アヤワスカ体験と非二元性―その原理と二種類の変容

 アヤワスカについては、よく「深いトラウマが癒された」「根強い囚われから解放された」「人生の意味がわかった」「臨死体験をした」「過去生を体験した」等、さまざまな事柄が言われています。
 「なぜ、そのような事柄が起こるのか」についての全般的な原理に関しては、別の記事で解説しました
アヤワスカ体験のトータリティ(超越的全体性)―その至高の体験宇宙

 今回の記事では、「深く癒された」「根強い囚われから解放された」の部分に特化して、その構造的な原理を少し解説してみたいと思います。ただ、これらの原理(機構)は、他の事柄とも本質的には連動したものなので、これらのトピックだけに限定された話というわけではありません。

  1. 二元的な拘束状態とは何か?
  2.  アヤワスカ体験と非二元的領域
  3. 二種類の「変容」―パーソナルな変容とトランスパーソナルな変容

 まず、上のことを理解するには、そもそも、私たちが、通常、「何かに囚われたり」「トラウマ的な体験に縛られている」状態とは、どのような状態なのかを理解する必要があります。
 私たちが、何かに縛られたり、拘束されている状態には、共通した「
深層構造」があるのです。
 それが、「二元的な状態/拘束状態/葛藤状態」です。
 そして、この二元的なゲームを支えている「エネルギー的な実体/本丸」が、背後の、〈感情・情動のテンション(強度)〉なのです。


◆二元的な拘束状態とは

 一般にはあまり理解されていない事柄ですが、私たちが、苦しみや囚われから抜け出せないとき、そこには必ず、逃げたい「苦痛」と、自分の方で「抑えて(握って)いる側」との、2つの存在があります。
 この矛盾した、二元的状態、拘束状態があります。
 この事態の本質は、昔から、宗教や秘教など、心(意識)を探求する人々の中では、さまざまに指摘されていたことでした。

 例えば、次のような寓話、譬話があります。
 首の細い壺の中に、木の実が入っている。
 そこに一匹の猿がやってくる。
 猿は、壺の中を探って、木の実を見つける。
 猿は喜び、その木の実をつかんで、取り出そうとする。
 しかし、木の実をつかむと、手の指が拡がってしまうので、壺の細い首を通らない。
 猿は、手が抜けないと騒ぐ。
 しかし、つかんだ木の実は逃したくないので、決して握った手を放そうとしない。
 そのため、ますます、猿は、壺から手が抜けない事態になっている。
 というような寓話です。
 人間は、猿の手が抜けない理由がわかっているので、その知能の低さを笑っているという話です。
 しかし、実際は、私たち人間も、この猿と同じようなことをしているのです。

 私たちが、苦しみや囚われから抜け出せないとき、このように、本来手放すべき「木の実(苦痛)」と、自分の方で「握っている側」との、2つの存在があります。
 では、この「握っている」事態とは、どのようなことを指しているのでしょうか?
 それは、「感じたくない/体験したくない」という事態(ふるまい)です。
 「気づきたくない」「受け入れたくない」という事態(ふるまい)です。

 当然のことですが、普段の私たちは、苦痛を感じたくありません。
 そのため、日々、苦痛や不快を感じそうな場面を回避して、避けて生きています。
 他人との会話の中でも、感情的な不快を感じなくて済むように、無難な話題や言葉を選び、会話を運んでいます。
 人生の選択においても、なるべく安楽で済むように、物事の
選択を行なって生きているのです。
 苦痛や不快のない方向を選んで、人生の選択を行なっているのです。 

 しかし、人生では、期せずして、苦痛を感じてしまう場面に遭遇します。
 そのような時、人は、「
笑う」「怒る」「ごまかす」「嘘をつく」など、さまざまな手段を使って、瞬時に、苦痛を「感じない」ように、「ないこと」にしようとします。
 感じた苦痛を消し去るように、「
自分の心を操作して」、自分の苦痛をなかったことにするのです。

 このようなふるまいは、大人になると、自動化されていて、自然のこととなっているので、そのことに違和感を持つ人はいません。
 自分がそのようなことを行なっていることに気づいている人もあまりいません。
 しかし、そもそも、幼い子どもの頃は、違っていました。
 子どもの頃は、苦痛を感じるたびに、いちいち、とても「痛かった」「悲しかった」のです。
 そのため、私たちは、その苦痛を感じないで済むようなふるまいを、だんだんと工夫していったのです。
 自分の心を加工し、成長していったのです。

 そのように、苦痛な感情をないことにして、心にフタをして、感じないようにするふるまいを、心理学的には、「抑圧」と呼びます。
 苦痛を、「無意識 unconsciousness」「潜在意識」の方に押しやって、感じないようにするのです。
 また、苦痛を意識の外に押しやって、なかったことにするのです。
 これを、「周縁化」と呼びます。

 しかし、一度感じられた苦痛は、外に押しやられても、決して消滅するわけではありません。
 なくなってくれないのです。
 いつまでもそこに在り続けるのです。
 そのような苦痛の体験は、記憶の中で、その場面/映像を思い起こすたびに、チクリと痛みを感じさせたりするのです。
 (苦痛のない体験は、記憶の映像をよくよく細かく思い出しても、私たちに何も感じさせません)

 そのような苦痛は、著名なヒーラー、バーバラ・ブレナンが、「タイムカプセル」と呼んだように、時間を超えて、そのときの嫌な感情をそのままの形で閉じ込められて、そこに在り続けるのです。
 この宇宙のどこかに、それはずっとあり続けるのです。
 心理学(ゲシュタルト療法)では、それを「未完了の体験/未完了のゲシュタルト」と呼びます。
 「苦痛なまま残っている」というような状態です。
 その記憶の中の嫌な感情は、いつまでも、「その時のまま/現在形のまま」なのです。

 しかし、私たちの心(潜在意識)というものは、このような、押し込められた「苦痛なまま/現在形の苦痛」をいつも吐き出したがっています。
 当然ながら、こんな苦痛を抱えているのは、嫌だからです。
 心にとって、それは「異物」であるし、刺さっているままであることが苦痛だからです。
 そのため、心は、その苦痛なトゲ(エネルギー)を、どこかで吐き出し、解放しようと、人生の中でチャンスをうかがっているのです。
 私たちが、いつも「似たような人生のパターン/場面」の中で、似たような失敗や苦痛を味わうのは、そのためなのです。
 これが、真の引き寄せの法則なのです。

 さて、では、その「苦痛」を消滅させるには、どうすれば良いのでしょうか?
 そこに苦痛を溜め込んだのと、逆のことをすればよいのです。
 つまり、そこに溜まっているエネルギーを放出し、エネルギーを抜くのです。
 しかし、そのエネルギーを抜くには、部分的であれ、その苦痛を感じ、体験する必要があります。
 その苦痛の「質感」の中に、エネルギーは充電されているからです。
 「感じる」という質感の中にこそ、エネルギーは存在しているからです。
 それを「感じる」ことなくして、エネルギーの放出は、決して起こらないのです。
 それが部分的であれ、感じられ、体験されることで、はじめて、閉じ込められていたエネルギーは放出しはじめ、苦痛は消滅していくことになるのです。

 しかし、当然ながら、私たちは、苦痛を感じたくありません。
 そのため、多くの人びとは、記憶の中に、そのような苦痛を見つけると、逆にそれらを感じ
ないように、さらに強くフタをします。
 感じないように、抑圧するのです。
 その苦痛を、潜在意識の中に押しやるのです。
 しかし、そのことで、意識下の苦痛は、ボイラーのように、エネルギーをグツグツと煮えたぎらせ、より力を強めていくことになるのです。
 シャドー(影)のような存在になっていくのです。
 そして、そのような感情が、心の中で、どんどん降り積もり、蓄積していくことで、私たちの心は重く憂鬱になり、不調をきたしていくことになるのです。
 病気にまでならなくとも、生きづらさや自信のなさ、秘められた苦痛を増大させていくことになるのです。

 さて、このようなジレンマが、前段でみた「猿の状態/二元的状態」と同じことであることがわかると思います。
 苦痛はなくしたい。しかし、苦痛をなくすには、その苦痛を感じる必要がある。
 しかし、苦痛を感じたくないので、いつまでも、その苦痛はなくならない。
 私たちの自我(エゴ)は、このような、逆説的な事態になっているのです。

 このような寓話が、古来から在ることからもわかるように、私たちの心は、このような二元的葛藤や拘束を、いたるところで起こしているということなのです。
 「自我(エゴ)とその「シャドー(影)」という、二元的なゲームです。

