変性意識と自己超越の技法―「こちら側の意識」と「向こう側の意識」【方法論的寓話】

 このセクションでは、〈意識 consciousness〉の多様な状態(潜在意識/変性意識/遍在意識)について、「寓話的に」語っています。 私たちの〈意識 consciousness〉の真の姿、本質的な構造、真実在、そして、それらを拡張・拡大・変容させていく方法について語っています。
 なぜ、「寓話的に」なのかといえば、今現在、私たちが普通に使っている概念(合理的/近代的/科学的なもの)では、〈意識 consciousness〉の本質的な構造は、表現/理解できていないだからです。
 「寓話的」な形
を借りなければ、表現できないだからです。
 そのため、古今東西、精神や実在の本質を語ろうとする哲学や宗教は、さまざまな「寓話的」表現を使ってきたのです。

 また、別の観点から言うと、現代の科学では、「〈意識 consciousness 〉が何なのか」について、まったく分かっていないということもあります。科学では、「意識」や「心」を見つけられないし、計測することができないからです。「意識」は、検査機器には引っかからないし、検査機器上で検知できないからです。
 通常、私たちは、自分の「意識」を体験しているので、それを自明の存在だと思っていますが、他の物理的存在を確定するように、確定することができません。誰も、自分や他人の「意識」については、実体として見たこともありません。「幽霊のようだ」と言われる理由です。実際のところ、「意識」は、私たちが物質宇宙として認知しているものとは、「別の世界線」にあると言わざる得ないのです。
 一般に世の中では、「意識と思考」「意識と脳」を混同する俗説や、凡庸な学説がまかり通っていますが、少しセンスのある、鋭くものを考えられる人たちは、そういうことを信じていません。それが、いわゆる、このジャンルの研究の中では、「ハード・プロブレム(難しい問題)」と言われる問題群です。これは、量子論の「解釈問題」のように、人々が無自覚に「前提としている(もしくは考えることを避けている)」ものに対して、正しい疑念を向けるアプローチです。

D.チャーマーズ『意識する心』(白揚社)
→茂木健一郎氏「なぜ「意識」についての「議論」は、「意識」の本質になかなか迫れないのか?」
 (※「認知と意識とは違う」「AIは、無意識(無意識過程)である」という、多くの人が理解していない点が指摘されています)

 以下では、寓話的・暗喩的な形を借りつつ、変性意識を含めて、多くの側面を持つ〈意識〉について、さまざまに描写しています。
 当然、古今東西の優れた言い回しや叡智を参照していますが、筆者自身の各種の超越的経験から得られたものであります。この中では、当スペースがよくいう「統合すれば超越(超脱)する」についても、別の角度から解説しています。

また、この「意識consciousness」については、別の角度から、拙著にてより本格的に探求されています。
『砂絵Ⅰ―現代的エクスタシィの技法―心理学的手法による意識変容(改訂版)』

 


◆寓話

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」がある。

「こちら側の意識」とは、この「私」、なじみのある日常的な意識、いわば「この世界の意識」「この世の意識」である。
「向こう側の意識」とは、こちら側の意識の外、向こう側にある未知の意識、「あちら側の意識」、いわば「彼岸の意識」「あの世(異界)の意識」である。
俗に、「顕在意識と潜在意識」「意識と無意識」などと呼ばれるものも、このヴァリエーションの一つである。
これらのさらに向こう、底には、あまり知られていない、もしくはよく知られている〈遍在意識 omni consciousness 〉がある。

「こちら側の意識」は、いわば一区画(場所)である。
「向こう側の意識」から一区画(場所)を切り分けられたものが、「こちら側の意識」である。
一区画とは、仮に分けられたもの、実際のところ、ガワ(側)にすぎない。
「こちら側の意識」も、その本質は「向こう側の意識」と同じである。
中身のエネルギー(実体)はみな等しいからである。

「こちら側の意識」は、私たちのよく知る時間と空間でできている。
その見かけは、よく知られている、三次元の時空の世界である。
〈鏡〉のこちら側の世界。

人びとが生活している、見慣れた世界である。
学校で教わり、人々がそう信じている因果律と機械仕掛けの世界である。

「向こう側の意識」は、〈鏡〉の向こう側の世界、この時空とは別の世界である。
私たちにとっては、未知の世界である。
しかし、潜在意識では、私たちはその世界をよく知っている。
中身のエネルギー(実体)は同じだからである。
そのため、その謎に惹かれる者たちも多くいるのである。
昔から「向こう側へ突き抜けろ Break on Through (To the Other Side)」と叫ばれるのはそのためである。


