さまざまな言葉・語録・参考ヒント〈第一集〉

このパートでは、人間の心(魂、存在)の理解や意識を拡大するスキル・方法論に関連した言葉を幅広く集めています。何かのヒントにしていただければと思います。第一集です。

グラハム 

 彼はいいやつで――そして、ヘロイン中毒だった。ビジョン・クエストのことをはじめて聞いたのは、元中毒者(ジャンキー)たちの治療コミュニティにいた頃である。最初から、彼は自分の力試しとして、大自然の力とともに、ひとりで過ごすことに、誰よりも熱意を示していた。カウンセラーたちも皆、それが彼にとって、有益だろうと口をそろえた。社交上は、彼はスターだった。活力に満ちた魅力的な男性で、気取らず、知性をもって話した。しかし、ひとたび、治療コニュニティの支援組織や友人たちと別れ、一人サン・ラファエロの街頭へ、昔のヤク仲間たちがひと嗅ぎやろうぜと待ち伏せ、彼も自分たちと同類なんだということをなんとか証明しようと手ぐすねひいているところに戻ったとき、彼がどうするか、誰にも分からなかった。
 だから、彼は、治療コミュニティの友達連中を伴って、ネバダ州トイヤベ山脈のリーズ川源流へと赴いた。カウンセラーのアルと看護婦のアンジェラ(必要に応じてメタドンを投与するため)も同行した。そこにいる間、彼は蛇がぬくもった岩にすり寄っていくように、山々になついた。アッパー・ソーミル・クリークの土手で拾ってきたミミズを持って、レインボウズ川とイースタン川で、自分の限界に挑戦した。柳の木のうろで寝た。小谷を登っては、矢じりを握って帰って来た。馬のように食べ、子羊のよう眠った。「これこそ、ぼくにぴったりの生活だ」と、彼は宣言し、カウボーイになるんだと話していた。彼が、治療コミュニティにおけるスターだとしたら、高地の荒れ野では、一輪の花だった。ビジョン・クエストから戻ってきたとき、彼はひとまわり大きくなっていた。自己を試し、自己を分析するいい時間を過ごしたのだった。晩夏の陽光は力強く、純粋だ。彼の肉体の不純物を焼き尽くした。断食は、内側から、彼を浄めた。彼は、川の近くに生えていた茂みから、野生のローズヒップを摘み、濃く甘やかなハーブティをいれた。その眼は澄んで、動物のそれのように機敏だったし、体は引き締まり、こんがりと焼けていた。とにかく、とんでもなくいい状態のようだった。
 その夜、分かち合いとおびただしいみやげ話のあと、彼はもう戻らないつもりだ、とみんなに告げた。都会にはもうなんの興味もない。ここにとどまって、場合によっては谷間の牧場かどこかで雇われてもいい。
 それから私たちは、帰ることについてじっくり語り合った。たき火は、芳しいジュニパーの香りを吸い込み、星々は忘却を誘う砂原の上をゆっくりと踊りながら横切っていく。帰ってモンスターに直面することへの恐怖こそ、本当のモンスターなのだ、というのが私たちの結論だった。
 翌朝、私たちは出発した。この時は、悲しかった。峡谷の斜面を登っていくとき、川は、緑色の蛇が柳の皮を脱いでいるかのようにキラキラときらめいていた。「ここで学んだことは決して忘れない」とグラハムは誓った。
 一ヵ月後、彼は治療コミュニティを卒業して、サン・ラファエロに戻り、パタルマで養鶏場の清掃の仕事について暮らし始めた。仕事場へはバスで通勤し、毎晩ぐったりと疲れて帰宅した。彼にヘロインの手ほどきをした昔のガールフレンドと、よりを戻した。でも、ヤクはやっていないよ、と私たちには話していた。
 私は二度ほど、彼の住まいに立ち寄った。窓がなく、部屋の片隅にテレビがあるだけの気が滅入るようなアパートだった。もう一方の隅には神殿ができていた――祭壇の絵の前に鹿の頭蓋骨――、一対の枝角、黒曜石の細片とビジョン・クエストの写真や記念の品を飾ったものである。彼はポイント・レヤやヨセミテへ行こうかと思う、とあいまいに話していたが、自分をすり減らしていくような今の生活に対する自己嫌悪にどっぷり漬かり、無力感にとらわれた様子だった。煙草をふかし続けていた。
 二ヶ月ほどして、彼のことが新聞に載った。ガールフレンドと一緒に、盗品と「量不明のヘロイン」所持で捕まったのだ。そして、刑務所に舞い戻った。スタート地点に戻ったわけだ。
 長い間、彼の消息は知れなかった。そして三年後、私たちは高速道路ですれ違った。彼は、古いけれどまともな小型トラックの荷台に道具箱をのせて走っていた。「やあ」とやや興奮した感じで声をかけてきた。「やあ!」と私も叫び返した。「どうしてる?」
 彼は窓から頭を突き出し、満面に笑みを浮かべてどなった。「足洗ったよ!」

S・フォスター&M・リトル 高橋裕子訳
『ビジョン・クエスト』(VOICE)

 

 道で迷う体験は、もっとも中身の濃い、豊かな体験です。なぜなら、自分にとって未知であった、未開発の自分の能力を発見・開発するチャンスだからです。ちなみに、最終的に大きな充実した人生に到達した人々は、例外なく、人生の迷い道の体験を持っています。それなしで大成した人はいません。

 内側へ注意を向け変える練習を続けてゆくと、ある時点で「気持ちがいい」という感じが変化することがあります。苦しみや悲しみを包み込んだ「気持ちがいい」に変わるというか進化(深化)した感じです。その気分は「気持ちがいい」という言葉よりも、「充実」とか「定まる」とか「自己肯定」とかの言葉がなじみます。その気分はまた、芯のところに興奮があり、それを、厚みのある静けさが包み込んでいるという感じでもあります。

神田橋 條治『精神科養生のコツ』
(岩崎学術出版社)

 

 彼らが行っているのは、“ 何もしない”ということです。そして、一つの瞬間から次の瞬間へと連なっていく、一つひとつの瞬間を自覚し、意識するために、一つひとつの瞬間に意欲的に集中しようとしているのです。つまり、彼らは、“ 注意を集中する”トレーニングをしているのです。別の言い方をすれば、彼らは自分が“ 存在すること”を学んでいるともいえます。彼らは、何かをすることによって時をすごすのではなく、意図的に何かをするのをやめ、“ 今”という瞬間の中で、自分を解放しようとしているのです。心に気がかりなことがあったとしても、体が何か不快感を感じていたとしても、その瞬間の中で、意図的に、心と体に安息を与えようとしているのです。“ 生きている”ということ、“ 存在している”ということの本質に踏み込もうとしているのです。彼らは、何かを変えようとするのではなく、ただ自分の置かれているありのままの状況と共にその瞬間を過ごそうとしているのです。

ジョン・カバットジン 春木豊訳
『マインドフルネスストレス低減法』
(北大路書房)

 

 これらの条件が存在する時、つまり目標が明確で、迅速なフィートバックがあり、そしてスキル〔技能〕とチャレンジ〔挑戦〕のバランスが取れたぎりぎりのところで活動している時、われわれの意識は変わり始める。そこでは、集中が焦点を結び、散漫さは消滅し、時の経過と自我の感覚を失う。その代わり、われわれは行動をコントロールできているという感覚を得、世界に全面的に一体化していると感じる。われわれは、この体験の特別な状態を「フロー」と呼ぶことにした。

 目標が明確で、フィートバックが適切で、チャレンジとスキルのバランスがとれている時、注意力は統制されていて、十分に使われている。心理的エネルギーに対する全体的な要求によって、フローにある人は完全に集中している意識には、考えや不適切な感情をあちこちに散らす余裕はない。自意識は消失するが、いつもより自分が強くなったように感じる。時間の感覚はゆがみ、何時間もがたった一分に感じられる。人の全存在が肉体と精神のすべての機能に伸ばし広げられる。することはなんでも、それ自体のためにする価値があるようになる。生きていることはそれ自体を正当化するものになる。肉体的、心理的エネルギーの調和した集中の中で、人生はついに非の打ち所のないものになる。

M.チクセントミハイ 大森弘監訳
『フロー体験入門』(世界思想社)

 

 その下降中に“何か”が起こったのだ。それからずっと、そう、今日に至るまで、そのとき一体何が起きたのか、僕は考え続けている。しかし、これほど不可解で強力なインパクトはそれまでになかったものだった。
 気がつくと僕は普通では到底不可能なことを、いとも簡単にやりのけていた。ネバの絶望的に垂直な壁を降りながら、いくつもの、いや何十もの不可能事をやってのけていたのである。それもひどい怪我と、ショック状態の中での話だ。僕は恰もヒョウやヤギのように、非のうちどころない、しっかりとした足どりで下降(クライム・ダウン)していた。崩れかかった岩の急斜面に手足をかけると、その都度、岩が崩れ落ちるほどの場所だ。それはダンスだった。ワン・テンポ遅れると命取りになるダンス……花崗岩についた薄氷に指をかけて体を支える。氷は音をたてて砕けるが、そのときにはもう、僕の体は先に進んでいる、という具合だった。(中略)
 次は垂直に切り立った岩壁だ。手足の手がかり(スタンス)となるところはどこにもなかった。高度差は四~五メートル。僕はけし粒ほどの花崗岩にしがみついて――ありえないことのようだが、僕は本当にそうしたのだ――下降し、氷の消えた岩棚(レッジ)に立った。これは戸棚に入って、散弾銃の弾丸を避けるようなものだ。重力に抗い、アクロバチックな動作を繰り返しながら下降したのだった。
 (中略)僕は自分の限界を知っていた。この下降は、僕の技量的限界を遥かに上まわっていたのだ。心のある部分は恐怖と疲労に震え、助けを求めて叫んでいた。この荒涼とした岩場から、どこでもいいから他所へ連れて行ってくれと叫んでいたのだ。だが別の部分は反対に、自信に溢れ、気狂いじみた喜びに充たされて、動物的な生存のためのダンスを大いに楽しんでいたのである。(中略)

 そのときの僕なら三〇歩離れたところから、松の葉で蚊の目を射抜くことさえ絶対できたはずであると、今も確信している。

ロブ・シュルタイス 近藤純夫訳
『極限への旅』日本教文社

 

 人々が「感じること、見ること、聞くこと」を初めて試みる時、彼らは、しばしば、ある種の微妙な透明さ――その瞬間の現実により敏感で、より存在しているという感じ――を体験する。それは、合意的意識では味わうことができず、また、事実、言葉では適切に述べることができない、そういう種類の透明さである。たとえば私は、それを『透明さ』と呼ぶことにさえ自分がいささかためらいを感じているのに気づく。と言うのは、その言葉は(あるいは、それに関するかぎりでは、いかなる特定の言葉も)それ(透明さ)が安定した、変わらない体験であることを含意しているからである。それはそうではない――バリエーションがある――のだが、しかしそのことは、あなたがこの種の自己想起を実践すれば、自分で発見するであろう。

チャールズ・タート 吉田豊訳
『覚醒のメカニズム』
(コスモス・ライブラリー)

 

グルジェフ
「誰も私が指摘した最も重要なことに気づいていない。つまり、誰一人、君たちは自分を想起 remember yourselvesしていないということに気づいていないのだ〔彼はここの部分を特に強調した〕。君たちは自分を感じて feel yourselvesいない。自分を意識 conscious of yourselvesしていないのだ。君たちの中では、〈それ it が話し〉〈それ it が考え〉〈それ it が笑う〉のと同様、〈それ it が観察する〉のだ。君たちは、私 I が観察し、私 I が気づき、私 I が見るとは感じていない。すべてはいまだに、〈気づかれ〉〈見られ〉ている。……自己を本当に観察するためには何よりもまず自分を想起しなければならない。〔彼は再びこの語を強調した〕。自己を観察するとき自分を想起 remember yourselvesしようとしてみなさい」

「人生全体、人間存在全体、人間の盲目性全体はこれに基づいているのだ。人が自分は自分を想起することができないということを本当に知れば、彼はそれだけで彼の存在(ビーイング)の理解に近づいているのだ」

「西洋文化の中の人々は、人間の知識のレベルには大きな価値を置くのに、存在のレベルには価値を認めず、自らの存在レベルが低いことを恥ともしていない。彼らはその意味すらもわかっていない。だから、人間の知識はその存在レベルのレベルによるのだということがわからないのだ。(中略)
知識と存在の性質全般、また両者の相関関係を理解するためには、知識と存在が〈理解〉といかなる関係にあるかをつかむことが必要となる。
 知識とは一つのこと、理解はまた別のことだ。
 人々はよくこれらの概念を混同し、違いをはっきり把握していない。
 知識がひとりでに理解を生むということはない。また知識だけを増やせば理解が深くなるということもない。理解は知識と存在の関係に依存している。すなわち理解は知識と存在の結合の結果なのだ。(中略)理解は存在の生長いかんにかかっているということになる。(中略)
 一般に、人々は自分があることを理解していないと気づいたとき、その名前を見つけようとし、そして名前を見つけると自分は〈理解した〉と言う。しかし〈名前を見つける〉ことは〈理解する〉ことではない。人々は普通、名前で満足しているのだ。たくさんの名前、つまり多くの言葉を知っている人が多くのことを理解していると思われている――もちろんそれは、彼の無知がすぐに明らかになるような実際的な行為の範囲を除いての話だが。」

「もし、君たちが、明日を違ったものにしたければ、まず今日を違ったものにしなければならない。もし、今日が単に昨日の結果であるなら、明日もまったく同様に、今日の結果となるだろう」

ウスペンスキー 浅井雅志訳
『奇蹟を求めて』(平河出版社)


きれいに日の当たった

芝生の上である。
青空にはたはたと
ひるがえるユニオンジャックである。
感情のやりばに困った
硬直したような手は
まるで他人の身体である。
刀をわたしおわったら
疲れがいちどに出たようだ。

吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』
(創樹社)

 


たまきはる曠野のいのち夏草をおほひて遠く果てきいくさは

たまきはるいのち生きむと思ふ日のわが道はかたくただかたくあれ

村上一郎『激攘』
(思潮社)

 

目覚めとは、太陽にもっとも近い傷口である。

ルネ・シャール

 

 私の経てきた道程を一瞥してみよう。――あれから十五年になる。(いや、もう少し古い話かもしれない。)私は夜晩く、どこかから帰るところだった。レンヌ通りには人影はなかった。サン=ジェルマン大通りのほうから来て、私はフール通り(郵便局側)を横切った。私は片手に雨傘を開いて差していたが、雨は降っていなかったと思う。(私は飲んではいなかった。嘘ではない。私には確信がある。)私は必要もないのに傘を開いていたのだ。(でなければ、もっとあとで述べるように必要があってのことだった。)当時、私はひどく若くて、混沌としていて、無意味な陶酔にかぶれていた。まったく当を得ない、目くるめくような、それでいてすでに気苦労と苛酷さをいっぱいに詰め込んだ思想、身心を責め苛む思想が輪舞を踊っていたものだった。……この理性の難破の中に、不安が、孤絶した失墜が、怯懦が、劣等性が、わがもの顔におさまり返っていた。しばらく以前のお祭り気分がまた始まっていたのだ。たしかなのは、あの気楽さが、同時にあの角立った「不可能」が、私の頭のなかに爆発したということである。おびただしい笑いをちりばめた空間が私の前にその暗黒の淵を開いた。フール通りを横切りつつ、私はこの「虚無」のなかで、突如として未知の存在となった……私は私を閉じ込めていた灰色の壁を否認し、ある種の法悦状態に突入していった。私は神のように笑っていた。傘が私の頭に落ちかかってきて私を包んだ。(私は故意にこの黒い屍衣をかぶったのだ。)かつてどこの誰も笑ったことのない笑いを私は笑い、いっさいの事物の底の底が口を開け、裸形にされ、私はまるで死人のようであった。

 神聖の領域には非常な透明性が行きわたっているから、私たちは不透明な意図から出発しつつも、なお、光り輝く笑いの底へと滑り落ちてゆく。

ジョルジュ・バタイユ 出口裕弘訳
『内的体験』(平凡社)

 

 私が眼にしていたもの、それはアダムが自分の創造の朝に見たもの――裸の実在が一瞬一瞬目の前に開示していく奇蹟であった。(中略)
 イスティヒカイト。存在そのもの――エクハルトが好んで使ったのは、この言葉ではなかったか?イズネス、存在そのもの。プラトン哲学の実在――ただし、プラトンは、実在と生成を区別し、その実在を数学的抽象観念イデアと同一視するという、途方もなく大きな、奇怪な誤りを犯したように思われる。だから、可哀想な男プラトンには、花々がそれ自身の内部から放つ自らの光で輝き、その身に背負った意味深さの重みにほとんど震えるばかりになっているこの花束のような存在は、絶対に眼にすることができなかったに相違ない。また彼は、これほど強く意味深さを付与されたバラ、アイリス、カーネーションが、彼らがそこに存在するもの、彼らが彼らであるもの以上のものでも、以下のものでもないということを知ることも、絶対にできなかったに相違ない。彼らが彼らであるもの、花々の存在そのものとは――はかなさ、だがそれがまた永遠の生命であり、間断なき衰凋、だがそれは同時に純粋実在の姿であり、小さな個々の特殊の束、だがその中にこそある表現を超えた、しかし、自明のパラドックスとして全ての存在の聖なる源泉が見られる……というものであった。

 私は花々を見つめ続けた。そして花々の生命を持った光の中に、呼吸と同じ性質のものが存在しているのを看たように思った―だが、その呼吸は、満ち干を繰返して、もとのところにもどることのある呼吸ではなかった。その呼吸は、美からより高められた美へ、意味深さからより深い意味深さへと向かってだけ間断なく流れ続けていた。グレイス(神の恩寵)、トランスフィギュレーション(変貌、とくに事物が神々しく変貌すること)といったような言葉が、私の心に浮かんできた。むろん、これらの言葉は、私が眼にする外界の事物に顕わされて顕われていたのである。バラからカーネーションへ、羽毛のような灼熱の輝きから生命をもった紫水晶の装飾模様―それがアイリスであった―へと私の眼は少しずつ渉っていった。神の示現、至福の自覚―私は生まれて初めて、これらの言葉の意味するものを理解した。…仏陀の悟りが奥庭の生垣であることは、いうまでもないことなのであった。そして同時にまた、私が眼にしていた花々も、私―いや『私』という名のノドを締め付けるような束縛から解放されていたこの時の『私でない私―』が見つめようとするものは、どれもこれも仏陀の悟りなのであった。

ハックスレー 今村光一訳
『知覚の扉』河出書房新社

 

 LSD体験を説明した科学論文の用語は、オズモンドにはぴんとこなかった。幻覚とか精神障害という用語は、悪い精神状態しか意味していない。ほんとうに客観性を重んじる科学であれば、たとえ異常な、あるいは正気でないような精神状態を生みだす化学薬品に対しても、価値判断はくださないのが筋なのに、精神分析の用語は病理的意味あいを反映していた。オルダス・ハックスリーも、病理学的用語は、不適切だと感じていた。このドラッグの総体的な効能を完全に包含するには、新しい名称をつくるしかない、オズモンドもハックスリーもこの点では意見が同じだった。
 オズモンドはハックスリーがはじめてメスカリン体験をしたときの縁で、親友づきあいをしており、頻繁に手紙をやりとりしていた。最初ハックスリーは「ファネロシーム」ではどうかと提案した。語源は「精神」とか「魂」という意味である。オズモンドあての手紙には、つぎのような対句が書かれていた。

 このつまらない世界に荘厳さが欲しければ、
 ファネロシーム半グラムをのみたまえ。

これに対してオズモンドは、こう返歌を書いた。

 地獄のどん底、天使の高みを極めたければ、
 サイケデリックをひとつまみだけやりたまえ

 こうして「サイケデリック」ということばが、つくられたのである。オズモンドは、一九五七年、このことばを精神分析学会に紹介した。ニューヨーク科学学会の会合で研究報告したとき、彼はLSDなどの幻覚剤は単なる精神障害誘発剤を「はるかにこえる」機能を持っており、したがってこれにふさわしい名称には、「精神をゆたかにし、ヴィジョンを拡大する側面をふくめる」必要があると主張した。そして、「精神障害誘発剤」のかわりに、あたりさわりのない用語を披露したが、これは意味がはっきりしなかった。文字どおりにはサイケデリックは「精神を開示する」という意味で、いわんとするところは、この種のドラッグは予測のつくできごとを開示するのではなく、意識下にかくされていたものを表面にひきだす機能を持つということである。

マーティン・A・リー他 越智道雄訳
『アシッド・ドリームズ』(第三書館)

 

 チベット・モデルにしたがい、われわれはサイケデリック体験を三つの局面にわけている。第一期(チカイ・バルド)は、言葉、〔空間-時間〕、自己を超えた完全な超越の時期である。そこには、いかなるヴィジョンも、自己感覚も、思考も存在しない。あるのは、ただ、純粋意識とあらゆるゲームや生物学的なかかわりからの法悦的な自由だけである。第二の長い時期は、自己、あるいは外部のゲーム的現実(チョエニ・バルド)を非常に鮮明な形か、幻覚(カルマ的幻影)の形で包含する。最後の時期は(シドパ・バルド)は、日常的なゲーム的現実や自己への回帰にかかわっている。たいていの人の場合、第二(審美的ないし幻覚的)段階がもっとも長く続く。新参者の場合には、最初の光明の段階が長くつづく。

 解放とは、〔心的-概念的〕な活動を欠いた神経系である。条件づけられた状態、つまり、言葉と自我のゲームに限定された心はたえず思考の形成活動をおこなっている。静かで注意が行き届き、覚醒してはいるが活動はしていない状態にある神経系は、仏教徒がもっとも高い「禅定」の状態(深い瞑想状態)とよぶものに比較することができる。そのとき、身体とのつながりは依然として保たれている。光明(クリアーライト)の意識的な自覚は、西洋の聖者や神秘家が啓示とよんできた法悦的な意識状態を誘発する。最初の徴候は、「リアリティの光明」の一瞥であり、「純粋な神秘的状態としての絶対に誤らない心」である。これはいかなる心の範疇のおしつけもないエネルギー変容の自覚である。

ティモシー・リアリー他 菅靖彦訳
『チベット死者の書 サイケデリック・バージョン』
(八幡書店)

 

 仏教は、瞑想修行を通してその現実指向をあらわにしている。瞑想はエクスタシーや魂の至福、静寂を得ようとか、よりよき人間になろうとすることではない。瞑想とはただ、自分たちの神経症ゲームや、自己欺瞞、秘められた恐怖や希望をさらけ出し、ときほぐせる空間をつくり出すことなのだ。その空間は、「何もしない」という単純な修行を通してつくり出される。実際、何もしないことは実にむずかしい。(中略)つまり瞑想とは、心の内なる神経症を掻き出してそれを修行の一部として利用してゆくの道のことだ。神経症を投げすてるのではなく、肥料のように自分の庭に撒くのだ。それは私たちの豊穣さをともにになうものになってゆくのである。(中略)修行の基本は、「今、ここに在ること」だ。目ざすところもまたそのテクニックである。この瞬間にまさに在り、自分を抑えつけたり雑に放置するのではなく、今のありのままの自分を精密に自覚していることだ。

 小乗(ヒーナヤーナ)とは、スピードが出ず、横道にそれることのない、いるべき所にいる乗り物のことである。私たちにはもう逃げ出すチャンスはない。私たちは今ここにいてもう逃げられない。これはバックギアのない乗り物だ。そして同時に道の狭さという単純さによってこそ人生の状況に対する開かれた姿勢が生じてくる。なぜなら、どんな逃避もありえないことがはっきりわかり、今この場に在ることに身をゆだねるからである。

チョギャム・トゥルンパ 高橋ユリ子他訳
『タントラ―狂気の智慧』(めるくまーる)

 

 生命はみな天をさして居る。が、根はどうしても大地に下ろさねばならぬ。大地にかかわりのない生命は、本当の意味で生きて居ない。

 人間は大地において、自然と人間との交錯を経験する。人間はその力を大地に加えて、農作物の収穫につとめる。大地は人間の力に応じてこれを助ける。人間の力に誠がなければ大地は協力せぬ。誠が深ければ深いだけ大地はこれを助ける。人間は大地の助けの如何によりて自分の誠を計ることができる。大地はいつわらぬ。欺かぬ。ごまかされぬ。

 大地はまた急がぬ、春の次でなければ夏の来ぬことを知って居る。蒔いた種は時節が来ないと芽を出さぬ、葉を出さぬ、枝を張らぬ、花を咲かぬ、従って実を結ばぬ。秩序を乱すことは大地のせぬところである。それで人間はそこから物に序あることを学ぶ。辛抱すべきことを教えられる。大地は人間に取りて大教育者である。大訓練師である。人間はこれによりて自らの感性をどれほど遂げたことであろうぞ。

 霊性の奥の院は、実に大地の坐に在る。

鈴木大拙『日本的霊性』(岩波書店)

 

加藤
「もしクライエントとセラピストとの関係、人間の関係だけであれば、場の基底がもうひとつ弱い。そこに、ディープ・エコロジカルな基盤があってこそ、出会いが成立する。人間と人間との出会いは同時に、自然とクライエントとセラピストの出会いでもある。魂の出会いといってもいい。
これがたとえば、もっと緑があって空気がよくないといけないとか、治療室は冬はもっと暖房がきいていて快適でなければいけない、緑が多く、いい空気が吸えて、初めて治療ができるということなら、それはディープではなく、シャロ―(浅い)・エコロジーなんです。そういう物質的環境ではなく、難しくいえば梵我一如の場――梵我とはブラフマンとアートマンということです――、自分と世界とが一つであり無限に開けているような場のことをディープ・エコロジカルな基盤と言っているんです。」

加藤清、上野圭一
『この世とあの世の風通し』
(春秋社)

 

 すべて調和というものは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。
 私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思ってよく観ると、病気をする人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気をして経過すると、今までの疲れが抜ける。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を喚び起こすためになるのではないだろうか。(中略)
 病気を全うするということを考え出したのは、病気を自分の体力で経過した人が、その後みんな元気になるということをみたからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。(中略)それを経過の途中で止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱ってくるし、病気をやった後も濁った顔になっている。そしてまた病気をするのです。本当は病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って、綺麗になってこなくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。それがそうならないというのは、経過を全うさせなかったからです。

 病人になっている人達は、自分で病気を治そうとはしない。しかし自分の体は自分で丈夫にするより他にない。お腹が空いても、今忙しいからといって、他人に食べてもらうわけにはいかないし、他人に気張ってもらっても、自分の大便は出てきません。自分が弱ったからと言って、他人に頑張ってくれと一生懸命頑張らせても、自分が丈夫になるわけではないのです。(中略)病気を治療するとか、治療してもらうとかいう考え方が、もう本当でないのです。自分自身で元気に丈夫になっていくのです。

