弟子に準備ができた時、 師が現れる

「弟子に準備ができた時、師が現れる」という言葉があります。

この不思議な共時性は、現場レベルでは、実際に働いている実感があります。
ただ、もう少し普通のレベルで、対人関係を、心理学的な投影関係の中でとらえてみても、このことは示唆の多いことでもあります。

というのも、人は、自己の心理的な成長(統合)とともに、自分の中に芽生えて来た、創造的な要素を、鏡に映すように、他者に投影するようになり、他人の優れた美質を見出しやすくなるからです。
人は、自分のレベルにあったものしか、他人や外界に見出すことができないのです。
つまりは、内面の成長とともに、他者の中に、「師」(本来の可能性な自己)を見出しやすくなるというわけです。 
もっとも、ここにも色々と「落とし穴」がありますので、注意していくことが必要です。

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ところで、私たちは、深層心理学の諸派が指摘するように、「複数の自我状態」というものを持っています。
そのため、成長していくと、それぞれの自我状態に呼応(対照)するような形で、外界の他者にその自我要素を投影 projection して、見出すことが起こってきます。
投影 projection しやすい自我状態とは、主には、自分が抑圧して、自分で無いものにしている自我状態です。
自分の嫌な部分だったり、また、認めたくない部分であったりします。
ただ、この認めたくない部分には、良い要素も、悪い要素もあります。
いずれにせよ、「自分(と思い込んでいる部分)/セルフ・イメージの自分」が認めたくない部分であるということです。
そのため、「影(シャドー)」と呼ばれたりしているのです。
その場合、私たちが「自分自身」と見なしている自我状態の方は、「仮面」となります。
この「仮面」と「影」の分裂が、通常の私たちの心理的状態です。
【図解】心の構造モデルと心理変容のポイント 見取り図

そして、私たちは人生の中で、自分の中にある「認めたくない部分」や「まだ端的に感じ取れていない部分」を他者の上に投影して、見出していくことになるのです。
そして、それらの他者との交流を通して、葛藤(モヤモヤ)を抱えたり、自分の中に同じ要素を感じたりしながら、自己の部分として明確化していくのです。

特に、「認めたくない自分のパワー(能力)」などは、そのようにして、だんだんの自分のパワー(能力)として気づき、自分のものにしていくというプロセスがあります。
多くの人は、自分自身のパワー(能力)を認めたくないという欲求(感情)を持っています。
自分自身のパワー(能力)を認めると、人生でやらなければならないことが多くなり、責任が発生し、大変だからです。
特に、「自分(と思い込んでいる部分)/セルフ・イメージの自分」は、それを億劫に、負担に感じます。
だから、「私なんかにそんなパワー(能力)などない」と思っている方が楽で、安全なのです。
余談ですが、よく世間では、「コンフォート・ゾーン」などと言って、「自分(と思い込んでいる部分)/セルフ・イメージの自分」の安全感や億劫さに焦点を当てて、それを乗り越えることを煽りがちです。しかし、それは方法論的にはあまり解決に結びつきません(というか、そんなことはほとんどできません)。その自我状態(セルフ・イメージ/仮面)が、億劫さを感じるのは、自然(当然)のことだからです。
重要な核心は、「認めたくない自分のパワー(能力)」が何なのか」「なぜ認めたくないのか」を実際に知っていくことなのです。

ところで、「認めたくない自分のパワー(能力)」をあくまで自分から切り離して、他者(師匠)に投影し続けていると、私たちは、自分を「無力化」します。
「素晴らしいのは他者」で、「私はダメな存在だ」という信念を強化・維持してしまうからです。
そのことで、「自分のパワー(能力)」を抑圧し続けることになってしまうからです。
ここが、注意しなければならない「落とし穴」となっているのです。

さて、いずれにしても、私たちは、成長の中で、「投影 projection 」を通して、人生のときどきに「師匠」を見出していくことになるのです。
それは、憧れだったり、目標だったり、さまざまなイメージ(心象)で、私たちの心の中に「位置」を占めます。
そして、それとの葛藤や奮闘努力を通して、成長していくことになるのです。
そして、そのような取り組みの果てに、成長の果てに、私たちはかつては、自分が目標とした「人」が、その人の「或る美質」が、自分の中にも育っていることを見出し、深い感慨を得ることになるのです。

たとえば、ヘルマン・ヘッセの小説『デミアン』は、タイトルどおり、魔霊( demon )のような不思議な友人をめぐる、ある青春の物語です。
フランスの重要な批評家(思想家)のモーリス・ブランショも、『来るべき書物』の中で指摘するように、この物語自体が、話り手の白昼夢であるような不思議な肌触りを持った小説です。文学史の中でも稀有な作品でしょう。
基本はリアリズム的な小説なのですが、起きてくる出来事も風景も、日常現実を超えるような、どこか夢幻的な光輝を帯びています。描かれる友人デミアンも、ただの人間というより、どこか得体のしれない、不気味かつ神秘的で、どこか天使と悪魔を足し合わせたような不思議に超人間的な存在なのです。それでいながら、デミアンは、私たちの心に強烈な造形を残す魅惑的な姿をしているのです。人間が、進化した存在であるかのような幻惑があるのです。
さて、その小説は、成長の後に、戦地で砲弾を浴びた(瀕死の)主人公が、かつての卓越した友人/師であった「デミアンのような自分の姿」を、自分の内側に見出すという印象的な場面で終わっています。
これは、上記で見たような事柄を考えると、納得的な結末だともいえるのです。
そして、そのようなことは、人生では実際にあることなのです。

 

【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
気づきや変容、変性意識状態(ASC)を含むより総合的な方法論については、
拙著
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。