〈遍在意識〉
は、それ自身では知られることのない、遍在する意識である。

インドでは古来より、「ブラフマン(梵天/至高神)は『サッチダーナンダ(存在・意識・至福)』である」と言われるのはそのためである。
〈遍在意識〉とは、姿なき浸透する意識である。
それは姿なき空無(ボイド)である。
インドで言われる「目撃者 witness 」も、近い事柄を指している。

私たちは、「こちら側の意識」を自分と思っている。
その部屋にひきこもっている。
何かの偶然で、「こちら側の意識」の外に出ると、私たちは遍在意識を垣間見る。

遍在意識は、私たちの本質だからである。
「こちら側の意識」と「向こう側の意識」とは、ロケーション(場所)の違いでしかないからである。

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」の間には〈鏡〉がある。
この世界は〈鏡〉に映った、こちら側の世界である。

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」を区切る〈鏡〉は、仮のものである。
そこには浸透や透過、交流がある。
そのため、古来より、それは「ベール(面紗)」で喩えられているのである。

私たちは、「こちら側の意識」を通して「向こう側の意識」を体験することができる。
中身(実体)は同じだからである。

ただ、単純に〈鏡〉の向こうに行ってしまうだけなら、われわれはあまり知ることができない。
なぜなら、私たちは〈鏡〉のこちら側の存在、「こちら側の意識」だからである。
「こちら側の意識」を通して「向こう側の意識」を知っていくことが、私たちの存在である。

私たちがいるのは、〈鏡〉があるせいである。
この〈鏡〉が割れてしまうと、私たちもまた喪われてしまう。
この〈鏡〉が無いと、私たちもまた無い。
なぜなら、私たちは、「鏡に映った像/虚像」だからである。

そのため、このゲーム(人生)は、〈鏡〉をさまざまに抜けて、〈鏡〉の向こう側を知ることである。
このトリック(逆説)が、このゲーム(人生)の面白さである。
このこと以外に、真のエクスタシィ(至福)はない。

「こちら側の意識」以外にも、「向こう側の意識」の中には、さまざまな区画がある。
私たちの区画はとても小さな空間、とても小さな区画である。
他の区画には、もっと大きな空間や巨大な施設、大きな都市もある。
国家もあれば、星々のようなものもある。
これらのロケーション(場所)を覚えておくと、私たちはそこを訪れることができる。

「向こう側の意識」を十全に体験すると、「こちら側の意識」は小部屋ではなくなる。
風景は、薄絹のように希薄になり、内からまばゆく輝きはじめる。
物たちの姿は流動化をはじめ、溶けはじめる。
遍在意識が浸透してきて
、予感されるようになる。
夏の白日のまばゆさに、すべての形象が飽和していくように、空間が広大無辺なものに溶け込んでいく。

飛沫のように、時空を超えたものが、今ここに落ちかかってくる。
彼方(向こう側)から、汀に寄せる息吹がある。
「役柄」を演じている、場所的な者として、私たちは自分を見出すようになる。


◆演技論

「向こう側の意識」は、無形の存在であり、制限というものがない。
だから、「向こう側の意識」としての私たちはすべてを知っている。
かつてあったことも、これから起こることも。どこかであったことも、どこかで起こることも。
そこでは「遍在意識」がより間近にあるからである。

まれに、私たちは、そのような「向こう側の意識」から、人生を垣間見ることがある。
(変性意識状態を通して知ることがある)
そのような時、私たちは人生について、さまざまな秘密(異界からの)を瞥見することになる。

「向こう側の意識」は、限りない時空、際限のない深淵である。
そのため、その時、私たちは「こちら側の意識」でありながら、それら自身になっているのである。
遍在意識はすべてに透過し、それ自身であるからである。

私たちは、普段意識することなく、闇の中で手探りするように、それらの体験を求めている。
日々の生活の中で、知らずにその〈何か〉を探したりする。
魂の涸渇であり、故郷であり、それらが、今以上にこの人生に「意味」を与えると感じているからである。
それらの中に、別の「答え」、今は隠されている扉の向こうの「答え」を感じさせるからである。

