俗に、底打ち体験、底つき体験などと言われている体験があります。
人が、長い期間に渡り、心の落ち込みや鬱から逃れられずに、先の見えない魂の暗夜を悶々と過ごした果てに、ふとなぜか、下降の底に行き当たってしまうような体験です。
底なしだと思っていた状態に、底があったわけです。
明けない夜が、明けたわけです。
心の下降を行ききった果てに底を打ち、魂の奥底から、何かが浮上していたことに気づくわけです…
さて、そのような経験は、このような言葉が一般の言葉にあることから考えても、人々の人生経験の中で類型的に存在していることがうかがえるものです。
拙著『砂絵Ⅰ』の中では、心理療法などに見られる、人の心の変容過程について、3つのフェーズに分けて解説しました。
→拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
また、それらの変容形態が、神話その他の文化的な事象にも、普遍的に見られることについて触れました。
そのモデルの中では、底打ち体験、底つき体験というものは、魂の暗夜であるフェーズ2を抜けた後の、フェーズ3のはじまりに位置しています。
その転回点が底打ち体験なのです。
あるプロセスが終了したことで、次のプロセスがはじまったのです。
そこで、私たちは旅路の果てに、自らの心の底のひそかで不思議な重層性に気づくことになります。
心を熔かすような暗いプロセスの果てに、厚みのある力や精神の内実が、自分の心の底に育っていたことに気づくのです。
運命が、その労苦の意味を明かして来るのです。これまでの長い間の苦労が救われるのです…
その苦難の意味が分かるのです…
さて、ここに一枚のレコードがあります。
昔は、「アシッド・フォーク」などに分類されていたものですが、デイヴ・ビクスビー Dave Bixbyが1969年に録音し、1,000枚ばかりプレスしたものです。
アシッド・フォークの作品の多くがそうであるように、その後、一部の人々の間で話題となり、徐々に知られるところとなったものです。
その歌の数々は、ビクスビーがドラッグ中毒から抜け出ることを通して感じた恩寵が、赤裸々かつ清冽に歌われたものとなっています。
そして、実際のところ、この作品におけるほど、暗黒の中から抜け出た時の黎明の感覚を、見事に造形した作品も他にないといっていいのです。
その白い夜明けを、その「はじめての朝」の感覚を、奇蹟的に描けた作品となっているのです。
それは才能ばかりでなく、ビクスビー自身が、心の切実さ(切迫)から、その経験の意味を結晶させることを強く願ったからでしょう。
ところで、私たちは、さまざまな心の変容過程をくぐり抜けても、時と共に、雑事にまみれる中で、その心の「決定的光景」をしばしば風化させてしまいます。
ビクスビーの歌には、そのような私たちの心の鈍麻を、鉱石のように磨き、輝かし、かつての白い夜明けを思い出させる、どこか凛冽で不思議な力があるのです。
【関連記事】
→「彼方的ロック/ポップス」名盤10選
【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)や、意識変容、超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。