「気づかないこと」の選択 マインドフルネスの光明その3

さて、気づき awareness やマインドフルネスの効果や効能については、当サイトや拙著の中でも色々と解説を加えています。
→拙著『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
→拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』

今回は、逆に「気づかないこと」とはどういうことなのかについて、少し考えてみたいと思います。

実は、「気づかない」ということも、私たちの心の深層で「選択している」事態であるといえるからです。
今回は、ウィル・シュッツ Will Schutz 博士の言葉をもとにそのあたりを色々と見ていきたいと思います。

ウィル・シュッツ博士は60年代にエサレン研究所などで、エンカウンター・グループを主導した人物として知られています。
別に取り上げたジョン・C・リリー博士の『意識(サイクロン)の中心』(平河出版社)においても、フリッツ・パールズやアイダ・ロルフなどともに、彼の姿が描かれています。
「聖霊」の階層、あるいはメタ・プログラマー ジョン・C・リリーの冒険から

今回取り上げる彼の本『すべてはあなたが選択している』(池田絵実訳、翔泳社)は、60年代の狂騒が去った後の70年代末の本ですが、その時点での彼の考えが、色々とまとめられています。
ここに見られる、気づきや選択、自己責任の考え方は、幅広くある種のコーチングやセラピーなどに共通してみられる視点ともいえるものです。

ここで、彼は、気づくこと自体が、私たちのうちで、(操作的に)選択されない様子を描いています。

「私たちは必ずしも、いつも気づいて選択しているとは限らない。正直にいうと、ときと場合により、自分で選んでいるということを、自分に知らせていないことがある。例えば、幼いときに、他のみんなが自分のことを馬鹿にしているような気がすると、(根本的には自分が自分のことを無能と思っているのだが)その気持ちに気づくことは苦痛を伴うので、無意識のうちにこれに気づかないことを選んでいる可能性がある。こうして私は自分が馬鹿であるという気持ちを押し殺してしまうのである」(前掲書)


そして、最初の、この「気づかないことの選択」や、「気づくことの回避」は、次から次へ「気づかないことの選択」につながっていきます。そして、それが、問題行動になったりもするのです。

「自分が馬鹿であるという気持ちに直面しないですむようにとる行動はいろいろ考えられるが、極端に競争的な態度はそのひとつかもしれない。競争相手が自分より劣っていることを証明するためには、不正行為さえ辞さない。しかしずるをしたということに自分で気づくと、ますます自分が嫌になるので、そのことにも気づかないようにしてしまう。つまりずるという行為を選びつつも、そのことに気づかないことを選択しているのである。さらに、ずるをしたことで罪悪感を感じながらも、その罪悪感を気づかないようにすることも考えられる。この罪悪感があるために、無意識のうちに他の人に簡単に見破られるようなずるをし、自分に代わってその人に不正を見破ってもらい、自分を罰してもらうことによって罪悪感を消化しようとする場合もある。そういうとき私は無意識のうちに自分が捕まるような状況をつくっておきながら、つかまえた人たちに対して激怒したりするのだ」(前掲書)


このような「気づかないことの選択」「気づきの回避」の連鎖は、比較的よく見られる事例と思われます。
個人の生活の中でも、気づかないようにすることで、その問題を回避することができるからです。
会社組織などにおいては、この気づきの回避が非常によく見られます。「誰か、気づいた人が、直してくれると思った」という場合、実は、多くの人が心の底では気づいている事柄です。
実際は、それに気づいて表沙汰にすると、自分がその対処をしなければならないので、無意識理に気づきを回避し、抑圧しているだけなのです。

シュッツ博士は語ります。

「選択のうちいくつかについては自分で気づいているし、いくつかについては
気づかないことを選んでいる。私は自分が対処したくない感情、受け入れたくない考えについては気づかないことを選んでおり、またそれに関連していたりしていない普通の出来事のつながりについても気づかないことを選んでいる可能性がある。この考え方によれば、一般的に無意識と言われるものが何を指すのかも、少し分かりやすくなるように思える。私は自分の無意識も選んでいる。つまり私が無意識でいる事柄は、私がそれに気づかないことを選んだからこそ意識下に閉じ込められているのだ」(前掲書)


このような、「気づかないことの選択」「気づきの回避」は、私たちの心の底にストレスと疲れを溜めていきます。
一方では、本当は気づいている存在があり、一方では、それを抑圧するものがあり、そこに葛藤が生じているからです。
その事態は、私たちを、ストレスに押しつぶされた受動的な存在にし、無力な存在にしていきます。
一方、このようなスタンスに抗して、ウィル・シュッツ博士は、真逆の、選択と気づきのあり様を推奨します。その公式は―

「私は自分の人生における全てを選択しているし、これまでもずっとそうしてきた。私は自分の行動、感情、考え、病気、身体、反応、衝動、死を選んでいる。」(前掲書)


「気づかないことの選択」さえも、自分の選択のうちにあるということです。
「気づかないことの選択」も、自己の責任のうちにあるとするということです。
そして、「気づかないことの選択」さえも、選択の中に数え入れて、引き受けていこうという、ある種の実存的な態度です。
このように自分の人生を引き受け、感じてみるといかがでしょうか。
私たちがしばしば落ちいりがちな受動的な存在としての、被害者的な惰性的な自己の姿が逆照射されてくると思われます。

シュッツ博士自身、いつもいつも自分のこの信条を受け入れられるわけではないと正直に告白するように、これはある種の極端な視点であり選択です。
しかし、このような自己責任的なスタンスを持つことで、私たちの人生の風景は手づかみできるような、ずっと新鮮なものに変わっていくのです。
シュッツ博士も指摘するように、このような実存と選択の感覚は、60年代にあった、ある種の思潮でもあったわけです。

博士は、同時代にあった彼らの言葉を実際いくつか引いています。

例えば、アリカ研究所の、

あなたの成長に責任があるのはあなた自身だけである」(前掲書)

また、エストのワーナー・エアハードの、

「あなたはあなたの宇宙における神である。あなたが全ての始まりである。これまで自分が全ての始まりでないというふりをしてきたのは、そうすればそこにプレイヤーの一員として参加できたからにすぎない。だから望みさえすればいつでも、全ては自分から始まっているということを思い出せるはずだ」(前掲書)

ヴィルヘルム・ライヒの、

あなたの解放者となれるのは、あなた自身だけである」(前掲書)

フリッツ・パールズの、

「ほとんどの場合、人生の中で起こっている様々な出来事が存在し続けるかどうかを決めているのは、自分自身である。」(前掲書)

などなどです。

さてもう一度さきの博士の言葉を見てみましょう。

「私は自分の人生における全てを選択しているし、これまでもずっとそうしてきた。私は自分の行動、感情、考え、病気、身体、反応、衝動、死を選んでいる。」(前掲書)


このように、自分の選択こそが、自分の人生を、今も形づくっている最たるものであると決めてみるとどうでしょうか。
主体を刷新するような覚醒感 awakeness が得られると思います。
心の底では、私たちはこのような事態を理解しているからです。
また、気づきawarenessやマインドフルネスについても、漠然とした雰囲気としてではなく、冒険的な人生の中、今ここの中で瞬間瞬間この生活の姿を決断的に選択している鋭い眼差しであると感じとれるようにもなっていくのです。

そのような意味において、シュッツ博士の選択の考え方は、私たちの気づき awarenessやマインドフルネスに、ヒントをもたらしてくれるものとなっているのです。

 

【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については、基礎から実践までをまとめた拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧下さい。
気づきや統合、変性意識状態(ASC)へのより総合的な方法論は拙著↓
入門ガイド
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。

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