そして、「人間世界」と「際限のない深淵(向こう側の意識)」の間に、振幅を感じとり、振幅の間に綱を張り、謎を渡っていくのが、私たちのゲーム(アドベンチャー・ゲーム)の楽しみだからである。

私たちが、自分をわざと小さな自分(私)と見なし、小さな「役」を演じ、「こちら側の意識」を生きているのは、このロールプレイング・ゲームの「設定」のためである。
昇り降りのスリリングな体験、地獄降りや次元上昇の刺激的体験(超越体験)を味わいたいからである。

誕生(超出)のプロセスを、劇的に、濃密に味わいたいからである。
「英雄の旅」などもそのことを示している。
シヴァのダンスのような、この世界の多様さと豊饒さ、破壊と創造は、そこに由来しているのである。

さしさわりのない、一様で均質なものからでは、濃密な強度(体験)は生れない。
創造性に必要な摩擦や屈曲がないからである。
新奇さや鮮烈さに欠けるからである。

平穏で均衡的な平面からは、驚異や飛躍は生れない。
格闘の軋轢や摩擦、屈折の中から、万華鏡のような極彩色が溢れ、目覚ましい閃光(創造)も生まれ出るのである。
私たちが、葛藤を抱えるのは、そのためである。

「こちら側の意識」があるのはそのためである。
「向こう側の意識」だけでは、豊かすぎて、創造力の強度が強まらないからである。
宇宙は、苦しみを通して、より多様なドラマや展開、多様な意識と至福を楽しみたいのである。
(人類が楽しむ、映画や文芸が描く苦しみの姿を見てもわかるだろう。昔話で盛り上がるのは、大変だったときの話である)

「こちら側の意識」は、劇の役柄である。
しばしば、劇の登場人物を、自分だと信じ込んでしまっている役者である。

「こちら側の意識」は、演技であり、役柄や劇を通した可能性の追求である。
そのため、没入して、「こちら側の意識」がすべてであると思い込んでしまうのである。
しかし、「劇」を探求して、突き詰めると、私たちは、「向こう側」に抜け出てしまう。

私たちは、心の底(潜在意識)ではわかっていて、の劇を演じているのである。
(遍在意識はすべてに浸透しているからである)
しかし、「日常意識」では、それになかなか気づけないのである。

これは、脱出のゲームであるとともに、かつ侵入のゲーム(聖なる侵入)である。
そのように「私役」に出たり入ったりしながら、これらのゲームを楽しみつつ探求しているのである。

無明な「こちら側の意識」にも、重要な機能がある。
それは体験の深化と、超脱への圧力、推力である。
渇望や欲求不満、軋轢や摩擦がないと、私たちの中で深化と超出への推力が生まれないからである。

誰が、順風満帆の、平穏無事な、なんの事件も起こらない大長編映画を楽しむだろうか。
私たちは、いつも波乱万丈な物語、ジェットコースターのような上昇と下降の物語を求めている。
それが、私たちの起源を予感させるからである。
それ単体では意味がわからない「場面場面(シーン)」も、結末(終点)の中では、しかるべき意味をもつ。

体験(伏線)は回収し、すべては、まばゆい〈終点/始点〉へと消えていくのである。


◆方法論1

「向こう側の意識」を知るには、「こちら側の意識」が溶けるように流動化していることが必要である。
「こちら側の意識」は固形化し、硬化し、干上がり、閉じてしまっているからである。
そのことでいえば、現代の人類のレベルは、末期の状態である。
現代は、悪世末法の時代である。

知覚の感度を甦らせ、感情と肉体の命を回復し、存在を刷新することが必要である。

流動性がないと、私たちは「向こう側の意識」を体験することができない。
充分に交わることもできない。

一方、流動性が強すぎると、私たちは体験することができない。
自己を喪って、とらえられないからである。
「向こう側の意識」に吸い込まれ、私たち自身であることを喪ってしまうからである。

「向こう側の意識」を知る透過性を得るには、鏡面の詰まりを除き、透き抜ける存在を得ることが必要となる。
伝統的に知られるように、無心な存在(パイプ)になることが必要となる。
その「空無」の中で、エネルギーや情報(意味)も、曇りなく流れるようになるからである。