 人間というものは、物質を集めて体にしていった凝集力といいますか、そういうものが実体であって、集まった物は集められた物でしかない。体なんていうのはもともとないのです。だから気が一つになると気だけになってしまっても、別段、不思議ではないのです。
 合掌行気をやって掌で呼吸をしておりますと、掌だけになってしまうのです。初めのうちは自分が掌で呼吸している。その内にだんだん掌が大きくなって、自分全部が掌になり、この家全部が掌になり、この空間全部が掌になり、そこでその掌が呼吸しているのです。

野口晴哉『愉気法1』(全生社)

 

 私は今でも八千メートル峰登頂への究極の動機が何であるのか、自分でもわからない。ただ、一度頂上へ登ってしまうと、また降りるのがとてもいやになるのだ。面倒だからというだけではない。私にとっては、下降によって私の中に虚しさがひろがるからである―失楽園―それは成功の意識によって満たされることはない。頂上に到達したときにすでにまったく別種の虚しさ、私の全存在をとらえる解放的な虚しさを私は何度も経験した。

 ヘルマン・ブールがナンガ・パルバードの山頂から生還したのは、登頂したからである。もしも最高点を目前に失敗していたなら、あのように超人的な下山はできなかったろう。だから私にいわせれば、彼が生還したことこそが、彼が登頂した証拠なのである。彼はあの夢の点に触れたからこそ、時期を失せず、その点から離れることができたのである。

 私の経験によれば、人間は、外的人間と内的人間とからなっている。外的人間―身体的・知的領域―は誰にでもかなりよくわかる部分である。しかし内的人間―精神的領域、それは意識下であり、まだよく解明されていない次元である(私はこれを精密素材領域と呼んでいる)―は、そこへ通じる方法を知らない限り、誰にもわからない。(中略)どの肉体も、すべてがそれからできている元の素材を自分の中に持っている。だからどの人間も万有を分け持っている。万有は無限だから、人間は無限を分け持っている。道具としての感覚器官と、記録装置としての意識の助けを借りて、人間は意識的に明確に自分自身を経験する(知る)ことができる。(中略)精神的な、私のいう精密素材的な人間には限界がないから、精神的人間の経験能力には限界がない。

 高く登れば登るほど、ますます自分が透明に、くっきりと見えてくる。感覚が研ぎ澄まされる。彼があれほど情熱を寄せた頂が、具体的な形で彼のものとなる。彼は一種の光明点の中へ入り、涅槃の中に消え去ることができる。

 初めてのいくつかの大きな遠征の後で、私は自分の人生がひろがったのを感じたが、同時により思慮深くもなった。三つ目の八千メートル峰であるヒドゥン・ピークが私に鎮静作用を与えた後、涅槃とは何であるかがようやくわかりかけてきたと思った。つまり私は生を超えるものの息吹を吸ったのである。エベレストの頂上では一種の精神的オルガスムを体験した。それは時間と空間のない全有意識における感情的振動である。そのとき私の理性は完全にシャットアウトされていた。

ラインホルト・メスナー 尾崎鋻治訳
『死の地帯』(山と渓谷社)

 

 神話の英雄シャーマン、神秘主義者、精神分裂病患者の内面世界への旅は、原則的には同じもので、帰還、もしくは症状の緩和が起こると、そうした旅は、再生――つまり、自我が「二度目の誕生」を迎え、もはや昼間の時空の座標軸にとらわれた状態でなくなること――として経験されます。そして、内なる旅は、いまや、拡張された自己の影にすぎないものとして、自覚されるようになり、その正しい機能は、元型の本能体系のエネルギーを時空の座標軸をもつ現実世界で、有益な役割を果たすために、使わせるというものになります。

ジョーゼフ・キャンベル 飛田茂雄他訳
『生きるよすがしての神話』(角川書店)

 

 神話英雄はそれまでかれが生活していた小屋や城から抜け出し、冒険に旅立つ境界へと誘惑されるか拉致される。あるいはみずからすすんで旅をはじめる。そこでかれは道中を固めている影の存在に出会う。英雄はこの存在の力を打ち負かすか宥めるかして、生きながら闇の王国へ赴くか(兄弟の争い、竜との格闘、魔法)、敵に殺されて死の世界に降りていく(四肢解体、磔刑)。
 こうして英雄は境界を越えて未知ではあるがしかし奇妙に馴染み深い〔超越的な〕力の支配する世界を旅するようになる。超越的な力のあるものは容赦なくかれをおびやかし(テスト)、またあるものは魔法による援助を与える(救いの手)。神話的円環の最低部にいたると、英雄はもっとも厳しい試練をうけ、その対価を克ちとる。勝利は世界の母なる女神と英雄との性的な結合(聖婚)として、父なる創造者による承認(父親との一体化)として、みずから聖なる存在への移行(神格化)として、あるいは逆に―それらの力が英雄に敵意をもったままであるならば―かれがいままさに克ちうる機会に直面した恩恵の掠盗(花嫁の掠奪、火の盗み出し)としてあらわされうる。
 こうした勝利こそ本質的には意識の、したがってまた存在の拡張(啓示、変容、自由)にほかならない。のこされた課題は帰還することである。超越的な力が英雄を祝福していたのであれば、かれはいまやその庇護のもとに(超越的な力の特使となって)出発するし、そうでなければかれは逃亡し追跡をうける身になる(変身〔をしながらの〕逃走、障害〔を設けながらの〕逃走)。
 帰還の境界にいたって超越的な力はかれの背後にのこらねばならない。こうして英雄は畏怖すべき王国から再度この世にあらわれる(帰還、復活)。かれがもちかえった恩恵がこの世を復活させる(霊薬)。

ジョゼフ・キャンベル 平田武靖他訳
『千の顔をもつ英雄』(人文書院)

 

 人間は、決して、この子どもらしさから抜け出すことはありません。人間が、完全におとなになり切ることはないからです。まれに、そう見えることがあっても、表面だけのことです。子どもが、大きい子のまねをするように、ぼくたちは、おとなのまねをしているだけです。
 深く生きようとすれば、たちまち、ぼくたちは子どもになります。エスには、年齢がありませんし、エスこそは、ぼくたちの本当の姿ですから。最大の悲しみ、あるいは最高の歓びの瞬間の人間を見てごらん。顔は子どもの顔になり、身振りも子どもらしくなり、声はふたたび柔らかくなり、心臓は子どものときのように躍り、目は輝くか曇るかします。 たしかに、ぼくたちはこうしたことを隠そうとしますが、それは明らかです。注意さえすれば、すぐに、気づきます。ぼくたちが、他人のうちのこれほど目立った兆候を見過ごすのは、ぼくたち自身のうちの、それに気づきたくないからです。

G・グロデック 岸田秀他訳
                        『エスの本』(誠信書房)

 

 両親の存続。――両親の性格や意向の間にあった未解決の不協和音は、子どもの本質のなかで響きつづけて、彼の内面的な受難史を形成する。

ニーチェ 池尾健一訳
『人間的、あまりに人間的』
(筑摩書房)

 

 抱いてもらいたいと思っているのに抱きあげてもらえぬたびに、黙らせられたりあざけられたり無視されるたびに、あるいは限度以上に無理じいされるたびに、傷が蓄積されていく。この傷のプールを、私は原初的なプールと呼ぶ。このプールに傷が蓄積されるたびに、子どもはそれだけ現実の自分からはなれ、神経症に近づいていく。
 現実の体系に加えられる攻撃が蓄積するにつれ、現実の人格が押しつぶされはじめる。ある日、ある出来事がおこる。たとえば、子どもを子もりにあずける。100回目のことで、それ自体、けっして精神的な外傷を与える性質のものではない。しかしそれが、現実と非現実のバランスを逆転させ、子どもは神経症になる。こうした出来事を、私は原初的大情景と呼ぶ。そのとき小さな子どもは、これまでにつもりつもってきた軽蔑され、拒否され、剥奪されてきたという思いから、「あるがままの自分では愛してもらう望みがまったくもてない」と、はじめてさとる。そのとき子どもは、自分の感情から分裂することによって、破滅的な認識から自分を守り、ひっそりと神経症の世界にすべりこんでいく。

 原初的大情景に直面する以前に、子どもは笑いものにされ、拒否され、無視され、恥かしめられ、かりたてられるなど、無数の小さな経験、すなわち、原初的小情景をへている。そして、ついにある日、子どもはこうした有害な出来事のいっさいが持っている意味を要約するようである――「彼らはありのままの私を愛していない」それは破滅的な意味を持っている。したがって決定的な出来事は否定され、葬りさられ、非現実的な自我の闘争がそれにとって代る。その後、経験はこの覆いによって緩和されるので、自分が現に苦しんでいることに子どもが気づかぬことがしばしばある。闘争が子どもを苦痛から守ってくれるのである。(中略)
 大情景のおりに生ずる分裂は、子どもが統合性をそなえ結合している人間であることに終止符をうつ。

アーサー・ヤノフ 中山善之訳
『原初からの叫び』(講談社)

 

一人でいられる能力 Capacity to be alone
 いろんな形の体験が一人でいられる能力の確立に付与するけれども基本的なものはひとつである。その充分な体験がない限り一人でいられる能力はできてこない。そのひとつというは,幼児または小さな子どものとき、母親と一緒にいて一人であったという体験である。つまり一人でいられる能力の基盤は逆説である。それは誰か他の人がいるときにもった“ 一人でいる” To Be Alone という体験なのである。

 おそらく満足な性行為のあとでは両者とも一人であり、一人であることに満足しているといってもさしつかえないであろう。他者(彼もまた一人なのだが)と一緒にいながら一人であることを楽しむことができるということはそれ自体健康な体験である。

 さて、次の言葉、つまり Melanie Klein の仕事から生まれた言葉を用いることにしよう。一人でいられる能力は個人の中の心的現実 Psychic Reality に良い対象がいるかどうかによって決まる。(中略)個人のなかに内的対象との関係ができあがると、内的関係に対する自信が生じてくるとともに、それ自身満足な生活が可能となる。すると一時的に外界の対象や刺激がなくても安心してやすむことができるようになるのである。

 他の人と一緒にいて一人であるということは、未熟な自我が母親に自我を支えてもらうことによって自然な均衡を得るといった人生早期の現象である。時の経過とともに、自我支持的な母親をとり入れる。すると母親やその家族が実際に四六時中一緒にいなくても一人でいられるようになるのである。

D・W・ウィニコット 牛島定信訳
『情緒発達の精神分析理論』
(岩崎学術出版社)

 
 最近では珍しくない。自分の出生について、あるいは子宮内の生活について、ほかならぬ自分の記憶として人が語るのを聞くことが私にはめずらしくない。
 それは一度だって忘れられたことのない記憶であることもあれば、一度は忘れられていたのだが心理療法の過程で、あるいは幻覚剤の体験で、あるいはサイケデリックな出来事のなかで、あるいはなんらかの原初的、根源的な治療のなかで“自然”に思い出させられた記憶であることもある。

 私は自分の生のサイクルの胎児段階を見ると、共感的共鳴とでもいうべきもの、当時感じていたことを現在どのように感じているかということが現在の私の中にひきおこす振動とでもいうべきもの、の感じを体験する。(中略)
 私は少なくともこう考えることはできる。神話、伝説、物語、夢、空想、行為は、われわれの子宮経験の強い反響を含んでいるかもしれない、と。
 もしそうとするなら、後になって出てくる病気がヒステリー的(つまり子宮的)と呼ばれるのも、正当かつ適切といえよう。
 受胎から着床、さらにそれに続く誕生以前の冒険が誕生後の心像の中に神話的に表現される可能性を私は真剣に考えている。ある神話は別の神話よりそう考えさせるに足るだけのものをより多くもつ。

 着床は誕生と同じくらいに、恐ろしくもすばらしいことだったであろう。
 われわれの生涯を通じて反響しつづける。そしてさまざまな経験と共鳴しあう。
 吸われたり、ひきこまれたり、引っぱられたり、引きずりおろされたりする経験と共鳴しあい、救われたり、蘇ったり、助けられたり、歓迎されたりする経験と共鳴しあい、また中に入ろうとしながら入れないという経験、疲労や消耗で死にそうになる経験、狂わんばかりの絶望的で無力な経験。それら等々と共鳴しあう。

 私の考えを簡潔に述べてみよう。誕生とは逆転した着床である。そして誕生後の世界に受容される時、誕生前の世界が初めてわれわれを胎内に受け入れてくれたことへの共感的共鳴がわれわれの中に生まれるのである。

  私は感じる
  自分が
  砕けやすい岩にしがみついているのを
    激しい流れの中に
  洗い流されてしまいそうな岩にしがみついているのを
  命がけでぶらさがり
  何とか足場を探ろうとするが
  自分が今やっていることができるようになるとはどうしても思えない

  いつもそこにたどりつこうとする
  あらゆるものが私をかすめて去る
  私は回転の中にあるのを感じる
  まるで私が回っているように
    次第に速く速く回る
  そして永遠に回転しながらとんでいく(中略)

  つぶつぶの集まったようなものの中に入る
     着床し
     定着し
     つかみ
     根をはる  

 多くの人々が自分は生まれたことはないと感じる
 別の人々は自分は着床しなかったと感じる。
 また別の人々は今、着床したばかりだが、うまく適合できず、思いわずらい、悲しみながら月が欲しいと泣く。月が、子宮に埋もれる前の胞胚であったころの自分が欲しいと。

 ある意味では、どの段階で止まることもできる
 どの段階で自己の連続性を失うこともできる。
 その時切り離された自己の過去は同じことを繰り返そうとする傾向がある。
 生のサイクルをさえくり返そうとする。

…………………………………………………………

 彼女は十二年間心理療法家だった。
 ある日二十四歳の男が彼女の診療所に現れた。彼は精神病院を脱走したのだが、そこで(三回も自殺に失敗した後で)回復のみこみがない精神病だと言われた。そしてもし彼がロボトミーの手術を受けなかったならば、おそらく一生監禁されていなければならなかったろう。

 彼は生まれてこのかた(と私に話した)いわばマンホールにこびりついているように感じていた。中に入ることも外に出ることもできない。

 二年前彼女の診療所で、彼は身体をねじったりよじったりする動作をするようになった(おそらく型通りの緊張病の動作であったろう)。

 彼は生まれようと努めているのかもしれない、と彼女は思った。

 彼は椅子から床へすべり落ちた。
 そして彼女は助産婦の役を果たしつつ彼の出生を助けた。
 それは約二十分で終わった。彼は生まれた。

   彼は生まれてはじめて、マンホールから出たと感じた。
   彼は自分がすっかり変わったと感じた。
   もはや絶望的でも狂乱的でもなかった。

 ひき続いて彼は何回か「誕生」を経験した。
 今や彼にはガールフレンドがいる。彼は働いている。表情も動作も話しぶりも普通だ。

 十六歳の少女が精神病だと診断された。
 彼女はもの憂げな表情で、眼はどんよりとし、皮膚はつやがなく乾いていた。
 彼女は床の上で十五分ほどもがき、のたうち、ひきつり、苦しんでいたが、遂に「外に出た」と感じた。

 十五分たった時の変化は著しかった。
 彼女の眼は輝き、ほとんどきらめいていた。
 皮膚は暖か味をおびて湿っていた。
 彼女が言うところでは、自分は今まで経験した記憶がないような感じをもって驚いている、ということだった。

 彼女は自分が常にへんなものに影響されている、と感じてきた。
 しかしこの時まで、なにかに影響を与えていたという経験はなかった――そして影響を与えるという感覚が起こってくるまで、この感覚がそれまで欠落していたことに気がつかなかった。したがって、彼女は述べた、自分はいつも接触を恐れると同時になにかにしがみつきたいという欲求を感じていたのだ、と。今や突然、この感じは消えた。
 二年後、彼女は相変わらず「正常」だときいた。

R・D・レイン 塚本嘉寿他訳 
『生の事実』(みすず書房)


 第三の型が死と再生の戦いである。この局面のさまざまな段階は出生の第二段階に関連づけると理解しやすい。すなわち、そこでは子宮の収縮はつづいているが、子宮頚部は口を開けている。分娩道に蠕動がはじまり、強い圧力が自動的に加えられ、生へのあらがいと同時に、しばしば窒息の危険がたかまる。この出産の最後の段階で、胎児は、血液や粘液、羊水、そして尿や糞など、さまざまな生体分泌物と直接ふれあうことになる。経験的な観点からいって、この型はなかなか複雑で、そこにはいくつかの重要な要因がみられる。荒々しい闘争の雰囲気、サド・マゾ的な展開、強い性的興奮の逸脱した諸形式、糞尿体験、浄化の要素(火によるカタルシス)などがそれである。
 LSDの被験者がこの段階で経験するのは、身体からほとばしるエネルギーの強力な流出であり、爆発物とふれあうような巨大な緊張の集積である。これらともっとも典型的に結びついているイメージは、自然の猛威、黙示録的な戦争場面、そして攻撃的な科学技術の誇示といったイメージである。エネルギーの巨大な総量は、目ざましい破壊的および自己破壊的な経験のなかで放射され消費される。時に性的興奮は不自然な昂揚状態に達して、狂躁忘我のヴィジョンや種々の倒錯行為やリズミカルで官能的な踊りによって表現されることがある。死と再生の戦いにおけるスカトロジックな面には、嫌悪すべき生体分泌物との親密な交渉がふくまれている。被験者自身、汚物のなかをのたうちまわり、下水溜めでおぼれ、腐敗した臓物のなかをはいずりまわり、血をすする経験をしているのである。そのあとになってしばしばあらわれるのが、霊的再生への準備段階として浄火の中をくぐり抜ける経験である。
 この段階では、被験者自身はかならずしも無力でなく、その状況も希望がないわけではないという感じをもっているため、前段階の「出口なし」の型とは区別される。つまりここでは苦しみも明白な目的をもっているである。それにつづいておこる情緒は、苦悶と恍惚の混合したものである。この状況において生じるイメージは善の勢力と悪の勢力との戦いである。すなわち、神の審判のドラマであり、聖人たちの誘惑の情景であり、煉獄や、殉教者の死の情景である。宗教性と死と不安と性と攻撃と糞尿との奇妙な混合は、この局面の根底に典型的にみられるものであるが、そのために、「ワルプルギスの夜」の瀆神的な儀式や悪魔的な狂躁、あるいは、異端審問の獣性に関連したイメージが、しばしばあらわれることになるのである。
 死と再生の型は、出産の第三の臨床段階と関連している。分娩道の蠕動が終り、つづいて爆発的な救済と安らぎがおとずれる。へその緒が切られ、母との肉体的な分離が完了し、子どもは解剖学的に独立した存在として新しい人生に向けてスタートする。
「死と再生」の局面は「死と再生の戦い」の終結と解決をあらわしている。受苦と苦悶は、肉体的。情緒的、知的、道徳的、超越的なすべての水準における徹底した絶滅体験において絶頂に達するのである。これは一般的に「エゴの死」というように言われ、個人の過去にまつわる一切のものの瞬時における崩壊とみなすことができよう。この絶滅体験のあとにしばしばあらわれるのが、白銀や黄金の光に輝くまばゆいヴィジョンであり、重圧がとれたあとの、のびのびとした解放感である。宇宙はえもいわれぬ美しさで輝いてみえ、被験者は浄化された自分を感じ、そして罪のあがないと救いと解脱(モークシャ)と三昧を語るようになる。

スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳
『魂の航海術』(平凡社) 

 

ジョン・ウィア・ペリー
 「精神病にはそれ自体方向性があり、精神医学の治療を施すより、そのままにしておく方がよいという考えに対しては、驚くほどの偏見が存在しています。こういった角度から精神病を見ると、それは自己再組織化のプロセスということになる。病気や不調ではなく、再秩序化のプロセスなんです。要するに、崩壊は再統合化プロセスの不可欠な部分を構成している。」

 「精神病や分裂病と呼ばれるすべての患者がこの範疇に含まれるわけではありません。おそらく半分の人にあてはまると思います。しかし、それが最初の体験の場合には、刷新プロセスである場合が非常に多いようです。数多くの観察結果からすると、その期間は約六週間――四〇日です。
しかし、しかるべく対処すれば「障害となる症状」は数日のうちに消えてしまう。
 このプロセスが生じてくるのは、こうした人の場合、魂に深遠な変化やプロセスが必要となり、魂自体の再組織化と再編成が起こるからです。この時点に差しかかると、自我からエネルギーが引き出されて――個人的問題やコンプレックスから引き出されるともいえます――そのエネルギーが神話的、象徴的な形で魂の深層へと引きもどされる。この魂の深層レベルでは、イメージや感情が一体となって機能する。そのため、この深層レベルは神話や儀式の源ともなっている。そうなると、当人はこの世の中ではなく、それとはまったく異なる神話的世界に生きていることになる。彼らはそこで起こるいろいろなことを描写する。ところが、それは外部で起こっていないために、狂っているように聞こえてしまう。すべてが内面で起こっていますからね。問題はこれがあくまでも内面世界の出来事であり、エネルギーが魂の深層部へ入りこんだときに起こるこのプロセスが――あの論文で私が述べているように――自己イメージと世界イメージの両方を溶解してしまう点にある。物事の見方、体験のし方、感じ方、関係性――そのすべてが脱構造化されてしまう。しばらくの間、あらゆることが混乱状態になり、さまざまな対立が始終衝突を繰り返す。このプロセスの再統合の局面を表す二つの要素は、再生と世界創造でしょう。」

 「言葉では説明しづらい人物ですね。わたし自身、彼には二週間に一回会っていました。チューリッヒにいた一年半の間、隔週一回、ユングと面接していたわけです。彼と直接会話することができたのは、きわめて幸運なことです。ユングはすべてに関して、スケールの大きな人物でした。広大な意識を持ち、身体のつくりも大きく、その影響は強力でした。加えて、進行しているあらゆることに対して鋭い注意力をもっていました。あらゆる種類のことに関して関心を示し、どんなことが起こっても、それに関して豊饒な連想力をもっていました。彼と話していると、地平が驚くほど広がっていくような感覚を抱かされたものです。歴史や文化に対する造詣をとおして、視野が拡がり、魂の深みが伝わってくる。彼の存在そのものが、つねに強烈な体験でした。ユングはまた、相手が知りたがっていることに関して、きわめて直観的な感知力をもっていました。相当サイキックだったんです。」(中略)
 「彼女はそれに関してユングに尋ねたいと思い、何を準備すればいいかなど、六つほどの質問をリストにしました。ユングは疲れているときには、対話をするよりも一方的にしゃべることを好みます。彼女がユングに会いにいった日は、ちょうど彼が疲れている日だったので、ユングは一方的にアフリカについて話したわけです。ところが、彼はその話のなかで彼女が書き上げたリストの順番のままに答えていきました。(中略)リストを見ないままで、彼女の質問もないままで、質問に答えていったんです。彼女はそのことに深いショックを受けていました。信じられなかったわけです。わたしとの対話でもだいたいユングはそういう調子でした。ユングは、話を説明するためによくたとえ話をもち出しますが、たとえば、そのたとえがわたしが数日前に見た夢だったりするわけです。彼の話はいつも的を射ていました。だからこそ、わたしにとって彼との出会いが強烈な衝撃だったわけです。ユングの展望の広さや自覚の地平が並はずれていただけでなく、彼がつねに的を射た話をしていたからです。」

吉福伸逸『無意識の探検』
(TBSブリタニカ)

 
 一人一人の人間は、この世界に召命されてやってくる。この考え方はプラトンの最もよく知られた著作『国家』の最後に出てくる、エルの神話に由来する。わたしは、この考え方を簡潔に要約できると思う。

 わたしたちひとりひとりの魂は生まれる前から独自のダイモーン(守護霊)を与えられる。それがわたしたちがこの世で生きることになるイメージやパターンを選んでいるのである。わたしたちの魂の伴侶、ダイモーンは、そこでわたしたちを導いている。しかし、この世にたどり着く前に、わたしたちは彼岸で起こったことをすべて忘れ、白紙でこの世に生まれ落ちたと思いこむ、しかし、ダイモーンはあなたのイメージのなかに何があるのか、そしてそこにはどんなパターンがあるのかを忘れない。あなたのダイモーンはあなたの宿命の担い手でもあるのだ。(中略)
 あなたの運命の、内なるイメージは今日も、昨日も、また明日もとぎれることなく存在している。あなたという人格は、プロセスや発達の結果ではない。もし発達などというものがあるなら、あなたこそ発達する本質的なかたち(イメージ)である。ピカソがいうように、「わたしは発達などしない。わたしはわたしである」のだ。

 子供たちは二つの生を同時に生きようとしている。一つには、彼らが生まれもってきた生。もう一つは自分の生を生きねばならぬ場所での生、周囲の人々と共に生きなければならない生である。宿命のもつイメージ全体は、小さなどんぐりのなかに詰まっている。小さな肩が巨大な樫をつめこんだ種子を担っている。そしてその召命は、周囲の環境から発せられる叱咤の声にも負けぬほど、強く大きく子供たちに訴えかけ続けているのである。

 ゲニウス(守護霊)の才能は、歳やサイズや、教育、訓練などには縛られていない。だから、子供はみんな身の程しらずだし自分ではどうしようもないものを欲しがるのだ。(中略)ダイモーンは子供ではない。またインナー・チャイルドでさえない。――実際、ダイモーンは幼い子供の体のなかに宿っている魂、つまり完全なヴィジョンと、未熟な人間とを混同することを絶対に許さないだろう。

 両親の影響力とは、実は両親に影響力があるという考え自体の影響力なのだ。どうしてわたしたちは両親の力の幻想にこだわってしまうのか。どうしてこの考え方に安心させられたり、支えられたり(ペアレント)するのか。わたしたちは、ダイモーンがかつて自分の人生を生きるように呼びかけたということ、いや、いまだに召命を与え続けていることを認めるのを恐れているのではないか。召命を拒んで、いまだに台所に隠れたままだということを認めたくないのではないか。わたしたちは、宿命が要求していることに直面せず、両親をだしに使って逃げているのだ。

ジェイムズ・ヒルマン 鏡リュウジ訳
『魂のコード』(河出書房新社)

 

「インドは、ペルソナを知らないのです。元型を知っているだけなのです。もちろん、人格(パーソナリティ)の考えが必ずしも良いとは限らないと私は考えています。多分、それは全く逆ではないでしょうが……。」
「そうです。インドは元型なのです」とユングは言った。「だから私はインドに行った時にスワーミーやグルを訪問しようとはしませんでした。(中略) スワーミーなのものがどんなものか知っていましたし、その元型についてはっきりとした見解を持っていました。そして極端なまでの人格の分化が西洋のように存在しない世界で彼らを知るには、それで充分だったのです。私たちはより多くの多様性を有してしますが、それは皮相的なものにすぎないのです……。」(中略)
「オチウィエイ・ビアノは、白人は頭で考えると言うので、気狂いだと考えていました。なぜなら、頭で考えるのは、気狂いだけだということはよく知られていると言うのです。このプエブロの酋長の断言に私は大いに驚かされ、では、どのようにして考えるのかと聞いてみました。彼は当然心(ハート)で考えると答えたのです。」

