未来からの未完了の体験

ここでは、「未来からの未完了の体験」ということについて考えてみたいと思います。
しかし、これは妙な言い方です。過去の出来事によって、未完了の欲求不満が生じ、未完了の体験が生まれるのに、未だ存在しない未来の体験から未完了の体験が生ずるとは変な話です。

当然、これは、ひとつの喩え話です。ところで、よくゲシュタルト療法の中では、未完了の体験がなくなったら、どうなるのかという問いかけがあります。

教科書的な答えは、過去の未完了の体験に妨害されることなく、「今ここの、ありのままの現実を体験できる」というものです。
これは程度の問題はありますが、実際そのようなことが起こってきます。セッションでの取り組みを通して、私たちの中でざわめくさまざまな心的ノイズが消失していくに従い、より直接的にダイレクトに、「現実」をありのままに感じとれるようになっていくのです。好き嫌いをそのままにしてそれらを幅をもって愛せるようになっていくのです。

しかし、一方、人生経験の中では、常に新しい未知の事態に直面していくものなので、ここでも葛藤は生じ、(それほど酷いものではありませんが)軽度な未完了の体験(ゲシュタルト)は多かれ少なかれ、創られ続けていくのです。
これも初期のゲシュタルト療法のヴィジョンで、パールズらによって語られていたことでした。
生体は環境との戦いの中で、新奇なものを異物として摂取し、吸収することにより、「自己」を生成させていくからです。
この創造的調整の活動(成長)に終わりはないのです。成長する限り、未完了のゲシュタルトは短期でも生まれるのです。
それは、ゲシュタルト療法の標準仕様の姿なのです。

しかし、ここでは、もっとその先にある、心の「大きな全体性(広大な潜在能力)」という視点から、生じて来る未完了のゲシュタルトについて考えてみたいと思います。

ところで、実際、長年、ワーク(セッション)を繰り返して、心を掘り進んでいくと少し毛色の変わった「未完了的なテーマ」らしきものが浮上してくるというはあることなのです。

そのテーマの性質や姿は、単純な過去の出来事に起因するのとは、違うタイプのものです。過去の生活史を探ってみても、その事実の中に、その痕跡をつかまえることはできません。単なる未完了の事柄とは、違った印象を受けます。

さて、どうやら、私たちの秘められた心とは、より深部に潜めている「全体性・完全性・潜在意識」を実現しよう、成就しようという強い欲求を持っているようなのです。

そのため、過去の人生にあった、未完了の体験を完了(無く)していくと、今度は、さらに違ったレベルの、心の全体性を実現したがりはじめるのです。

未来の心の全体性が、現在の人生の中に、押し入り、侵入して来るかのようです。それは、心のダイナミックで、創造的な側面ともいえます。

それは、ケン・ウィルバーなどに言わせると、トランスパーソナルな(個人性を超えた)次元であるということになります。

彼は、心身一元論的なセラピー(ケンタウロスの領域)が統合を迎えると、その次のトランスパーソナルな次元が現れてきがちだと指摘しています。そして、それは、実際の心をあつかう現場では、多く見られる事柄なのです。

そのため、当スペースでは未完了の体験を完了させていくと、今度は、心は、次の「より大きな未完了(完全性)を、引き寄せるだろう」とします。

そのことは、徒労感を感じさせるでしょうか?しかし、それは、創造的で、きわめてエキサイティングな事柄なのです。私たちに、人生や生命の新しい次元を開くものなのです。


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『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
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入門ガイド
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