「向こう側の意識」は、とらえがたい未知の非限定のエネルギーである。
その未知のエネルギーの中では、「こちら側の意識」の共振や焦点化も試される。
努力と経験を通してのみ、「向こう側の意識」を導き、変換し、錬磨し、この世界で活用することも可能となるのである。

そこで問われるのは、「とらわれのなさ/自由」である。
私たちが空無である分しか、「向こう側の意識」は、微細なエネルギーを満たさないからである。
人間心理的な抑圧や分裂、投影、思い込みや信念、二元的論理(作用反作用)は分厚い粗大な障壁であり、その鈍感さの中では、「向こう側の意識」の良質な霊妙さも遮断されてしまうのである。
仮に部分的に流れ込んでも、流動性が不十分であると、私たちは、それを正しく統合できないのである。
それらに憑依され、乗っ取られ、暗黒に落ち込むこととなるのである(魔境」
)。

「向こう側の意識」を知りたければ、無心(無一物)の者として、その地に赴くしかないのである。
そのような接近を通してのみ、「向こう側の意識」のエネルギーから、力を得ることも、形なき息吹を使いこなすことも可能となるのである。


◆方法論2

私たちは、「こちら側の意識」を通して「向こう側の意識」を体験する。
「向こう側の意識」のエネルギーや光が強く透過してくると、世界はまったく違うものとなる。
世界は、エネルギーや光に透過された別物のように変貌する。

〈鏡〉の向こう側へ抜けると、その爆発的なひろがりは、こちら側の世界を内に含んだものとなる。
「こちら側の意識」は「向こう側の意識」のわずかな一片、「向こう側の意識」の力に透過されたものとなる。
その時、私たちは、すばやいものに追い抜かれた〈残像〉に過ぎなくなる。
振り向いて、確認された者(追憶)にしか過ぎなくなる。
(デジャヴ déjà vu は、その閃めく現れである)

まばゆい「誰か」が見ているものの中に、見られている「私」が〈残像〉のようにいるのである。
世界や私たちは、もはやエピソード(挿話)にしか過ぎなくなる。

世界は透けて、さまざまなカラフルな知覚情報が、まばゆく輪舞しはじめる。
世界は光と虚空を放ち、この世界の「ほんとうの姿」が見えはじめる。
全宇宙が、啓示されることもある。

意識はひろがり、後退していき、なぜ、今この人生を生きているのか、存在の〈意味〉が浮かび上がるようになる。
瞬間瞬間の宇宙の光景(追憶)を通して、感覚を通して生きている〈意味〉が把握されるようになる。

歌の旋律(メロディ)が復元されはじめ、そもそも予定されていた楽曲が聴きわけられるようになる。
データ(情報)が復旧され、せり上がり、自己に関する曲がわかるようになる。

この曲を自分で聴きとり、たどり出し、断片を歌い出せるようになると、われわれの生きる道がわかりはじめる。
自己という楽曲、さまざまなフレーズ、それらが複数の旋律(メロディ)をとりはじめ、私たちの生きる意味が形になりはじめる。

さまざまな瞬間、光景、出遭いの中にも、旋律(メロディ)は散乱している。
長い歳月の後に、その旋律(メロディ)の全体がわかることもある。
…………………………………………………………

一方、その対極にあるのが、
「こちら側の意識」だけの世界である。
「向こう側の意識」とつながっていない「こちら側の意識」の世界である。

閉じた「こちら側の意識」は、長く閉鎖された無人施設のようなものである。
電源のもはや通らない死んだハイテク施設である。

閉じた「こちら側の意識」は、人間だけが運用するゲームであり、宇宙的には死んだ無意味な場所である。
人間だけが「現実」と考えている、信念体系の世界、観念の世界である。
宇宙的には牢獄である。

人間だけの虚構なので、その中で、私たちが生きているほんとうの〈意味〉を見出すことはできない。
ほんとうの〈意味〉は、人間の外、「向こう側の意識」からやってくるものだからである。

しかし、人類は、「生きる意味」を知っているフリをし、演技をつづけている。
もはや、芝居の意味も分からずに、演技をつづけている。

私たちは、もはや、ただ惰性として演技している(生きている)だけである。
ほんとうのところ、「ちっとも面白くない」のである。
凡俗の人間たちを離れたところでは、核の核の核の部分では、宇宙的に空虚なのである。
物心ついた時から、惰性でやっているだけだからである。

