グルジェフの自己想起 self-remembering の効能

さて、別のセクションで、世間一般や心理療法の現場で漠然と語られ、実際はあまり理解されていない「気づき awareness 」という心理状態(メタ機能)を、構造的に理解するために、G・I・グルジェフの語った「自己想起 self-remembering 」という自覚の実践技法をさまざまに見てみました。
気づき awareness と自己想起 self-remembering の関係

それは、「マインドフルネス」がさまざまな分野で語られるようになってきた昨今、特に重要なテーマと考えられたからです。そこでは、変性意識状態(ASC)の研究で有名なチャールズ・タート博士の著書『覚醒のメカニズム』(吉田豊訳、コスモスライブラリー)を素材に色々と検討してみました。

今回は、グルジェフの弟子としても著名なウスペンスキーの著書『奇蹟を求めて』(浅井雅志訳、平河出版社)から、グルジェフの言葉やウスペンスキーの洞察を取り上げ、自己想起 self-remembering の大きな潜在力(可能性)について考えてみたいと思います。

ところで、実際に「自己想起 self-remembering 」に少しでも取り組むと分かるように、自己想起は、非常に困難な状態であると同時に、極めて重要な(深遠な)実践であり、人生を決定的に違う光りのもとに照らし出すものとなることがわかります。
それは、現在の人類が、ほとんど実践したことのないような、「新しい意識の使い方」「意識の別種の使い方」だからです。
学校教育や社会一般ではもちろんのこと、宗教的修行(実践)においても、あまり聞いたことがないような実践だからです。

さきのタート博士は語ります。

「ウスペンスキーの『奇蹟を求めて』を読んだ結果、私が初めて自己想起を実践した時、これは自分が必要としている何かきわめて重要なことだとすぐにわかった。」(前掲書)

また、ウスペンスキーも語ります。

「G(グルジェフ)の言ったこと、私自身が考えたこと、また特に自己想起の試みが私に示したことすべてから、私はこれまで科学も哲学も出合ったことのない全く新しい問題に直面しているのだということを間もなく納得したのである。」(前掲書)

ウスペンスキーの言葉は、すでに100年前のものですが、この間、人類はまったく進化していないので、事態はまったく変わっていないのです。
「これまで科学も哲学も出合ったことのない全く新しい問題に直面している」と、タート博士は語りましたが、「自己想起」について、もし、その深遠な意味に少しでも気づけると、その薄気味悪い事態から、決してこの言葉が誇張でもない表現だと気づくことができるのです。
実に、この「自己想起」の外側に、丸々「人類そのものがいる」という恐ろしい事態に気づいてしまうのです。
もし、人類が、生物種や意識体として、地球(宇宙)の中で、この先に進化していくとするならば、この「能力」を欠かすことはできないだろう中継点として予感されるのです。

グルジェフは語ります。

「人生全体、人間存在全体、人間の盲目性全体はこれに基づいているのだ。人が自分は自分を想起することができないということを本当に知れば、彼はそれだけで彼の存在(ビーイング)の理解に近づいているのだ。」(前掲書)

ところで、筆者自身は、拙著『砂絵Ⅰ』の中でも書いたように、ひょんな偶然から、個人的に「自分の自意識を外側から見る(見させられる)」という変性意識体験(ライフ・レビュー体験)をもったことにより、自らのこの日常意識の「無明性(眠り)」を突きつけられた(痛感させられた)結果、この自己想起の重要性に気づかされたという経緯があります。
→内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』

 

◆自己想起の実態

さて、この自己想起 self-remembering ですが、ウスペンスキーの本の中では、弟子たちが自己観察の宿題に対してさまざまな回答する中で、グルジェフが語ったことの中に出てきます。

「誰も私が指摘した最も重要なことに気づいていない。つまり、誰一人、君たちは自分を想起 remember yourselvesしていないということに気づいていないのだ〔彼はここの部分を特に強調した〕。君たちは自分を感じて feel yourselves いない。自分を意識 conscious of yourselves していないのだ。君たちの中では、〈それ it が話し〉〈それ it が考え〉〈それ it が笑う〉のと同様、〈それ it が観察する〉のだ。君たちは、私 I が観察し、私 I が気づき、私 I が見るとは感じていない。すべてはいまだに、〈気づかれ〉〈見られ〉ている。……自己を本当に観察するためには何よりもまず自分を想起しなければならない。〔彼は再びこの語を強調した〕。自己を観察するとき自分を想起 remember yourselves しようとしてみなさい。」(前掲書) ※原語補足

自己想起 self-remembering は、普通に、現代文明で生活する中では、決して教わることのない、独特な意識の働かせ方なのです。

自己観察の宿題を指示する中で、グルジェフは、私たちが自分自身だと思い、自分たちの自明の道具(特性)だと思っているこの「意識」は、決して確固として、いつもここに在るわけではない、私たちの存在を満たしているわけではないと指摘していたのです。
私たちの「意識」は、未熟であり、大して機能していず、決して十全なそれではない。私たちが「意識」をちゃんと持っている時は非常に少ない。大体は、夢遊病者のように自動運動しているだけ。それらの事態を観察するようにと示唆したのでした。そして、その厳然たる事実を知る機会を、自己想起への取り組み自体が与えてくれるということでもあるのでした。

「私の言っているのは、意識が再び戻って来たとき初めて、それが長い間不在だったことに気づき、それが消え去った瞬間と再び現れた瞬間を見つけるか、あるいは思い出すことができるということだ。」(前掲書)