 では、どのように苦痛を消滅させるのでしょうか?
 さきも述べたように、「苦痛を受け入れていく」ということです。
 セラピー的な大枠でいうと、「自己受容」していくということです。
 
ただ、当然、強い刺激を一度に感じるのは、逆効果ですので、少しずつ、抵抗のないレベルから感じていき、エネルギーを抜いていくことです。
 しかし、そのことだけで、苦痛は消滅してしまうのです。
 意外と、あっけないのです。
 そのため、セラピーなどでは、地道で丁寧なアプローチで、この溜まった苦痛のエネルギーを抜いていくことを行なうのです。 
 というのも、人が恐れているほど、実際の苦痛は、それほど大きなものではないからです。
 「クローゼットの中の骸骨/押入れの中の死体」という成句があります。
 よく、これをパロディ的に使って説明されますが、「苦痛とは、感じないようにしていると怖ろしいものに感じられる」という特性(逆説)があります。
 しかし、実際に感じてみると、苦痛は、それほど大したものではないのです。
 「押入れの中に死体がある」と信じて、押入れを開けないで、固く戸を閉ざしていると、恐怖感(シャドー/影)はどんどん増していきます。
 しかし、実際に、押入れを開けてみると、死体などはないのです(幻想)。
 そのように、戸を閉ざしていること(抑圧していること)自体が、恐怖感(シャドー/影)を増大させているのです。
 この逆説も、猿の譬えと同様の、相互的な拘束状態です。

 以上、見たように、「二元的な囚われの状態」は、たしかに一見厄介なものですが、真摯に心に向き合い、丁寧にアプローチすることで、超えられないものではありません。
 しかし、現代社会がよく勘違いしているような、「頭で考えること」や「知的に解釈する態度」からでは、決して超えることのできない事態となっているのです。
 そもそも、思考とは、感じないようにするための抑圧の機能でしかないからです。
 ここでは、禅でいう、「分別智」(思考)ではなく、「無分別智」が求められているのです。
 フリッツ・パールズが、セラピーの要点として、「思考を離れ、感覚になれ」と言ったのも、そのような意味合いからなのです。
 そして、「考えるな、感じろ! don’t think,feel!」という、ブルース・リーの台詞が、セラピーなどで引かれるのも、この文脈での話なのです。

◆アヤワスカ体験と非二元的領域

 さて、以上、二元的な葛藤状態を見てきましたが、このような「自我(エゴ)のつくり出す」二元的状態は、普段の生活の中では、ほとんど乗り越えることはできません。
 なぜなら、現代文明の人間生活のすべては、そのような二元的ゲームの上に成り立っているからです。
 「自我(エゴ)とその「シャドー(影)」という、二元的ゲーム(価値判断/善悪判断)の上に成り立っているからです。

 しかし一方、「魂の全体性」から視られた場合、この二元性は、それほどジレンマというわけでもないのです。
 というのも、「自我(エゴ)」の機能というのは、私たちの「魂の全体性」の中では、ほんの一部分の機能でしかないからです。
 また、発達論的にも、「自我(エゴ)」は、後から生まれた部分的機能に過ぎないからです。 
 そして、「魂の全体性」の中には、「自我(エゴ)」や「シャドー(影)」とは違う、もっと大きな「非二元的な意識状態」がはじめから存在しているからです。 
 そのような、秘められた「魂の全体性」や「意識の階層構造/変性意識」については、別の記事で詳しく解説しましたので、ご参照していただければと思います。
アヤワスカ体験のトータリティ(超越的全体性)―その至高の体験宇宙

 「魂の全体性」の中には、「自我(エゴ)」や「シャドー(影)」を超えた、いわゆる、「トランスパーソナル(超個)な意識領域」、「非二元的な意識状態」があらかじめ存在しています。
 そのため、古今東西、さまざまな宗教や秘教の中では、「自我(エゴ)」のつくり出す二元性は幻想であり、それらは実在しないものとして語られ続けてきたのです。
 ワンネス的な「悟り」は、デフォルトであると語られてきたのです。 
 そのような「非二元的な意識」については、とりわけ、東洋の世界では、古くから、「超越的な意識」「超意識」「宇宙的な目撃者 witness 」として語られ続けてきたものでもあるのです。
 1,000年以上の前に、
インド最大の思想家の一人シャンカラは、そのような、非二元的な意識を、「アートマン(真我)」として語っています。
 次のように、アートマン(真我)について、またアートマン(真我)として語ります。 