そのため、本当のところは、何をしていいかよくわからないし、したくもないのである。
自分を尊重していなければ、他人を尊重することもないのである。
自分を虐待しているし、他人も虐待しているのである。

私たちは、「生きる意味」がわからないのに、わかっている演技をつづけている。
私たちは、人生のはじめの幼い頃に、大人たちのこの演技(ウソ)に気づく。
「大人たちは、なぜ生きているのか、自分たちでもわかってない」という事実に、子どもは気づく。
同時に、「そのことについては質問するな」という暗黙の命令があることにも気づく。
こうして、人生という「ウソ(虚構)」が積み重ねられていくのである。

「大人たちがついているウソに、気づかないフリをすること」、これが、私たちが子ども時代に学ぶ最初のサバイバル・テクニックである。
実際のところ、子どもは忖度するし、気づいていても、「裸の王様は裸だ」「お前はほんとうは知らない」とは叫ばないのである。
すでに「人生/人間ゲーム」をはじめた子どもは、レールの上を走っており、大人たちが気づいてほしくないウソには、「気づかないフリ(演技)をする」というルールを理解しているのである。

私たちは子どもの頃、大人たちがついているウソに、みな心の底では気づいている。
私たちは子どもの頃、大人の数百倍も鋭いからである。

そして、このゲーム(クソゲー)をつづけるために、子どもは、大人のウソに合わせて、自分でもウソを紡ぐことに同意し、その道を選んでいく。
子どもにとって、生きていくには、ウソしかない大人たちに合わせて、自分でもウソを紡ぐしかないからである。
そうでないと、感じることは、苦痛が大きすぎるからである。

そのようにして、私たちは、ウソだけの「こちら側の意識」をつくりあげていくようになる。
やがて、苦痛のために抑圧が起こり、ウソであること自体も忘れて、それをほんとうの「現実」だと思い込むようになる(上書きしてしまう)。
自分自身にウソをつくこと(抑圧)に慣れてしまうからである。
その後は、すべてがウソとフリ(演技)だけである世界がつづくのである。
このようにして「こちら側の意識」、今のこの世界、今私たちの生きているウソだけの世界があるのである。


◆分身論

私たちは、たまに考えたりする。
なぜ、人生の三分の一近くを眠って過ごしているのだろうか。
眠っている時間は、無駄ではないだろうかと。

私たちは、昼間に見る世界を、自分たちの本当の『現実』だと思っている。
夜の時間、眠っている時間は、休息の時間、現実ではない世界だと思っている。

夜の眠っている間の時間。
それは、もう別の「私」、分身たちが目覚めてくる時間である。
「向こう側の意識」が、浸透してくる時間である。

眠っている時間には、別の分身たちがそこにいる。
「向こう側の意識」が、浸透してくるからである。
もっとも、昼間の背後にも、これらの存在はずっとそこにいるのである。

私たちは皆、双子、三つ子のように複数の分身をもった存在である。
自分の分身たちが大勢いるのである。
私たちが双子を見たとき、眩暈を感じるのは、自分の分身を思い出すからである。

「こちら側の意識」は、昼の私である。
「向こう側の意識」は、夜の分身の私である。

昼の私にとって、夜の私は、〈影〉のように不気味に感じられる。
姿は見えないが、日々の中で、昼の私は、夜の私をいつも予感している。
何かの痕跡、何かの形跡の中に、またふと後ろを振り返ると、そいつがいるような気がしている。

夜の私は、姿を持っていない。
しかし、あらゆる場所に、記憶と残像の中に、未来の想像の中に浸透している。
私自身の目を通して、背後から視ている「誰か」、
それが夜の私である。

昼の私と夜の私は、夢の中では、入れ替わったり、重なりあって存在している。
夢の中では、さまざまな仮面劇として輪舞している。
夢の領域は、都市から秘密アジトの無法地帯、聖なる霊峰までを含む広大な空間である。
そこでは、敵か味方かの設定も入り交じり、錯綜した多重的なスパイ劇が展開されている。
劇か現実かもわからない、形而上学的なトリックに満ちている。
夢の中では、夜の私が持つデータ(情報)やネットワークも知ることができる。
夢の中での取引を通じて、昼の私は、夜の私の力をより利用することができるのである。