ミゲール・セラノ 小川捷之他訳
『ヘルメティック・サークル』(みすず書房)

 

 人間は、混乱しておればおるほど(混乱した頭脳をしばしば愚鈍とよぶけれども)、それだけ熱心な自己研究によって大成する可能性がある。これに反して、秩序だった、均整のとれた頭脳は、真の学究、徹底した博識家(エンチクロペディスト)になるようにつとめなくてはならぬ。混乱した頭脳の人たちは、最初てごわい障害とたたかわねばならない。進歩も、きわめておそいし、仕事をおぼえるのにも苦労する。しかし、やがてはかれらも、永久にゆるぎない名匠・大家になることができる。
 均整の人は、進歩が早いかわりに、落伍もまた早い。たちまちにして第二の段階に達する。が、ふつうここで立ちどまってしまう。最後の道程が苦しくなる。そして、すでにある程度の熟達の域に達していながら、あらためてまた初心者の状態に身をおくのが堪えがたいのである。混乱は、ちからと能力の過剰を意味する。ただ釣合いが欠けているのである。均整は、釣合いはただしいが、能力とちからの貧困を意味する。したがって、混乱の人が発展的でであり、進歩の可能性をはらんでいるのに反して、均整の人は、早くから俗人として発展がとまってしまう。
 秩序と均整だけが、明晰なのではない。混乱した人も、自己研鑽によって、均整の人がまれにしか到達しないかの天上的な透明さ、自照の境地に行きつく。真の天才は、この両極をむすびつけるものである。天才は、速度を後者とわかち、充溢を前者とともにしている。

ノヴァーリス 前田敬作訳
『花粉』(現代思潮社)

 

 快楽主義であれ、厭世主義であれ、功利主義であれ、幸福主義であれ、快と苦、換言すれば、随伴的な状態や副次的な条件によって事物の価値を測るこれらすべての考え方は、前景だけを見る考え方で素朴性を脱するものではなく、これらに対しては、形成的な力と芸術家的な良心を自覚している者ならば誰でも、嘲笑なしには、さらに同情なしには見下ろすことがないであろう。(中略)
 われわれの同情は一層高次の、一層遠目のきく同情である。――われわれが見るのは、人間がいかに小さくされるか、諸君が人間をいかに小さくするかなのだ!――それで、われわれがまさに諸君の同情を単純に尽くしがたい不安をもって見る瞬間がある。それは、われわれがこの同情に対して抵抗を感じる瞬間であり、――われわれが諸君の真面目さをいかなる浮薄よりも危険だと見る瞬間である。諸君は、できうべくんば――そしてこれほど馬鹿げた「できうべくんば」はないが、――苦悩を除去しようとしている。

 それでは、われわれは? 思うに、実はわれわれは苦悩をかつてよりも一層高く、かつ一層酷くしたいと望んでいるのだ! 諸君の解するような無事安泰、――それは、無論、われわれの目標ではない。それはわれわれには終末だと思われるのだ。それは人間を直ちに笑うべきものとし、軽蔑すべきものとする状態であり、――人間の没落を望ましめるものなのだ! 
 苦悩の、大いなる訓練、――ただこの訓練のみが人間のすべての高昇を創り出したということを諸君は知らないのか。魂の強さを育て上げる不幸のうちにおける魂のあの緊張、大いなる破滅の瞬間における魂の戦慄、不幸を担い、辛抱し、解釈し、利用し尽くすときの魂の創意と果敢、またかつて深底・秘密・仮面・精神・狡智・偉大によってのみ魂に贈られたもの、――それはこれらの苦悩のもとで、大いなる苦悩の訓練のもとで魂に贈られたのではないか。

 人間のうちでは被造物と創造主が合一している。人間のうちには素材・破片・過剰・粘土・汚物・背理・混沌がある。しかも人間のうちには更に創造者・形成者・鉄槌の峻酷・傍観者の神性および第七日(神の創造が終わった後の安息日)がある。――諸君にはこの対立が分かるか。そして、諸君の同情は「人間のうちの被造物」に、すなわち、形成され、破砕され、鍛造され、引き裂かれ、灼熱され、精煉されなければならないものに、――要するに、必然的に苦悩せざるをえず、また苦悩すべきものに向けられているのだということが分かるか。
 ところで、われわれの同情、――それがすべての柔弱化と虚弱化のうちでも最悪のものである諸君の同情に対抗するときに、われわれの逆の同情が誰に向けられているかを諸君は理解しないのか。――従ってこれは同情に対する同情なのだ!――しかし、もう一度言うが、すべての快・苦の問題や同情の問題よりも一層高い問題が存する。そして、単にこの同情の問題にのみ帰趨するようなあらゆる哲学は素朴性を脱しえないのだ。――

ニーチェ 木場深定訳
『善悪の彼岸』(岩波書店)

 

 「性格」と呼ばれる、その人にしみ込んださまざまの前提は、何の役に立つのかという問いに、「それによって生のシークェンスの多くを、いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける」という答えを用意したわけである。「これが優れた音楽がどうか知らないが、しかし私は好きだ」という対処のしかたが、性格の獲得によって可能になる、という考え方である。これらの「身にしみついた」前提を引き出して問い直し、変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい。

 習慣の束縛から解放されるということが、「自己」の根本的な組み変えを伴うのは確実である。「私」とは、「性格」と呼ばれる諸特性の集体である。「私」とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、形づけ方の「型」である。要するに、「私」とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。とすれば、Ⅲのレベルに到達し、自分の行動のコンテクストが置かれたより大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、「自己」そのものに一種の虚しさirrelevanceが漂い始めるのは必然だろう。経験が括られる型を当てがう存在としての「自己」が、そのようなものとしてはもはや「用」がなくなってくるのである。

G・ベイトソン 佐藤良明訳
『精神の生態学』(新思索社)

 

一粒の砂に世界を、
一輪の野花に天国を見る、
君の掌のなかに無限を、
ひとときのうちに永遠をとらえる

ウィリアム・ブレイク
『ピカリング稿本』

 

 わたしのとどまる場所はどこか。わたしとあなたはどこにもとどまるところはない。わたしの行くべき最後の場所はどこなのか。それは何人も見つけないところ。わたしは一体どこにゆくべきか。神を超えて荒野へとわたしは行かねばならない。

 わたしが死に、生きるのではない。神自身がわたしの中で死に、わたしが生きるようにと絶えずわたしの中で生きているのである。

 あなたが死に、神があなたの生命になったとき、はじめて崇高な神々の仲間にあなたは入るのである。

 あなたの心は、純金のように混ざりけなく、岩のように堅く、水晶のように透明であれ。

 神に向かって叫んではいけない。水源はあなたの中にあるのだ。あなたが出口をふさがなければ、水源は絶えず溢れ出る。

 あなたの外面的な目がここで見ている薔薇は、永遠に神の中で咲いている。

アンゲルス・シレジウス 植田重雄他訳
『瞑想詩集』(岩波書店)

 

 「さて、すばらしき友よ」、C.氏は言った、「これで私の申し上げることを理解するのに必要なものはすべてお手許にそろいました。これでおわかりですね、有機的世界においては、反省意識が冥く弱くなればそれだけ、いよいよ優美がそこに燦然とかつ圧倒的にあらわれるのです。――けれどもそれは、二本の直線が一点の片側で交差すると、それが無限のなかを通過したあと突然また反対側にあらわれる、とか、あるいはまた凹面鏡に映った像が無限の彼方まで遠ざかったあとで、突然私たちのすぐ目の前にきている、とかいうふうにしてなのです。
 このように認識がいわば無限のなかを通過してしまうと、またしても優美が立ちあらわれてきかねないのです。ですから優美は、意識がまるでないか、それとも無限の意識があるか、の人体の双方に、ということは関節人形か、神かに、同時にもっとも純粋にあらわれるのです。」
 「とすると」私はいささか茫然として言った、「私たちは無垢の状態に立ち返るためには、もう一度、認識の樹の木の実を食べなければならないのですね?」
 「さよう」と彼は答えた、「それが、世界史の最終章なのです。」

ハインリヒ・フォン・クライスト 種村季弘訳
『マリオネット芝居について』(河出書房新社)


 わが兄弟よ、あなたがひとつの徳を持ち、それがあなた自身の徳であるから、それは他の何びととも共有すべき性質のものではないはずだ。(中略)

 むしろこういうべきなのだ。「わたしの魂に苦しみやよろこびを与えるもの、わたしの内臓の飢えでもあるものは、言葉に言いあらわしがたく、名前を持たないものなのだ」と。
 あなたの徳は、馴れ馴れしい名前で呼ばれるには、あまりにも高貴なものであらねばならない。そして、もしあなたがそれについて語らなくてはならないときは、口籠り、吃ることになってもなんら恥じることはない。
 吃りつつ、こう言いなさい。「これがわたしの善だ。わたしはこれを愛する。わたしにはすっかり気にいっている。わたしの欲する善はこういったものしかないのだ。(中略)
 わたしが愛するのは大地の徳である。そこには利口な駆引はあまりなく、万人に共通な理性はもっともすくない。
だが、それは鳥のように、私のところに来て、巣をつくった。それゆえにわたしはそれを愛し、胸に抱く。――いま、それは、わたしのところで、黄金の卵をかえそうとしている」と。
 あなたは吃りながら、このようにあなたの徳を讃えなければならない。
 かつてあなたは、あなたを苦しめるさまざまの情熱を持ち、それを悪と呼んだ。しかしいまはそれがすべて徳なのだ。苦しめる情熱から生まれたものだ。
 そしてたとえあなたが肝癪持ちの血すじであろうと、好色家、狂信者、または復讐狂の後裔であろうと、――
 結局、すべてのそうした苦しめる情熱は徳となり、すべての悪魔は天使となったのだ。
 かつてはあなたはあなたの地下室に野性の犬どもを飼っていた。しかしついには犬どもは小鳥に変わり、愛らしい歌姫となった。
 あなたの毒から、あなたは香油を醸しだしたのだ。あなたはあなたの憂愁の牛の乳をしぼってした、――いまはその乳房から甘い乳を飲んでいる。

 わたしの感じ方は、すでにあなたがたとはちがっている。わたしが足もとに見るこの雲、わたしがあざ笑うこの黒く、重いかたまり、――こんなものが、あなたがたにとっては暴風雨の雲なのだ。
 あなたがたは高められたいと願うとき、上方を仰ぎみる。だがわたしはもう高みにいるから、下方を見おろす。
 あなたがたのなかの誰が、高められて、しかも同時に哄笑することができるだろう?
 最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を笑うのである。

 そうだ、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れたからではない。むしろ愛することに慣れたからだ。

 愛のなかには、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある。
 人生を愛しているこのわたしの見るところでは、やはり蝶やシャボン玉、ないしはこれに似た人間たちこそ、幸福を、最もよく知るもののようだ。
 これらの軽やかな、愚かしい、小さく可愛らしい、うごきやすいものたちがひらひらと飛ぶのを見ると、――ツァラトゥストラは心誘われ、涙をもよおし、歌をくちずさむ。
 わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう。
 わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。――かれによって一切の物は落ちる。
 怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!
 わたしは歩くことをおぼえた。それからはわたしはひとりで歩く。わたしは飛ぶことをおぼえた。それからは、わたしは飛ぶために、ひとから突いてもらいたくなくなった。
 いまはこの身は軽い。いまはわたしは飛ぶ。いまはわたしはわたしをわたしの下に見る。いまはひとりの神が、わたしとなって踊る思いだ。

ニーチェ 氷上英廣訳
『ツァラトゥストラはこう言った』
(岩波書店)

 

 ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。――各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。新しい神々を欲するのは誤りだった。世界になんらかあるものをあたえようと欲するのは完全に誤りだった。目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんら義務も存しなかった。――そのことは私の心を深く揺り動かした。(中略)各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事にあるのみだった。(中略) 肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。(中略) 私は自然から投げ出されたものだった。不確実なものへ向って、おそらく新しいものへ向って、おそらくは無へ向って投げ出されたものだった。この一投を心の底から存分に働かせ、その意志を自己の内に感じ、それをまったく自分のものにするということ、それだけが私の天職だった。それだけが!

 彼は目を閉じているのだと、私は思ったが、見れば、彼は目を開いていた。しかしその目は見ていなかった。視力を持っていなかった。じっと動かず、内部か、あるいは遠いかなたに向けられていた。彼はまったく身動きもせずにすわったまま、呼吸もしていないように見えた。彼の口は木か石で刻まれているようだった。彼の顔をあお白く、石のようにどこにも血の気がなかった。トビ色の髪の毛がいちばん生き生きしているものだった。両手は前のベンチの上にのせられていたが、石か果実のような物体のように無感覚に動かず、血の気がなかった。しかし、たるんではいず、ひそんだ強い命を包む堅い、みごとなさやのようだった。(中略) 私は金縛りにあったまなざしで、彼の顔を、このあお白い石化した仮面を見つめ、これがデミアンだと感じた。私といっしょに歩いたり話しているときのいつもの彼は、半分のデミアンにすぎず、一時的にひと役を演じ、調子を合わせ、好意から片棒をかついでいるにすぎなかった。ほんとのデミアンはこんなに、石のように古めかしく動物的に無情に美しく冷たく死んでいて、しかも前代未聞の生命にみちた隠微なものなのだ。そしてこの静かな空虚、このエーテルと星空、この孤独な死が、彼の身辺を包んでいる。

 デミアンは言った。「今日あるような世界は、死ぬことを、滅びることを欲している。実際それは死滅するだろう。 (中略) ぼくたちもたぶんいっしょに滅びるだろう。ぼくたちも打ち殺されるかもしれない。ただぼくたちはそんなことではかたづけられないのだ。ぼくたちの遺物と生き残ったものたちとのまわりに未来の意志が集まるだろう。人類の意志が現れるだろう。(中略) 人類の意志は今日の共同体や国家や国民や団体や教会の意志とは断じて等しくないことがわかるだろう。自然が人間にたいして欲していることは、個々の人間の中に、きみやぼくの中に書かれている。」

ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳
『デミアン』(新潮社)

 

クリシュナムルティ
 「〈真理〉は、途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくこ とのできないものなのです。それが私の見解であり、私はこの見解を絶対的に、かつ無条件に固守します。無限で、いかなる条件づ けも受けず、どんな途によっても接近することのできない〈真理〉は、組織化しえないものであり、また、特定の途をたどるように人を導いたり、強制したりするような、どんな組織体も形成されてはならないのです。もし、あなたがたが、最初にこのことを理解されるなら、ひとつの信念を組織化することが、いかに不可能であるかがおわかりになるでしょう。信念というのは、純粋に個人的なことがらであって、組織化することはできず、また、してはならないものなのです。もしそうするなら、それは生命のない結晶体になってしまいます。それは、他人に押しつけずにはすまない教義や宗派、宗教になるのです。」
 「これこそ、世界中の誰もがしようと試みていることなのです。〈真理〉は狭められ、おとしめられて、無力な者たち、かりそめに不満を感じる者たちの慰みものにされています。〈真理〉を引き下ろすことはできません。むしろ、ひとりひとりが、そこへ上る努力をしなければならないのです。あなたがたは、山頂を谷底へ運ぶことはできないのです。」

M・ルティエンス 高橋重敏訳
『クリシュナムルティ』(めるくまーる)

 

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

唯円『歎異抄』

 

 実は、ぼく自身、自分のことを音楽家だというふうには、考えていない。どういうことかって言うと、ぼくは自分の演奏を聴いていてほんとうは音楽が問題なのではないということがよくわかるんだ。ぼくにとって、音楽というのは、目覚めた状態、覚醒した awake 状態に自分を置き、その知覚、意識 awareness、覚醒  awakeness を認知し続けることにかかわったものなんだ。

 ぼくにとって、音楽のすべての形式は、それ自体は、なんの意味もない。その音楽を演奏している人間が覚醒した状態にいるからこそ(仮面の表情の奥で覚醒しているからこそ)、その音楽は意味を持ってくるんだ。演奏している人間が覚醒しているなら、その人間の演奏するあらゆる音楽が重要になってくる。この覚醒こそ、最も重要なものなんだ。

 自分を覚醒した状態にするためのひとつの方法は、できるだけ自然のままので、自発的な状態でいることだ。きみが自発的な状態でいれば、自分のくだらないアイディアと良いアイディアの区別がよく聞こえてくる。なにもかも準備した状態では、そのような経験を持つことはけっしてないだろう。

キース・ジャレット 山下邦彦訳
『インナービューズ』(太田出版)

 

 歴史を振りっても大勢が言うと思う。マイルスとの演奏は、誰も、他で再現できなかった。その時しかできなかったんだ。変わったわけじゃない。マイルスと一緒に演奏した時は、彼に力を引き出されたんだ。

デイヴ・リーブマン
『マイルス・エレクトリック』

 

 どこの教会にも歌と手拍子があふれ、普通はこれにオルガンとタンバリンが加わり、それから白熱した説教があった。俺は音楽以上にこれが好きだった。俺はあるリバイバリスト(信仰復興論者)の集まる礼拝に出かけた時、じつに燃え尽きんばかりの説教師を見たことがある。説教師は雄叫びをあげ、足をドンドン踏み鳴らし、それからガクッと膝を落とす。人々は説教師に引きずられ、呼び掛けに答え、叫び、手拍子を打ちならす。この礼拝を見てからは、チャーリーさんと教会に行くたびに、俺はまじまじと説教師を観察したもんだ。それから家に帰って熱演の真似をした。俺も説教をしてみたかった。そこにすべての答えがあると思ったんだ。
 皮膚の黒い人種が教会の礼拝に参加するのは、幾多の試練や苦難、それに俺たちが人間の本質について理解しているもろもろの事柄のためだ。口ではうまく説明できないが、俺は人々からそれを引き出すことができる。こういった能力を持つのは俺だけじゃないが、俺はこれを自分のものにしているし、俺のステージの多くがその教会から生まれたことは間違いない。

ジェームズ・ブラウン 山形浩生他訳
『俺がJBだ!』(文藝春秋)

 

テイクを繰り返し、「何が足りない?」と聞くと―
彼(キューブリック)は、「マジックだ」と。

トム・クルーズ

 

 わたしは当時リヴィング・シアターについてはほとんど知らず、(中略)何の予備知識もなく、ケネス・ブラウン作『営倉(ブリッグ)』の初日の席に座ったのであった。
 その日わたしは開演三十分前に入場したのだが、驚いたことに、客席はほとんど空っぽなのに、舞台はすでに幕は上がっていて、舞台前面に設けられた檻のような柵の向うで(実はこれが営倉の内部だったのだが……)、アメリカ兵士に扮した役者たちが、ステージの上を行ったり来たりしていたのである。T・N・P(国立民衆劇場)の公演などでは、開演前すでに空舞台に役者が板つきしていることは別段珍しくはないのだが、何とはなしに目の前の檻を眺めているうち、ふとわたしはもうじっさいに芝居は始まっており、役者たちはすでに役を演じ始めているのではないか?という気がして来た。やがて開演時間が過ぎても、一向に新しいことは起こりそうになかった。やはりわたしの印象は当たっていたのである。そうとは気づかない観客たちがざわめき始めた。そしてそのざわめきが最高潮に達したと思われた瞬間――突然笛が鳴り、号令がかけられ、囚人兵たちは寝床からとび起き、集合して点呼がかけられる。

《パリでは、われわれは余りに審美的評価を下される。われわれは一つの流派としてとり扱われ、前衛、ブレヒト劇、グロトフスキの名がたえずひき合いに出される、われわれはいつも同じような質問を受ける。『ハプニングをどう思うか?』『即興演技について?』もちろんこれらは重要なことだ。だがわれわれの職業にとってもっと重要なこと、それはわれわれの宇宙を創り出す作業であり、毎日の訓練なのだ。レッテルを張ること、定義を示すことはやさしいが、本質的なことではない。それは結果にすぎない。われわれは叫びをあげ、そして行動するのである。》ジュリアン・ベック/リヴィング・シアター

利光哲夫『反=演劇の回路』
(勁草書房)


 われわれの方法は、できあがった技芸を寄せあつめる演繹的方法ではない。ここでは、あらゆることが俳優の「成熟」の一点に集中されるが、この「成熟」は、窮極の世界をめざす緊張によって、徹底した自己の剥奪や、自己の深奥をむきだしにすることによって表現されるものであり、すべて、わずかのエゴイズムや自己享楽の痕跡があってはならない。俳優は自己の全存在を贈与するのである。したがって、これは「恍惚(トランス)」の技術であり、俳優の肉体を本能のもっとも奥深い層が、一種の「透視光線」となってほとばしりでる、俳優の心理と肉体のすべての力を統合する技術である。

イェジュイ・グロトフスキ 大島勉訳
『実験演劇論』(テアトロ)

 

 必要を感じて劇場に行くという行為のほんもののあり方として、わたしが思い浮かべるのは、精神病院におけるサイコドラマの時間である。(中略)
 私にはサイコドラマが治療法としてどれだけの価値があるのか、まったく何もわからない。それはあるいは医学的にはなんら永続きする効果をもたらさないのかもしれない。だが現に起こっている事柄に関するかぎり、明白な効果が認められる。劇が始まって二時間もたてば、そこにいる人びとの間のあらゆる関係は必ず少し変わっている。一同がある共通の体験をしたためだ。
 その結果、これまでは殻に閉じこもっていた人びとの間に何か萌芽的なつながりが形成され、何かがこれまでよりも血の通ったものになり、何かがこれまでよりも自由に流れるようになる。部屋を出る時の一同は、部屋に入って来た時とはどこか違っている。たとえ室内で起こったことがこの上なく不快であったとしても、一同は、まるで腹を抱えて笑った後と同じように元気になっている。
 ここには悲観主義も楽観主義も当てはまらない。要するに、参加者の何人かが、一時的に、僅かに生気をとり戻したということだけなのだ。部屋を出て行く瞬間にそれが一切消えてしまっても、別に構わない。一度こういう味を覚えたら、彼らはまた同じことをやりたいと思うようになるだろう。劇の時間は彼らの生活の中のオアシスのように感じられてくるだろう。

ピーター・ブルック 高橋康也他訳
『なにもない空間』(晶文社) 

 

 私は、ゲシュタルト療法の創始者とよく言われます。それは戯言です。しかし、私をゲシュタルト療法の発見者、もしくは再発見者と呼ぶなら了承できます。ゲシュタルトは、地球の生成の歴史と同じくらい古代からある古いものです。

フリッツ・パールズ 倉戸ヨシヤ訳
『ゲシュタルト療法バーベイティム』
(ナカニシヤ出版)

 

 私は、種々の行動の変化がグループそのものの中で起こるのを見てきた。身ぶりが変わる。話す声の調子が変わり、ある時は強くある時は穏やかに、一般的には技巧が少なくなり、自発的になり、感情がこもってくる。メンバーは、お互いに対して驚くほど深い考えと援助力を発揮する。(中略)
「私は、以前より、開かれ自発的になりました。自分自身をいっそう自由に表明します。私は、より同情的、共感的で、忍耐強くなったようです。自信が強くなりました。私独自の方向で、宗教的になったと言えます。私は、家族・友人・同僚と、より誠実な関係になり、好き嫌いや真実の気持ちを、よりあからさまに表明します。自分の無知を認めやすくなりました。私は以前よりずっと快活です。また、他人を援助したいと強く思います」

 最初の直接的感情が否定の形で表明されるのはなぜだろう。この形が、グループの自由さと信頼度を試す一番よい方法だという推論も成り立つだろう。ここはほんとうに私が自分を出せる場だろうか。ほんとうに安全な場だろうか。罰が返ってくるのではないだろうか。もうひとつのまったく別の理由は、深い肯定的感情は否定的感情より表現しにくく、また危険を伴うことである。もしかりに、私はあなたが好きだというなら、私は弱みをもつことになり、最も恐れている拒否にあうかもしれない。あなたは嫌いですという場合は、せいぜい攻撃を受けるぐらいで、それなら身を守ることができる。理由はどうあれ、そうした否定的感情は最初の〈今、ここで〉の感情として表明されやすいのである。

 あらゆる集中的グループ経験に共通してみられるすばらしい点のひとつは、多くのメンバーが苦痛と悩みをもっている人に対して、援助的・促進的・治療的態度で接する自然で自発的な動きが見られることである。その端的な例として、私は大きな工場の責任者を思い出す。企業の重役グループでは彼はむしろ低い地位のメンバーであった。彼は、自分は〈教育に毒されていない人間〉だといった。初めグループの人は彼を見下げる態度に出ていた。メンバーが自分自身を深く見つめ、自分の姿をあからさまに表明するようになると、その人はメンバー中最も感受性が強いことがはっきりしてきた。彼は理解や受容がどういうものかを直観的に知っていた。彼はもうちょっとで表明されそうなことを鋭く見通した。みんなが話し手に気をとられている時、彼はしばしば黙ったまま悩んでいて援助を求めている人を見出した。彼は深い意味で知覚が鋭く、促進的な態度をもっていた。私はグループでこういう能力が現れることをよく経験しているので、治癒的ないし治療的能力は普通考えられるよりはるかに多く人間生活に見出されるのではないかと考える。しばしば、それは、自由に動いていくグループ経験の風土によって許可されること――を必要とする。

カール・ロジャーズ 畠瀬稔他訳
『エンカウンター・グループ』(創元社)

 

 私は本当はもっとさまざまな身振りをとれるのに、無意識の中で「それは私らしくない」と思って、捨ててしまっているのです。

 私たちは「癖になった緊張体系」を身につけていきます。人格とは緊張の集積体系だと言ってもいいので、「私らしくない身振りはとらない」というルールの体系でもあります。

 その意味でいうと、気功は、「ふりを癒す」ものであると言える一面があります。

 だからある一面からいえば、気功をするとは、「私でない何かをやってみて私を拡張すること」というふうにも定義できます。

 だから、百冊の本を積み上げて読むよりも、「ふだん絶対にしない身振り」をひとつしたほうが、脳は発達するのです。

 気功はどれも自己拡張によって癒すという要素をもっているが、五禽戯はそれが「人間以外」への時間的空間的拡張という意味で際だっている。

 だから、巧みに真似られるかどうかは問題ではない。私が虎を真似ようと思った時、すでに私の中の虎と、地球全体の虎とつながっているのです。

津村喬『伝統四大功法のすべて』
(学習研究社)

 

 画家は、その身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体を理解するためには、(中略)視覚と運動との撚糸であるような身体を取りもどさなくてはならない。

