実際の変性意識の「体験事例」

 ここでは、さまざまな変性意識状態(ASC)の事例、また特に筆者自身が実際に体験した事例をとりあげて、変性意識状態(ASC)の多様な姿をご紹介しています。変性意識の可能性や、興味深い実態がご理解いただけると思います。
 現在、日本で、変性意識について書かれたものの多くが、非実際的・非実践的で、ボンヤリとした話が多いのは、実際にさまざまな深い変性意識を体験して、それらを「統合」した人によって書かれたものではないということに原因があります。中途半端な体験談や学説、噂レベルの話が多いのです。
 しかし、変性意識というものは、浅い体験や偶然的な体験を、散発的に経験しているだけでは、真に統合的な能力として使えることにはならないのです。
 変性意識とは、多彩で深遠な次元を数多く繰り返し経験することで(経験値を持つことで)、必要な感覚の「地図(マップ)」を手に入れたり、応用活用できるものになるのです。
 また、その「統合 integration 」のためには、その「器」となる心理的次元の統合と流動性が、必須のこととなるのです。
 そして、その心理的次元の統合(解放)のためには、心自体に対する体験的心理療法的な修練が必須のものとなるのです。
 →
統合すれば超越(超脱)する 超越的次元、トランスパーソナル(超個的)とは
 →なぜ、幼稚なものが多いのか 超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の違い

 ここで挙げている事例は、さまざまに極端な事例ですが、〈意識 consciousness 〉自体の豊かな可能性を示すものを選んでいます。さまざまな変性意識の形態を直観することで、その背後にある〈意識 consciousness 〉の本質構造がイメージできるからです。
 ただ、実際のところ、私たちが普段の日常生活の中で体験する変性意識や、変容に必要な変性意識の多くは、もっと身近で、日常意識に近い形態のものとなります。しかし、その向こうには、このような〈意識 consciousness 〉の世界」が広がっているということなのです。
→詳細紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』


※は、筆者の体験


「臨死体験」の事例です。交通事故にあった女性の体験談です。

「強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです」

スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳『魂の航海術』(平凡社) ※太字強調引用者


※サイケデリック(メスカリン)体験の事例です。

「…私が眼にしていたもの、それはアダムが自分の創造の朝に見たもの―裸の実在が一瞬一瞬目の前に開示していく奇蹟であった。イスティヒカイト。存在そのもの―エクハルト(※ドイツの神秘家)が好んで使ったのは、この言葉ではなかったか?イズネス、存在そのもの。プラトン哲学の実在―ただし、プラトンは、実在と生成を区別し、その実在を数学的抽象観念イデアと同一視するという、途方もなく大きな、奇怪な誤りを犯したように思われる。だから、可哀想な男プラトンには、花々がそれ自身の内部から放つ自らの光で輝き、その身に背負った意味深さの重みにほとんど震えるばかりになっているこの花束のような存在は、絶対に眼にすることができなかったに相違ない。また彼は、これほど強く意味深さを付与されたバラ、アイリス、カーネーションが、彼らがそこに存在するもの、彼らが彼らであるもの以上のものでも、以下のものでもないということを知ることも、絶対にできなかったに相違ない。彼らが彼らであるもの、花々の存在そのものとは―はかなさ、だがそれがまた永遠の生命であり、間断なき衰凋、だがそれは同時に純粋実在の姿であり、小さな個々の特殊の束、だがその中にこそある表現を超えた、しかし、自明のパラドックスとして全ての存在の聖なる源泉が見られる…というものであった。」
(中略)
「…私は花々を見つめ続けた。そして花々の生命を持った光の中に、呼吸と同じ性質のものが存在しているのを看たように思った―だが、その呼吸は、満ち干を繰返して、もとのところにもどることのある呼吸ではなかった。その呼吸は、美からより高められた美へ、意味深さからより深い意味深さへと向かってだけ間断なく流れ続けていた。グレイス(神の恩寵)、トランスフィギュレーション(変貌、とくに事物が神々しく変貌すること)といったような言葉が、私の心に浮かんできた。むろん、これらの言葉は、私が眼にする外界の事物に顕わされて顕われていたのである。バラからカーネーションへ、羽毛のような灼熱の輝きから生命をもった紫水晶の装飾模様―それがアイリスであった―へと私の眼は少しずつ渉っていった。神の示現、至福の自覚―私は生まれて初めて、これらの言葉の意味するものを理解した。…仏陀の悟りが奥庭の生垣であることは、いうまでもないことなのであった。そして同時にまた、私が眼にしていた花々も、私―いや『私』という名のノドを締め付けるような束縛から解放されていたこの時の『私でない私』―が見つめようとするものは、どれもこれも仏陀の悟りなのであった。」 ハックスレー『知覚の扉』今村光一訳、河出書房新社