…………………………………………………………………………………
眠りの時間の中では、別の分身の私たちをそこに見えることができる。
伝説では古来より、分離した影や分身、失われた魂について語られている。
そこでは、それらの魂がどこかに離れてしまう危険(破滅)をつねに警告している。
そのことは、現代においても、まったく真実なのである。


◆身体論

私たちは、さまざまな〈からだ〉をもっている。

一つ目のからだは、私たちのよく知る「肉体」、「物理的・客観的な肉体」である。
物理的な輪郭と触感を持ち、自他ともに「これが私のからだである」と考えられている身体である。
私たちが、他人に見ている相手のからだである。
それは、わかりやすく、自分のからだと言えるものである。
通常、私たちは、意識の表面では、この肉体だけを自分のからだと思っているのである。
このからだを自分と見なすことで、「こちら側の意識」は感じられている。
しかし、私たちのからだは、これだけに終わっているものではない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

二つ目のからだは、そのからだとは別にあり、それ以上のひろがりと空間をもっている感覚的なからだである。
「生きられた身体」と呼ばれたりもある。

哲学の身体論などで語られる身体性、「もうひとつのからだ」である。
その柔軟で拡張された感覚を通して、私たちの思考や知覚も働いているのである。
私たちがものを考えるときでさえ、基盤として働いているのも、このからだである。
このからだのひろがりや流動性によって、その人の世界や思考の範囲も決まってくるのである。
それらは皆、このからだのひろがりの上で、生の感覚を感じているのである。

音楽に没入している時、私たちのからだは、音の群れに入り込み、楽曲自身として跳躍している。
映画に没入している時、私たちのからだは、登場人物の感情となって動悸している。
他者と深く交流している時、私たちのからだは、その人の感じ方に同期し感じている。
このからだは、一つ目のからだを超えて、さまざまな領域にまで伸長し、世界を体験している。
しかし、一方で、一つ目のからだの経験や記憶に大きく影響や制限も受けている。
そのため、二つ目のからだを十全に活かすには、一つ目のからだの制限を解放していくことが重要である。

しかし、私たちのからだは、これらのレベルに尽きるものではない。
実はもっとひろがりのある、別のからだもある。
その三つ目からだは、「向こう側の意識」とともにある。

私たちが、時として「知らないことまでわかってしまう」のは、このからだのせいである。
このからだが透過していないものを、私たちは「本当には知る」ことができない。
このからだは、「向こう側の意識」だからである。

通常、これらさまざまなからだは、日常の身体感覚の中で混じり合って存在しているため、それと区分けされることはない。
さまざまなからだを、目に見える肉体とは別に感じられるようになると、私たちは、通常の人生を抜け出すこととなる。
人生とは、「肉体」の風景だからである。
肉体から、別の乗り物に乗り換えるかのように、別のからだに移ると、私たちの見る世界は、まったく違うものなる。
そのひろがりは、流動的で、自由なものになる。

三つ目のからだは、肉体とは別の次元にあるからだである。
それは、「向こう側の意識」だからである。
現われ方としては、古今東西のさまざまな秘教が語ってきた身体のようである。
秘教の中では、微細身、金剛身、気の身体、光の身体などと呼ばれてきたものである。
それは、微細な身体(サトル・ボディ)、微細なエネルギーとしてひろがる別の次元にある。

そのからだに入り込むと、すべてが、既存の人間形式(作用反作用)と違っている。
通常の人間とは、肉体の上で運用されている「こちら側の意識」の作用だからである。

別のからだに入り込むと、別のエネルギー空間と、それにそった「向こう側の意識」が現れてくる。
それはもはや「私」の世界ではないのである。

その時、私たちは、〈別の開放空間〉の中に入り込むこととなる。
なめらかさがひろがるシームレスな非時空に滑り込むことになる。
すべては、まばゆい如来のような振動域の、無際限なひろがりの中にあるようである。
私たちは、別種の存在として、未知の宇宙旅行を行なえるようになるのである。


◆自己論

私たちはいつも「外界」、自分の「外側」のものに惹きつけられている。

なぜ、私たちはいつも、自分の「外側」のものに夢中になっているのか。
なぜ、私たちはいつも、自分の「外側」に答えがあると思い込んでいるのか。
なぜ、私たちはいつも、「外側」にしか答えを求めないのか。