 私の身体は(中略)、自分のまわりに物を集めるのだが、それらの物はいわば身体そのものの付属品か延長であって、その肉のうちに象嵌され、言葉の全き意味での身体の一部をなしている。したがって、世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。

 私が見ている画像が〈どこに〉あるかをいうのは、確かに骨が折れる。私は画像を、物を見るようなふうには見ていない(中略)、私の眼なざしは存在(Etre)の輪光のなかをさまようように画像のなかをさまよい、私は絵を見るというよりはむしろ、絵に従って、絵とともに見ているからである。

 画家は幻惑の中で生きている。(中略)この描出、――これらは画家にとって星座の図取りと同様、物そのものから発出してくるかに思えるのである。〈画家〉と〈見えるもの〉とのあいだで、不可避的に役割が顚倒する。その故にこそ、多くの画家は物が彼らを見守っているなどと言ったのだし、クレーに次いでアンドレ・マルシャンも次のように言うのだ。「森のなかで、私は幾度も私が森を見ているのではないと感じた。樹が私を見つめ、私に語りかけているように感じた日もある……。私は、と言えば、私はそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなので、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。私は内から浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらく私は、浮かび上がろうとして描くわけなのだろう」。一般に〈霊気を吹き込まれる(インスピレーション)〉と呼ばれているものは、文字通りに受け取られるべきである。本当に存在の吸気(インスピレーション)とか呼気(エクスピレーション)というものが、つまり存在そのものにおける呼吸(レスピレーション)があるのだ。もはや何が見、何が見られているのか、何が描き、何が描かれているのかわからなくなるほど見分けにくい能動と受動とが存在のうちにはあるのである。母の胎内にあって潜在的に見えるにすぎなかったものが、われわれにとってと同時にそれ自身にとっても見えるものとなる瞬間、一人の人間が誕生したと言われるが〔その意味では〕画家の視覚は絶えざる誕生なのだ。

 世界は、もはや画家の前に表象されてあるのではない。言わば〈見えるもの〉が焦点を得、自己に到来することによって、むしろ画家の方が物のあいだから生まれてくるのだ。そして最後に、画像が経験的事物のなかの何ものかにかかわるとすれば、それは画像そのものがまず「自己形象化的」(autofiguratif)だからにほかならない。画像は「何ものの光景でもない」ことによってのみ、つまり、いかにして物が物となり、世界が世界となるかを示すため〈「物の皮」を引き裂く〉ことによってのみ、或る物の光景なのである。アポリネールが、詩のうちにはとても〈作り出された〉とは思われず、まるで〈みずから形になった〉としか思われない章句がある、と言った。そしてアンリ・ミショーが、時としてクレーの色彩は画布の上にゆっくりと生まれ、原初の根底から発出し、錆や黴のように「適地を選んで生えてきた」のではないかと思われることがある、と言っている。芸術は構成や技巧、つまり空間や外界への巧妙なかかわり方ではない。それはまことに、ヘルメス・トリスメギストスの言う「光の声とも思われた言葉なき叫び」なのである。

 放棄しなければならない根本的偏見とは、心理作用が当人にしか近づきえないものであって、私の心理作用も私だけが近づくことができて、外からは見えないものだとする偏見です。しかし私の「心理作用」は、きっちり自己自身に閉じこもって、「他人」はいっさい入りこめないといった一連の「意識の諸状態」ではありません。私の意識はまず世界に向い、物に向かっており、それは何よりも〈世界に対する態度〉です。〈他人意識〉というものもまた、何にもまして、世界に対する一つの行動の仕方です。そうであってこそ初めて私は、他人の動作や彼の世界の扱い方の中に、〈他人〉というものを見出すことができるわけでしょう。

 ここでわれわれに与えられているのは、今日の心理学の用語で言うなら、〈私の行動〉と〈他人の行動〉という二つの項をもちながら、しかも一つの全体として働くような〈一つの系〉なのです。私が私の身体図式を作り上げたり組み立てたりするにつれ、また私自身の身体についてだんだん組織立った経験をするようになるにつれて、私が自分自身の身体について持つ意識は、私がそこに埋没している混沌の状態から脱して、他人の名義に書きかえられうる状態になります。それと同時に、知覚されようとしている〈他人〉なるものも、もはや自己のうちに閉じこもった一つの心理作用ではなく、一つの行為、世界に対する行動となってきます。したがって、他人は彼自身のところから私の身体の運動的志向の圏内に入りこみ、かの「志向的越境」(transgression intentionelle)(フッサール)に身を投ずることにより、そのおかげで私は他人にも心理作用を認めたり、また私自身を他人の中に運びこんだりすることになるのです。フッサールは、他人知覚は「対の現象」(phenomene d’accouplement)のようなものだと言っていました。その言葉は、決して単なる比喩ではありません。他人知覚においては、私の身体と他人の身体は対にされ、言わばその二つで一つの行為をなし遂げることになるのです。つまり私は、自分がただ見ているにすぎないその行為を、言わば離れた所から生き、それを私の行為とし、それを自分で行ない、また理解するわけです。また逆に、私自身の行なう動作が他人にとってもその志向的対象になりうることを、私は知っています。こうして私の志向が他人の身体に移され、他人の志向も私の身体に移されるということ、また他人が私によって疎外され、私もまた他人によって疎外されるというそのことこそが、他人知覚というものを可能にするのです。

 もし鏡像の現象の中で〈他人の現前〉というものが果たしている役割を認めるならば、幼児が乗り越えなければならぬ難関の性格も、おそらくもっとよく規定することができましょう。幼児にとっては難しいのは、身体の視覚像と身体の触覚像とが、空間の二点に位置しているにもかかわらず実は一つなのだということの理解ではなく、むしろ鏡の中の像が自分の像であり、しかもそれは他人が見る自分、つまり他の主観に呈示される自分の姿なのだということを理解する点なのです。ここでの綜合は、知的で綜合ではなく、他人との共存に関する綜合です。
 他方、こうした事情をもっとよく考えてみますと、右の二つの解釈は互いに排除し合うものではありません。というのは、他人との関係を、単にわれわれの経験の一内容としてではなく、本当の意味での構造と見なさなければならなくなるからであり、そしてそう考えれば、われわれが普通に知性と呼んでいるものは独特なタイプの対人関係(つまり「相互性」という関係)を指す別な呼び方にすぎないということがわかって来、したがってわれわれの発達過程のどこをとってみても、〈他人との生きた関係〉が、抽象的に「知性」と呼ばれているものの支柱となり乗物となり拍車になっていることがわかってくるからです。
 このように考えますと、鏡像の現象の不安定さや変わりやすさも当然だということになりましょう。それは、われわれの他人や世界に対する感情的関係がそうであるのと同じことです。(中略)〈その過程は一度実現されると言わば自律的に活動するものでありながら、しかも同時に、まことに偶然的なわれわれの対人関係に関与しつつ、いろんな形で退化したり逆行したりすることもありうるのだ〉ということが、やすやすと理解できるようになりましょう。

M.メルロ=ポンティ 木田元他訳
『眼と精神』(みすず書房)

 

 かくして私たちは、私が初めて知覚を暗黙知の一例だとほのめかしておいた地点に舞い戻ることになる。私は次のようなことを言ったのだった。私たちは、身体的過程が知覚に関与するときの関与の仕方を解明することによって、人間のもっとも高度な創造性を含む、すべての思考の身体的根拠を明らかにすることができるだろう、と。(中略)
 私たちの身体は、それは知的なものであれ実践的なものであれ、すべての外界の認識にとって、究極の道具である。私たちは、目覚めているときはいつも、外界の事物に意識を向けるために、そうした事物との身体的接触を感知し、その感知に依拠しているのだ。私たちの身体は、私たち自身が普段は決して対象として経験することはないが、身体から発して意識される世界を介して経験する、この世で唯一のものである。私たちが自分の身体を外界の事物ではなく、まさに自分の身体として感じるのは、このように自らの身体を知的に活用しているお陰なのである。

 暗黙的認識において、ある事物に近位項(A)の役割を与えるとき、私たちはそれを自らの身体に取り込む、もしくは自らの身体を延長してそれを包み込んでしまう。その結果として、私たちはその事物に内在する(dwell in)ようになる。(中略)
 十九世紀末、ドイツの思想家たちは、「内在化(indwelling)」もしくは「感情移入(empathy)」が、人間や人文諸科学を認識するための適切な方法だと仮定していた。(中略)ディルタイは、ある人の精神はその活動を追体験することによってのみ理解されうる、と説いている。またリップスは、審美的鑑賞とは芸術作品の中に参入し、さらに創作者の精神に内在することだと述べている。私が思うに、ここでディルタイとリップスは、人間と芸術作品を理解するために応用される、暗黙知の目覚ましい一形態について述べているのだ。しかも、それがただ内在化によってのみ果たされるのだと語っている点は、当を得たものだ。しかし、暗黙知に関する私の分析に照らすと、それが人文科学と自然科学を截然と区別するものだと説いたのは、彼らの誤りであった。暗黙知の構造に由来するものとして内在化は、感情移入などよりはるかに厳密に定義される行為であり、かつて内在化の名のもとに呼ばれていたものをも含む、ありとあらゆる観察の下地をなすものなのだ。

 暗黙知は、身体と事物との衝突から、その衝突の意味を包括=理解(コンプリヘンド)することによって、周囲の世界を理解するのだった。この包括は知的なものであり、なおかつ実践的なものであった。だから包括的存在は拡張されて、自分自身の動作(パフォーマンス)は言うまでもなく、他人の動作とその他人自身をも含むものとされたのである。このとき私たちは、その向こうに生物学の全貌が見渡せるドアの前に到達していたのだ。(中略)包括的存在は、首尾一貫した現実の諸レベルが独特の論理で組み合わされたところにある。その概念は、人間の動作ばかりでなく、人間界と動植物を貫くあらゆる生物的レベルを包み込むに至る。それは階層化された生物の宇宙を顕現させるのだ。一個の有機体の内側では、より上位の原理が、逐次、すぐ下位の原理が未決定なままにとどめている境界を、制御する。上位原理は、自らが機能するために、下位の原理に依拠するのだが、下位の原理の法則に干渉することはしない。さらに、上位原理は下位原理の観点からは論理的に説明ではないので、下位原理を介して機能することによって不首尾に終わることもままある。
 生命が誕生する最初の創発(エマージャンス)は、後続するすべての進化段階の原型である。それに基づいて、進化の階段を昇っていく生命形態が、より高次の原理を携えて出現していくのである。

 もし私たちが、説明することのできない多くのことを認識しているならば、どうであろう。さらにもし私たちが認識して説明できる事柄ですら、それ自身を越える実在(リアリティ)とそれとの関わりに照らして初めて、真実として受け入れられるのだとするなら、どうであろう。ここで言う実在とは、その範囲も定まらないまま思いも寄らない結果を伴って、将来出現する何ものかのことなのだが。つまり、もし私たちがほんとうに、より広汎な、いまだ知られざる未来の発露によって、偉大な発見とか偉大な個性をきわめてリアルなものとして認識するとしたら、どうであろう。そのときには、完全に特定可能な根拠に基づく認識という考え方は、崩壊することになる。

マイケル・ポランニー 高橋勇夫訳
『暗黙知の次元』(筑摩書房)

 

 想像力は、語源が暗示するように現実のイマージュを形成する能力ではなく、現実を越えそして現実を歌うイマージュを形成する能力なのだ。それは超人間性 surhumanite の能力である。人間は彼が超人である度合いに応じて人間なのだ。人間の条件を越えるようにみちびく諸傾向の総体によって人間を定義しなければならない。活動する精神の心理学は当然、例外的精神のそれ、すなわち旧いイマージュに接木される新しいイマージュである例外的なもの(異常なもの)に誘われる精神のそれなのである。想像力は事物や劇以上に発明するものであり、新しい生命や精神を発明し、影像(ヴィジョン)の種々の新しいタイプを所有する眼をひらかせるのだ。想像力は自分が「種々のヴィジョン」を所有するかどうかを知るであろう。もしそれが経験とともに教育される以前に、夢想とともに教育されるならば、またもしも経験がおのれの夢想の証としてその後に到来するならば、それはヴィジョンを所有するであろう。たとえばダヌンツィオのつぎの言葉のように。

  最も豊かな事件は、われわれの心のなかで魂がそれに気がつくまえに到来するものである。そして可視のものの上に眼をひらきはじめるときには、すでにわれわれははるか以前から不可視のものに所属していたのである。

 不可視のものへのこの所属。これが原初の詩(ポエジー)であり、自己の内的運命に興味を覚えることをわれわれに可能ならしめるポエジーなのである。これはわれわれにたえず驚嘆する能力を返してくれることにより青春あるいは若返りの感化を与えてくれるのだ。真のポエジーとは目を覚まさせる機能のことである。

ガストン・バシュラール 小浜俊郎他訳
『水と夢』(国文社)

 

フランシス・ベイコン
「思うに、写実的な絵(イラストレーション)は、描かれている形態が何なのかを知性を通して直接的に伝えますが、一方、非写実的な絵はまず感覚に作用し、それからゆっくり少しずつ現実の姿と溶け合ったイメージを形成するのです。どうしてそうなるのかは、わかりません。現実自体が非常に多義的であり、姿かたちも実はたいへん曖昧なのだ、ということに関係があるかもしれません。だから、非写実的で曖昧な記録のほうが現実に近づけるのでしょう。」
「唯一、自分の絵に望むのは、直接的に見えてほしいということです。こんなことを言うのはうぬぼれかもしれませんが、ときどき思うのは、優れた作品には直接性があるということなのです。」
「自分が望んだイメージを描くにあたって非合理な方法をとった場合、自分で理解できる描き方をした場合と比べて、神経組織をより強烈に刺激する絵ができるのはどうしたか、ということを私はかねてから分析しようとしてきました。非合理な描き方をしたほうが合理的に描いた場合より姿かたちのもつリアリティーを強烈に表現できるのは、なぜでしょう。たぶん、直観的な描き方をしたほうが、絵が直接的になるのでしょう。」
「もうひとつ言いたいのは、深層が必然性を保ったまま表面化するということです。脳の働きに干渉されることなく、必然的なイメージがストレートに湧いてくるのです。いわゆる無意識から無意識という泡に包まれたまま、つまり新鮮さを保ったまま、まっすぐ出てくるという感じです。」

デイヴィッド・シルヴェスター 小林等訳
『肉への慈悲』(筑摩書房)

 

 美となりうるものは、理想的な、来世的な、調和的な、論理的な秩序の存在を暗示し、しかも同時に――原罪の傷痕として――体系全体を狂わせてしまう、一滴の毒、支離滅裂のきざし、一粒の砂を含むものに限定されるだろう。あるいは、逆にいって、理想美のしずくに照らされれば、この滓なり毒なりが美となるだろう。したがって美は、破壊されるものと再生されるものの作用によってのみ存在し、あるときは潜在的な嵐に引き裂かれる静けさとして、あるときは自制し無感動の仮面の下に内面の嵐を抱えこもうとする狂乱としてあらわれるであろう。美のすべては、つねに、活力として働く次の二つの極のあいだに示されるだろう、すなわち、一方は、不朽・至上・造型の美のまっすぐな要素と、他方は、不幸・災難・罪業と隣りあったおぞましい歪んだ要素と。あらゆるものは、われわれの内部構造の神話的解釈として、われわれのさまざまな矛盾を唯一の一致のなかに解消させる限りで、われわれを感動させるのだが、それと同じように、美は、理論的にいえば、擾乱の様相よりはむしろ、渾然とした格闘や絡み合いの様相、より正確にいえば、直線と曲線の交接、規則とその例外の婚姻ともいうべき、一種の接触(タンジェンス)の様相を帯びるであろう。しかし、すぐにわかることだが、この接触の形態そのものも所詮、実際には到達しえない理想の極致にほかならぬものであり、また、いかなる美的感動――もしくは美の近似値――も究極的には、おぞましい要素をその至高の形態のもとに表現するあの間隙、すなわち、強制的な未完成、われわれが空しく埋めようとする深淵、われわれの滅びにむかって口をひらく亀裂のうえに、植えつけられるものなのである。

 エロチスムや放蕩の本質そのものに、屈折したり違犯したりしようとする(少なくとも、度を越えた派手な行動をして限界を越えようとする)欲求があるとすれば、愛の行為には、それがどんなにあっさりと行なわれようとも、あの罪業の、あの既成的な枠の破壊の、原初的な痕跡が見出されるのだ、たとえ愛の行為が、少なくとも反社会的な完全なる裸体生活への潜航を意味しているからだとしても。

 エロチスムと、人間の肉体(全裸に近い、あるいは象徴的に衣服を脱ぎ棄てたというべき)が中心となるそのほかの活動は――たとえば、《闘技》とよばれるスポーツに結びつく活動――とを本質的に区別するのは、あの歪んだ要素の存在であって、この歪んだ要素とまっすぐな要素の交叉から――臨終の恐怖の傷痕として――聖なるものの(ル・サクレ)の感情(すなわち、平俗を超えていると同時にそこから排斥され、比類なきものであると同時に法律の保護外に置かれ、魅惑にみちたものであると同時に拒絶されたものであるゆえに、めくるめく尖端に位置する、隔離された、あるいは《禁忌(タブー)とされた》なにものかの感情)が炸裂するのであり、この聖なるものの感情こそ、われわれがもはや無限小の裂孔によってしか接触(タンジェンス)から引き離されないあの瞬間に、突如として、二つのもの――歪んだものとまっすぐなもの――の悲鳴をあげる結合を照らしだす火花なのである。

ミシェル・レリス 須藤哲生訳
『闘牛鑑』(現代思潮社)

 

 私はほとんど考えない。それで、感ずることをすべて理解する。私は肉体によって感じている。知性によってではない。私は肉体である。私は感情である。私は肉体と感情の中に住む神なのだ。私は人間であって神ではない。私は単純なのだ。私は考える必要はない。私は自分自身に感じさせ、感情によって理解しなければならない。(中略)
 世界は神によって作られた。人間は神によって作られた。人間が神を理解することは不可能だ。しかし、神は神を理解する。人間は神の一部である。それで時として神を理解する。私は神であり人間である。私は心を持った動物である。私は肉体である。しかし私は肉体から生まれたのだ。神は肉体を作った。私は神である。私は神なのだ。神なのだ。…

 私は感じたときはいつでもそれを実行する。私は決して感情に逆らわない。神は私にどうしたらよいか命令をくだす。私は回教の行者や魔法使いではない。私の身体の中には神がいる。誰もがその感情を持っている。しかし誰もそれを使わない。私はそれを使う。そして、その結果を知っている。人々はこの感情が精神的な陶酔状態だと考えている。しかし私は陶酔状態ではない。私は愛だ。私は夢の中にいる。愛の夢うつつの中にいる。私はたくさんのことを言いたいが、言葉が見つからない。私は書きたいが書けない。私は夢の中で書くことができる。この夢の状態は「叡知」と呼ばれる。誰もが知性的な存在である。私は知性的でない存在を望まない。だから私はひとに感情の恍惚の中に陶酔してもらいたい。私は神という薬の中にいる。私は私が眠ることを望んでいる。人々は私が書いたものを馬鹿げたことだと言うだろう。だが実際は深い意味を持っているのだ。

ヴァーツラフ・ニジンスキー 市川雅訳
『ニジンスキーの手記』(現代思潮社)

 

私は死んでいる。なぜなら欲望がないから、
私は欲望がない、なぜなら所有していると信じるから、
私は所有がしていると信じる、なぜならあたえようとしないから、
あたえようとすると、なにももっていないことがわかる、
なにももっていないことがわかると、手に入れようとする、
手に入れようとすると、自分がなにものでもないことがわかる、
なにものでもないことがわかると、なにかになろうと欲する、
なにかになろうと欲すると、見えてくる。

ルネ・ドーマル 巖谷國士訳
『類推の山』(河出書房新社)

 

 私は知っています。アントナン・アルトーは見たのです。ランボーや、ランボーより以前にノヴァーリスやアルニムが、見ることについて語ったような意味で、見たのです。『オーレリア』が出版されて以来、このようにして見られたものが客観的に見うるものと一致しないなどということはほとんど何の意味もなくなっています。その一員たることにますます誇りが持てなくなっているような社会が、相も変らず人間にたいして、鏡の裏側に抜け出したことをつぐないえぬ罪として責め続けているというのは悲劇的なことです。(中略)私が、アントナン・アルトーにおいて敬意を表するのは、それを生きることで死んでしまうようないっさいのものにたいする死にものぐるいの、英雄的な否定の運動です。

アンドレ・ブルトン 粟津則雄訳
『野をひらく鍵』(人文書店)

 

1.存在の可能性は各個人の経験を通じてのみ顕現する。
2.この書は各個人の意識の聖性を啓示する。
3.すべての男女は神聖なる個であり、主権者にして不可侵、唯一にして必要である。
4.各個人は無限の可能性を有する。ゆえに各無限の総和も無限にして同一である。
5.《獣》の作業は人類に開かれている可能性を提示することである。
6.これを達成するために、《獣》は人格を捨て、各個人に共通する非個人的本質となり、感じ、語る。
7.歴史の現時点に於いて必要とされる本質的真理は、《獣》のHGAであるアイワスによって啓示される。アイワスという名前自体が《法》そのものの観念および《永劫の術式》を表現している。かれは《沈黙の神》の寵児と称される。あたかもかれのメッセージは霊的均衡を妨害するものではなく、現存する錯誤の修正手段であると宣言しているようである。
8.個人の顕現した特質はかれの本質の表現であるが、かれの本質は表現を調査しても発見できない。
9.ゆえに人類は現象的顕現の背後にある内奥の真理を求めねばならない。これを発見すれば、現実的特質のみでも十分に本質を表現できるという自らの可能性の全体像を意識するであろう。
10.自然は各個人のすべての可能的現実体験に於いての自己実現を意図している。この意図を完成させる作業に従事する適性を有する個人も、あるいは人知を越える存在も、ほとんど皆無といえる。
11.常人は自らの虚栄の幻影像にそって一個の理想を神や英雄と称し、これを建造し、崇拝する。
12.私は人類に訓戒を与える。現実に直面することを恐怖するあまり、自分のなかにこしらえた避難所に身を隠すことをやめよ。私は人類に命令する。他者もまたそれぞれの無限の可能性を実現するために存在していることを認識せよ。また、他の存在と結合することによって自らの不完全性を充足させていることを認識せよ。
13. 個人は自らの可能性という高みに登攀しなければならない。可能性はすべてかれの本質のなかに内在している。可能性は実現によって自己充足する。実現は不完全感から生ずる痛痒を癒し、無上の喜びを与えてくれる。
14.愛の行為はすべて創造の悦楽を再燃させ、宇宙を再創造する。新たなる力と可能性があらゆる既存の達成から再生される。
15.人間の可能性は無限であり、実現を要求している。《獣》はこの事実を保証するために選ばれている。この作業に協同する女はかれの理念にかたちを与える。ふたりの共同が人類を鼓舞し、ふたりのあとに続かせる。結果として人類は各個人の意識の精妙なる本質を自覚するであろう。
16.かくして《獣》は《光》と《生命》の根源であり、宇宙の本質を明瞭に理解した者に《光》と《生命》を惜しみなく与える。女の機能は《獣》の光を反射して、いまだ五里霧中ながらも熱望する者たちを照らすことにある。《獣》は個の原型であり、《女》はかたちの原型である。獣は女を通じて自らを表現できる。
17.《獣》と《緋色の女》はこの教義を開陳する権限を有する唯一の者たちである。
18.創造的天才は個的存在の精髄であり、かれらによって惜しみなく顕現される。
19.すべての可能性はかれらによって実現され、かれらのものとされるであろう。
20.達成のための一般的方法は、ABRAHADABRAという言葉によって説明される。その効能は次のように解説されよう。自分を宇宙の完全なる表現とするために、いかなる要素が欠落しているか、熱望者たる者、それを自分の手で実現しなければならない。続いてかれは自分に欠落している観念を補充すべく、あらゆる手段を講じる必要がある。究極的には、およそ考えられるかぎりの観念をあたってみても、自分のなかには不十分な要素は皆無であるという段階にまで至らなければならない。

…………………………………………………………

 われわれの宇宙観はまったく肉眼に依存しているということである。すなわち筋肉と神経組織の機械的システムの機能に依存している。(中略)また私は、“宇宙”が各人の生存期間中体験の枠内にあることも見抜いた。

アレイスター・クロウリー 江口之隆訳
『魔術日記』(国書刊行会)

 

可能なものは極薄(※)である。
※inframince アンフラマンス。薄さの下、薄さ未満、薄さでさえない―引用者

厚さ 以下の 以下の‐厚さ

可能なものは何かになることを含んでいる――ひとつのものから他のものへの移行は、極薄において起こる。

(人が立ったばかりの)座席のぬくものは極薄である。

大量生産による〔同じ鋳型から出た〕二つの物体の差(寸法上の)は、最大限(?)の正確さが得られたとき、極薄である。

時間の中で、ひとつの同じ物体は、一秒たてば同一物ではない――同一律といかなる関係?