※サイケデリック(5-MeO-DMT)体験の事例です。
拙著『砂絵Ⅱ: 天使的微熱 脱人間の意識変容(仮題)』(近刊予定)より
さまざまなメディスン(薬草)の効果―マジック・マッシュルーム、ブフォ・アルヴァリウス(5-MeO-DMT)

「……………………………………………………

成分が急速に血中で膨張していくのがわかる。
押し流すような眩暈とともに、氾濫するものが身体中にひろがり、
急速に知覚と身体が溶解していく…
急激に高まった海水が防波堤を越えるように、防波堤を決壊させるように、過剰なエネルギーの流れが超過してくると、
すべての知覚は溶け去り、
意識はへりをなくし、
意識は「一気に宇宙大に拡大」していく…
時空を突き破っていくような、
凄まじい爆発的な拡張感…
轟音のように膨張するエネルギーが一気に突き抜け、
人間の存在はかき消され、
消滅し、
意識はへりを喪ってしまう…
そして、
瞬時にして「宇宙そのもの」になっている。
広大な「宇宙そのもの」。

非時空の巨大なエネルギーとへりのない意識。
「宇宙そのもの」。

そして、
「神」になっている。

主語はない、宇宙そのものである神。

「完全である」という以外に言葉がない。

宇宙自体であり、
すべてが完全であるという至福。
踊るシヴァ神のようだ

人間が決して想像することのできない「完全さ」であり、
「完璧さ」である。
至福の上の至福の上の至福。
至高の極瞑想の至福。
最上級の頂点の向こうにある至福。
(サッチダーナンダ/存在意識至福)

神であることの完全な至福。
「完全」であり、
自分のよろこばしい意志で、
すべての時空が踊るよう、
遊ぶよう創造された。
この宇宙のすべてを創った神である自分がわかる。

生も死もない。
この完璧な完全さの中では、
創造も破壊も等しくある「完全さ」だ。
自分の意志で、
この宇宙は創られた。
笑いと歓び、澄んだ意識と、
極相にひろがる舞踏。

何も「他」というものがない完璧な「完全さ」。
生も死もない。
宇宙を創っている自分がわかる。
つまりは、

もともと、自分は「この神であったこと」を思い出している。
はじめは、「神であった」のだ。

やがて、だんだんと形象が戻ってくる。
舞踏のように、
極相から極相へとめぐるもの。

そして、まわりの皆(○○ちゃんも○○)も、宇宙そのものであり、神である。
すべてが、神である。
すべては、本源の、他のない神である。

世界が、だんだんと戻ってくる。
そして、「人間」「この私」であることもまた善い。
「この私」「人間」であることと、「神」であることに矛盾はない。
イエス・キリストの意味合いがわかる。
私たちは、皆、イエス・キリストだ。
地球を遥か下方に見るようだ。
………………………………………」


※別の身体感覚と意識が開いた「光明」体験、「虹の空間‐次元」体験の事例です。
拙著『砂絵Ⅱ: 天使的微熱 脱人間の意識変容(仮題)』(近刊予定)より

「………………………………………
……………………………
……………………
………………

ただ「まばゆさ」がある… 
不思議な「まばゆさ」がただ果てしなくひろがっている…

……………………………
……………………

あたり一面の…「まばゆさ」の透過……
遥かな…遠い芯からの… 「まばゆさ」の到来… 
満ち満ちる「まばゆさ」の遍満… ひろがり…
宇宙の…存在の…芯からの… 〈光〉のまばゆい透過… 超過……

……………………………

眼を瞑っていても、圧倒的な光明のまばゆい毛羽立ちがある…
まばゆい〈光〉の遍満と膨満…
果てしなく、まばゆい空間が透過している…
まばゆい空間が満ち満ちている… 
超過している…
あたりに、虹のように透過し、浸透する、不壊の空間‐次元のひろがり…