それは、私たちの基底にある指向と、抑圧(分裂)に関係している。

私たちは、元来、生物としては他に向かうようにプログラムされている。
そのため、生まれた後すぐ、保護と捕食のために他者に向かうようになる。
また、群れ的動物の家族的要素が起動し、そのことが価値として強められていく。
他者と交わる中で、内面化(取り入れ introjection )した他者と他者像、自己と自己像とを愛憎する乳幼児期が過ごされていく。

その中で、だんだんと、私たちは、他者像と自己像を融合したり、入れ替えたりなどして、とり違えるようなっていく。
「他者像のような自己」を想像し、「他者像」から模造した「自己像」を、自分だと思い込むようになっていく。
しかし、本当に危険なのは、「自己(鏡像)」を裏から支える欲求(感情)である。
それは、その模造した他者の価値感情(欲求)自体も取り入れ introjection られることになるからである。
「保護者/脅迫者」像が取り入れ introjection られ、「自己像」の裏側から、それと二個一で、それを圧迫するように育っていくからである。
つまり、私たちの「自己像」は、その裏側に知られざる「脅迫者」が最初から入り込んでいるからである。
私たちは、最初の時点から、私たち自身ではないのである。
それらは、「自己像」の内部で、「自分の声として」、その価値欲求(感情)をつねに唱えるからである。
「お前はだめだ」「お前は十分でない」「お前には価値がない」「お前にはできない」「お前はすべきだ」「お前は苦しむべきだ」「私は苦しい」「私は恥ずかしい」「私は無価値だ」

自己像の中で、どこからか、謎の価値感情(欲求)がささやきつづけるのである。
いつの間にか、「仮面/影」に分裂した自己像が、私たち自身として生成することになっているのである。
「保護者/脅迫者」の抑圧/分裂が取り込まれ、私たちの抑圧/分裂になっていくのである。
そのような「自己(像)」=自分を、私たちは物心がつく前から、自分の内に育て、そのような存在になっているのである。

この存在の断層/地割れが、私たちに、いつも苦痛や欠乏、空虚を感じさせるのである。
つねにどこかに苦痛があり、足りない存在が、私たち自身になっているのである。
それが「こちら側の意識」の特徴である。

その欠乏を充たすために、私たちは、いつも外側に「何か」を求めざるをえない。
外側に求める形しか、私たちは知らないからである。
内側には、空虚しか感じられないからである。

人間は、基本、「投影 projection 」を通して世界を見ている。
投影 projectionとは、自分の中の見たくないモノ(要素)を抑圧し(見ないようにし)、それが他人のモノ(要素)だと見える心理機能のことである。
外部に何かを映し出す(見出す)投影 projection は、偽りの自己像(仮面)の防衛のために起こるのであるが、同時に、深いレベルでは、魂の回復のきっかけにもなる補償機能といえる。
自分自身の嫌なモノ(要素)に、直面させられるからである。

しかし、外部のものを、自分と関係ない、ほんとうに悪しきものと見なし、「実体視」している限り、私たちはその仮面(欺瞞)と影(本性)の分裂の中を、ウロボロスのように旋回するだけである。
そのため、たいがいの下等な凡俗の人間は、他人を攻撃して、自分を正しいと欺瞞しているのである。
この悪循環が、この現代社会の虚妄、ゲーム、マーヤー(幻妄)である。

このことに真に気づいた時、私たちは、自由になろうとしはじめる。
このことに真に気づいた時、私たちは、ゲームを断ち切り、抜け出そうとしはじめる。
このことに真に気づいた時、私たちは、自由になりはじめる。

私たちが自由になる方法は、「最初からの」誤りに気づくことである。
私たちが自由になる方法は、最初にかけ違えたボタンをはずすことである。
自分自身から、信じている自己像(鏡像)から、抜け出すことである。
そのことで、私たちは、ほんとうの自己に触れていくこととなる。

しかし、事態は、不可能的なことに思える。
私たちは、今信じている自己像を介してしか、世界や物事を想像することができないからである。
ほんとうの自己について何も知らない「こちら側の意識」だからである。
私たちがいるのは、〈鏡〉のこちら側の世界だからである。
真実のすべては、知ることのできない、〈鏡〉の向こう側の世界にあるからである。