タバコの煙がそれを吐き出した口と同じように匂うとき、二つの匂いは極薄によって結ばれる(嗅覚的極薄)。

70+40=110 大声でまた小声で(とりわけ心の中で唱えると) 70+40は、110以上になる――(極薄によって)
美的恍惚(エステティック・エクスタティック)

水および、たとえば溶けた鉛あるいはクリームを、同じ型の容器に入れ、中身の液体(水、溶けた鉛あるいはクリーム)をほとんど動かさぬようにしながら、容器をまわしたときの容器の内壁との接触の差――二つの接触の間の差は極薄である。

色を塗っていない側から見たガラス絵は、ひとつの極薄をもたらす。

矢印記号の慣習は、受け入れられた移動の方向に関して、極薄の反応をうみだす。

眼は極薄の現象を定着する。

寓意(一般)は極薄の適用である。

極薄の愛撫

色彩と極薄 透明性は色彩を極薄に“やわらげる”。

極薄な分離。
同じ鋳型(?)で型打ちされた二つの物は、たがいに極薄の分離値だけ異なる。
すべての“同一物”は、どれほど同一であっても(そして同一であればあるほど)、この極薄の分離的差異に近づく。

双子を二滴のしずくに似させているような言語上の一般化(「瓜二つ」)を便宜的に受け入れてしまうより、二つの“同一物”を分ける極薄の間隔を通りぬけようとするほうがいい。

やすりかけ―― 研磨――
極薄のやすり。紙やすり――布やすり 漆みがき しばしぱこれらの操作は極薄に達する。

色以上に極薄な匂い

反映――ある種の木材の上での 表面でたわむれる光。パースペクティブによって動かされる極薄。

極薄の隔離!
いかにして隔離するか――

極薄を模倣し仮定し希望する透明
滑る石鹸 滑り摩擦。スケート

無為の極薄の住人

すれすれ。ひとつの平面をもうひとつの平面とすれすれに置こうとするとき、人は極薄の瞬間を通過する――

マルセル・デュシャン 岩佐鉄男訳
『極薄(アンフラマンス)』(ユリイカ/青土社)

 

 あなたは、ぼくがどんなふうに作曲するのか、それを知りたいとおっしゃる。ある程度長い曲を書く時、どんな方法によるのか知りたいとおっしゃる。この件については、本当に、次のことしかいえません。というのも、ぼく自身それ以上何にも知らないのだし、また、それ以上を当てにするわけにいかないからです。ぼくが完全にぼく自身である時、全くひとりぼっちで、しかも機嫌がよい時――そう、たとえば、馬車で旅行してるとか、ご馳走のあと散歩してるとか、夜眠らないでいるとか、そういう場合、ぼくの楽想は一番よく、一番ふんだんに流れてくるのです。何時(いつ)、どんなふうにくるのか、ぼくにはわかりませんし、力ずくでこさせるわけにもいかない。自分の気に入った楽想はしっかり覚えておき、前にもお話したように、自分に唸ってきかせる癖がついてます。そうやってるうちに、間もなく、あれこれの断片を料理して、おいしいご馳走にするにはどうしたらよいか、つまり対位法の規則にもうまくのり、いろいろな楽器の特殊性によくあうようにするのにはどうすればよいかが、わかってくる。
 こういったことが集まって、ぼくの魂に火がつき、邪魔されない限り、ぼくの主題は自分でだんだん大きくなり、方法化され、限定され、たとえ長いものだろうと、全体が、ほとんど完全に仕上がった形で心に浮かんでくるので、いってみれば一幅のきれいな絵とか美しい彫刻のように、一目で見渡せるようになります。これは想像の中で、だんだんにきくのではなく、いわば何もかも、全部いっぺんにきいてしまうのです。それがどんなに愉快か、とても口ではいえません! こうした発明や仕上げは、楽しい生き生きした夢の状態で起こるのです。何が楽しいといっても、この全体をいちどきにきけるということほど、いいものはありません。いったん、とうしてでき上がったものは、ぼくは容易なことでは忘れない。恐らく、これが、ぼくが神様に一番感謝しなければならない贈物でしょう。
 ぼくの楽想を書きつける段どりは、いまお話したようにしてあらかじめ集めておいたものを、いってみれば、記憶の袋から引きだしてくるだけの話です。そんなわけで、以上のように何もかもすでにでき上っているのですから、紙に書きこむのは実に早くできるのも当然だし、そうやって書かれたものが、前にぼくの想像の中にあったものと違うこともめったにありません。だから、この仕事をしている時は、邪魔があっても割と平気で、まわりで何が行なわれていようと書いていられますし、話に口を入れることだってできます。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 吉田秀和訳
『モーツァルトの手紙』(講談社)

 

 ランボーにおいては、イメージが、無用の語に妨げられることなく、くっきりと立つ。この描写の直接性にすこしでも似たものを求めるとなると、カトゥルスへ、おそらく dentes habet (歯をもっている)の句を含む詩へ遡らなければならないだろう。

エズラ・パウンド 沢崎順之助訳
『詩学入門』(冨山房)

 

 彼は妙なことを云います、(中略)彼の云うことはかずかずの夢です。―それにしても、それは彼に熱のあった時と全然同じものではありません。まるで、特別な夢を見ているようです、そう私には思われます。(中略)殆ど物質的なところのない存在なので、彼の思想はわれ知らずに漏れるのです。時々彼はお医者さまたちに、彼が見るような異常なものを見るかどうか尋ねています。そうして彼等に話しかけ、しずかにかずかずの印象を物語っています、とても私なぞに現すすべもないような言葉で。

イザベル・ランボオ 菱山修三訳
『死に臨むランボオ』(白馬書房)

 

スティーブ・レイシー
 「ジャズがジャズであることを誰も認めることができ、そうしたことを容認させうる共通の文化的アイデンティティのひびがなかったとき、それは可能であったかもしれません。
 つまり疑いもなく共通のコンテクストの上で語るという語法がです。今や即興演奏はそうした共通なコンテクストの上での語法ではありえません。誰もが分裂したものを抱えているのです。そしてそれぞれが自己のコンテクストを組織し、そして文法も語法も自ら生み出さなくてはならなくなってきてさえいるのです。
 我々はもはやある確たるコミュニティに自己が属するという幻想すら持ちえませんし、そうしたコミュニティやコンテクストを確信することなど、ましてできないのです。すでにパーカーが、そしてロリンズやドルフィーが、さらにモンクがそうでした。」

 「即興演奏は、とくにソロはもっともシンプルで基本的な生と死の秘儀、確かにそのとおりだと思います。そして、何よりもコンクリートなものであり、〈体験的な〉〈同時体験的な〉ものだと思っています。私の考えや体験を、フィーリングを与える――または外に出す――のではなく、演奏者と聴衆のそれぞれ共通の体験の基盤=底へ働きかけるものだと思っています。演奏者自身もその演奏だけを体験するのではなく、そこに生起するすべてを聴衆とともに体験しなくてはならないのです。演奏者が自分の演奏だけに眼を向けるとエゴイスティックになりすぎ、体験のスペースは狭くなってしまいます。そして、一方的になってしまうのです。」

 「私はソロを演奏するとき、いやいつも演奏するときですが、二つの自分の位置を想定します。つまりいま行っている行為のまさにそこ、その只中にいつづけようとする私と、私の演奏行為の中心から離れて、ホールの一番後ろでじっと客観的にその演奏行為を見ている私とです。私のうちへと向かっていく私と、およそ私のそのような在り方と無関係に部屋の外で、あるいは通りの向こう側で、そう、例えば二つほど通りをへだてた広場のベンチで、じっと座っている私とです。この二つの私が、私が演奏するにはいつも必要なのです。不用意に熱中しないためには、またあらゆる方向へ行ってしまわないためには、またそしてつまらない無機的な死んだ演奏にならないためには、その両方の私が同時にいつづけることが必要なのです。(中略)それはうぬぼれないための、そして自分の未熟さを見つけるための、自覚の方法なのです。」

間章『この旅には終わりはない』
(柏書房)

 

 

「悪銭身につかず」とはいうものの、芸は、盗んだものしか身につかないんです。

某ピアニスト

 

 アンクル・ロイが、ぼくを見てこう言った。
「タダシ、判断を急ぎすぎてはいけない。何が起きているのか、よーく見るんだ。そうすると、いつしか頭ではなく、ハートが『よし!』と判断をくだすときが来る。それを覚悟というんだ」
 この言葉は、強烈に心に響いた。

「ワシテ!」
 ラコタ族の人たちは、この言葉を好んで使う。「よっしゃ!」とか「OK!」というニュアンスの言葉だ。頭ではなく心で納得できたとき、ある種の覚悟が決まったとき、彼らの口から出る言葉が「ワシテ!= よっしゃ!」なんだとぼくは受けとめている。ぼく自身も大切にしている言葉のひとつだ。
 もうひとつ、ぼくの好きなラコタ語がある。それは、
「ワァナホー」
 という言葉だ。これは英語で言うと、
「Ready?」
 に当たる言葉で、それに対して
「ワァナ!」
 と応えるとき、
「今こそ、そのときだ!」
 という意味になる。

 アンクル・ロイは、よくこう言っていた。
「ハートが判断をくだして、いよいよ覚悟が決まったらなあ。そこから先は、すぐに行動に移すんだよ」
 じっくり自分に問いかけて、覚悟が決まれば、
「ワァナ!」
 で、今こそ歩き出そう。
 自分のハートが「よし!」と言ったことに、人は決して後悔しないものだと思う。

松木正『自分を信じて生きる インディアンの方法』
(小学館)

 

「治療師はワカン・タンカと助手たちが人びとを助けるときに、彼らがそれを通して働くための穴のようなものだと、ブラック・エルクは言っていましたが、あなたもそのように思われますか?」
「わたしたち[ブラック・エルクと彼]はそれについて何度も話し合ったよ。高き力がわたしたちに同じことを教えたという点では意見が一致したね。われわれは穴のようなものなんだ。しかし、わたしは治療に中空の骨を使うので、治療師は『小さな中空の骨』だと考えることにしているよ」
「治療師たちはみんな、ワカン・タンカ、トゥンカシラ、助手たちにとっての中空の骨、彼らがそれを通じて働くための道具なんでしょうか?」
「そこを通り抜けていくんだよ。パワー(力)はまずわたしたちを満たし、わたしたちをそれにふさわしいように変えてから、そこを通って他人へと流れていくんだ」

「力を受け取っても、それが自分から動きはじめることはない。力を動かすには、わたしたちの側にそれ以上のものが必要だ。高き力の指示に忠実に従って、みずからの信頼と決意を示さなければならない。まず最初に、彼らの召使として多くの人を助けたいという決意を示さなければならない。そのためにクエスト(探求)をするんだよ。昔ながらのやり方で場所を準備し、そして探求を行う。そのとき想念や道具を一つ一つ使っていくことで、わたしたちは古くからの道を一歩また一歩と進んでいく。ひとつの想念や道具が次のそれにつながって、最後には探求の目的地へと到達する。わたしの言い方だと、それは『生命のダンス』の道を歩くことだ。実際のダンスはその一部にすぎないんだよ。この歩みはわたしたちが死ぬまで続く」

トーマス・E・マイルス 澤西康史訳
『フールズ・クロウ 知慧と力』
(中央アート出版社)


 私の第一歩は、ローリング・サンダーが「理解」という言葉を用いて伝えようとしているものをまず学ぶことだった。彼のいう「理解」とは、官僚的な既成の現代的教育システムが私に信じこませようとしてきたたぐいのものではなかった。

 ローリング・サンダーが「エスタブリッシュメントのマインド」つまり「官僚的な、すでにできあがってしまっている心」と呼ぶところのものにとっては、「理解」とは単に相当数の思いつきや考え方があれやこれややりくりされているうちに、そこへ新しく入ってきた考え方が、それまであったものの中にうまく収まっていくまでの、どちらかといえば低レベルな、ちょっとした情報処理ともいえるものにすぎないのであった。新しい考えがそうやって古い考えの中にしっくりと収まることによって、心は「知の感覚」を与えられて満足することになるのだ。そしてその人物は、単に自分の立てた仮説がすべてうまいところに当てはまったことに満足し、そしてこう言う。「私は知っている」と。
 ローリング・サンダーにとっては、しかし、知るということは存在することであった。「天の配列」というものについての彼の簡潔な解説によれば、この宇宙にあるものにはことごとく「正しい時間」と「正しい場所」とが存在する。そしてこのことは、口で話したり、頭で考えたりするいかなるプロセスによっても、およそ理解できるようなしろものではないのである。ローリング・サンダーは「言うことは簡単だが、それを理解することは難しい。理解するためには、それを生きなければならない」と言っていた。この言葉の意味するもの、つまりローリング・サンダーが「すべてのものには正しい場所と時間があり、そのことを理解するためには、人はそれを生きなくてはならない」と語る時、彼は人がその「正しい時」と「正しい場所」の一部になるということについて語っている。彼は正しい時と正しい場所とを理解する。だからこそ彼は正しい時と正しい場所の一部でもあるのだ。このことはつまり、夏の花にとっての正しい時と正しい場所を、ある程度は彼が決めることができるということなのである。

 ローリング・サンダーが煙草なしではいられないような人間ではないことを私も知っていたけれど、おそらく彼のパイプが今は煙草を非常に必要としていたのかもしれない。あまりにも出発をせかしたために煙草を置き忘れたことで、つむじを曲げているのではないだろうかと私は考えた。
 あるいはもしかしたら、こうやって朝の一時を楽しんでいるだけのことなのかもしれない。後ろの席からは彼の顔を見ることができなかったが、とにかく彼が大丈夫なことを願った。そしておそるおそるこう切り出した。
「大丈夫、はじまるまでにはまだ余裕がありますよ。(中略)」
 その瞬間ローリング・サンダーがパチンと指を鳴らした。
「そうら、うまくいった! これでもう大丈夫だ! やっとここに来たぞ!」
 そう言いながら彼は自分の席でこちらを振り返り、腕をぬっと突き出してその手に握ったものを私に見せたのである。なんとその手には煙草の袋が握られているではないか。
「どこにあるかははっきりわかっていたのだ。どこにあるのかがはっきりわかっている時には、こうしたことはそれほど難しいことじゃない」
 彼は手に持った煙草の袋をぶらぶらさせながら、顔中を笑顔にして笑った。そしてそれから真顔になって私を見て言った。
「このようなことはできるものなのだ。本当に必要な時には、それはできる」

ダグ・ボイド 北山耕平他訳
『ローリング・サンダー』(平河出版社)

 

第1の仮説:シャーマンは、この世界を振動(バイブレーション)から成り立つものとして理解している。
第2の仮説: シャーマンは、神話やヴィジョンを介して、世界を見ている。
第3の仮説:意識の変容状態で現実を知覚する。
第4の仮説:シャーマンは、現実に関して患者が抱いている固定観念を揺るがせるために、あらゆる手段に訴える。
第5の仮説:シャーマンは、あらゆる事象は宇宙の中で結ばれていると理解しており、何に物理的な意味を持たせるかを自由に選び取る。
第6の仮説: シャーマンは、並行世界(パラレル・ワールド)に入る。
第7の仮説: シャーマンは、高位の力を意識しながら仕事をする。
第8の仮説: シャーマンは、愛や性的なエネルギーを癒しに利用する。
第9の仮説: シャーマンは、死の世界を訪れることで、この世界を知覚する能力を変化させる。

 われわれは彼に、どのようにして宇宙に意識が生まれたのか尋ねた。この問いに対する彼の答えが、わたしのその後の研究の方向に決定的な影響を与え、シャーマン的な世界へ足を踏み込ませることになった。彼は、わたしに教えてくれた。心は、〈いま、ここ〉から、〈別の時間、別の空間〉への運動と、それに逆行する運動からなる二重の流れの中で生まれたのだ。言い方を換えると、われわれの心は、時間に拘束されていなかったのだ。最終的には、この認識が、シャーマンの技を理解する助けになった。

 多世界解釈によれば、われわれが日々経験しているこの世界は、考え得るすべての世界の重ね合わせなのだ。だたし、それぞれの現実に割り当てられた確率は、一定ではない。一部の現実には、かなり大きな確率が割り当てられているので、われわれは通常、ここにだけ注意を向けている。それらは互いによく似ているので、別々の世界を経験した人たちが集まって自分の経験を語り合ったとしても、どこに違いがあるのか気がつかないだろう。違いが少ない似たような現実が重ね合わせられた世界のことを、われわれは、「普通の現実」「見たままの世界」などと呼んでいる。
これとは違った現実も存在する。
 いわゆる「常軌を逸した」世界である。シャーマンは、体外離脱、動物への変身、過去や未来へのタイム・トラベルなど、普通には考えられないような経験をする。けれども、これらが実現する確率は、ゼロではないのだ。ただし、これらに割り当てられる確率はきわめて小さいので、われわれは通常、そこに注意を向けることはない。
 たまたま個人的に経験した場合には、自分は異常な現実を見た、あるいは異常な経験をしたというだろう。さらに、集団でそんな経験をすることがあったとしたら、われわれは、物理学の法則――少なくともニュートンとマクスウェルの古典的物理学の法則――が破られたと言うしかない。けれども、量子物理学においては、これらの奇妙な現実を考えに入れないことには、原子や分子のプロセスのごく基本的な部分でさえ説明できないのだ

フレッド・アラン・ウルフ 小沢元彦訳
『聖なる量子力学9つの旅』(徳間書店)

 

 人生は、ときどき混沌としているように思われるかもしれないけれど、ホントはそうじゃない。人生は、大きく波打っていて、僕たちはその波頭にとらえられている。その波をコントロールしようとすれば、僕たちは泥沼の闘いに引き込まれる。その波をやり過ごして、生き延びようとすれば、僕たちはたちまち血祭りに上げられるのだ。でも、もう一つの選択肢がある。人生の波の動きの法則をつかんで、うまく波乗りをする術を教わればいいんだ。

フレッド・アラン・ウルフ 竹内薫訳
『大きく考えるための小さな本』
(サンマーク出版)

 

 スーフィーは、シャリーア(聖法)を越えた知識の外的状態を真に理解すると同時に、瞑想と唱名によって内的真理との合一を試みる。到達する者とは、まず神を目指して、さらには神の中へと旅したのち、神によって知る者の意である。探求の目標は、個我(エゴ)を退け、「絶対存在(絶対者)」が、自分自身を通して、自分自身を知るようにさせることである。「巡礼、遍歴、道、とは個我から『自己』への旅にほかならない」と、ファリード・アッディーン・アッタールは述べている。(中略)
 この死の瞬間、魂の多様性(感覚的および超感覚的能力)は消え去り、存在一性のヴィジョンが空になった魂を満たす。このとき、人は絶対的一者性の中に神を見る。その後、人が多様性の意識に戻ったとき、霊は万物に戻る。
 「存在一性論」の究極の意味は、「存在する真実の姿で事物を見ること」である。つまり、すべては自分自身の存在という鏡に反映されていると気づくことである。それは万物を神とは別個のものであると見なす人間の世俗的意識の消滅であり、人間が神から離れていたことは一度たりともなかったと気づくことである。そして、絶対的一者性としての神は、遍在していると同時に超越していると気づくことである。

ラレ・バフティヤル 竹下政孝訳
『スーフィー』(平凡社)

 

 階段の下の方の右手に、耐え難いほどの光を放つ、小さな、虹色の、一個の球体を私は見た。最初は、回転していると思った。すぐに、その動きは、球体の内部の目まぐるしい光景から生じる、幻覚にすぎないことを知った。〈アレフ〉の直径は二、三センチと思われたが、宇宙空間が少しも大きさを減じることなくそこに在った。すべての物(たとえば、鏡面)が無際限の物であった。なぜならば、私はその物を宇宙のすべての地点から、鮮明に見ていたからだ。

 私は、波のたち騒ぐ海を見た。朝明けと夕暮れを見た。アメリカ大陸の大群集を見た。黒いピラミッドの中心の銀色に光る蜘蛛の巣を見た。崩れた迷宮(これはロンドンであった)も見た。鏡を覗くように、間近から私の様子を窺っている無数の眼を見た。一つとして私を映すものはなかったが、地球上のあらゆる鏡を見た。ソレル街のとある奥庭で、三十年前にフレイ・ベントスの一軒の家の玄関で眼にしたのと同じ敷石を見た。葡萄の房、雪、タバコ、金属の鉱脈、水蒸気、などを見た。熱帯の砂漠の凹地や砂粒の一つ一つを見た。インヴァネスで忘れられない一人の女を見た。乱れた髪を、驕りたかぶった裸を見た。乳房の癌を見た。以前は木が植えられていたが、歩道の土の乾いた円を見た。アドロゲーの別荘を、かのフィレモン・ホランドの手になる、プリニウス英訳の初版本を見た。あらゆるページのあらゆる文字を同時に見た(子供の頃の私は、閉じた本の文字たちが、夜のうちに、混ざり合ったり消えたりしないのが不思議でならなかった)。夜を、同時に昼を見た。(中略)あらゆる点から〈アレフ〉を見た。〈アレフ〉に地球を見た。ふたたび地球に〈アレフ〉を、〈アレフ〉に地球を見た。自分の顔と自分の内臓を見た。君の顔を見た。そして眩暈を覚え、泣いた。なぜならば私の眼はあの秘密の、推量するしかない物体をすでに見ていたからである。人間たちはその名をかすめたが、誰ひとり視てはいないもの、およそ想像を絶する、宇宙を。

 ホルヘ・ルイス・ルヘス 鼓直訳
『アレフ』(岩波書店)

 

 暗い夜の闇の中で、誇示(みえ)のために事をなす人が、純粋な動機の人からはっきり浮き立って見える。夜、偽善があばかれる。普通の事物は夜の闇に覆われて姿を消し、昼の光の中で正体を現すのに反して、誇示(みえ)の人は夜あばき出される。
 「誰も見ている人がいない今、一体誰のために私はこのことを為るのか」と彼は考える。
 これに対してこう答える人々がある、「誰か見ている者がある。だが、お前がその誰かを目のあたり見るまではお前は誰でもないのだ」と。

『ルーミー語録』
井筒俊彦訳(岩波書店)


山折

「仏教、特に密教のものの考え方というのは、色々な立場があるわけですけれども、一つには、仏でも菩薩でも守護神でも、これらをすぐさま具象的イメージとしてとらえる。つまり権化の思想―incarnation―というものがある。これに対して日本の神道の考え方には目に見えない神霊が遊幸し憑着するという感覚がどうも基礎になっているように思うのです。こういう遊幸し、憑着し、そして祟るといった機能を抽象して言えば憑霊 ―possesion―というふうに言うこともできるのではないでしょうか?」

五来
「基本的には憑霊だと思います。だから天照大神の姿は誰も見たことがない。天照大神の御杖代として遊幸するのは倭姫命ですし、天照大神が稲を食べているのは、倭姫命が食べているのです。修験道の神や仏は山伏に憑依するが、その笈の中に籠められて、いわば山伏と一体となって歩くわけです。「善光寺縁起」は、本田善光が難波から信濃へ下るとき昼は善光が 如来を背負い、夜は如来が善光を背負ったなどといいます。一体化しているのです。法然の弟子の念仏房については「阿弥陀如来の使者なり」ということが言われている。そういうのは遊行者に阿弥陀如来が依り憑いているわけです。だから庶民信仰ではその人がそのまま仏なんで、これが日本人の即身成仏の考え方です。密教の三密瑜伽の即身成仏とは違うのです。この辺のところ、教条的な密教にとらわれていたら、日本の密教、とくに山岳信仰を基底にすえた日本密教はわかりません。日本人は神さまがその人に宿っているから「即身成神」、それを仏さまに転換して即身成仏なのです。少し論理が違いますわね。密教学者は五来は 密教を誤解しているというかもしれないが、日本密教も日本仏教も、インドの密教、インドの仏教の誤解の上に成立したのです。三密瑜伽したら大日如来と凡夫 が一つになるということは理論ですけどね。日本人は苦行の結果、精進の結果でないと三密瑜伽しないのです。それが黙って座って、印を結び、真言をとなえ三摩地に住したら、ぱっと光りを放って「八宗論大日」の絵みたいに、弘法大師が大日如来に変わったというのは子供だましのお伽話であって、面白いとは思うが、話す方も聞く方も本当と思っていない。人間にできない苦行、山籠もりをした行者に対してのみ、その人の言うことは神の言葉だ、不動明王の言葉だというような受け取り方をしているわけです。修験道は非常に原始宗教的で、マジコ・リリジャスであると同時に、シャーマニスティックですね。(…)」

山折
「そうすると、いわゆる本地垂迹曼荼羅などに出てくる法体、俗体をした神々というのは、あれはやはりそういう考え方がそのままあらわれたものということになりましょうか。人間の姿そのままで……。」

五来
「修験道の神というのは、女神である、男神である、あるいは法体であるということだけがわかっているのですね。本当は神名はわからないのです。だから十二単で 表現したり衣冠束帯で表現したりする。別にその神さまには個性も何もないわけです。熊野の神さんも日吉の神さんもみな同じ顔をしているわけです。同じ服装 をしています。熊野本宮の神は「熊野に座す神」という名なのです。」

五来重/山折哲雄
『山の信仰と日本の文化』

 

(ギリシャの)〈十二神〉は本質からして同一であり、ただペルソナによって区別されるのである以上、彼らのうちのひとりがとるどんな行動も他の神々から知られずにいないし、また神々のひとり、あるいは女神たちのひとりのちょっとした《アヴァンチュール》もたちまち、唯一の本質をかたちづくるにすぎない彼ら彼女たちすべての知るところとなることが理解されよう。十二体(ペルソナ)からなる神性はつねに自分自身に対する見世物となる。神性の《生活》はこうして、無限に自由で、無尽蔵なそのさまざまのテオファニーを楽しむこととして成り立つのである。神々がみずから人間社会に演劇の制度を設けたとしても驚くには当るまい。神の想念のこれらさまざまな変形はそれ自体として純粋な演戯にほかならず、(中略)なんらかの有用性へのどんな従属からも、神性の神性への従属からさえ自由でいること以外の目的をもたないが、人間との出会いのうちに、これらの変形、これらの演戯が人間にとって、これまで形象のない必然性に服従させられて来た自分の生がこれらの演戯の伝説にまで高まるきっかけとなる出来事となるや、人間を彼の隷属の圏外に高める。こうして神々は人間たちに見世物の中に自分自身を見つめることを教えたのである、神々が人間たちの想像力の中で自分自身を見つめるように。

ピエール・クロソウスキー 宮川淳他訳
『ディアーナの水浴』(美術出版社)

 

 四福音書、ならびに使徒の書簡を読むと、パン・プノイマティズムの印象を受ける。いたるところ、霊である、という感銘を強く受けるのである。そこでは、いわゆる聖霊という教義は、まだ出来上がっていないといっていい。そういう教義は、使徒にもまた護教者にも見出すことはできない。(中略)聖霊とは人間にとくに近いものである。それは、人間に内在している。その働きはひろく万人に及ぶものの、それ自体は不可解な深秘に充ちている。いったい、聖霊について教義を立てることができるであろうか。私の考えによれば、それは不可能といっていい。

 S・ブルガーコフはいみじくも言った。聖霊がある特定の人間に受肉することはない。聖霊の受肉は、いつも全世界にあまねく及ぶ、と。精神―ひいては霊と聖霊のとの関係をくわしく規定するのが困難なのは、まさにこのためである。聖霊は霊のなか、心のなか、精神のなかに業を行なう。

 聖霊の働きは、どういう現実となってあらわれるだろうか。抑圧され卑しめられた人間の実存が終わりをつげて、心が生命にみちあふれ、高揚し、エクスタスにおちいることこそ、聖霊の業のしるしである。これは、聖書に記されている聖霊の特徴でもあれば、また文化・社会生活における精神の特徴でもある。新神学者聖シメオンの言葉がある。聖霊にみたされた人間は、文字に書き記された掟を必要とせず、と。

ベルジャーエフ 南原實訳
『精神と現実』(白水社)

 