「認識対象を捨て、つねにアートマンを〔あらゆる限定を〕離れた認識主体であると理解すべきである。「私」と呼ばれているものもまた、すでに捨てられた〔身体の〕部分と同じであると理解すべきである。

アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、統覚機能の認識とは異なって、その認識は限定されたものではない。

私〔アートマン〕自身純粋精神を本性としている。おー意〔統覚機能〕よ。〔私と〕味などとの結合は、お前の混迷に由来するものである。それゆえに、お前の努力によるいかなる結果も、私には属さない。私は一切の特殊性を持たないからだ。

見〔=純粋精神〕を本性とし、虚空のようであり、つねに輝き、不生であり、唯一者であり、不滅であり、無垢であり、一切に遍満し、不二である最高者〔ブラフマン〕――それこそ私であり、つねに解脱している、オーム」

シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリ―』前田専学訳(岩波書店)
※太字強調引用者

 「非二元的な意識」は、私たちの本性ですが、「私」でも「自我(エゴ)」でもなく、宇宙的な目撃者 witness として存在しているのです。 
 そのような意識の領域が存在しているのです。

  そして、アヤワスカ体験で、「深く癒された」「根強い囚われから解放された」などという現象が起こるのも、実は、このような心(意識)の構造と関係しているのです。
 というのも、アヤワスカ体験などのサイケデリックな意識状態(変性意識状態)の中では、そのような「非二元的意識」や「超越的機能」が現れやすくなっているからです。
 そのため、自我(エゴ)を離脱し、囚われている二元的な拘束が超えらることも起こってくるのです。
 サイケデリック研究の権威、スタニスラフ・グロフ博士は、そのようなサイケデリック体験で現れる〈意識/変性意識〉について、次のように語ります。

「非日常意識状態についてふれておきたい最後の驚くべき特徴は、自我(エゴ)と外部の諸要素との差異、もしくはもっと一般的にいって、部分と全体との差異の超越である。LSDセッションにおいては、自己本来のアイデンティティを維持したまま、あるいはそれを喪失した状態で、自分をほかの人やほかのものとして経験することがありうる。自分を限りなく小さい独立した宇宙の一部分として経験することと、同時にその別の部分、もしくは存在全体になる経験とは相容れないものではないらしい。LSD被験者は同時にあるいは交互に、たくさんのちがったかたちのアイデンティティを経験することができる。その一方の極は、一つの物理的身体に住まう、分離し、限定され、疎外された生物に完全に同一化すること、つまりいまのこのからだをもつということだろう。こういうかたちでは、個人はほかのどんな人やものともちがうし、全体のなかの無限に小さな、究極的には無視してかまわない一部分にすぎない。もう一方の極は、〈宇宙心(ユニヴァーサル・マインド)〉ないし〈空無(ボイド)〉という未分化の意識、つまり全宇宙的ネットワークおよび存在の全体性との完全な経験的同一化である」

グロフ『脳を超えて』吉福伸逸他訳(春秋社) ※太字強調引用者

 アヤワスカ体験などの強度な変性意識状態の中では、このような「非二元的な領域(元因領域)」の〈意識〉が現れてくることが起こるのです。
 
そのことで、「自我(エゴ)」のこだわりや、「自我(エゴ)」がつくりだす「二元的な囚われの状態」が超えられることも起こってくるのです。
 拡張された〈意識〉(変性意識状態)の中では、「苦痛を感じたくない」「受け入れたくない」と抑圧する自我(エゴ)の機能は、枯葉のように弱まり、その中で、
苦痛も部分的に体験され、エネルギー的に解放されていくことになるのです。
 結果として、広義の「自己受容」が起こり、「囚われ」や「トラウマ的状態」もほどけて、十全な自己が実現されていくことになるのです。
 そのような変性意識状態の中で、溜まっていた膨大なエネルギーが解放されて、癒しが起こっていくことになるのです。