そのため、ここでは、逆説的な方法が必要とされるのである。
古来より、伝統的な教えの多くが、逆説的な語り方をするのも、そのためである。
そこでは、さまざまな寓話を通して、「断層と飛躍」が語られるのである。
私たちは、小さな寓話をたどるうちに、断層を飛躍する、存在の事件に巻き込まれていくのである。

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」の間に、歪みが生じ、未解決事件気づかれはじめる。
やがて、私たちは、事件に巻き込まれ、自己を捜しはじめ、その真実に触れはじめることになる。
真実に触れはじめると、だんだんと、あたりを、まばゆい光が満たしはじめる。

そして、やがて、すべては、すばやいものに追い抜かれた〈残像〉に過ぎなくなっていくのである。


◆速度論――〈青空=まなざし〉

遍在意識は、始原からすでにあった。
そのため、インドでは、古来より「サッチダーナンダ(存在・意識・至福)」と呼ばれているのである。
宇宙創造以前のプレローマと呼ばれることもある。

それは、虚空としての意識。
ゼロ=無限=無内容として〈意識〉である。

私たちは、投影されたからだによって、宇宙を創っている。
宇宙を「体験している」。
「体験」をつくり出している。
それは「こちら側の意識」である。

見ている者の〈本体〉はプルシャであり、プレローマであり、無際限の、無内容の〈意識〉である。
それは、超越的な目撃者 witness である。
誰でもない、根源的な気づき awareness である。
「向こう側の意識」である。

投影されたからだが、この世界、私たちの体感する世界をつくっている。
投影されたからだによって、「こちら側の意識」も生まれている。
投影されたからだによって、私たちもつくり出されている。
「私」とは、見られ感じられている存在(図 figure )のことである。

投影されたからだがクリア(清澄)になると、私たちもクリア(清澄)になっていく。
投影されたからだが変容すると、私たちも変容していく。
投影されたからだがすみずみまで透過されたとき、そのとき見られている私たちは、もはや私たちではない。

そこでは、
「何者でもないもの」として、見ている者、目撃者が見ているのである。
〈青空=まなざし〉が見ているのである。
それが、存在のあちらとこちらにあるものである。

さまざまな伝承が、このことを語ってきた。
古今東西のさまざまな創世神話が、これらの役柄を名づけてきた。

それらは皆、同じことを指しているのである。

私たちの知る〈像〉はすべて、投影されたからだから来ている。

すべての像は〈残像〉である。

投影されるからだが完全に透けると、もはや像はない。

その時、私たちは、像のあちらとこちらにいて、まばゆい像なき像を生きているのである。


◆化身論

私たちは、「向こう側の意識」の複数のからだである。
それは古来から、さまざまな化身や界として描かれてきた。
それは、私たち自身の別の(本当の)姿である。

そのような姿は、伝統的には、さまざまな微細身(サトル・ボディ)として語られてきた。
如来たちの世界、天使たちの世界、祖形(元型)たちの世界である。
近代では排除・抑圧されているが、そのような体験‐存在領域が、古今東西、知られていたのである。

「こちら側の意識」の心身を解き放ち、流動性を高めていくと、私たちは徐々に、旧来の自己像、日常的自我から離脱するようになる。
世界は流動化し、別の次元、「向こう側の意識」に離脱しはじめることになるのである。

粗大なからだを離れ、微細化した流れるからだ、摩擦のない超電導のようなからだ、光のつらなるような滑らかなからだを感じるようになるのである。
一切が透過してくるようになるのである。
そのからだの無時間的な速さ/まばゆさが、世界を殻/粒子のような残像に変えていくのである。

その時、私たちは、ほんとうの自己といわれる世界に交わりはじめるのである。
人間の造ったものではない、シームレスな〈開放空間〉に入りこんでいくこととなるのである。

それは、古今東西、さまざまに描かれてきた、燦然とまばゆい、もういくつもの世界、ほんとうの世界である。

ところで、像のボタンがかけなおされると、かつての自己像や人間像は修復され、「配役」のひとつとして再び利用されていくこととなる。
〈光〉に吸い込まれ回収された後、ふたたび送り返され、「役柄」のひとつとして設定され、「劇」の中に置かれ、ふたたび演じられるようになるのである。

私たちは、人間の姿をとり、世界で人々と交わっている「何者か/まばゆさ」として、生きていくことができるようになるのである