 「私が大衆を熱狂させるのは、大衆を、私の政治の道具にこしらえるためである」とヒトラーは説明した。「私は大衆を呼び醒ました。大衆を、大衆以上のものに引き上げた。大衆に、意味と機能とを与えた。人々は、私が大衆の低次の本能に訴えた、と言って非難したが、私が行なったのは別のことである。私が理性的思考をもって、大衆のところに行っても、彼らは、私を理解しない。しかし、私がそれ相応の感情を大衆に呼び醒ませば、彼らは、私が与える簡単なスローガンに従うのである」
 「大集会では、思考は排除される」とヒトラーは叫んだ。「私がこの心的状態を必要とするために、この状態が私の演説の最大の音響効果を保証してくれるために、私は、皆にこの集会に出席を命ずる。ここでは、皆が好むと好まざるとにかかわらず大衆の一部になる。“インテリ”もブルジョアも、労働者と同様、大衆の一部になる。私は国民を混ぜ合わせる。私は大衆としての国民にのみ語りかける」
 「大衆に対する感化の技術において」と、しばらく考えてから、ますます熱心に彼は続けた。「私に匹敵するものはないことを私は意識している。(中略)大衆が大きくなればなるほど、一層、操縦しやすくなるのだ。そして、農民・労働者・サラリーマンなど、階級を混ぜれば混ぜるほど大衆の典型的な性格が現れてくる。インテリの会合や、利益団体などとかかわりあってもだめだ。今日、君が論理的な説明によって達成したことも、明日になれば、正反対の説明によって吹き消されてしまうのである。群衆としての国民、つまり、熱狂的に、われを忘れて、人の言うことを受け入れやすくなっている状態の国民に語ったことは、催眠状態で与えられたことばのように、あとまで残る。消しがたく、あらゆる論理的説明に抵抗する。」

 「個人的幸福の時代は過ぎ去ったのだ」とヒトラーは応じた。「そのかわり、われわれは集団的幸福を感ずることになる。語り手と聴き手が一体となったと感じるナチの集会ほどの幸福が他にあろうか。これが、わかちあうことの幸福なのである。それを、これと同じ密度で感受することのできたのは初期のキリスト教徒だけである。そして彼らもまた、共同体の中のより高い幸福のために、個人的幸福を犠牲として捧げたのであった。時代の大転換をこのようにして感じ、体験するならば」とヒトラーはしめくくった。「もはや細部の問題、個々の失敗を思いわずらうにはおよばない。その時こそ、たとえわれわれの道が別の方向に向かっているように見える時も、結局、どの道を通っても前進できるのだということがわかる。その時、われわれは史上かつてなかった規模で世界を革命せんとする不退転の意志を持つ。」

ヘルマン・ラウシュニング 船戸満之訳
 『ヒトラーとの対話』(学芸書林) 

 

 孫子はいう。戦争とは国家の大事である。〔国民の〕死活が決まるところで、存亡のわかれ道であるから、よくよく熟慮せねばならぬ。それゆえ、五つの事がらではかり考え、〔七つの〕目算で比べあわせて、その実情を求めるのである。
〔五つの事というのは〕第一は道、第二は天、第三は地、第四は将、第五は法である。〔第一の〕道とは、人民たちを上の人と同心にならせる〔政治のあり方の〕ことである。そこで人民たちは死生をともにして疑わないのである。〔第二の〕天とは、陰陽や気温や時節〔などの自然界のめぐり〕のことである。〔第三の〕地とは、距離や険しさや広さや高低〔などの土地の情況〕のことである。〔第四の〕将とは、才智や誠信や仁慈や勇敢や威厳〔といった将軍の人材〕のことである。〔第五の〕法とは、軍隊編成の法規や官職の治め方や主事の用度〔などの軍制〕のことである。およそこれら五つの事は、将軍たる者はだれでも知っているが、それを深く理解している者は勝ち、深く理解していない者は勝てない。
 それゆえ、〔深い理解を得たものは、七つの〕目算で比べあわせてその時の実情を求めるのである。すなわち、君主は〔敵と味方とで〕いずれが人心を得ているか、将軍は〔敵と味方とで〕いずれが有能であるか、自然界のめぐりと土地の情況とはいずれに有利であるか、法令はどちらが厳守されているか、軍隊はどちらが強いか、士卒はどちらがよく訓練されているか、賞罰はどちらが公明に行なわれているかということで、わたしは、これらのことによって、〔戦わずしてすでに〕勝敗を知るのである。

戦争とは詭道――正常なやり方に反したしわざ――である。それゆえ、強くとも敵には弱く見せかけ、勇敢でも敵にはおくびょうに見せかけ、近づいていても敵には遠く見せかけ、遠方にあっても敵には近く見せかけ、〔敵が〕利を求めるときはそれを誘い出し、〔敵が〕混乱しているときはそれを奪い取り、〔敵が〕充実しているときはそれに防備し、〔敵が〕強いときはそれを避け、〔敵が〕怒りたけっているときはそれをかき乱し、〔敵が〕謙虚なときは、それを驕りたかぶらせ、〔敵が〕安楽であるときはそれを疲労させ、〔敵が〕親しみあっているときはそれを分裂させる。〔こうして〕敵の無備を攻め、敵の不意をつくのである。これが軍学者のという勢であって、〔敵情に応じての処置であるから〕出陣前にあらかじめ伝えることのできないものである。

『孫子』金谷治訳(岩波書店)

 

 プラトンが哲学の発端に置いた驚きは、自然のものと可知的なものを前にしての驚きである。驚くべきものとは、光の可知性そのものである。光は夜に裏打ちされているのだ。驚きは自然よりもさらにいっそう自然な何らかの次元について生じるのではなく、ひとえに可知的なものそれ自体を前にして生じる。可知的なものの異様さは、そういってよければ、それが可知的でいうことそれ自体に、いいかえれば何がしかの実存があるというそのこと由来している。
 存在の問いとは、存在がみずからの異様さを体験することなのだ。つまりこの問いは、存在を引き受けるひとつの仕方なのである。「存在は何か」という存在をめぐる問いが、決して答えをもたなかったのはそのためだ。存在には答えがない。この答えが求められるべき方向というものはまったく考えることはできない。問いそのものが、存在との関係の発現なのだ。存在は、本質的に馴染みのない異様なもので、私たちに突きあたる。私たちは夜のような息苦しいその抱擁に見舞われるが、存在は答えない。存在とは、存在するという禍いなのだ。哲学が存在をめぐる問いであるなら、哲学はすでにして存在の引き受けである。そして哲学がこの問い以上のものだとすれば、それは哲学が、問いに答えることではなく、この問いを克服することを可能にしてくれるからである。そして、存在をめぐる問い以上のものがあるとすれば、それは真理ではなく善である。

エマニュエル・レヴィナス 西谷修訳
『実存から実存者へ』(講談社)

 

 その点に関するドン・ファンの説明はこうだった。われわれはみずからに語りかけることによって、世界にたいする自分の知覚を強化し、それをある一定レベルの効率と機能に保っておけるのである。「全人類が、内的対話によって確固たるレベルの機能と効率を保っているのだよ」いつだったか彼が私にいったことがある。「内的対話は、集合点を全人類が共有する一点へ固定しておくための鍵なのだ。その一点とは、肩甲骨の広さの、腕をいっぱいに背後へ伸ばしたところにある。内的対話とは正反対のもの、すなわち″内的沈黙″を達成することによって、実践者は集合点の固定した状態を打破することができ、知覚の驚くべき流動性を獲得することができるのだ。」

カルロス・カスタネダ 結城山和夫訳
『呪術の実践』(二見書房)

 

 次の例は、琥珀、水晶、ダイヤモンドと次々に同一化した人物の報告だが、無機的な世界を巻きこむ体験の性質と複雑さをよく示している。(中略)

 それから体験は変化しはじめ、私の視覚環境がどんどん透明になっていった。自分自身を琥珀として体験するかわりに、水晶に関連した意識状態につながっているという感じがした。それは大変力強い状態で、なぜか自然のいくつかの根源的な力を凝縮したような状態に思われた。一瞬にして私は、水晶がなぜシャーマニズムのパワー・オブジェクトとして土着的な文化で重要な役割を果たすのか、そしてシャーマンがなぜ水晶を凝固した光と考えるのか、理解した。(中略)
 私の意識状態は別の浄化のプロセスを経、完全に汚れのない光輝となった。それがダイヤモンドの意識であることを私は認識した。ダイヤモンドは化学的に純粋な炭素であり、われわれが知るすべての生命がそれに基づいている元素であることに気づいた。ダイヤモンドがものすごい高温、高圧で作られることは、意味深長で注目に値することだと思われた。ダイヤモンドがどういうわけか最高の宇宙コンピュータのように、完全に純粋で、凝縮された、抽象的な形で、自然と生命に関する全情報を含み込んでいるという非常に抗しがたい感覚を覚えた。
 ダイヤモンドの他のすべての物質的特性、たとえば、美しさ、透明性、光沢、永遠性、不変性、白光を驚くべき色彩のスペクトルに変える力などは、その形而上的な意味を指示しているように思われた。チベット仏教がヴァジュラヤーナ(金剛乗)と呼ばれる理由が分かったような気がした(ヴァジュラは「金剛」ないし「雷光」を意味し、ヤーナは「乗物」を意味する)。この究極的な宇宙的エクスタシーの状態は、「金剛の意識」としか表現しようがなかった。時間と空間を超越した純粋意識としての宇宙の創造的な知性とエネルギーのすべてがここに存在しているように思われた。それは完全に抽象的であったが、あらゆる創造の形態を包含していた。

スタニスラフ・グロフ 菅靖彦他訳
『深層からの回帰』(青土社)

 

 自我的、文化的な図式化の被覆を取り除かれた感覚意識そのものが、覚醒時の領域に衝撃的ともいうべき鮮明さと豊かさを持ち込んでくる。さらにここまでくると、感覚意識はもはやただの“植物的”ないし“動物的”なものでも、単に“有機的”なものでもなく、より高次の微細(サトル)エネルギーや超個的な諸エネルギーの流入した一種の超感覚的意識になってくる。オーロビンドはいう。「内なる諸感覚を利用して――つまり、感覚力そのものの純粋で……微妙な活動……を用いて――われわれは感覚経験を認識し、周囲の物質的環境の組成に属さない事物の姿やイメージを認識することができる」。
 この“超感覚的”意識は、多くのケンタウロス・セラピストによって報告されており(ロジャーズ、パールズほか)、ダイクマンによって論ぜられ、神秘的洞察の初期段階の一つとしても知られているものである(人がケンタウロスのレベルに上昇し、さらにそれを超越するにつれて現れる)。

 思うに、実存主義の人々さえ、ときとしてさまざまな“超個的”リアリティ――彼ら自身の言葉である――を直観しはじめることがあるのはこの理由によるものだろう。フッサールもハイデッガーもそろって、しだいに超越的哲学への傾きを強めていった(マルセル、ヤスパース、ティリッヒなどの有神論的実存主義者たちはいうまでもない)。メイ博士自身、「非個的なところから個的なものをへて、超個的な意識次元へ向かう」運動について語っている。
 そして、ゲシュタルト・セラピーにおけるフリッツ・パールズの偉大な後継者の一人ジョージ・ブラウンは――なお、パールズ自身、ゲシュタルト・セラピーは純粋な実存主義のセラピーであると認めている――〈今ここ〉への集中というケンタウロス的変換を与えられた個人が、やがて一つの袋小路に突きあたるさまを次のように描写している。
 袋小路はさまざまに言い表すことができる。そこには超個的な諸エネルギーがかかわっており、人々は浮遊感、静けさ、平和といったものを口にする。しかし、われわれはそこで無理強いはしない。「けっこうです。つづけて、自分に何が起こっているか報告してください」と答える。そしてときには、そこに何か触れることのできるものがあるかどうかと尋ねる。もしできなければそれでいい。それができた場合、よくある例として何か光が見えはじめる〔真の微細領域〕。これは、超個的段階への動きと考えよいだろう。光が見えると、人々はしばしばそれに向かっていく。すると、戸外に出て、太陽が輝き、緑なす樹々や青い空、白い雲といった美しいものがある。それから、その体験が完了して目を開くと、色彩は前よりも鮮明になり、ものがずっとはっきり見え、知覚力が高まっている〔超感覚的ケンタウロスの意識〕。
 その時点で、彼らはもろもろの幻想や病理によってかぶせられていたフィルター〔自我的・メンバーシップ的フィルター〕を切り払ったのだ。こうして見ると、実存的ケンタウロスは単に自我、身体、ペルソナ、影(シャドウ)のより高次の統合であるばかりでなく、同時に、さらに上位にある微細(サトル)および超個的諸領域への主要な転換点でもある(スタニスラフ・グロフの研究は、これを強力に裏づけるものであることに注意)。このことは、ケンタウロスの“超感覚的”モードについても、直観、志向性、ヴィジョン・イメージといったその認識プロセスについてもいえることである。それらはすべて、超越と統合を実現したより上位の領域の前ぶれにほかならない。

ケン・ウィルバー 吉福伸逸他訳 
『アートマン・プロジェクト』(春秋社)

 

 禅にたとえ話がある。鵞鳥の卵が瓶の中に入れられる。鵞鳥は卵からかえって育ってゆく。だが瓶の出口はとても小さいため、鵞鳥は瓶から出ることができない。それはどんどん大きく成長し、瓶は中にいるには小さすぎるようになる。いまや鵞鳥を助けるために瓶を壊すか、鵞鳥が死んでしまうのかのどちらかだ。求道者は問いかけられる。
 「どうしたらいい? どちらも失いたくはない。鵞鳥は助けるべきだし、瓶もそうだ。ではどうすればいい?」(中略)
 二つのことだけが可能に思える。瓶を壊して鵞鳥を助けるか、鵞鳥は死なせて、瓶を救うかだ。瞑想者は考えに考えつづける。あることが思いつくのだが、すぐにそれは撤回される。そうする方法などないからだ。師はもっと考えるように突き放す。
 昼も夜も何日にもわたって求道者は考えつづけるが、そうする方法などない。最後に考えがやむ瞬間がおとずれる。彼は叫びながら走り出る。「ユリイカ! 鵞鳥は出ている!」――。師は方法など聞いたりはしない。ことの全体がまったくナンセンスなのだから。

 だから第五身体から進むためには、問題は禅の考案のようになる。結晶化にただ気づいているべきだ。すると鵞鳥は出ている! あなたが出ている瞬間がおとずれる。どんな“私”もなく――。結晶化は手に入れられ、そして消え去った。第五身体では結晶化――中心、自我(エゴ)――は欠くことのできないものだった。通路として、橋として、それは必要なものだった。さもなければ、第五身体へ入っていくことはできなかった。だがいまや、それはもう必要ない。

和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)
スワミ・プレム・ヴィシュダ訳
『秘教の心理学』(めるくまーる)

 

 私はそれをかつて「過大成長」と名づけたのであるが、さらに経験をつんだ結果、それはある意味の意識水準の上昇に他ならないことが明らかになってきた。つまり、より高くより広い何かの関心事が視界の中に入ってきて、地平線が拡大されたため、解決できなかった問題がその緊急性を失ってしまったのである。その問題は、それ自身としては、論理的にいえば解決されたわけではない。新しい、より力強い生の方向が出現したために、見劣りするようになっただけである。それは抑圧されたわけでもなければ、意識されなくなったのでもなく、新しい光につつまれて現れたのであり、そのために全く別のものになったのである。心のより低い段階では最悪の葛藤や破局的な激情の嵐をひき起こすきっかけになったものが、より高い人格の水準に立ってよくみれば、高い山頂から見下ろした谷間の嵐のように思られたわけである。それによって雷雨と嵐が現実性を奪われたわけではないが、その人はもはやその中にいないで、その上に超然としている、というわけである。しかしわれわれ人間は、心という観点から見れば、谷でもあり山でもあるわけだから、自分が人間的なものの彼岸にいるように感ずるということは、ありそうもない幻想のようにも思われる。たしかに人間は激情を感じるし、それによって心をゆさぶられ、悩まされるということもたしかである。しかし同時にまた、高い彼岸的意識の存在が感じとられるということも事実なので、そのような意識状態は、人が激情にまきこまれてしまうことを防げ、自分の激情を客観としてあつかって、「私は、自分が今悩んでいるということを知っている」と冷静に言うことができるのである。(中略)それらは決して解決されるわけではなくて、ただ成長することによって越えてしまうだけなのである。

 ところで、この人びとは、みずからの解放をもたらす進歩を達成するために、何をしたのであろうか。私が見てとることのできた限りでは、彼らは何もしなかったのである(いわゆる「無為」Wu Wei )。ただ、物事が生じるままにしておいたのであった。呂祖師 der Meister Lu Dsu がこの書で教えているところによれば、光は、日常の仕事を投げすてなくてもその固有の法則に従って回るからである。物事を生じるがままにさせること、行為することなく行為する(無為にして為す)こと、つまりマイスター・エックハルトのいう自己放下は、私にとって道に至る門を開くことのできる鍵になったのである。人は心の中において物事が生ずるままにさせておくことができるにちがいない。このことはわれわれにとって真の技術なのであるが、多くの人びとはそのことを知らない。彼らの場合、意識は常に助力したり、矯正したり、否定したりして、介入しようとし、どんな場合にも、魂の過程が単純に生成してくるのをそのままそっとしておくことができないからである。仕事はたしかに、全く単純だといえるだろう(もっとも、単純ということほど難しいことはないのであるが……)。ここでの仕事はただひとえに、まず魂の発達の過程で浮かんでくる空想の断片を客観的に観察するところにある。

C・G・ユング 湯浅泰雄他訳
『黄金の華の秘密』(人文書院)

 

「見る者にとって、人間は輝く存在なのだ。わしらの輝きは、わしらの卵のようなものに入ったイーグルの放射物の一部でできている。その部分、そこに入れられたひと握りの放射物が、わしらを人間にしてるんだ。知覚するこということは、そこに入れられた放射物と、外部にある放射物とを適合させることなんだ」

「新しい見る者のいう知覚とは何なんだい、ドン・ファン?」
「彼らのいう知覚とは、連合の状態だ。つまり、まゆのなかの放射物が、それにぴったりする外の放射物と連合するようになるんだ。あらゆる生き物が意識を開拓できるようにしているが、連合なんだ。見る者がこういうことをいうのは、生き物のあるがままの姿を見ているからだ。白っぽい光の泡のように見える輝く姿をな」
 私は、知覚を完成させるために、まゆのなかの放射物と外部の放射物がどう適合するのか訊いた。
「なかの放射物と外の放射物は、同じ光の繊維なんだ。感覚のある生き物はそういう繊維からできた小さな泡、顕微鏡でやっと見えるような光の点で、無限の放射物にくっついているんだよ」
 ドン・ファンは、さらに説明をつづけた。生き物の輝きは、たまたまそれぞれの輝くまゆのなかにもっているイーグルの放射物の、特定の一部分によってつくられている。見る者が知覚を見ると、生き物のまゆの外部にあるイーグルの放射物の輝きが、まゆのなかの放射物の輝きをより明るくしているのがわかる。外部の輝きが、内部の輝きを惹きつけているのだ。いわば、罠にかけて固定しているといったところか。その固定が、あらゆる種の意識なのだ。
 見る者はまた、まゆの外の放射物がなかの放射物に対していかに独特な圧力を加えるのか、も見ることができる。この圧力が、それぞれの生き物がもっている意識の度合を決定している。(中略)
 前にもいったように、古い見る者たちは意識を扱う術の熟練者だった。彼らがその術の熟練者だったのは、人間のまゆの構造を操作することを学んだからだ。まえにわしが、彼らは意識していることの謎を解いたといったのは、彼らは意識は生き物のまゆのなかの輝きだということを見て、実感したということだ。彼らはそれを、意識の輝きと呼んだんだよ」
 彼の説明によると、古い見る者たちは、人間の意識というのはまゆの残りの部分よりももっと強烈な琥珀色をもった輝きだということを見た、という。その輝きは、まゆの右端を縦に走っている。古い見る者にとっての熟練とは、その輝きをまゆの表面から内部へと拡げることだった。(中略)

 人間の第一の注意力は、動物の意識だ。それは体験過程を通して複雑に、極端に弱くなっていて、無数の側面のうちの日常世界を引き受けている。いいかえると、人間が考えうることのすべてのことは第一の注意力の一部なのだ。
「第一の注意力は、ふつうの人間のすべてなんだ」ドン・ファンはつづけた。「わしらの人生を完全に支配しているのだから、第一の注意力はふつうの人間がもっているもののなかではもっとも価値がある。たぶん、人間で唯一の役に立つものだろうな」(中略)
「見る者が見るものでいえば、第一の注意力は、極端な光沢までに発達した意識の輝きということになる。だがそれは、いわばまゆの表面に固定された輝きなんだ。既知のものを覆う輝きだ。
 第二の注意力は、意識の輝きがもっと複雑に、もっと特殊化された状態だ。それは、未知のものとかかわっている。それは、人間のまゆの内部の、使われていない放射物が使われるときに現われるんだ。
 わしが第二の注意力を特殊化されたものという理由は、使われていない放射物を利用するためには、最高度の訓練と集中力が必要なふつうとはちがった複雑な戦略が要求されるからなんだ」
 ドン・ファンによると、以前私に夢見の技術を教えているときに、夢を見ているということは第二の注意力の前兆だということをその集中が認識している必要がある、といったはずだという。その集中は、日常世界を扱うのに必要な自覚とは別のカテゴリーに属している自覚の一形態なのだ。
 ドン・ファンの説明によると、第二の注意力の左側の意識とも呼ばれている。そしてその領域は、無限といってもいいほど広大なものだ。(中略)
 意識の熟練者である古い見る者たちは、その専門技術を自分の意識の輝きに応用して、はるかかなたの限界まで拡大した。彼らの狙いは、自分のまゆの内部の放射物を、一束ずつすべて輝かせることにあった。そしてそれには成功したが、奇妙なことに、一束ずつそれを輝かせるということが、第二の注意力の泥沼にはまるのを助長してしまったのだった。
「新しい見る者たちは、その誤りを正したんだ。そして、意識の熟練を自然な終局点にまで発展させた。それで、意識の輝きが一撃のもとに輝くまゆの境界を越えて拡大したんだ。
 第三の注意力は、意識の輝きが内部からの炎に変わるときに得られる。内部からの炎というのは、一度に一束ではなく、人間のまゆの内部にあるすべてのイーグルの放射物を燃えたたせる輝きのことだ」
 ドン・ファンは、新しい見る者たちが生きながら個としての自分たちを自覚しつつ、第三の注意力を獲得しようとした計画的な努力に畏敬の念をもっている、といった。(中略)
 さらに彼によると、死の瞬間、すべての人間は不可知へ入り、なかには第三の注意力を獲得する者もいる。しかし、それはあまりにも短い時間で、イーグルの糧を純化するだけだ。
「人間の最高の業績は、チラチラする光のように食われるべくイーグルの嘴の方へ動いていく解体した意識にならずに、生の躍動を保ったまま意識のそのレヴェルへ達することだ」

カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
『意識への回帰』(二見書房)

 

 私は、心理療法の実践において、人が精霊の実在を疑うのを止めたとき、シャーマン的な力が現れるのを数多く目撃してきた。そのとき、あなたの内面の何かが変容し、非合理的な出来事に対してしっかりと焦点を合わせる深い注意力が養われる。このドリーミング・プロセスに対する注意力は、シャーマンの基本的な技と言えるだろう。内面の人生に召命が訪れ、あなたが疑うことを止めたとき、個人的な変容がはじまる。けれども、こういったことはすべて、あなたの意志によるものではない。人生をより意味あるものにするために、自分の生活を変化させるワークがないわけではない。しかし、深い注意力が養われることは、神の恵みを授かることに似て、意志ではどうにもならない。内的あるいは外的なさまざまな契機があなたに刺激を与えるだろうが、最終的にあなたの集合点(アッセンブリッジ・ポイント/立脚点)――自分のアイデンティティのあり方、その組み立て方、その振る舞い方、そして現実に対する感覚――を動かすのは精霊なのである。

 夢を理解するためには、シャーマンの言う「統制された放棄」が必要である。それは夢見の流れによって夢の意味が明らかにされていく過程に従うことである。内なる呪術師は合理的な洞察ではなく、畏怖すべきヌミノースな体験を求めている。ヌミノースな体験自体が禅のような「悟り」、すなわち直接体験による突然の目覚めをもたらすのだ。
 シャーマンには、禅や老荘思想の老師と共通する部分がある。あなたが自分自身についてワークするとき、そうした特徴が参考となるだろう。シャーマンの「第二の注意力」や「統制された放棄」といった概念は、禅や老荘思想の「狂気の智慧(クレイジー・ウィズダム)」という態度と同じだ。何かをしようとするのでしなく、今この瞬間に起こっていることに対して開かれ、その流れや衝動に自覚的に従っていく態度である。自分一人でワークをするとき、あるいは他者とワークをする場合、問題それ自体と同じくらい、今この瞬間に対する観察力が必要になってくる。

アーノルド・ミンデル 藤見幸雄他訳
『シャーマンズボディ』
(コスモス・ライブラリー)

 

――ニド!……
「鳥の姿の山の精霊」がさえずった。
風に運ばれてきた男の一人がふりかえった。そこで、彼の仲間が彼をニドと呼ぶようになった。
「鳥の姿の山の精霊」は、彼らがこの地に到達するために海で殺してしまった、彼らの父でもあれば母でもある、雨水色の動物の霊魂だったのだが、魚の匂いのする、小指のように女性的なこの動物は、金色の瞳の奥に、二つの黒くて小さな十字架を秘めていた。
 その死によって、彼らは湿潤な海岸に達することができたのだが、そこにはどこか秘教的な雰囲気が漂っていた――遠くに点在する黒楊、森、山々、はるかな谷間で静止したまま流れている川……「樹の国」だ! 彼らは金剛石の光沢のように澄んだ海岸の自然を進み、近くの丘の緑の頂にまでやってきた。それから渇を潤すために、初めて川に近づいた時、三人の男が水面に浮かび上がるのを目にした。
 ニドは、水に写ったおのれの姿を見て唖然としている仲間たち――動きまわる奇妙な植物――を安心させるようにいった。
 ――これはわれわれの仮面であり、その背後にわれわれの顔が隠れているのだ! これはわれわれの分身なのだ! これは、この地にやってくるためにわれわれが殺してしまった、われわれの母たる、「鳥の姿の山の精霊」なのだ。蘇ったわれわれの守護霊! われわれの記憶!

