いわゆる「自己啓発セミナー」とは何か

 さて、体験的心理療法やNLPなどの話をすると、年齢のいった人などは、場合によって、昔、1980年代後半から1990年代前半にかけて流行し、社会問題にもなった「自己啓発セミナー」を連想したりもします。
 ここでは、その関連について少し解説してみたいと思います。

◆「自己啓発セミナー」の系列

 日本で広まり、現在も、多くの系列が残っているもの(大部分)は、「ライフダイナミック社」のものです。これは、おそらく、その名のとおり、アメリカにあった「マインドダイナミックス」と「ライフスプリング」とを合わせたものでしょう。
 また、自己啓発セミナーを語る言葉の中に、ベトナム帰還兵用プログラム云々というものがありますが、実際のプログラムを見ても、戦争後遺症をケアできる内容など何も含まれていないので、意図的な作り話か、都市伝説の類いといったものでしょう。また同じく、プログラムのデザインにゲシュタルト療法家が関わったという記述もありますが、ゲシュタルト療法家といっても、昨今のNLPer(NLP実践家)のように、当時も今も、多少かじっただけの自称ゲシュタルト療法家などは、雨後の筍のようにいたでしょうから、実質的にはあまり意味のない肩書きです。このあたりの当時の風景については、エサレン研究所の歴史を生き生きと描いた『エスリンとアメリカの覚醒』の中でも、エスト(EST) に関連した事柄として、色々と興味深い描写がなされています。

◆洗脳的プログラムとは ―「複数の自我状態」について

さて、自己啓発セミナーに関係して、よく「洗脳」という言葉が使われます。
(上記、ライフダイナミック社のセミナーについてのルポも『洗脳体験』という書名でした)

この洗脳については、通俗的なイメージ(理解)に、少し間違いがあるので補足しておきたいと思います。
一般に「洗脳」というと、まるで何もないところ(人)に、任意の(洗脳する側が望む、勝手な)情報を流し込んで、その人(洗脳される人/被洗脳者)を、洗脳者の意のままにプログラミングしてしまうというイメージがあります。
しかし、そんなことは起こりません。それは、実態(原理)とは違います。

「洗脳的な状態」が生じるという場合、そこには洗脳される人の中に必ず「因子(元ネタ)」が必要となります。
「無」を駆動することはできないからです。
洗脳的な現象が起こる場合、事前に、その人(洗脳される人)の内部に、潜在的に「洗脳に呼応する因子(欲求、自我状態)」が、あらかじめ存在しているのです。
無からの洗脳ということは起こらないのです。
よく、舞台催眠(テレビなどで見る催眠)では、「催眠のかかりやすい人」という分類が重視されますが、そのような前提条件や状態、因子があるというわけなのです。

(→「複数の自我状態について」)

そして、ある洗脳を仕掛ける状況下で、その人(洗脳される人)のその因子・欲求(自我状態/人格)が、洗脳プログラムの力を借りて急激に起動増大して、他の欲求(自我状態/人格)を圧倒することにより、洗脳的な状態が現れてくるのです。
それは、ゲシュタルト心理学でいう、図地反転のように、何かが裏返ったような感覚や印象を持つものでもあるのです。
本当のところは、その欲求(自我状態/人格)は、そういったニーズを元々どこかで潜在的に持っていたということであるのです。

私たちの中には、さまざまな欲求(自我状態)の潜伏とニーズがあるものです。
それ自体は、なんら問題ではありません。
分裂と気づきの欠如が問題的なのであり、そういった面が、洗脳的な他者につけ込まれるスキを与えてしまうのです。
私たちが、一定程度の統合状態を実現していたり、自己のさまざまな欲求(感情)に気づき awareness を持っていれば、被洗脳的な状態に入ること(洗脳されること)はありません。

洗脳者側は、洗脳される人々の「潜在的な欲求」を、類型的・直感的に知っており、その欲求が自分たちのプログラムに呼応し、誘導・強化されるように操作を行なっていくわけです。
また、コミットメントを深めるように、ストーリー化を行なうのです。