……………………………

まばゆい「虹の」空間‐次元の遍満。
まばゆい光明の透過-突き上げ-臨在。
「それ」を認知するというよりも、「それ」がいっさいであり、「それ」が透過し、「それ」がひろがり、満たし、超過し、「それ」が空間としてあり、次元としてあり、いっさいの顕れの「本体」だったのである…
遠い芯からの、まぶしい光明と次元の溢出…
満ちわたる遍満の輝きは、まばゆい放射であり、不壊であり、不滅であり、善きものである… 美であり、浄らかであり、至福であり、途方もない歓喜である…
圧倒的な光明の臨在=充溢があり、そこでは自己の存在などは、もみ殻のように微かで、稀薄なものになっていたのである…
広大な光のひろがりに透過され、ただサラサラとまばゆい微熱の中にあったのである…
風景の奥行きは無辺のひろがりであり、果てのない、まばゆさの透過であり、虹の空間‐次元の透徹がいっさいとして、いき渡っていたのである…
そのまばゆさは、宇宙の芯、遥かな存在の芯から来ると同時に、非時空的なまぢかさをもって、今ここに顕れ、透過していた…
そして、光は、非時空の無限のひろがりであり、宇宙の厚みを透けるように射しぬき、圧倒的な充溢=臨在で、今ここを超過しているのであった…

………………………………………
………………………………

見えるもの、感じるものすべてに「まばゆさ」の透過=超過がある…
その奥に、「まばゆさ」の空間=遍在がひろがっている。
(一粒の砂にも…)
物質や見かけに制限されないまばゆさの溢出=膨満…
すべての風景の細部から、白い光のような放射‐空間が毛羽立つよう溢れている…

まばゆく変成した世界が、そこにはあったのである。
真の無限は、有限に限定されることなく、有限さを属性のひとつとするといわれるように、目の前の有限な事物たちは、無限の光に透過され、無限なものの一部として、その表現(表れ)として、内包されたまばゆい超過として、そこにあったのである。
無限の光のまばゆい構成物として、そこにあったのである。

すべての風景が過度に彩り鮮やかであり、チリチリとまぶしい燐光に溢れていた。
無限なものの微光が、そこに燃えていたのである。
物たちは、内側からの、芯からの光明に透かされているようである。
そして、見えるものたちは、かろうじての形であり、薄い見せかけであり、中身の「本体」は超過する無限のまばゆさ、非時空のひろがりであり、光明をはらみつつ飽和する、影像のように感じられたのである。
そして、それは自分の肉体においても同様であった…
肉体は光に透過され、透かされ、光の構成物のように透明になっていたのである…
そして、触れる物たちは皆、摩擦を持たない粒子を表面に持つかのようになめらかであり、スルスルと精妙微細なもの、硬質で謎めいたものに感じられたのである…

影像としての世界… 顚倒した世界…
眼の前に、さまざまな物たちを見る。
確かにそれらはそこに在る。しかし、個々の物の区別や輪郭、構造や仕組みは、顕れている世界の表面的な虚構でしかなく、深層の実体ではなく、何らかの約束、契約上の設定(役柄)のように感じられたのである。
物たちのほんとうの実体‐素顔は、サラサラとした微粒子のまばゆい流動‐放射の層であり、見える景色は、まぶしい陽光に内から射しぬかれた表層、剥片として顕れているにすぎないと感じられたのである。
すべての物たちは、かりそめの役として、名をもつ固形物を演じているようで、その本性においては、微細な光をはらみつつ溢れ出ている、霊妙微細なものたちなのであった。
眼の前のいっさいに、背後で溢れる光の次元があり、膨満する光の内圧があり、表皮の剥けかかった物(果実)たちの輝き、表面のなめらかな沸騰があり、その鏡像の仮面劇、風景として、自分も宇宙もあったのである…

