような人が、演奏だけをしようとしているのです。
 これでは、感覚的にもやってることの意味がよくわからないし、そのNLPテクニックの本質的な意味さえつかめてこないのです。

◆暗黙知と明示知の交錯

 そのため、NLPテクニックを有効に活かす道(方法)は、「素人でも簡単に使えるテクニック集」という宣伝文句とは、実は逆の道なのです。
 つまり、ある程度の経験値、現場への暗黙知のある人が、その現場の膨大な情報の中で、この場面なら、「あのテクニックの、あの部分が使えるのじゃないか」使うというやり方です。
 そして、その場その場の局面に合わせて、自分なりにアレンジを変えて使ってみるということです。

 そのため、NLPの資格を、勢い込んで取ったものの、使い方がよくわからず、そのまま放置してあるという人は、さまざまな体験的心理療法などを多く経験して、心理変容についての実体験・現場感覚・経験知を増やしていくことがよいのです。
 そうすると、自分の経験値の中で、NLPのテクニックが意味していることの原理的な仕掛けが見えてくることとなります。
 そうなると、それらを実践的に使う道筋も見えてくることとなるのです。

 セッション現場での多様なプロセスの流れが見えてくるようになると、NLPテクニックを使うアイディアやイメージも湧いてくるようになるのです。
 そうすると、NLP(楽器/素材)を使って、単に音(テクニック)を並べるだけではなく、自分なりの「生きた音楽(楽曲)」が演奏できるようになってくるのです。

【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)を含むより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』

および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。