彼が、チベット仏教を、アメリカで教えはじめた時代は、一時のブームは去っていましたが、まだヒッピー・カルチャー、サイケデリック・カルチャーの熱い余燼のある時代であり、ニューエイジ的な思潮の黎明期だったのです。そのため、多くのその手のアメリカ人が、「東洋の神秘」や「秘密の教え」を求めて、彼の元に押し寄せたのでした。
トゥルンパは、そのようなアメリカ人たちに、「冷や水」を浴びせかけた、真の導師でした。
彼は、「瞑想」や「チベット仏教」に興味をもってくる多くの人々の中に、真摯な自己探求とは違う、「ファンタジー願望」「魔法願望」「現実逃避」を嗅ぎつけたのでした。
表面的には、精神的な事柄を求めているように装っているけれども、本心の部分では、物質主義であり、物質的な現実をうまくいかすための「魔法」を、チベット仏教に求めてきていることが明らかになったからです。
トゥルンパは、それを「スピリチュアルな物質主義 Spiritual Materialism」と呼び、喝破したのでした。これは、現代日本のスピリチュアルを語る人々においても、実態はそのような事態であることを見ても、頷ける点が多いと思います。
さて、上の言葉は、そのように勘違いされている「瞑想」について、語った言葉です。これは、現代日本においても、とても益の大きい言葉です。
というのも、私自身、多くの人と触れる中で、「瞑想」について、多くの人が、勘違いしていることに気づいたからです。
実際、多くの人が、瞑想を、何か「理想的な状態」を作り出すことだと思い込んでいることに気づいたのです。
瞑想は、「こういう状態でなければならない」とか「このようにしなければならない」とか、理想的な状態を考えて、「自分の状態を操作する」ものだと考えているようなのでした。
これは、そもそも、通俗的な瞑想像(イメージ)が、昔からあって、「無念無想」とか「雑念のない状態」とか、それこそ「静寂」「平安」「至福」などがあって、瞑想とは、何かそういう状態になるものだと思い込んでいるからなのです。
そして、そのような状態の操作をすることで、「ありのままの現実」を否定しようとしていることにも気づいたのでした。
しかし、瞑想において、一番重要なことは、トゥルンパが語るように、まずは、自分自身の心のリアルを体験し尽くしていくということなのです。
自分のありままのすべてを、体験し、気づいていくということです。
何か心地良い状態を味わおうとするのではなく、不快な状態や感情も含めて、今ここで起こっていることすべてを、何も排除せずに(ジャッジせずに)、ありのままに、ただ気づいて、体験していくということなのです。
しかし、これは、実際、とても難しいのです。だから、訓練/修行になるのです。
実際、瞑想をはじめて起こってくると言えば、普通は、ただ不快なことばかりです。じっとして、自分の心に向き合うのですから、不愉快な出来事の記憶、感情ばかりなどが噴出してきます。
しかし、それでいいのです。
それが、心の「リアルなこと」だからです。
私たちの本当の姿だからです。
そして、それと「ともにいる」ということがとても大切なことなのです。
通常、私たちは、生活を忙しくして、それらに向き合わなくていいように、いつも自分を加工(抑圧)しているからです。
「ありのままの自分/現実」を体験するのではなく、思考や心で加工をして、「自分/現実」を体験しないようにしているのです。
トゥルンパの言葉にある「神経症ゲーム」「自己欺瞞」とはそのような意味合いです。しかし、そのことで、私たちは抑圧と分裂を増やし、かえって、生きづらさを増大させてしまっているのです。
「瞑想とはただ、自分たちの神経症ゲームや、自己欺瞞、秘められた恐怖や希望をさらけ出し、ときほぐせる空間をつくり出すことなのだ」と、トゥルンパは語ります。
実際、瞑想をしていて、苦痛や退屈、湧いてくる考えごとに苦しみながらも、それらをただ気づき、流しつづけていくと、終盤あたりに、フッと「静かになる」瞬間が訪れることにも気づいていくのです。
「ときほぐせる空間」があったために、それが可能になっていたのです。
体験を抱える「器」が、物理的環境に用意されていたため、心身にも、その「器」ができやすくなっていたのです。
この「体験を抱えられる『器』」を、環境的にも、自分の中にも作っていくことが、初期段階においては重要なのです。