 ただ、付言すれば、上のような事柄は、そのような状態(準備/プロセス)にある人にとっては、そのようなことが起こってくるという意味合いでもあります。
 アヤワスカ(植物)は判断を行ないません。ただ、その人が望んでいることを限りなく増幅していきます。
 セレモニーの参加者が、心の底で「閉じたまま」であることを選んでいる場合、植物は「閉じている状態」を増幅し、サポートしていきます。
 そのため、表層的な「頭で考える」次元ではなく、深層の「ハートの中心で」自分はどのような状態であるのか、心の底で何を望んでいるのか、何を恐れているのか等々、深く気づけていることが重要なのです。
 人間の浅知恵で、植物をごまかすことはできないのです。

 
◆二種類の「変容」―パーソナルな変容とトランスパーソナルな変容

 さて、以上、アヤワスカ体験についてよく語られる、「深く癒された」「根強い囚われから解放された」が起こる原理について解説しました。
 ただ、このように体験(実現)される解放ですが、当然のことながら、このような解放作用は一時的なものです。
 アヤワスカの作用がなくなった後に、その解放された状態を、どのように維持し、定着(統合/再組織化)するかによって、その解放状態を、真の「変容」にできるか否かが、かかってくるのです。
 この統合と変容のプロセス自体は(アヤワスカ体験は並外れたものですが)、強度な体験的心理療法などに見られる統合のプロセスと、ほぼ同様の事柄なのです。
 ただ、ここには、通常、知られていない、二種類の「変容」があるので、そのことについて解説していきたいと思います。

①パーソナルな変容

 この「パーソナルな変容」は、通常、セレモニー後のプロセスが問題とされる場面で、よく語られている「統合」プロセスのことです。
 セレモニー直後の解放された感情や新しい感覚をしっかりととらえ、反芻し、感覚を定着し、練り上げていく必要があります。
 過去の自分と、新しい自分との感覚や感情をすり合わせていく時間です。
 それがじっくりと、丁寧に深められていくことで、私たちが体験した解放を確実なものに、現実生活に着地させていくことができるのです。
 その解放が深いものだった場合、上質な体験的心理療法がもたらすような深い変容が、特に直後では感じられたりするのです。
 感情や心身が、かつての囚われを持たずに、みずみずしい流動性を高めているのです。

以前には「滞って」いて、過程という特質を失っていた感情が、今ではただちに体験される。
感情が最後まで十分に流れる。
今ここでの体験がただちに、そして豊かさをもって直接に体験される。
この体験過程の瞬時性と、その内容を構成する感情とが受容される。
それはあるがままに受容される。否定したり恐れたり、それと戦ったりする必要はない。

それについて感じるのではなく、体験の中を主観的に生きているという特質が存在する。

カール・ロジャーズ『自己実現の道』諸富祥彦他訳(岩崎学術出版社)

 このように、解放がしかるべき姿で実現されると、感情と体験とが、直接性と瞬時性にあふれ、生が生の流れとして、生き生きと体験されるということが起こります。
 魂が甦り、新しい生の感覚が充溢することとなるのです。

 ②トランスパーソナルな変容

 また、別の種類の「変容」もあります。
 これは、普通の人にも部分的に生じますが、特に、心身の深い解放を、より意識的に行なっていた人の場合に、多く起こってくる要素とも言えます。
 これらは、パワフルな側面を持つ分、①の「パーソナルな変容」以上に、注意深い丁寧な対応が必要な事柄ともなっているのです。
 さて、別の記事では、アヤワスカ体験においては、東洋/アジア思想でいうような〈意識〉の多次元的な様相が現れることについて、詳しく解説しました。
アヤワスカ体験のトータリティ(超越的全体性)―その至高の体験宇宙

次のような〈意識〉の諸次元です。
 ①粗大領域 gross body
 ②微細領域 subtle body
 ③元因領域 causal body
 です。

  別の記事で詳しく書いたので、ここでは詳細に書きませんが、「粗大領域 gross body 」とは、通常、私たちの生きている、この物質的な宇宙の事柄と、その領域にある〈意識〉のことです。
 そのため、この領域で現れてくるアヤワスカ体験
とは、「身体の浄化(嘔吐、下痢)」であり、心の側面について言えば、「心理的な出来事/過去の体験/トラウマ的な体験の回想」などの、自分の人生で体験した出来事についての事柄です。
 そこで起こった「解放」をきちんと統合していく作業が、①のパーソナルな変容というプロセスです。