M・A・アストゥリアス 牛島信明訳
『グアテマラ伝説集』(国書刊行会)

 

 というのも、そうした瞬間にあって、身辺の日常的な出来事を、いちだんと高くあふれんばかりの生命で(ちょうど器に水を入れるように)満たしながら立ちあらわれてくるもの、それはまったく名のないもの、いやおそらく名づけえぬものだからです。(中略)これらのいずれも、またこれらと似た多くのものはすべて、ふだんはあたりまえのものとして眼をとめることなく通りすぎてしまうのですが、ある瞬間とつぜんに――この瞬間を意志で呼び寄せることはとうていわたしにはできません――心を動かす崇高なしるしを帯び、いかなる言葉もそれを言い表わすには貧しすぎると見えてくるのです。それどころか、眼前にないものが一定のかたちをとって心に浮かぶときも同じであり、そのときそのものは、静かに急速にたかまってゆく神秘の感情の波によって縁いっぱいに満たされるという不可思議な運命にめぐりあうのです。

 それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへと――どこからかはわかりませんが――流れこんだ、という感覚でした。(中略)たとえば、ある別の日の夕方、園丁が置き忘れた、半分水のはいっている如露をくるみの木の下にみつけ、この如露と、木の下で翳になっている水と、はっきり見えない端から端へ水面をすいすい泳ぎまわっている一匹の水すましと――これらつまらないものの組み合わせが、かの無限なるものを現前させ、わたしをふるえおののかせます。頭のてっぺんから足の爪先まで戦慄が駆け抜け、とつぜんなにか言葉をわめきたくなります。

 これら物言わぬ、ときには命ももたぬ被造物が、みちたりた愛の姿で立ちあらわれてくるので、その幸に恵まれたわたしの眼も周囲のいたるところに生命を見いだすのです。すべてが、存在するものすべて、思い出すことすべて、混乱した思いに触れてくるものでさえすべてが、しかるべきなにものかに思えてきます。わたし自身の重苦しさ、つね日頃の頭のうっとうしさすら何ものかに思え、自分の内部にも周囲にも、恍惚とするような、まさに限りないせめぎあいを感じます。これらせめぎあう物質のいずれのうちへも、わたしは流れこんでゆけるのです。そのとき、自分の身体が、すべてを解き明かしてくれる暗号でできているような気がします。

H・v・ホーフマンスタール 檜山哲彦訳
『チャンドス卿の手紙』(岩波書店)

 

「翁」という演目は能がまだ「猿楽」と呼ばれていた頃から、もっとも秘密性の高いものだと考えられていた。しかしなぜ「翁」のように単純きわまりない構成の芸が、それほどまでに神秘とされていたのか、折口信夫はその芸態が「あの世」からの精霊出現のさまを様式化してしめしたものであるからだと考えた。
「この世」の現実とはまったく違う構造をした「あの世」の時空との間に、つかの間の通路を開いて、そこからなにものかが出現し、また去っていき、通路は再び閉ざされる。その瞬間の出来事を表現したものが「翁」である。「古代人」は自分たちが健やかに生きていけるためには、ときどきこのような通路が開かれ、そこを伝って霊力が「この世」に流れ込んでこなければならないと、考えていた。「翁」という演目は、そういう古代的な儀礼のかたちをそっくり保存しているのである。
 芸人はそのような精霊を演じているわけだから、とうぜん一瞬開かれた通路から流れ込んでくる「あの世」からの息吹に、触れていることになる。「あの世」には恐るべき力がみなぎっている。

 芸能者は死者の息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命でもあるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性質を持つことになったのだ。

こういう人々は、精霊の息吹に直に触れているからこそ、「ごろつき」のような生き方、「無頼漢」としての生き方をすることになったのだ。

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』
(筑摩書房)

 

 その後で何が起こったか私はほとんど語らないだろう。そのとき起こったことは、すでにずっと前から起こっていたのだ。いや、ずっと前からというより、測り知れぬほど前からかもしれない。しかし、私は夜ごとの生活のなかでずっとそれを感じていた。私とその予感とは、そこで秘かになれ合っていたわけだ。その部屋に誰か人がいるということを知るには、更に足を一歩すすめる必要もなかった。もし私が前進すれば、誰かが急に私の前に現れて、すぐ近くから、はかり知れぬほど近くから私に触れるということも知っていた。これまでになく深い夜に包まれたこの部屋のすべてを、私は知っていた。私はそれを見抜き、自分の中で感じていた。私はそれを生きさせていた――生ではなく、生よりもはるかに強く、この世のいかなる力も打ち破ることのできないひとつの生命によって。この部屋は呼吸していなかった。そのなかには影もなければ記憶もなく、夢もなければ深さもなかった。私は耳を傾けたが、誰も語らなかった。私は見つめたが、誰も住んではいなかった。だが、そこにはこの上もなく大きな生命があった。私がそれに触れ、それもまた私に触れたひとつの生命、他の生命と同じ生命があった。それはその肉体で私の体を押しつけ、その唇で私の唇に印を押した。その眼は開かれていた。この世で最も生き生きとした、最も深い眼で私を見つめていた。このことを理解しない人は、死んでしまうだろう。なぜなら、この生命は自らの前から遠ざかる生を、偽りのものに変えてしまうからだ、

モーリス・ブランショ 三輪秀彦訳
『死の宣告』(河出書房新社)

 

みんな知りたがる、
なにをしたらいいんだ? 
われわれは地球を救おうと、ゴミを拾い集め、
人類同胞を解放し、戦争をやめさせて
至福千年をもたらそうとしている。
でも、まじめな話、いったい自分になにができるんだろう?

よろしい、まじめな話をしよう:
リアリティ(本当の実在)に到達すること。
   君自身の本当の実在に到達すること。
    君自身になれ。
途方もなくハイでリアルな存在になり、
君のヴァイブレーションですべての人々に影響を与えること。
   どんなにそれがむずかしくても、
    ほかのすべてを投げうって、
   君に考えられる最も夢のあるリアルなことを始めることだ。
君自身になれ。
君自身の本当の実在に到達せよ。

自分自身でいられる君の力を信じること。
  ほかのなにかになろうと思うな、それは実在しない。
ただ君自身でいるそのことが、世界を変える。
  なんとかしようと、あたりをうろつきまわるな。
大胆で率直で正直で精力的であればいい。
  君はなすべきことを知っている。
もし君が知らないと思うなら、まったくなにもしないでいること。
したくなるまで。
この方法に失敗はない。
純粋な受容は純粋な創造に向かう。
君自身がどんな存在かを想像し、
あとは一瞬もためらわないことだ。

君の中の強いものを取りだし、
  それを活動させる。
    解き放て。
 人がどう思おうと気にするな。
君の全筋肉を動員し、
  それを限界まで鍛えあげるんだ。
きっと驚くだろう、その心地よさに、
  そして、うまくやってのけた自分に。
純粋なエネルギーを外に放射するだけで、
―ハイにコンタクトする究極なコミュニケーション方法だ―
   君は素晴らしくなる。

     自分であれ
     自分であれ
     自分であれ!

ポール・ウィリアムズ MOKO訳
『ダス・エナーギ』(春秋社)

 

 彼はごく単純なことを話した――つまり、カモメにとって飛ぶのは正当なことであり、自由はカモメの本性そのものであり、そしてその自由を邪魔するものは、儀式であり、迷信であれ、またいかなる形の制約であれ、捨てさるべきである、と。
「捨てさっていいのですか」と、群衆の中からひとつの声があがった。
「それがたとえ群れの掟であっても?」
「正しい掟というのは、自由へ導いてくれるものだけなのだ」ジョナサンは言った。
「それ以外に掟はない」

…………………………………………………………

 彼は、即座にあの友が、今の自分と同じように、まさしく聖者なんぞではなかったことを悟ったのだった。
 無限なんですね、ジョナサン? 彼は心の中でつぶやいた。それならぼくがいつかすっとそっちの側の海岸に姿を現わし、何か目新しい飛び方でも披露できるようになるのも、そう遠い日ではありませんね!
 フレッチャーは自分の生徒たちは、厳しい教師と見られるように振舞おうと努めたが、しかし彼は突然、ほんの一瞬にしろ、生徒たち全員の本来の姿を見たのだ。そして彼は自分が見抜いた真の彼らの姿に、好意どころか、愛さえおぼえたのだった。無限なんですね。ジョナサン、そうでしょう? 彼は思った。そして微笑した。完全なるものへの彼の歩みは、すでにはじまっていたのだった。

リチャード・バック 五木寛之訳
『かもめのジョナサン』(新潮社)

 

ロック(岩)

 昨日の晩、暗くなる直前に探検していたとき、パワー・ホールを見つけた。そこに今、座っている。このパワー・ホールは、かなり固い火山岩らしきガラス質の岩の頂上にあいた自然の穴で、真下に向かって一メートル半ほどの深さがある。穴は卵型になっていて、入り口は人の肩がぎりぎりで滑り込めるくらいしかあいていない。今ぼくはその中に座って、穴に発生するパワーを吸い込んでいる。……かすかに水のちょろちょろ流れる音がしているのを、マントラとして使っている。もちろん、この中にはまったく水気はないから、内側の壁から三メートル以内に地下水流があるに違いない。(中略)
 もし、ぼくが地平線上のどこかの目的地にたどり着こうとして歩きまわっていたのなら、こんな穴の中でわざわざ数時間を過ごしたりは絶対にしないだろう。でも、明日も、穴の英知をもっと受けとりに来るつもりだ……。
 自分を中心にすえた、ぼく自身の神話を創造しなければならない。自分を判断する権利を他者に与えたり、他者の目を通して自分を見ていたりする自分に気づいたら、必ず、安全を得るためには自分自身だけに頼る必要があるんだ、と自分に言い聞かせなければならない。他者の承認を求めれば求めるほど、結局自分が安全でなくなるのだ。自分は、砂漠の何千もの岩々の中にある美しい一個の岩のようなものだと思う。ある岩の行動は近くの岩の位置に影響を及ぼすだろうが、他の岩の承認や指導を求める岩はひとつもない。岩にとって、他の岩は本当は必要ないのだ。たまたま、普通は一緒にいるだけだ。この涸れ河でのように。
 ぼくの使命は自分であること。そして、自分がどういう人間かということについて、岩たちと同じくらいに努力と憂慮を傾けて、それを達成することである。ぼくの神話は岩だ。まわりにある岩たちはすべて、ぼくと同じくらい美しい。岩は、自分がいったい岩なのかどうかなんて、考えてみることができるのだろうか? そこで、ぼくはクレオソートの木のまわりにある岩全部に向かって、どうやってそれほど自信が持てるようになったのか、聞いてみた。
 「岩のみんな、どうしてそんなに自信があるんだい?」
 「なぜなら私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、いったい何がどうなっているのか、教えてくれ、頼むから」
 「私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、どうしてお互いにけんかしたり言い争ったり、自分のことを印象づけようとしたりしないんだ」
 「私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、ずいぶんたくさんいるから、きっとたっぷり愛を交わすんだろうね」
 「私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、ぼくも岩になりたいよ」
 「あなたも岩だ。ただの美しい岩だ」
 太陽はとっくに沈んで、ぼくは火が消えないように見張っている。確かに空腹だ。が、たいしたことはない。目があいている限り、火の番をしていよう。
 LSDもやった。
 ESTもやった。
 マインド・ダイナミクスもやった。
 イエス・キリストも試した。
 パールズもロジャーズもユングもマハリシもメヘール・ババも読んだ。
 車をかっ飛ばした。
 美しい女たちとも寝た。
 死にかけもした。
 刑務所にも行った。
 何年もぶっつづけでラリッぱしにもなった。
 犯罪者にも億万長者にも天才にも音楽家にも会った。
 愛されもし、愛しもした。
 少々旅行もした。
 疑似‐神秘体験も、幻想的・心理的洞察も経験した。
 英雄にもなった。
 浮浪者にもなった。
 そして、そのどれも、ぼくを強烈に変えはしなかった。
 そして、そのすべてが、少しずつぼくを変えた。
 ぼくは岩だ。
 変わる必要はないのだ。
 ただ、何であれ、やってくるものを経験する必要があるだけだ。
 探求は終わった。
 ぼくは存在する。そして、もしかすると自分が存在するということを忘れてしまうかもしれない。
 でも今は、変化の探求が、美しく在ることを避ける最高の方法だったのを知った。
 ぼくは存在する。
 ぼくは岩だ。ただの美しい岩だ。

S・フォスター&M・リトル 高橋裕子訳
『ビジョン・クエスト』(VOICE)

 

 気功は重層的な心的抑圧を自分で解決していてくプロセスを進めることの出来る一種の心身療法である。

 心理療法は、心身療法でなければならず、特に筋肉に書き込まれた抑鬱やコンプレックスを読みとり解決していく技術なしに、これ以上心理療法の質は高まらないと思われる。

 その「私」が過剰に緊張していることに気付けば、それをゆるめていくプロセスに入る。するとまたもう一層の緊張システムが見えてくる。地層を掘りながらもぐっていくようなものである。どうぞリラックスしてといわれても、自覚できる緊張はゆるめられるが、自覚していない緊張は自分で解くことができない。つまり、「緊張かリラックスか」という二者択一の問題ではなく、緊張は重層的ということがとても大事な点だ。

 ゲシュタルト心理学の「図と地の反転」ではないが、何もないところに充実した球があると思うと、自分の腕のほうが実体がないように思え、ただそこに気の流れがあって球を支えているというふうに感じられてくる。気感というのは、しばしばこの「図と地の反転」を伴っている。いったんそうなると、腕が球を動かしている日常的感覚は消滅して、気の球が気の流れにしたがって勝手に動いているような感覚になってくる。

 それ自体はやはり拡張された毛細血管の感覚をともなっているが、両手を向き合わせて動かしてみると両手が電磁場の中におかれていて、動かそうと思った動きとわずかながら違う動きをするので客観的な「場」があることがわかる。そのようにして気・血・水が相互に連携して動いていることがすこしずつ経験されていくのである。これは「ごまかしなく、自分のからだを実験室にして気を体験していく」ためのひとつの参考である。

 宗教的回心と似たところはあるが、特定の神や仏のイメージを必要としない。自分の体の中に「別次元」があるという回心である。そうすると気功をしていくということは「日常的な、相対的な快感から非日常的な、絶対的な快感へ」という道筋であることがわかる。この「深まっていく快感」を頼りに、練功者は「生命の根源への道」をたどる。

津村喬『伝統四大功法のすべて』
(学習研究社)

 

 意識と並んで、ともに心を条件づける力として無意識を認め、意識的であるとともに無意識的(あるいは本能的)な要求についてもできる限り考慮を払う生き方ができるようになれば、そのとき全人格の力の中心は意識中心としての自我ではなく、本来的自己 Selbst と名づけてよいような、いわば意識と無意識の間にある潜在点へと移動する。この移動に成功すれば、結果として世界との神秘的分有が解消するに至り、〔人格を建物にたとえれば〕上の階では、悩み多い出来事からも楽しみにみちた出来事からも全く離れていて、ただ下層の階だけ悩みが生じているにすぎないような人格の境地にまで至るのである。

 ここでは(中略)「ダイヤモンドの身体」〔金剛身〕すなわち永久に朽ちることのない微細身が生まれるという観念が、形而上的に主張されている。このような身体は、他のすべての場合と同じように、独特な心理的事実に対する象徴的表現なのである。その事実は客観的なものであるからこそ、果実・胚芽・子供・生きた身体等々といった生物的生命に関する経験にもとづいた形態に投影されて現れてくるのである。このような心理的体験の事実を巧みに表現しているのは、「私が生きているのではなく、それが私を生きている」という言葉であろう。意識の優越についての〔近代人の〕幻想は「私が生きている」という確信にまで至りつく。しかし、無意識の存在を認めることによってこの幻想が崩壊するときには、無意識は、その内部に自我を包含した現実的なものとして現れてくる。

 ここでは内的感情における変化が問題なのである。(中略)このような感情の変化は、使徒パウロの証言によって、われわれ西洋人にもよく知られているものである。「生きているのは、もはや私ではない。キリストがわたしの中に生きておられるのである」(ガラテヤ、二・二〇)とパウロは言っている。「人の子」としての「キリスト」という象徴は、これと似た心的経験を意味している。それは、人間的形態をもったより高い精神的存在が、目にはみえないが個々人の内部に生まれる体験であって、その新しい身体はわれわれの未来の宿りに使われるべき霊的身体なのである。パウロが述べているように、人は、新しい身体を着物をきるようにまとうのである(「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は、皆キリストを着たのである」ガラテヤ、三・二七)。個人の生き方と幸せにとってこの上なく重要な、こういう微妙な感情を、知的概念の用語で表現するのは容易なことではない。それはある意味で、「私の身代わり〔分身〕が存在している感情である。(中略)いわば、いわば、自分の生の営みをみちびく点が、みえない別の中心に移ってしまったような感じである。

 このような経験によって、主観的な「私が生きている」体験が客観的な「それが生きている」体験に変るのである。このような状態は、もとの状態にくらべると、より高い経験であると感じられる。実際それは、いわば神秘的分有関係のさけがたい結果である〔世界の事物からの〕強迫や、自分が負うことのできないほど大きな責任から解放される経験であるとも言える。パウロをみたしているのは、この解放の感情である。つまり、自分は神の子であるという意識、血の匂いの強制から解放された意識である。それはまた、そこに生ずるすべての事柄と和解しているという感情である。したがって、『慧命経』の表現をかりれば、完成せる者の眼差しは自然の美へと立ちかえるのである。

C・G・ユング 湯浅泰雄他訳
『黄金の華の秘密』(人文書院)

 

 象徴的意識は、見ることと見ないことの中間にある。それは自然的理性の自明の真理を見ない。あるいは、目に見える聖者を見ない。小麦と毒麦を区別しない。したがって、ロジャー・ウィリアムズが見てとったように、象徴的意識は寛容あるいは寛大さを実践するに違いない。なぜならわれわれは、自分のしていることを知らないからである。自由の基盤は無意識の認知である。すなわち不可視の次元、まだ実現されていないもの、新たなものに余地を残すものの認知である。
  Cf. Morgan, Visible Saints.

 実現されるべき最後のものは、受肉である。顕わにされるべき最後の神秘は、人間性と神性の身体における一体化である。最後の身振りは、この人を見よ (ecco homo)である。文字から霊への転向は、比喩形象の影から身体の現実への転向である。彼は影から身体へ移る (de umbra transfertur ad corpus)。あるいは精神分析なら、昇華の抽象から身体の現実へ、と言うかもしれない。『コロサイ人への手紙』第二章十六節から十七節。「だから、あなたがたは、食物と飲物のこと、あるいは祭や新月や安息日のことで、誰にも批評されてはならない。これらは、やがて来たるべきものの影であって、その本体はキリストにある」。
  Tertullian in Auerbach, “Figura,”33.

ノーマン・O・ブラウン 宮武昭他訳
『ラヴズ・ボディ』(みすず書房)

 

 快楽としてふつう知られているものは、葛藤しているエネルギーを捨て去ることにほかならない。快楽とは重荷から解放されることを意味する。それはつねに消極的であり、けっして積極的なものではない。だが至福は積極的なものだ。それはあなたのエネルギーが満たされてはじめておとずれる。
 エネルギーが放出されることなく、内に向かう開花があるとき、あなたがそれとひとつになって争いがないとき、そのとき内側へ向かう動きがある。その瞬間には終わりがない。それはますます深まってゆき、深まるにつれ、より至福に満ちて、歓喜に満ちるようになる。
 このように、エネルギーには二つの可能性がある。最初のほうはただの息抜きで、重荷となり活用することができず、創造的に使えないエネルギーを放出することだ。このような心の状態は、反クンダリーニ的だ。
 人間の通常の状態は反クンダリーニ的だ。エネルギーは中心から周辺へと向かう。それがあなたが動いている方向だからだ。クンダリーニが意味するのは、まさにその反対だ。力やエネルギーは周辺から中心へと向かう。内側への動き、中心志向の動きは至福に満ちている。

 体と心がひとつになり、どんな葛藤もない瞬間がおとずれる。体と心が同調するとき、あなたは体でも心でもない。あなたははじめて真の自己(セルフ)としての自己を知る。あなたは超越する。
 どんな葛藤もないとき、はじめて超越は可能となる。葛藤がなく体と心がひとつになったこの調和的な瞬間に、あなたは両方を超越する。あなたはどちらでもない。いまやあなたはある意味で「無 nothing 」「なにものでもないものno-thing 」だ。あなたは純然たる意識だ。なにかを意識しているのではなく、気づきそのものだ。
 なにかに気づいているわけではないこの“気づき”、なにかを意識しているのではないこの“意識”こそ、爆発の瞬間だ。あなたの潜在力が現実化する。あなたは新たな領域に、究極へと爆発する。

和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)
スワミ・プレム・ヴィシュダ訳
『秘教の心理学』(めるくまーる)

 

 強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです。

スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳
『魂の航海術』(平凡社)

 

 まさにシャーマン的体験で起こるのは、宇宙規模のトータル・リコール(全面想起)のプロセスだと言っていい。自分の過去や出生時の記憶はむろんのこと、過去生の記憶、祖先の体験の記憶、原人の記憶、動物の記憶、植物の記憶、植物を上昇する水の記憶、物質の記憶、はじめて陸地にあがった両生類の記憶、そして果てはビッグ・バンの記憶に至るまで、宇宙が創世して以来の過去の記憶と、これから起こるであろう未来の記憶とが一緒になってめくるめく情報宇宙を形成し、意識に混入してくる。そうしたさまざまな記憶の浮上は、必然的に、われわれの固定されたアイデンティティを揺るがし、多彩な記憶を死と再生の心象劇へと重層的に編成していきながら、アイデンティティそのものを宇宙規模へと押し広げていく、いわゆる個人的アイデンティティから宇宙的アイデンティティへのシフト、それがシャーマン的人間の最大の特徴だと言っていいだろう。

菅靖彦『変性意識の舞台』
(青土社)

 

 (意識の振動レベルの)「+12」のレベルにおいては、人は身体の中にいるが、地球上のトリップにまつわる仕事はしていない。「+12」にいるという証は、人の感じる、宇宙的愛、バラカ(神の祝福)、神の慈悲、宇宙エネルギーである。人は、この興奮を誘う特殊な喜びのエネルギー、至福、アーナンダの使者、弁(バルブ)、あるいは回路として機能する。(中略)
 あたかも、私は新しい空間へと導く内部スイッチが入れられたかのようであった。このように突然、新しい空間に入りこむという飛躍があった。あらゆるものが輝き、反響し、喜びに溢れるものとなった。他の人々を、こうした美しい状態に連れていきたいと思った。大気の中に、シャンペンの泡のようにきらめくものを見た。床の上のほこりは黄金の塵のように見え、小鳥のさえずりは銀河の中心から宇宙を貫いて反響してくる声となった。私自身が「オーム」と唱える声も、同様だった。
 あらゆるものが透明になった。宇宙エネルギーが私の身体に入りこみ、身体全体から他人に送られるのが見えた。私自身のオーラを見、他人のオーラを見た。なにもかも完璧だと思った。すべてのものが生きていた。すべての人々がかけがえのない存在であり、喜びに溢れていた。

 +6は、意識の焦点をきわめて小さな点に合わせる状態である。その点の大きさをどのくらいにするかは、当人がどこに行きたいかに応じてなされる選択の問題である。その点の中に、自分の記憶、感情、思考プロセス、これらの場所の地図、周囲で起こっていることの全体的知覚などをもちこんでいることを人は確信する。つまりは、その人の48の地図のすべてを、言語を用いずに、直接的な体験としてその点の中にもちこむのである。
 通常、48や+24でもち歩いている、そして、+12において部分的に捨て去る、言語のスクリーンをここでは完全に手放すのだ。+6に到達すると、そこには、言葉、文章、構文、文法、言語、数字、量的な物差し、計算、通常の論理や思考、通常のリアリティなどは存在しない。人は、完全に、非日常的なリアリティ、非日常的な存在、非日常的な直接的知覚や体験、そして非日常的な直接的記憶の貯蔵庫に身を浸す。(中略)
 一度、その点に入りこみ、その点となるや、身体に下降することも、他人の頭や身体の中に入りこむことも、地球を飛び出し、外宇宙、銀河、宇宙へと入りこんでいくことも可能となる。自分の一つの点としてのアイデンティティを保っているかぎり、どんなに遠くへ行こうとも、またどんなに深く下降しようとも、人は+6の状態の中にいる。このことが、+6を+12や+3と区別するきわめて簡単な方法であることを私は発見した。+12においては、身体はまだ存在するが、+6においては、身体は存在しないのである。+6の中では、人は、多少なりとも、依然として自己であるが、+3においては、その自己を失い、本質(エッセンス)、すなわち、宇宙的な乗り物のパイロットの一人となる。

ジョン・C・リリー 菅靖彦訳
『意識(サイクロン)の中心』(平河出版社)

 

 昔者(むかし)、荘周、夢に蝴蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として蝴蝶なり。自ら喩(愉)みて志に適うか、周なることを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に蝴蝶と為るのか、蝴蝶の夢に周と為るか、周と蝴蝶とは、則ち必ず分あらん。此れをこれ物化と謂ふ。

 むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか。それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。

『荘子』金谷治訳
(岩波書店)

 

 完全に振動するエネルギーそのものになってしまうと、私たちのほうからエネルギーの大海へ入っていくというのは正しくない。逆だ。振動する波動に、生き生きとしたエネルギーそのものとなった時、エネルギーの大海のほうが、私たちの中へ入って来る。

和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)
『奇蹟の探求Ⅰ』(市民出版社)

 

 心臓の動悸は激しくなった。精神を集中するのがますます難しくなってきた。しかし、心を落ちつけて、また深く定に入る。同じ感覚がよみがえってきた。今後こそ注意を散らすまいとしていると、その感覚はだんだん上昇してくるようであった。自分がゆれているような感じがしてきた。しかし、あくまで蓮華の像から心を離すまいと努めた。すると突然、滝が落ちてくるような轟音とともに、一条の光の流れが脊髄を伝わって脳天にまで達するのを感じた。
 こうした事態の進展に驚きながらも、すぐさま自己をとりもどして、あくまで精神集中の対象に心をおいたまま同じポーズをとり続けていた。光はますます輝きをまし、音もだんだん大きくなった。身体がぐらっとゆれたとたん、自分が光の輪に包まれて、肉体の外にぬけでた感じがした。
 このありさまをはっきり伝えるのは難しい。私は一点の意識となり、広々とした光の海の中にひたっていた。視界がますます拡がっていく一方、通常、意識の知覚対象である肉体が遠くにどんどんひきさがっていって、ついに全くそれが消え去ってしまった。私は今や意識だけの存在になった。身体の輪郭もなければ内臓もない。感官からくる感触もなくした。物的障害がまるでなくて、四方八方にどこまでも拡がる空間が同時に意識できるような光の海につかっていた。
 私はもはや、私ではなくなっていた。もっと正確にいえば、私は肉体の中に閉じこめられた点のように小さな意識ではなかった。点にしかすぎない肉体を包みこむ大きな意識の輪が私であった。そして筆舌につくせない歓喜と至福の明るい海に没入していった。

ゴーピ・クリシュナ 中島巖訳
『クンダリニー』(平河出版社)

 