………………………………………
……………………………
…………………」


 「マザー・セレナが五十年間もの間毎日瞑想していた礼拝堂に坐っていた私は、彼女が癒しために名前を読んでいるのを聞いているうちに、自分が意識の中を上のほうに昇っていることに徐々に気づき始めた。上昇しながらも、マザー・セレナが世界の安寧と平和のために祈りを捧げているのが依然として聞こえ、ニューヨーク市の北部ウェストサイドのトラックの音にさえ微かに気づいたままでいた。この霊的な上昇は、エレベーターのイメージに生きいきと移り替わっていた。エレベーターは、様々な階――探査するために私が停まることもできたであろう、天界域――を通過していったが、その終着地を垣間見ることへの切望が、私をこの幻視的エレベーターへ留まらせた。とうとうエレベーターは最上階に到着し、ドアが開き、私は金色の光の界域に足を踏み入れた。私の身体はこの光と同じ色および性質になっていた。私は浮かんではいなかったが、私のいつもの身体と同じように反応する、この金色の身体に充分に気づいていた。また、自分が何かの表面を歩いていることにも気づいていた。私は直観的に、これが最上部ではないということ、まだ究極的な眺めではないということを感知した。上に向かって円を描きながら強烈な金色の中に消えて行く階段があるのに気づいて、私は昇り始め、そして上昇するにつれて光がますます濃くなっていくことを実感した。通常の表面を歩いているという私の気づきは消え始めた。私の身体は光と溶け合い始め、すぐに身体はなくなり金色の強烈さだけがあった。私は依然として、意識の個別的な中心としての自分自身に気づいていたが、今やさらに昇っていくといういかなる感覚もなかった。なぜなら、身体的な隠喩が不適切になったからである。(中略)
 それに続く動きは薄膜の浸透に似ており、なんのあても努力もなしに自発的に起こった。なんの意外感もなしに薄膜の反対側に出ていた。すべてが澄み渡っていた。〈存在〉の重い金色の濃密さは、まるで夏の湿気からいきなり秋の清澄さへと移ったかのように失せ、消散していた。(中略)この明るさはあまりに全面的だったので、「私」の余地はまったくなかった。けれども、特定の「私」が不在にもかかわらず、気づきが充分にそこにあった。この強烈な、圧倒的な存在あるいは明るさは、実体ではなく、単に気づきの清澄さだった」

 
レックス・ヒクソン『カミング・ホーム』(コスモス・ライブラリー)高瀬千図監訳 ※太字強調引用者


※ブリージング・セッションによる、「子宮回帰」体験事例です。
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』 「第二章 呼吸法を使った変性意識状態」より