日常生活では、私たちは、自分の中で起こる不愉快や不快を、つねにまぎらわし、ごまかして生きています。フタをして、無いことにしています。抑圧しているのです。抑圧されたものは、決してなくなりません。いつまでもそこに在ります。タイムカプセルのようなものです。
しかし、自分の中にある不愉快や不快を、ごまかすのをやめて、それらがここにあることを受け入れていくと、それらはエネルギーを漏らし、姿を変えていくことになるのです。それらとともにいると、それらも私たちも、変容していくことになるのです。
そのためにも、それらとともにいる「器」が、物理的・心理的にあると、変容は、起こりやすくなるのです。
「その空間は、『何もしない』という単純な修行を通してつくり出される」というのは、その意味です。
そのために、シンプルな「器」づくりからはじめると良いのです。
簡易なフォームで、できることからはじめると良いのです。最初から、究極的ものを求める必要もないのです。
たとえば、マインドフルネスストレス低減法のカバットジン博士の表現に、「集中」「注意」の言葉があり、それは瞑想ではないという指摘があります。それは正しい指摘です。
しかし一方、正しさを突きつめると、クリシュナムルティのように、メソッド自体の否定にたどりつきます。クリシュナムルティの言っていることは、究極的には正しいものです。
しかし、初心者にとっても、あまりにとりつくしまがなく、不親切と言えるものです。
なので、まずは、シンプルなフォームで、心に取り組むことが大切なのです。チベット仏教は、インドで発祥した仏教を、その歴史的進展のままに体系化して、すべてを修行スタイルとして包含しています。小乗仏教、大乗仏教、金剛乗仏教のすべての要素をもっています。
最初に取り組むといい、小乗仏教のアプローチは、ヴィパサナー瞑想のようなシンプルな気づきの瞑想です。
そこから、「気づき/アウェアネス」の力を鍛えていくことが大事なのです。
そのうえで、さまざまな心理的素材を練って、耕していくことができるのです。「心の内なる神経症を掻き出してそれを修行の一部として利用してゆく」とはそういうことです。
「神経症を投げすてるのではなく、肥料のように自分の庭に撒く」とは、体験的心理療法においても、重要なテーマです。
私たちの心の中に、無駄や悪いもの、取り除くべきものなど、実は、なにひとつないのです。
私たちが、同一化して自分だと思っているニセの主体(仮面)が、それらをシャドー(影)として、抑圧したり、排除しているだけなのです。
そのため、「神経症」を練っていき、統合してしていくことで、私たちは、より豊かに全体的な存在として成長していくことができるのです。
実際、チベット仏教においても、金剛乗部門の無上ヨーガ・タントラなどでは、さまざまな「状態の操作」を行なう各種の行法をもっており、修行します。
しかし、どこまで行っても、瞑想で重要なのは、この「気づき/アウェアネス」の瞑想と姿勢なのです。
ここができていなくて、いろいろな状態操作をしても、無意味なのです。
これを外しては、一番核となるものを失ってしまうのです。
ここの部分が、アルファであり、オメガであるからです。
また、別の記事で筆者がとりあげている、変性意識状態や超越的体験、サイケデリック体験などにおいても、この点は、同様なのです。
この点が欠落していて、それらの体験で「何かわかったつもり」になっても、それらはまったく無価値なのです。
それでは、自己や他者に真に創造的な価値など提供することはできないのです。
なぜなら、すべての「体験の基盤」は、ここにあるからです。
この基盤から、すべての物事は、統合され、育っていくからです。
この点を措いて、なんの達成もないのです。
チョギャム・トゥルンパの峻厳な言葉は、そのことを伝えてくれているのです。
【ブックガイド】
私たちの意識状態に秘められた途方もないパワーや多元性については、実体験事例も踏まえた拙著、
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧いただけると幸いです。
また、ゲシュタルト療法については、
『ゲシュタルト療法ガイドブック 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。