在りてあれ!

さて、
真冬の寒い日々の中にあってさえ、
たまに気温の高い日があると、
すぐに羽虫などが涌いて来るものです。

また、すぐに寒くなって、
どうせ死んでしまうのに、
なぜ、そんなに慌てて、
すぐに生まれて来ようとするのか。

少し痛々しく、
また虚しい気がします。

そして、
ふと思うのです。

これらの命は、
何かをする Doingためではなく、
ただ在る Beingこと自体のために、
生まれて来ようとしているのではないか、と。

実は、
ただ在る Beingこと自体が、
大したことであるからなのかもしれない、
とも、思うのです。

そのため、
宇宙の生命たちは、
わずかなスキマを見つけては、
ただ「在る」ことだけのために、
狭い場所に殺到するかのように、
この世に生まれて来ようとするのだと…

さて、ところで、
人は、歳を重ねて来ると、
かつて、ともに道を探求した仲間たちに
すでに亡くなってしまった者たちが、
だんだんと増えて来ます。

日々の中では、
そのように早世した誰彼を、
ふとした機会に、
思い出したりもします。

慌ただしくも、
あっけなく去っていった、
そのような友人たちを…

そして、
少し信じられない気もします。

自分は、
今も、
この現実の中で、
こんな風に感じながら、
道を探している。

しかし、
彼、彼女らが、
この現実を、
もう経験していないとは、
いったいどういうことなのだろうかと。

若い頃、あんなに熱っぽく、
探求とその未来について語り明かしたのに、
(光景が昨日のように思い出されます)
その彼らが、
今はもう探求していないとは、
どういうことなのだろうかと。

自分が、探求の末に、
ようやく小さな突破口、
真の人生の秘密、
スタート地点に到達したと思ったら、
その時に、彼らは、
既にこの人生を終わらせ、
完結させてしまっていたとは、
どういうことなのだろうかと。

彼らは、この探求の結論を、
人生で、少しでも、
得ることができたのだろうかと…

そして、
不思議な気がします。

自分の経験しているこの時間と、
彼らの何も経験していない時間

もう何も経験していないとは、
どういう状態なのであろうか。

そして、
つくづく思います。

この「糞のように」くだらない、
現実(世界)でさえ、
彼らはもう何も経験していないのだと…

そして、
そのことを思うと、
この「薄絹」のような、
在る Beingについて、
まざまざと、
気づかされるのです。

自分のこの現実が、
一瞬ののちまで、
存続していく保証など、
どこにも無いのだと。

(彼、彼女らだって、
そんなにも早く、
自らの生が終わるとは、
信じられなかったでしょう)

そして、
思うのです。

この薄氷のような、
現実の上を、
(彼らの分までも)
綱渡りをするように、
凝視するかのように、
仔細漏らさずに、
生きるべきではないか、と。

今にも終わってしまうかもしれない、
この存在を、
そんな風に色濃く味わいながら、
瞬間瞬間を、
生の意味を、
結晶させていくべきではないか、と。

「在りてあれ」

どこからか、
そんな声を、
聞くような思いがするのです。


【ブックガイド】

ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。

気づきや変容、変性意識状態(ASC)を含むより総合的な方法論については、
拙著
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』

および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。