 一方、アヤワスカ体験においては、先ほども触れたような非二元的な領域、「微細領域 subtle body」「元因領域 causal body」のような、一種、超越的な意識状態も体験されていくことになります。
 そして、そのような領域の超越的な力の解放
が、セレモニーの後にも強く残って、日々に影響してくる場合、それらを統合していく作業が重要となります。
 それが、「トランスパーソナルな変容」のプロセスです。
 これらは、パワフルなものですが、いろいろと複雑な側面を持っているのです。
 また、そのような超越的次元のことは、実際に知っている人が少ないため、問題を起こしがちともなっているのです。

 さて、そのような超越的な次元の流入が、一番現れやすい様態は、強い肉体浄化(浄化)の結果として、エネルギーの流れが良くなるために起こってくる現象です。
 いわゆる、「精妙なエネルギー」が感じられるようになるという現象です。
 これは、微細領域のエネルギーであり、〈気〉やプラーナなどと同様に、科学的に検出できるものではありません。
 ただ、これらの微細なエネルギー感覚は、本人に、「開かれた知覚状態」「変容した身体感覚」「
開かれた意識状態」などをつくり出すものなのです。
 また、元因領域的な「透視的なヴィジョン」の流入が、意識を変性させている場合もあります。
 それら、どのような場合においても、新しく開かれた感覚や意識を、自分の感覚や世界観として、着地的に統合していくことが重要なプロセスとなります。
 そうでないと、せっかく新しく拡張された感覚を得ているのに、分裂感や不協和感を抱えてしまうことにもなるからです。
 それらは、エネルギーが強烈である分、より手堅く、地道なアプローチが必要となってくるのです。
 また、私たちの一部は、強く「合意的現実」に汚染されているため、そのように新しい感覚(宇宙像)が開かれても、実際には、さまざまな認知的不協和や葛藤を抱えがちなのです。 
 前記のグロフ博士が、「スピリチュアル・エマージェンシー」と名づけたような巫病的事態になる場合も想定されるのです。
 そのため、 「粗大領域」から「元因領域までの、縦のレベルでの「垂直統合」をきちんと行なうことが、必須の作業となってくるのです。
 しかし、そのような「垂直統合」が成就され、「変容」が実ってくると、狭い
近代主義的世界観を超えた、真に生きる意味につながっている、豊かで、魂的な、自己の「超越的全体性」を生きることができるようになるのです。
 そのため、これらは、報われることのとても大きい作業(オプス)と言えるのです。
 そのあたりの原理や構造、実情については、下記の拙著をご覧ください。
 →詳細紹介『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』

 また、そもそもの心理的統合、つまり、粗大領域での解放や流動化が充分でなかった場合に、このような超越的な領域の力が過度に残ってしまうと、色々と問題も起こってしまいます。 
 古くから、「魔境」と言われるような、混乱や勘違い、病的な自我肥大という現象も起きてしまいます。
 そのような場合は、まずは、「通常の心理的統合」を手堅く進めるようなアプローチが必要となってくるのです。
 その上で、これら超越的なものの統合を進めていくと良いのです。
変性意識状態(ASC)とは何か advanced 編「統合すれば超越する」なぜ、幼稚なものが多いのか 超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の違い

 さて、以上、今回の記事では、アヤワスカ体験において、「深く癒された」「根強い囚われから解放された」と言われる部分に特化して、その構造的な原理を解説してみました。
 併せて、そのような解放がつくり出す「変容」が、多様な様相を持っていることについても解説しました。
 いずれの場合においても、私たちが、真摯に心に向き合い、準備を進めた後で、アヤワスカを体験していくと、そこでは、通常の世界体験を超えた、深遠な次元が開かれていくこととなります。
 そして、その稀有な体験を、しっかりと受け止め、感覚を練り上げていくことで、それまでの自分とは違う、未知のまばゆい次元を、自らのものとする素晴らしい変容を得ていくことができるのです。

▼実際に現地にて、シャーマニックで、深遠な、本格的アヤワスカセレモニーを体験したいという方はコチラへ↓
「ayahuasca journey」
https://www.instagram.com/ayahuasca_journey/
https://www.instagram.com/tq_zone/
https://note.com/urbanshamanism

変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。