「自分の中で、意識の出現と消滅を観察すれば、君は必然的に、現時点では、見もせず認識もしていない一つの事実を見ることになるだろう。その事実というのは、意識を持っている瞬間というものは非常に短く、またそれらの瞬間瞬間は、機械の完全に無意識的かつ機械的な働きの長いインターヴァルによって隔てられているということだ。」(前掲書)

そして、ウスペンスキーは、実際に、自己想起をトライした印象を次のように語ります。

「自分自身を想起すること、あるいは自分を意識していること、自分に、私は歩いている、私はしているといいきかせること、そしてとぎとれることなくこの私を感じ続けること、こういった試みは思考を停止させるというのが私の最初の印象である。私が私を感じていたとき、私は考えることも話すこともできず、感覚さえ鈍くなった。それにまたこの方法では、ほんのわずかの間しか自分を想起することはできなかった。」(前掲書)

そして、ウスペンスキーは、なんとか見出した定義として、次のように語ります。

「私は、自己想起 self-remembering の特徴的な点である、注意の分割ということを話しているのである。私は自分にそれを次のような方法で説明した。何かを観察するとき私の注意は観察するものに向けられる。これは片方だけに矢印が向いている線で示される。

 私―→観察されている現象

私が同時に自己を想起しようとすると、私の注意は観察されているものと私自身の両方に向けられる。第二の矢印が線に現われる。

 私←→観察されている現象

このことを明確にしたとき、問題は何か他のものに向ける注意を弱めたり消したりしないままで自分自身に注意を向けることにある、ということに気づいた。さらにこの〈何か他のもの〉は私の外部にあると同様、私の内部にもありうるのであった。」

「注意のそのような分割の最初の試みが私にその可能性を示してくれた。同時に私は二つのことにはっきり気づいた。」

「第一に、この方法がもたらす自己想起は〈自己を感じること self-feeling 〉や〈自己分析 self-analysis 〉とは何の共通点もないことがわかった。それは奇妙に親しい趣のある新しくて興味ある状態だった。」

「第二に、自己想起の瞬間は、まれにではあるが生活の中でたしかに起こることに気づいた。このような瞬間を慎重に生みだすことによってのみ新しさの感覚を生むことができるのである。(中略)私は、自分の人生の一番古い記憶―私の場合は非常に幼少時のものであった―は自己想起の瞬間 moments of self-remembering であったことがはっきりわかった。このことに気づくと他の多くのことがはっきりしてきた。つまり私は、自分を想起した過去の瞬間だけを本当に覚えているということがわかったのである。他のものについては、それらが起こったということだけしか知らない。私にはそれらを完全によみがえらせrevive、再びそれらを経験することはできない。しかし自己を想起した瞬間は生きて alive おり、またいかなる意味でも現在 present と違っていなかった。」

「私はまだ結論に至ることを恐れていた。しかし、すでに自分がおそろしく大きな発見の敷居の上に立っていることに気づいていた。」(前掲書) ※原語補足

そして、

「これらはすべて最初の頃の認識であった。後になって注意を分割することができるようになったとき、自己想起は、自然な形で、つまりおのずから、非常にまれな、例外的な状況でしか現れないようなすばらしい感覚を生み出すことがわかった。」(前掲書)

自己想起の能力は、訓練によって成長、変容していくものです。
ところで、筆者自身も、人生の最初期の記憶は、自己想起 self-remembering と思しきものでした。それは一人で公園の砂場で遊んでいる時のもので、その状況はまったく覚えていませんが、何かを求めて注意を視界のない(遠くの)どこかに向けている時のものでした。そして、これが今も記憶として残っている理由は、風景の内容のせいではなく「遠くに注意を向けている自分の存在」というものを強烈に感じとっていたためであったのでした。

さて、以前の記事にも引いた、タート博士の言葉を再び見てみましょう。

「人々が『感じること、見ること、聞くこと』を初めて試みる時、彼らは、しばしば、ある種の微妙な透明さ―その瞬間の現実により敏感で、より存在しているという感じ―を体験する。それは、合意的意識では味わうことができず、また、事実、言葉では適切に述べることができない、そういう種類の透明さである。たとえば私は、それを『透明さと呼ぶことにさえ自分がいささかためらいを感じているのに気づく。と言うのは、その言葉は(あるいは、それに関するかぎりでは、いかなる特定の言葉も)それ(透明さ)が安定した、変わらない体験であることを含意しているからである。それはそうではない―バリエーションがある―のだが、しかしそのことは、あなたがこの種の自己想起を実践すれば、自分で発見するであろう。」(前掲書)


さて、ところで、ゲシュタルト療法では、「気づきの連続体 awareness continuum 」といって、刻々の自己の状態に、気づいて awareness いくことを重要な実践として行なっていきます。
エクササイズもありますが、エクササイズ自体は、あくまでもイメージをつかむためのものでその本義は、日々の暮らしの中で、これをいつも行なっていくことにあります。アウェアネス awareness を高めるということにあります。
気づきの3つの領域 マインドフルネス エクササイズ

この気づきの連続的な実践は、きちんと深めていくと成長していくものであり、やはり「透明さ」「その瞬間の現実により敏感で、より存在しているという感じ」に近づいていくものであります。そして、それはセッション(ワーク)自体の効果を深く的確にする同時に、日常レベルでの意識の統合感を進めていくものであるのです。

しかし、この気づき、アウェアネスの実践が、本来どのような事態であるのかということについて、曖昧になっている部分が多いのです。
自己想起 self-remembering は、そんな「気づき awareness の実践(連続体)」が本来どのようなものであるのかを思い出すのに、大変助けになるものなのです。


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)へのより総合的な方法論は拙著↓
入門ガイド
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。

↓気づきと変性意識の入門ガイドはコチラ。動画解説「気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス」