拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』より引用します。
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第五部 第二章 野生の気づき
ここでは、「野生の気づき」のあり方について考えてみたい。
さて、通常、現代の私たちが、A地点からB地点に行くという場合、B地点に何らかの目的があって移動するのが普通である。そして、そのあいだの移動距離(時間)というものは、目的地に較べて、本来不必要な行程(過程)とされていて、価値のないもの、価値の低いものと見なされているものである。そのため、この行程を省略するための交通手段が、高い価値を有しているのである。たとえば、速度のはやい飛行機や特急車両などが高額なのはその理由である。そこでは、行程にかかる不要な距離と時間が、お金で買われているのである。これが、私たちの生きている世界の、日常の価値観における、目的地(目的)志向であり、過程(プロセス)や時間に対する考え方である。
ところで一方、野生の自然の世界とは、一瞬一瞬の忍びあいの世界である。動物たちは、いつ自分が、天敵や捕食者に襲われるか分からない世界で生きている。一瞬たりとも、気(気づき)の抜けない世界である。また逆に、いつどの瞬間に食べ物や獲物が、目の前に現れる(チャンス)か分からない世界でもある。その意味でも、一瞬たりとも、気の抜けない世界である。自分が、捕食者として獲物を狩った瞬間に、今度は自分が獲物として捕食者に狩られてしまうという、そんな容赦ない瞬間瞬間の世界である。生き延びていくためには、無際限な、瞬間の気づきが、必要な世界なのである。気づきの欠如は、すなわち、自らの死につながるからである。つまり、野生の世界では、「瞬間の気づきの持続」が、イコール生きることなのである。たとえ、A地点からB地点に移動するにしても、省略してよい無駄な瞬間などは、一瞬たりとも存在しないのである。すべての瞬間が、可能性であり、危険であり、魅惑であり、在ることのかけがえのない「目的」なのである。すべての瞬間が、生命の充満した時間なのである。「今ここ」の連続なのである。
さて、現代の私たちの(人間)世界と野生の世界との、過程のとらえ方、気づきの働かせ方の両方を記したが、いったいどちらが、「生きること」の真実や豊かさの近くにいるであろうか。生命の深さと濃密さに通じているであろうか。それはおそらく、過酷ではあるが、野生の世界であろう。
私たちの現代社会においても、危機的なサバイバル状況では、動物のような野生の気づきが必要となるのである。現に今でも、世界では、厳しい政治状況などによって、野生の気づきをもって、生きざるをえない人々がいるのである。
さて、本書では、このような野生の気づきのあり方に、ありうべき気づきの働かせ方、過程と時間のとらえ方を、生を透徹させる可能性と姿勢を見ているのである。瞬間瞬間サバイバル的に、野生の気づきをもって、未知の経験に開かれてあること。瞬間瞬間、能動的に、創造的体験に開かれてあること。できあいの言葉や観念で世界に膜をかけて、ものを見ないようにするのではなく、そのような人間的ゲームの外に出て、俊敏な気づきの力で、野生の創造過程を垣間見ること。そこに、私たちが、自然本来の創造性を生きる鍵があると考えているのである。
【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
気づきや変容、変性意識状態(ASC)を含むより総合的な方法論については拙著
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。