「……………………………
………………………
…………………

いつものように音楽に気を紛らわし、
過換気呼吸に集中していく…

過換気自体は不快なだけ、
苦しいだけといってもいい…

探索するよう、手さぐりするよう、
感覚と手がかりを求め…呼吸を続けていく…

…………
………………
熱気が高まってきて…
顔や皮膚にちりちりと、
蟻が這うよう痒さが走る…

茫漠とした不安と閉塞感…
さきの見えない不快感が、
つのっていく…

呼吸に集中し…
気づきを凝らし…
内側から何かのプロセスが、
起こってくるのを見つめている…

光の斑点が、
眼の裏に交錯し、
輪舞する…

どのくらい経ったのか…
汗ばむ熱気の中、
苦しさは若干薄まり…
痺れとともに、
遠いところから満ちて来る…
生理の深いざわめきに、
気づいていく…

呼吸を続け、
内部の感覚の波を増幅し、
持続させることに、
集中していく…

いつものよう、
手足のさきが痺れはじめ…
熱気の中、まだらに現れる、
奇妙な汗ばみ…
冷たさの感覚… 

とりとめのない記憶や映像が、
夢の破片ように去来する…

どこへ向かっているのか、
予想もつかない…
しかし、何かが、
満ちてきている気配がある…

内側の遥かな底に、
荒れ騒ぐよう、
何かが高まり、
生起する感覚…

呼吸を続け…
意識が、途切れがちになる…
呼吸を保ち…
意識をただし…
気づきを凝らし…
持ち直し…

………………………
………………
…………

どのくらい時間が経ったのか…
明滅する意識の向こうに、
ふと気づくと、

そこに、
「胎児である自分」
がいたのである…

それは記憶の想起ではなく、 
今現在、今ここで、
「胎児である自分」
なのであった… 

感じとられる、
肉体の形姿が、
からだの輪郭が、
いつもの自分とは、
完全に違っている…

巨大な頭部に、
石化したよう屈曲した姿勢…
激しく硬直する腕や指たち…

手足のさきが堅く曲がり、
樹木のよう奇妙な形に、
ねじくれている…

からだ全体が、
胎児の形姿、
姿勢である…

そして、気づくのは、
今ここに、
自分と重なって、
「その存在がいる」
という圧倒的な、
臨在の感覚である…
その存在の息吹である…

それは、
自分自身である、
と同時に、
かつて、そうあった、
「胎児である自分」
との二重感覚、
だったのである…

「いつもの自分」
の意識と、
「胎児である自分」
の感覚(意識)とが、
二重化され、
同時に、今ここに、
在ったのである…

分身のよう多重化された、
肉体の、
感覚の、
意識の、
圧倒的に奇妙な現前が、
在ったのである…

そして、
ふと気づくと、
手足は、異様なまでの、
硬直の激しさである…

その筋肉の凝縮は、
普段の人生の中では、
決して経験しえない類いの、
岩のような硬直と、
巨大な圧力である…

自分の内部から、
このように途方もないエネルギーが、
発現している事態にも、
驚いたのである…

肉体の深い層から、
生物学的で火山的なエネルギーが、
顕れていたのである…

………………
…………

何の感覚か…
まとわり、ぬめるよう密閉感… 
粘膜のよう、煩わしい、
冷たい汗ばみ…
奇妙な臭い…

内奥に、深く凝集し、
細胞の呼吸のようにゆっくりとした、
時間のすすみ…
生理的な、生物的な渇き…

胚のよう、種子のよう、
濃密に凝縮する、
発熱の震え…

暗闇にぼうと浮かぶ、
輝くような始源の姿…
未明の宇宙的なけはい…

肉と骨の奥処に、
岩のよう苛烈な硬直の軋み…

烈火のよう力のエネルギーが、
尽きることない火力が、
終わることなく滾々と、
放出されていたのである…

………………………………
………………………」

(つづく)


※ライフ・レビュー(人生回顧)体験の事例です
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』 
「第三章 人生回顧(ライフレビュー)体験」
より

◆人生回顧(ライフレビュー)体験

「その体験は、街を歩く中で突然訪れたのであった。当然そのような出来事が、自分の身に起こることなど予期していなかった。一瞬、何が起こったのか意味がわからなかった。そして、起こった後もこれをどうとらえてよいのか、苦慮したのである。その体験が起きた時は、酷い気分の悪さを抱えながら、普段どおりに街を歩いていただけである。

…………………………………
…………………………………………
重苦しい憂鬱な気分で通りを歩いている。
暗い感情が波のように心身の内を行き来するのがわかる。
煮つまるような息苦しさ。
そんなあてどない、先の見えない苦痛に想いをめぐらせていたとある瞬間、
或る絶望感がひときわ大きく、
塊のようにこみ上げてきた。
内部で苦痛が急激に昂まり、凝集し、限界に迫るかのようである。
自分の内側で何かが完全にいき詰まり、
行き場を失うのを感じたのである。
その時、
固形のような感情の塊が、
たどり着いた後頭部の奥底で、
「砕け散るのを」
感じたのである。
物体で打たれたような衝撃を感じ、
視界の中を、
透明なベールが左右に開いていく姿を知覚した。
内的な視覚の層が、
ひらいていく姿のようである。
奇妙な意識状態に、
入っていった…

ふと見ると、
随分と下の方に、
遠くに(数十メートル先に)、
「何か」があるのが見えたのである。
何かクシャッと、
縮れたもののようである。
よく見てみると、
そこにあったのは、
(いたのは)

数日前の「私」であった。

正確にいうと、
「私」という、
その瞬間の自意識の塊、
その瞬間の人生を、
その風景とともに、
「生きている私」
がいたのである。

たとえば、
今、私たちは、
この瞬間に、
この人生を生きている。

この瞬間に見える風景。
この瞬間に聞こえる音たち。
この瞬間にまわりにいる人々。
この瞬間に嗅ぐ匂い。
この瞬間に感じている肉体の感覚。
この瞬間の気分。
この瞬間の心配や希望や思惑。
この瞬間の「私」という自意識。
これらすべての出来事が融け合って、
固有のゲシュタルトとして、
この瞬間の「私」という経験がある。

さて、その時、
そこに見たものは、
それまでの過去の人生、
過去の出来事を体験している、
そのような、
瞬間瞬間の「私」の、
つらなりであった

瞬間瞬間の、
無数の「私」たちの、
膨大なつらなりである。
それらが時系列にそって、
そこに存在していたのである。
(近しい過去が手前にある)