 クンダリニー・ヨーガにおいては、その肉体的寿命によって死後の世界に入ってゆくのではなく、まだ肉体が完全に健康である時、一つの修行によって――行法をも超えた行法によって、死後の世界に入ってゆくのである。
そして、あなたは発見する――
 あなたは“死”から生まれてきたのだ。そして、あなたは、“死”に帰ってゆく。(中略)
 クンダリニーの行によって、死後の世界に入ってゆく。そして、死は生をも含んでいるのである。クンダリニーにおいては、生は死から来たのである。この場合、死とは、本当の自己自身、すべてのすべて、或いは一切の意味や仕組みが明らかになるポイント、或いは神と言ってもよい。(中略)
 生きている人間の多くは――生きていると思っている人間の多くは、まるで“死”が闇であるかのように思う。が、クンダリニーにおいては、それは全く逆だ。“死”こそ、光なのだ。その光の一番外辺部に“生”が位置している。
死こそ、本当の自己自身なのだ。(中略)
 クンダリニー・ヨーガは、死ぬことによって、生と死を司る多様多元の次元の一切が、自己自身であることを悟る道なのである。
 どのような存在も、必ずその個別性を失う時期がある。そして、必ず“私自身”に帰ってくる。“私自身”の性質というのは、古代から、本当の“私自身”を発見した人が言っていることと何ら変わりはない。それは、至福であり、光であり、実在であり、或いは実在以上であり、そしてすべてのすべてであり、一切のものの一切のものそのものであり、そして、それ以外のすべてである。

ダンテス・ダイジ
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』
(森北出版)

 

 鈴木大拙という方が(もう亡くなっていますが)、当時の高名な哲学者達(その人達ももう亡くなっていますが)に、「宗教の本質というものは、利根川の水をいっぺんに飲み干してしまうようなものが宗教の世界だ」と言ったところ、哲学者達が口をあんぐり開けてどう理解していいか分からなかったという話しを、その時の哲学者の一人から直接聞いたことがあります。しかし、本当に場所的な個になってみれば、利根川の水くらいはわけないのです。地球だって飲み込めないことはない状態になったら、利根川の水を飲むくらいわけないのです。そういうのが、場所的個の宗教の世界なのです。

本山博『場所的個としての覚者』
(宗教心理出版)

 

ワーナー・エアハード
「あなたはあなたの宇宙における神である。あなたが全ての始まりである。これまで自分が全ての始まりでないというふりをしてきたのは、そうすればそこにプレイヤーの一員として参加できたからにすぎない。だから望みさえすればいつでも、全ては自分から始まっているということを思い出せるはずだ。」

ウィル・シュッツ 池田絵実訳
『すべてはあなたが選択している』
(翔泳社)

 

 実際の修行道としての禅がいわゆる悟り、見性体験、を中心とすることは誰でも知っている。禅者の修行道程は、見性体験を頂点として左右にひろがる山の形に形象化されよう。この三角形の底辺は経験的世界、頂点に向かう一方の線はいわゆる向上道、頂点から経験的世界に向う下降線はいわゆる向下道。禅者自身のあり方としては向上道は未悟、向下道は已悟の状態。経験的世界、すなわち現象的事実の世界から出発して上に登り、頂点に達してまたもとの経験的世界に下降してくる。一見すると、この上もなく簡単な過程のようだが、実はその内的構造は常人の窺見を許さない隠秘、幽深な性格をもつ。そして本論の主題をなす「本質」は、この過程を通じて、段階ごとに、著しく変貌して現われてくるのであって、その微妙な内実を把捉することは決して容易ではない。
 いま、「本質」論の見地から、禅の実在体験の全過程を理論的に把捉し分析するために、修行上さきに未悟→悟→已悟という形で措定したものを、分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)という形に置き換えてみよう。
 三角形の頂点をなす無分節は、既に何遍も言ったように、意識・存在――意識と存在、ではない。この境位では意識と存在とは完全に融消し合って、両者の間に区別はない――のゼロ・ポイント。意識の面から見ても、存在の面から見ても、目に立つ塵一つない「廓然無聖」の境位である。無分節(または未分節)というかわりに、理論の立て方によっては、無展開(未展開)、未発、無限定、などと言ってもいいのだが、本稿全体を通じて私は「本質」論を一種の分節論として展開する立場を取っているので、無分節という語を使う。特に分節(Ⅱ)との関連においては、無分節は、勿論、未分節である。とにかく、意識のあり方としても存在のあり方としても、これは我々が普通、事物相互の間や事物と自我との間に認められる一切の区別、つまり分節、がきれいさっぱり一掃された様態なのである。
 それに対して三角形底辺の両端を占める分節Ⅰ・Ⅱは、その名称自体の示すごとく、事物が相互に区別され、またそれらの事物を認知する意識が事物から区別された世界、要するに我々の日頃見慣れた、普通の経験的世界である。我々は、普通、このような実存地平において世界を了解し、また世界と関わる自己を了解する。我々自身をはじめ、我々を取り巻く全ての事物が、それぞれ己れの存在性を主張する形而下的存在世界であるという点では、分節(Ⅰ)と分節(Ⅱ)とはまったく同じ一つの世界であって、表面的には両者の間に何の違いもないように見える。が、無分節という形而上的「無」の一点を経ているかいないかによって、分節(Ⅰ)と分節(Ⅱ)とは根本的にその内的様相を異にする。なぜなら、ともに等しく分節ではあっても、「本質」論的に見て、分節(Ⅰ)は有「本質」的分節であり、これに反して分節(Ⅱ)は無「本質」的分節であるから。
 だからこそ、道元禅師のいわゆる「而今の山水」(分節Ⅱ)は、我々が経験的世界で見知っている山水(分節Ⅰ)と同じであって同じでないのだ。「而今の山水」は、と道元は言う、「ともに法位に住して」、つまり山と山という一定の存在的位置を占めて、たしかに山であり、川は川というそれとは別の存在的位置を占めて川であり、それぞれに分節されていながら、しかも各々が存在の形而上的始原の直接無媒介的発現として、いまここに現成しつつ、経験的世界の只中で、「尽十万世界」的な全存在的機能、「究尽の功徳」、をそれぞれの形で発揮しているという点において、常識の見る山水とはまるで違った山水である。
 いま目前に聳え立つ山、いま目の前を流れ行く川が、なぜそのような「究尽の功徳」、すなわち全体露現的な働きを示すのか。「空劫已前の消息なるがゆゑに」、「朕兆未萌の自己なるがゆゑに」そういうことが起こるのだ、と道元は答える。本論の術語を使って言いなおすなら、存在的にも意識的にも絶対的無分節である形而上的リアリティーそのものの全体を挙げての自己顕現で、この山やこの川は、あるゆえに、「而今の山水」は、現にそれぞれ山と川として分節されているにもかかわらず、山であること、川であることから超出して(すなわち、それぞれの「本質」に繋縛されることなしに)自由自在に働いているのだ、ということになろう。つまり、分節(Ⅰ)の次元における山水が有「本質」的に分節された山と川であるのに反して、分節(Ⅱ)の次元に現成する山水は無「本質」的に分節された山と川なのである。

井筒俊彦『意識と本質』
(岩波書店)

 

 それは、ヴァン・ゴッホが、ついに、あの天啓状態に達していたからであって、この状態においては、物質の圧倒的な流出をまえにして、無秩序な思考が逆流する、
 そこでは、思考することは、もはやおのれをすりへらすことではなく、
 もはや存在しないのだ。

 そして、そこでなおすべきことは、肉体を寄せ集めることだけだ、つまり

 かずかずの肉体を積みあげることだけだ。

 このようにして、意識や頭脳をこえてとり戻されたのは、もはや霊体の世界ではなく、直接的な創造の世界である。

 (中略)
 かくして、ヴァン・ゴッホは、自殺して死んだ、なぜなら、意識全体の協力も、彼を支えることができなかったからだ。

 なぜなら、精神も、魂も、意識も、思考もないとしても、
 雷酸塩が、
 爆発寸前の火山が、
 石のような不安が、
 忍耐が、
 よこねが、
 焼けつくような腫瘍が、
 むけたかさぶたがあったからだ。
 そして、ヴァン・ゴッホは、おのれの健康が反乱を起すという、時迫った警告を、卵でもかえすように身内であたためながら、眠っていた。
 なぜであろうか。
 健康というものが、うろつきまわるさまざまな病気の過剰であり、無数の腐った傷口による、限度をこえた、おそるべき生への情熱であるせいだ。たがやはり、それは生き続けさせねばならず、
 永続させねばならぬ。
 焼けた爆弾を、おさえつけられためまいを感じない人間、かかる人間は、生きているねうちはない。

 (中略)
 卑劣な猿どもや、濡れしょぼった犬どもから成る人類をまえにすれば、ヴァン・ゴッホの絵は、魂も、精神も、意識も、思想もないような時代の、次々と結ばれまた離れる原初的な要素以外の何もないような時代の絵と思われたことだろう。

 正真正銘の健康に導くための熱に苦しめられている肉体のように、はげしく痙攣し、いたるところ物狂おしい傷を負った風景。
 皮膚の下の肉体は、過熱した工事場だ。
 そして、外では、
 病者が、輝きを帯びる。
 彼は、
 はじけ開いたあらゆる毛穴を通して、
 光るのだ。
 真昼の、
 ヴァン・ゴッホの、
 風景画のように。

アントナン・アルトー 粟津則雄訳
『ヴァン・ゴッホ』(筑摩書房)

 

 「天上のヴィジョンが地上のヴィジョンのなかへはいってそれを経験する人間の目を変える。するとその人間は男や女を、ある種の唯心論が主張するうつろな空なる存在としてではなく、また唯物論者が言うような、理性に自足し信頼するものとしてでもなく、その主調となる性質が不確実にある存在として見る(中略)。かかる状態は、ボッチチェリもそのような状態にあったと思われるが、許しとか憐憫とか咎めとかまた哲学上のあらゆる判断が驚異のなかに溶け合っている状態なのだ。」
 「驚異のなかに?」とルイスは言った。「知識とか悟性のなかにではなく?」
 「きみにはそれが漠然とした明確ならざるものに思われような?」とナルヴィッツは答えた。「数週間前ならわたしにもそう思われたことだろう。そのころはまだわたしも知ることと理解することとを願っていた。無知こそ死すべき状態と不死なる状態とをひき離す主たるものと考えていたし、死こそかずかずの神秘へ至る扉であろうと思っていた――死後にいっさいが明らかになるだろうと。もちろん今でも、より大いなる知識と悟性とが不死の状態に到達しえないとは言うつもりはない。が、それらが神を特徴づける本質だとは、もう思わない。これまでわれわれが全知と呼んできたものは驚異の無限の力と考えるほうがいい。知るというのは静的だ。流れのなかの石だ。が、驚異は流れそのものだ――ふつうの人間にあっては疑いにおおわれた細流であり、詩人や聖者にあってはきらめく小川であり、神にあっては大河であり、神の心の交わりをことごとく運んでいく。地上においてさえ、知識が増せば増すほど、驚異が深まるというのは、ほんとうではあるまいか?」
 「では瞑想の目的は驚異の能力を発展させることなのですね?」とルイスは言った。「それは神をまねることですか?」
 ナルヴィッツは微笑した。「きみは、ナーマンのように、もっと困難なことがきみに要求されないことに、失望しているのか? それは十分困難なことだとわたしには思われるが。魂は精神のように固まる。固まった精神は新しい知識を拒むし、魂は神のなかや子供たちのなかや穏やかな聖者たちのなかにある驚異を拒む。この説はとくに新しいものではない。」

チャールズ・モーガン 小佐井伸二訳
『泉』(白水社)

 

 マザー・セレナが五十年間もの間毎日瞑想していた礼拝堂に坐っていた私は、彼女が癒しために名前を読んでいるのを聞いているうちに、自分が意識の中を上のほうに昇っていることに徐々に気づき始めた。上昇しながらも、マザー・セレナが世界の安寧と平和のために祈りを捧げているのが依然として聞こえ、ニューヨーク市の北部ウェストサイドのトラックの音にさえ微かに気づいたままでいた。この霊的な上昇は、エレベーターのイメージに生きいきと移り替わっていた。エレベーターは、様々な階――探査するために私が停まることもできたであろう、天界域――を通過していったが、その終着地を垣間見ることへの切望が、私をこの幻視的エレベーターへ留まらせた。とうとうエレベーターは最上階に到着し、ドアが開き、私は金色の光の界域に足を踏み入れた。私の身体はこの光と同じ色および性質になっていた。私は浮かんではいなかったが、私のいつもの身体と同じように反応する、この金色の身体に充分に気づいていた。また、自分が何かの表面を歩いていることにも気づいていた。私は直観的に、これが最上部ではないということ、まだ究極的な眺めではないということを感知した。上に向かって円を描きながら強烈な金色の中に消えて行く階段があるのに気づいて、私は昇り始め、そして上昇するにつれて光がますます濃くなっていくことを実感した。通常の表面を歩いているという私の気づきは消え始めた。私の身体は光と溶け合い始め、すぐに身体はなくなり金色の強烈さだけがあった。私は依然として、意識の個別的な中心としての自分自身に気づいていたが、今やさらに昇っていくといういかなる感覚もなかった。なぜなら、身体的な隠喩が不適切になったからである。(中略)
 それに続く動きは薄膜の浸透に似ており、なんのあても努力もなしに自発的に起こった。なんの意外感もなしに薄膜の反対側に出ていた。すべてが澄み渡っていた。〈存在〉の重い金色の濃密さは、まるで夏の湿気からいきなり秋の清澄さへと移ったかのように失せ、消散していた。(中略)この明るさはあまりに全面的だったので、「私」の余地はまったくなかった。けれども、特定の「私」が不在にもかかわらず、気づきが充分にそこにあった。この強烈な、圧倒的な存在あるいは明るさは、実体ではなく、単に気づきの清澄さだった。

レックス・ヒクソン 高瀬千図監訳
『カミング・ホーム』(コスモス・ライブラリー)

 

精霊

 彼は愛情だ、現在だ、泡立つ冬にも夏のざわめきにもその家を開け放ったじゃないか、彼は飲物を、食べ物を浄めた彼、次第に遠ざかる場所の魅惑であり、停止する土地の超人的な歓喜である彼。彼は愛情と未来だ、力と愛だ、おれたちは狂熱と倦怠のうちに立ったまま、彼が嵐の空を、恍惚とはためく旗に囲まれて過ぎてゆくのを眺めるのだ。
 彼は愛だ、完璧で再び発明された尺度としての、思いもかけなかった驚くべく理知としての愛だ。そしてまた、永遠だ。宿命的な諸特質によって愛されている機構なのだ。おれたちは皆、彼の譲歩に恐怖を覚えた。おれたちの譲歩にも。おお、おれたちの健康の享受、諸能力の躍動、彼への、その限りない生を通じておれたちを愛する彼への、自分勝手な情愛と情熱……
 おれたちが彼を思い起す、すると彼が旅をしてくる……崇拝が立ち去っても、鳴りわたるのだ、彼の約束が鳴りわたるのだ。「引っ込め、このさまざまな迷信、古くさい肉体、それらさまざまな所帯、さまざまな年令。そんな時代は崩れ去ってしまったのだ!」
 彼は立ち去ることはないだろう。どこの天から再臨しもしないだろう。女たちの怒りや男たちの浮かれ騒ぎやまたあの罪のすべてを償いもしないだろう。彼が存在し、愛されていることで、事は片付いているのだから。
 おお彼の息吹き、彼の頭、彼の疾駆、形態や行為を完成するおそるべき神速。
 おお精神の豊饒さよ、宇宙の測り知れぬ広大さよ!
 彼の肉体! 夢見られてきた解放、新たな暴力によぎられた優雅の粉砕!
 彼の視力、彼の視力よ! 歩みすぎるにつれてかき立てられる、いっさいの古い昔のいっさい拝跪と苦しみ。
 彼の日よ! 高鳴りうごめく苦悩の、さらに激しい音楽のなかでの絶滅。
 彼の歩みよ! 往昔の侵入のかずかずよりも、さらに途方もない移住。
 おお、彼とおれたち! 失われた慈愛よりもさらに思いやりにあふれた倨傲。
 おお、世界よ! そして、新たなる不幸の明るい歌よ!
 彼は、おれたちすべてを知り、おれたちすべてを愛してきた。この冬の夜、おれたちは知ろうじゃないか、岬から岬へ、ざわめき荒れる極地から館へ、群衆から浜辺へ、まなざしからまなざしへ、力と感情の限りを尽くして、彼に呼びかけ、彼を眺め、それから彼を送り返すことを、また、潮のしたをかいくぐり、雪の砂漠の丘にも登って、彼の視力、彼の息吹き、彼の肉体に、また彼の日に、つき従って行くことを。

アルチュール・ランボー 粟津則雄訳
『イリュミナシオン』(集英社)

 

 この劇は《多数》から《ひとり》への、《ひとり》から《多数》への航路である。精神的航路であり、政治的航路でもある。また、内面の航路であり、外面の航路でもある。俳優のための、観衆のための航路である。海図は図解によって示される。この航路、すなわち上演、を準備するために、俳優は無政府主義者の思想やさまざまの精神的形而上的教義を学ばなければならない。

 海図は恒久的な革命に向かう垂直な上り段、すなわち八段から成る梯子をもって描かれている。各段は《式典(ライト)》《啓示(ヴィジョン)》《アクション》より成り、また各段ごとで革命のひとつの局面が成就するようになっている。《式典》と《啓示》の場面は主として俳優によって演じられるが、《アクション》の場面は俳優によって導入され、彼らに助けられて観客が演じる。《アクション》は俳優によって語られるテキストによってはじまる。《式典》は基本的に肉体と霊魂の祭礼儀式(セレモニイ)であり、閃光(フラッシュ・アウト)によって頂点に達する。《啓示》は俳優によって演じられる知的イメージとシンボルと夢の場面だ。《アクション》では政治的状況を観客が演じる。この状況は特定の都会で起こった事件として具体的に表されるが、いま、ここで、とりうる革命行為に通じる。
 劇が表す革命は、美しい非暴力的無政府主義者の革命である。
 海図は、カバラ、タントリック文学、《義浄》などさまざまの教理から引き出されたインフォメーションを含む。海図に取り入れられるインフォメーションは、垂直的な上り段のかたちで配列されている。劇の目的は、非暴力的革命行為を可能にする存在の状態に至らせることにある。

リヴィング・シアター 斎藤偕子訳
『パラダイス・ナウ』(白水社)

 

  オレが天井を見上げると、風の吹き渡る高楼だから、何十本もの蛇の死体が調子をそろえてゆるやかにゆれ、隙間からキレイな青空が見えた。閉めきったオレの小屋では、こんなことは見かけることができなかったが、ぶらさがった蛇の死体までがこんなに美しいということは、なんということだろうとオレは思った。こんなことは人間世界のことではないとオレは思った。
 オレが逆吊りにした蛇の死体をオレの手が斬り落すか、ここからオレが逃げ去るか、どっちか一ツを選ぶより仕方がないとオレは思った。オレはノミを握りしめた。そして、いずれを選ぶべきかに尚も迷った。そのとき、ヒメの声がきこえた。
「とうとう動かなくなったわ。なんて可愛いのでしょうね。お日さまが、うらやましい。日本中の野でも里でも町でも、こんな風に死ぬ人をみんな見ていらッしゃるのね」
 それをきいているうちにオレの心が変った。このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないのだとオレは思った。
 ヒメは無心に野良を見つめていた。新しいキリキリ舞いを探しているのかも知れなかった。なんて可憐なヒメだろうとオレは思った。そして、心がきまると、オレはフシギにためらわなかった。むしろ強い力がオレを押すように思われた。
 オレはヒメに歩み寄ると、オレの左手をヒメの左の肩にかけ、だきすくめて、右手のキリを胸にうちこんだ。オレの肩はハアハアと大きな波をうっていたが、ヒメは目をあけてニッコリ笑った。
「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」
 ヒメのツブラな瞳はオレに絶えず、笑みかけていた。
 オレはヒメの言う通りだと思った。オレも挨拶がしたかったし、せめてお詫びの一言も叫んでからヒメを刺すつもりであったが、やっぱりのぼせて、何も言うことができないうちにヒメを刺してしまったのだ。今さら何を言えよう。オレの目に不覚の涙があふれた。
 するとヒメはオレの手をとり、ニッコリとささやいた。
「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……」
 ヒメの目が笑って、とじた。
 オレはヒメを抱いたまま気を失って倒れてしまった。

坂口安吾『夜長姫と耳男』
(筑摩書房)

 

 全知者である覚った人に礼してたてまつる。
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
 シャーリプトラよ、
 この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
 これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
 シャーリプトラよ。
 この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
 生じたということもなく、減したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ。
 実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
 (さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみも原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顚倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
 過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
 それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
 ここに、智慧の完成の心が終った。

『般若心経』中村元他訳
(岩波書店)

 

 しばらくの間、じっとその地球を眺めてから、私は向きをかえて、インド洋を背にして立った。私は北面したことになるが、そのときは南に向いたつもりであった。視野のなかに、新しいなにかが入ってきた。ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒の石塊がみえたのである。それはほぼ私の家ほどの大きさか、あるいはそれよりももう少し大きい石塊であり、宇宙空間にただよっていた。私も宇宙にただよっている。(中略)
 私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべてが脱落していくのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめく苦痛であった。しかし、残ったものもいくらかはあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったことのすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった。それらは私とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事からなり立っていた。私は私自身の歴史の上になり立っているということを強く感じた。これこそが私なのだ。「私は存在したもの、成就したものの束である。」

 (中略)それから自分自身に立ち返って、約一時間目覚めていたが、その間は全く違った状態であった。まるで恍惚状態(エクスタシー)にいるようであった。私は、あたかも宇宙空間を浮遊しているように、また宇宙という子宮のなかで安心しきっているかのように感じた。――そこは途方もない真空状態であったが、しかしあらんかぎりの幸福感に満たされていた――。「これは筆舌に尽くせぬ、永遠の至福だ、あまりに素晴らしすぎる」と、私は考えた。(中略)私はただ、「今いるのはざくらの庭だ。今、行われているのは、マルクトとティフェレトの結婚式だ」と考えつづけていた。その結婚式で、私がどういう役割を果たしているのか、はっきりしなかった。結局、結婚式が私自身であった。私が結婚式であった。私の至福は歓喜に満ちた婚姻の至福であった。

C・G・ユング 河合隼雄他訳
『自伝』みすず書房

 

廃嫡者(エル・デスディシャドー)

私は冥き者、――妻なき者、――慰めなき者、
崩れはてた塔に住む、アキタニアの君主。
私の唯一の星は死んだ、――星ちりばめた私の琵琶には
「憂鬱」の「黒い太陽」が刻まれた。

墓の夜の中で、私を慰めたお前よ、
返してくれ、ポシリポの丘とイタリアの海と、
傷ついた私の心を、あれ程喜ばせた花と、
また、枝々が薔薇に絡まる葡萄の棚を。

私は愛神(アモール)か光神(ポイボス)か、キプロス王かヴァロワ公か、
私の額は、今もなお、女王の口づけに赤らむ。
人魚の泳ぐ洞穴のなかで、私は夢を見た……

そして私は二度勝ち誇って地獄の河を渡った。
オルペウスの七絃琴の上で、交わるがわる
聖女の吐息と妖精の泣声とを奏でながら。


ミルト

私はお前を思う。ミルト、神々しき美女よ、
輝く千の火花なす、誇り高いポシリポの丘を、
東邦の輝きに浸るお前の額を
編んだお前の髪の黄金と絡まり合う、黒い葡萄の房を。

私が酔心地を飲んだのも、やはりお前の盃の中、
微笑むお前の眼の、束の間の光のなか、
酒神の足もとで、私の祈る姿が見えた時だ。
詩神は私をギリシアの児の一人としたのだから。

私は知っている、何故、彼方で火山がまた花咲いたかを……
それは昨日のこと、お前がすばやい足で、それに触れたからだ。
そしてたちまち地平線が灰で覆われたのだ。

さるノルマン伯爵がお前の陶土の神々を壊ちてこの方、
ウェルギリウスの月桂樹の葉陰には、常に、
色薄い紫陽花が緑の桃金嬢(ミルテ)に咲き交じる!


アルテミス

十三番目の女が帰って来る……それはまた、最初の女だ。
いつも同じ女だ、――同じ束の間だ。
おお女王よ! 最初の女(ひと)か最後の女(ひと)か?
王よ、唯一の恋か最後の人か?……

揺籃から棺の中まで愛してくれた女を愛そう。
私ひとりが愛した女は未だ優しく私を愛する。
それは死だ――死の女だ…… おお幸福だ! 苦しみだ!
差出される薔薇は、「喪の花(ローズ・トレミエール)」だ。

火に充ちた手をしたナポリの聖女、
菫の心持つ薔薇、聖女ギュデュールの花。
お前は天空の砂漠の中に十字架を見出したのか?

白薔薇たちよ、落ちよ! 我らの神々を辱めて。
白い幽霊たちよ、燃えるお前の天から落ちよ。
―――深淵の聖女は、私の眼には更に聖女だ!

 

アンテロス

お前は訊く、何故、私の心がかくも怒り狂うのか、
首を圧えられながらも、頭をもたげるのか、と。
それは私がアンタイオスの種族の出だからだ、
私は勝ち誇った神に向かって、投槍を持ち直す。

そうだ、私は復讐神に魂を吹き込まれた者の一族だ、
私の額はあの荒ぶる神の唇の印をつけられている、
ああ、血まみれのアベルの蒼ざめた顔の下から
カインの強情な赤みが、時として私に現われる!

エホヴァよ! 汝の魔力に打ち敗られたその末裔は
地獄の底から叫ぶのだった、「おお、圧制!」と。
それはわが祖父ベルスか、父ダゴンか…

彼らは三度、私を地獄の河水(コキユトス)に浸けたのだ。
そして、私は、母アマクレタを唯ひとり護りながら、
その足もとに老龍の歯をまたしても播く。


黄金詩篇

何だ! 全てに感覚がある
ピタゴラス

人間、自由思想家よ! お前は自分だけが考えると思うのか、
生命があらゆるものに輝いている、この世界の中で?
お前の持つ力を、お前の自由は勝手に扱う、
然し、お前のあらゆる意見に、宇宙は耳をかさぬ。

獣の中に、うごめく精神を尊重せよ。
一つびとつの花が、現れ出た自然の魂なのだ。
愛の神秘は、金属の中に息う。
「全てに感覚がある!」そして全てはお前の上に力を及ぼす。

盲いた壁の中に、お前を覗う視線を恐れよ。
物質にさえも、言葉は与えられている……
不敬な事に、それを使うな!

しばしば暗い存在の中に、匿された神が住む。
そして瞼に覆われた眼が生まれ出るように、
清らかな精神は、石の殻の下に育つ!

ジェラール・ド・ネルヴァル
中村真一郎、入沢康夫訳

『幻想詩篇(シメール)』(筑摩書房)