ところで、この洗脳に呼応する欲求(自我状態)は、その人(洗脳される人)の人格の全体性の中では、「部分的」なものです。
一部分でしかありません。

そのため、通常は、ある程度時間が経つと、心の全体性の中で、その突出した欲求部分(自我状態)は弱体化して、霧散していきます。洗脳は解けます。
心の全体性(ホリスティックな機能)は、本質的に、自己調整機能(統合機能)があるからです。
普通は、洗脳された人の人格の中で、洗脳状態は、心の全体性の中では「不自然」であるがゆえに、時間が経つと、自然のプロセスの中で解消されていくのです。

そのため、洗脳を維持するためには、ある種の「不自然な強化」が必要となります。
そのための仕掛けを、洗脳者(自己啓発セミナーの主催者)は理解しているわけです。

「勧誘活動」などはその動機付け(その自我状態のゆがみの維持)の方法です。
多くのカルトが、この方法論を採用しています。

他者への勧誘活動とその達成感によって、その欲求部分(自我状態)が維持され、生き残るように主催者(洗脳者)は動機付けを行なっていきます。
そのため、その欲求部分(自我状態)は、自己が生き残るために、必死に他者への勧誘活動を行なうわけです。
勧誘が成功すれば、その分だけ、その欲求(自我状態)は生きながらえられるので、強迫的に次の勧誘に挑みます。
こうして、勧誘活動と、洗脳維持のための動機付けのサイクルが形成されていくわけです。

◆自己啓発セミナーと体験的心理療法との違い

さて、それでは、自己啓発セミナーと、ゲシュタルト療法のような体験的心理療法の違いはどこにあるのでしょうか?

その根本的な違いは、「自発性」と「全体的(ホリスティック)」な性格の違いです。
自己啓発セミナーでは、その方法論の「作為性・操作性」のために、体験的心理療法にあるような、のびやかな真の自発性や全体的(ホリスティック)な性格変容が起こってくることはありません。
そのため、本来的な意味での人格変容は起こることがないのです。

洗脳的なセミナーの特異な効果は、参加者(洗脳される人)のセミナーに呼応する欲求(自我状態)が、つまりは人格の一部分(一部の自我状態)が、プログラムの力を借りて、普段のその他の自分(欲求・自我状態)を圧倒してしまうことにあります。
その力で、それまでにないエネルギーを生み出すのです。
(それは、多くの場合、参加者の元々持っていた抑圧への反動として起こります)

しかし、「借り物の枠組み」による、部分的自我状態の解放には、つねに操作性・恣意性による分裂的要素があるために、その解放も部分的な「ニセの解放」にしかならないのです。
そして、人格の全体性の中では、自発的な発露として生じた変容ではないため、その一部の自我状態は「特異に肥大化した違和感」をずっと持ち続けることになるのです。
とても、「不自然」なものなのです。
(彼らが、あんなにも自己不一致していて、仮面的で、胡散臭いのはそのためです)
それらの解放は、中途半端な「部分的」「表面的」「表層的な」解放でしかないのです。
そして、時間が経つと、元に戻ってしまうのです。

深部から湧出した自発的で全体的(ホリスティック)な人格統合ではないからです。
(これは、NLP 神経言語プログラミングなどにおいても同様のことです)

それが、自己啓発セミナーが「なぜ、本当には深まらないのか」の理由です。
「変化は起こすものではなく、起こるものだ」とは、ゲシュタルト療法のフリッツ・パールズの言葉です。
そのため、自己啓発セミナーでは、真に深いレベルでの人格的変容や、全人格的変容は起こらないのです。

しかしながら、体験的心理療法を行なう者は、自己啓発セミナーの仕組みや、それが何故相変わらず、人を惹きつけているのかを、よく理解する必要があります。
そこには、この現代社会における人々の欲求や、欺瞞している心理的要素、現代人の病につけ込む周到な方法論が用意さ
れているからです。

【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。

気づきや変容、変性意識状態(ASC)を含むより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』

および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。