瞬間とは、
微分的な区分けによって、
無限に存在しうるものである。
そのため、そこにあった「私」も、
瞬間瞬間の膨大な「私」たちが、
数珠のように、
無数につらなっている姿であった。

それは、
遠くから見ると、
体験(出来事)の瞬間ごとのフィルム、
もしくはファイルが、
時系列にそって、
映画のシーンように、
沢山並んでいる光景であった。

そして、
そのフィルムの中に入っていくと、
映画の場面(瞬間)の中に入り込むように、
その時の「私」そのものに、
なってしまうのであった。

その時の「現在」、
まさにその瞬間を生きている「私」自身に、
戻ってしまうのであった。
その瞬間瞬間の「私」を、
ふたたび体験できるのである。

主観として得られた、
過去の「私」の情報のすべてが、
そこにあったのである。
………………………

そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない無数の洞察を、閃光のように得ているのであった。この時即座に言語化され、理解されたわけではなかったが、この風景の奥から直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのである。
その内容をポイントごとに切り分けると、以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で言語化され、整理されたものである。

………………………」

 

(つづく)


※「クンダリニー的体験」事例です。
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』
「第四章 蛇の火のエネルギーについて」より

「……………………………………

◆白光

「…」

「……」

「…………」

「やって来る」

「やって来る」

「やって来る」

「噴出の」

「来襲の」

「白色の」

「閃光」

「ロケット噴射のよう」

「凄まじい速度で」

「白熱し」

「貫く」

「未知の」

「まばゆさ」

…………………………………………
……………………………
………………………

「凄まじい閃光が」

「一瞬に」

「走破する」

「宇宙的な」

「超自然の」

「火柱のよう」

「巨大な」

「白の」

「延焼」

……………………………
………………………
………………

「霊肉を」

「物心を」

「昼夜を」

「透過し」

「貫き」

「蹂躙する」

「急襲する」

「未知の」

「謎の」

「まぶしい」

「獰猛」

「存在の」

「芯を」

「焼きはらい」

「彗星のよう」

「彼方へ」

「拉し去る」

「まばゆさの」

「弾道」

「けばだつよう」

「遥かに」

「恍惚する」

「白の」

「君臨」

………………
……………
…………
………

「熱エネルギーの」

「光輝のよう」

「暑い」

「残照」

「火の」

「余燼」

「物質の芯を」

「熔かすよう」

「膨満する」

「核の」

「まぶしさ」

「放射能の」

「ちりちりと」

「熱い」

「臨在」

「白痴のよう」

「飽和し」

「実在の向こうに」

「熔けるよう」

「惚けていく」

……………………………
………………………
………………
…………

◆未知のエネルギー

それは、一種のエネルギー的体験であり、ヨーガでクンダリニー体験と呼ばれるものに分類される体験であった。尾骶骨あたりにつながるどこかの亜空間からか、物質と精神を透過する、凄まじくまばゆいエネルギーが噴出して来たのである。謎めいた、稲妻のような白色のエネルギーである。それが肉体と意識を透きとおし、未知の宇宙的状態をもたらす、ある種の極限意識的・変性意識的な様相を呈したのである。
後になって思い返してみると、たしかに予兆となる現象はいくつかあった。しかし、このような事態につながるとは予期していなかったのである。そして、体験直後のしばらくは、放射能に焼かれたかのように、奇妙な熱感が心身にこびりつき、とれない状態だったのである。そこには何か物質と意識の両域をひとつにまたぐような、変性意識的で、微細なエネルギーの余燼があったのである。
しかし、実際は、この体験がより怖ろしい影響を持ちだしたのは、この体験より後の、長い歳月を通してであった。その影響とは、日々の生活の中で、間歇的に訪れてくる奇妙なエネルギーの浸潤とも呼べる体験であった。ゴーピ・クリシュナの著作にあるような、苦痛きわまる、困難な体験だったのである。

………………………………
……………………………
……………………

「どこからか」
「実在の向こう」
「彼方の亜空間」
「からか」
「やってくる」
「漆黒の」
「放射能のよう」
「冷たい」
「高熱」

「洩れ射す」
「影の」
「光子たち」
「骨に滲みこみ」
「割いてくる」
「胆汁のよう」
「にがい荒廃」

「悪寒のよう」
「虚脱し」
「神経を」
「蝕み」
「焼いてくる」
「まばゆい痛さ」

「神経の」
「銀箔を」
「喰いちぎり」
「熔かしてくる」
「白い日蝕」
「痛苦の痺れ」

「冥府の」
「漆黒の昏睡に」
「意識を」
「熔かすよう」
「虚空の」
「まぶしさ」

…………………………
……………………
………………
………

「そこでは」
「眠りの」
「最奥でさえ」
「燦然とかがやく」
「蝕の太陽」

……………………
………………
…………

「神経的な減耗に」
「筋無力的な陥落に」
「痛苦と陶然」
「骨と神経が」
「焦げつき」
「熔け落ちるよう」
「灰燼になる」

「恍惚と覚醒」
「天国と地獄が」
「ひとつである」
「冥府の」
「薄くらがり」

「遥か」
「底の方では」
「汀をなし」
「透過してくる」
「半睡の滴」
「銀紙の」
「破れたよう味わいに」
「漏れだす」
「真白い蝕の」
「裸の舌」

……………………………
…………………………
……………………

その状態が訪れると、肉体の芯に力が入らなくなり、筋無力症的に脱力していった。神経を焼かれるような痛さと、硬直的な痺れが現れ、主体的な意志の行使や、集中した行為が難しくなる。意欲が萎え、減耗していくのである。滲みてくるエネルギーによって、神経が、白銀的な苦痛に苛まれる中、(脳は光量に麻痺し)時をやり過ごすしかなくなった。意識の背後が、あたかも口を開けたかのように空間を開き、光が照射され、とらえがたい極微な情報が行き来する。そして、苦痛でまばゆいエネルギーに透過される中、それらの謎を凝視しつつも、地衣類のように、その宇宙的発熱に耐えるしかないのである。いくらかでも状態を統御する手がかりを得ようと奮闘するも、崩れるよう徒労を繰り返すばかりである。浸潤する苦いエクスタシィに抗しつつ、注視を凝らすしか為すすべがなかったのである。
そして、これらの格闘に、長い歳月を費やしたのである。喩えると、業火に焼かれるような体験であり、そのプロセスは、一種の「地獄降り」「黄泉の国の彷徨」の様相を呈したのである。

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(つづく)


※「聖地体験/パワースポット的体験」の事例です。
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』
「大地の共振」より

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その人が、お祈りをしたあとに、

何気なく、その磐座に手をひろげると、
ブーンと、うなりをあげるように、
不思議な、波動のような、強い未知のエネルギーがやって来たのである。
エネルギーが、流れ込んで来たのである。
痺れるように、身体に浸透してきたのである。
さきに遠くで感じた熱感はこれだったのである。

共振する感じというべきだろうか。
磁気的な浸透というべきだろうか。
存在を透過するように、
心地よい、深く痺れるような、強烈な振動性のエネルギーに、
身体が浸されたのである。
包まれたのである。

それは、今まで経験したこともなければ、想像することもできないような、微細で、強烈な、浸透性ある振動エネルギーであった。また、それは、どこか奥行きや、巨大な力強さを感じさせるものでもあった。その力は、どこから来ていたのだろうか。磐座自体から来るというよりも、その磐座の下の大地そのものから、帯電した力として現れてきているように感じられた。
磁石のN極とN極を近づけると、反発する見えない力の存在をはっきり感じ取れるものである。そのエネルギーの力もまた、同じようにはっきりと感じとれるものであった。また、その力は、心地よい透過をもたらすものであると同時に、どこか神秘と畏怖の念を惹き起こすものでもあった。
しかし、一番手前にあった感覚は、透過してくるエネルギーの恍惚的な触感であった。また、謎と驚きの感覚であった。不思議な力の質性に加えて、このような奇妙な出来事が、実際に起こっていること自体にも驚いていたのである。そして、ただ、茫然として、その力を感じとり、その質性の謎をより知ろう、感じ尽くそうという気持ち以外に、あまり意図が働かなかったのである。」

(つづく)

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LSDセッションでのサイケデリック体験談です

「次の例は、琥珀、水晶、ダイヤモンドと次々に同一化した人物の報告だが、無機的な世界を巻きこむ体験の性質と複雑さをよく示している。(中略)

 それから体験は変化しはじめ、私の視覚環境がどんどん透明になっていった。自分自身を琥珀として体験するかわりに、水晶に関連した意識状態につながっているという感じがした。それは大変力強い状態で、なぜか自然のいくつかの根源的な力を凝縮したような状態に思われた。一瞬にして私は、水晶がなぜシャーマニズムのパワー・オブジェクトとして土着的な文化で重要な役割を果たすのか、そしてシャーマンがなぜ水晶を凝固した光と考えるのか、理解した。(中略)
 私の意識状態は別の浄化のプロセスを経、完全に汚れのない光輝となった。それがダイヤモンドの意識であることを私は認識した。ダイヤモンドは化学的に純粋な炭素であり、われわれが知るすべての生命がそれに基づいている元素であることに気づいた。ダイヤモンドがものすごい高温、高圧で作られることは、意味深長で注目に値することだと思われた。ダイヤモンドがどういうわけか最高の宇宙コンピュータのように、完全に純粋で、凝縮された、抽象的な形で、自然と生命に関する全情報を含み込んでいるという非常に抗しがたい感覚を覚えた。
 ダイヤモンドの他のすべての物質的特性、たとえば、美しさ、透明性、光沢、永遠性、不変性、白光を驚くべき色彩のスペクトルに変える力などは、その形而上的な意味を指示しているように思われた。チベット仏教がヴァジュラヤーナ(金剛乗)と呼ばれる理由が分かったような気がした(ヴァジュラは「金剛」ないし「雷光」を意味し、ヤーナは「乗物」を意味する)。この究極的な宇宙的エクスタシーの状態は、「金剛の意識」としか表現しようがなかった。時間と空間を超越した純粋意識としての宇宙の創造的な知性とエネルギーのすべてがここに存在しているように思われた。それは完全に抽象的であったが、あらゆる創造の形態を包含していた」 ※太字強調引用者

スタニスラフ・グロフ『深層からの回帰』菅靖彦他訳(青土社)


登山中に滑落して、斜面を落下していく中で、自然発生的に体験された「フロー体験」の事例です。

「その下降中に“何か”が起こったのだ。それからずっと、そう、今日に至るまで、そのとき一体何が起きたのか、僕は考え続けている。しかし、これほど不可解で強力なインパクトはそれまでになかったものだった。
 気がつくと僕は普通では到底不可能なことを、いとも簡単にやりのけていた。ネバの絶望的に垂直な壁を降りながら、いくつもの、いや何十もの不可能事をやってのけていたのである。それもひどい怪我と、ショック状態の中での話だ。僕は恰もヒョウやヤギのように、非のうちどころない、しっかりとした足どりで下降(クライム・ダウン)していた。崩れかかった岩の急斜面に手足をかけると、その都度、岩が崩れ落ちるほどの場所だ。それはダンスだった。ワン・テンポ遅れると命取りになるダンス……花崗岩についた薄氷に指をかけて体を支える。氷は音をたてて砕けるが、そのときにはもう、僕の体は先に進んでいる、という具合だった。(中略)
 次は垂直に切り立った岩壁だ。手足の手がかり(スタンス)となるところはどこにもなかった。高度差は四~五メートル。僕はけし粒ほどの花崗岩にしがみついて――ありえないことのようだが、僕は本当にそうしたのだ――下降し、氷の消えた岩棚(レッジ)に立った。これは戸棚に入って、散弾銃の弾丸を避けるようなものだ。重力に抗い、アクロバチックな動作を繰り返しながら下降したのだった。
 (中略)僕は自分の限界を知っていた。この下降は、僕の技量的限界を遥かに上まわっていたのだ。心のある部分は恐怖と疲労に震え、助けを求めて叫んでいた。この荒涼とした岩場から、どこでもいいから他所へ連れて行ってくれと叫んでいたのだ。だが別の部分は反対に、自信に溢れ、気狂いじみた喜びに充たされて、動物的な生存のためのダンスを大いに楽しんでいたのである。(中略)
そのときの僕なら三〇歩離れたところから、松の葉で蚊の目を射抜くことさえ絶対できたはずであると、今も確信している」

ロブ・シュルタイス『極限への旅』近藤純夫訳(日本教文社) ※太字強調引用者


→詳細紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』

↓動画解説 変性意識状態(ASC)とは何か その可能性と効果の実際