変性意識と自己超越の技法―「こちら側の意識」と「向こう側の意識」【方法論的寓話】

以下では、「意識」の多様な状態(顕在意識/潜在意識/変性意識/遍在意識)をもとに、「寓話的」な形を借りて、私たちの「意識」の構造、それらを拡張・拡大・変容していく方法論を語っています。
なぜ、「寓話的」なのかといえば、「意識」というものは、今現在の人類が通常使っている「西洋的/近代的概念」では解説(理解)できないものであり、「寓話的」な形
を借りなければ、描写できない宇宙のリアリティであるからです。そのため、実際に、古来よりそのような表現形態(芸術も含めて)が使われてきたのです。
ところで、今の世間一般でもあまり認知されていませんが、現代の科学では、「〈意識 consciousness 〉が何なのか」について、本当のところはよくわかっていません。それは何より、私たちの科学では「意識」自体を計測することが一切できないからです。「意識」自体は、検査機器には引っかからない、検査機器上に現れないからです。
私たちは、自分の「意識」を体験しているので、それを自明の存在と思っていますが、厳密にいうと、「意識」は、私たちが物質宇宙として認知しているものとは、別の世界線にあると言わざるを得ないのです。世の中では、「脳と意識」を混同したりする、凡庸な俗説がまかり通っていますが、センスのいい、鋭くものを考えられる研究者や思想家は、そういうことを素朴には信じていません(これは、哲学的にものを考えられる人の常識です)。それが、いわゆる、このジャンルの研究の中では、「ハード・プロブレム(難しい問題)」と言われる真の問題群です。

D.チャーマーズ『意識する心』(白揚社)

ここでは、寓話的・暗喩的な形を借りつつ、科学的には多くの謎を持つ「意識」について、その知られていない様相を描写しています。ご自身の経験として、「意識」の謎を深く感じている方には、ヒントとしていただける内容でしょう。
当然、古今東西の叡智を参照していますが、筆者自身の尋常でない数多くの経験から、得られたものでもあります。
また、この中では、当スペースがよくいう「統合すれば超越(超脱)する」についても、別の角度から描写されています。


◆寓話

私たちには、「こちら側の意識」と「向こう側の意識」がある。

「こちら側の意識」とは、この「私」、日常意識、いわば「この世界の意識」である。
「向こう側の意識」とは、私たちのよく知らない「あちら側の意識」、喩えると「彼岸の意識」である。
俗に、「顕在意識と潜在意識」「意識と無意識」などと呼ばれているものの本質はこれである。
そして、これらの中(底)には、あまり(もしくはほとんど)知られていない〈遍在意識 omni consciousness 〉が透過しているのである。
これらの意識は、本質的には、皆同じものである。

「こちら側の意識」は、いわば一区画である。
「向こう側の意識」から一区画を切り分けられたものが、「こちら側の意識」である。
一区画とは、分けられたもの、映し出されたもの、創られたものである。

「こちら側の意識」も、その本質は「向こう側の意識」と同じ意識である。
中身のエネルギー(実体)はみな同じである。
(だから、同じ〈遍在意識〉が等しく透過しているのである)
単に場所(ロケーション)が違うだけである。

場所(ロケーション)はいくつもあり、皆それぞれに「こちら側の(この)意識」となっている。
「こちら側の意識」も沢山あるのである。
ただ、通常、私たちは「こちら側の意識」を一度に一つしか体験できないので(排他的同一化)、それを一つだけのものと思い込んでいるのである。

「こちら側の意識」は、この私たちの時空の世界である。
〈鏡〉のこちら側の世界。
私たちのよく知る、三次元の時空の世界である。
人びとが話し、生活している、私たちの見慣れている世界である。
よく知っている因果法則と機械仕掛けの世界である。

「向こう側の意識」の世界は、〈鏡〉の向こう側の世界、この時空とは別の世界である。
私たちの知覚を超えた別の世界、未知の世界である。
そのため、私たちはそれについて知ることは少ない。
しかし、私たちは、いつも、その謎に惹かれているのである。
だから、昔から「向こう側へ突き抜けろ Break on Through (To the Other Side)」と叫ばれるのである。

〈遍在意識〉は、それ自身では知られることのない、非限定の、遍在する存在の次元である。
そのため、インドでは古来より、「ブラフマン(梵天)は『サッチダーナンダ(存在・意識・至福)』である」と言われているのである。
〈遍在意識〉とは、このような意味での意識である。
同じくインドで言われる「目撃者 witness 」も同様の意識である。
それは姿なき、主体なき意識である。

通常(または生涯)、私たちはそれに気づくことなく過ごしている。
普段は、「こちら側の意識」に閉じ込められているからである。
しかし、「向こう側の意識」に抜けるとき、私たちはそれを垣間見たり、それ自身になったりすることもある。

なぜなら、そこでは、遍在意識が、より間近にあるからである。

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」とは、同調(同一化)の違いであり、限定やロケーション(場所)の違いでしかない。

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」を区切る〈鏡〉によって、私たちはこの世界の風景を見ている。
この世界は〈鏡〉に映った、こちら側の世界である。

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」を区切る〈鏡〉は、仮構のものである。
そこには微細な浸透と遮断、透過と交流がある。
そのため、古来より、それは「ベール(面紗)」というような表現で呼ばれているのである。

「こちら側の意識」を通して「向こう側の意識」を体験することはできる。
中身の実体は同じだからである。
「その者」としても存在することも可能だからである。
(今も、「その者」として存在しているかもしれないのである。ただ、現在の意識状態ではそれが知れないだけである)

場所(ロケーション)の違いでしかないからである。

ただし、単純に〈鏡〉の向こうに行ってしまうだけなら、われわれはあまり知ることができない。
なぜなら、私たちは〈鏡〉のこちら側の存在、「こちら側の意識」だからである。
「こちら側の意識」を通して「向こう側の意識」を知っていくことが、私たちの「知ること」である。

私たちがいるのは、〈鏡〉があるせいである。
この〈鏡〉が割れてしまうと、私たちもまた喪われてしまう。
この〈鏡〉が無いと、私たちもまた無い。
なぜなら、私たちとは「鏡に映った像(虚像)」だからである。

そのため、このゲーム(人生)は、〈鏡〉を澄まして、〈鏡〉の向こう側を知ることである。
そのことで、私たちは自分(世界の秘密)のことを知ることができるからである。
〈鏡〉の向こうの世界を通してみることで、こちら側の世界の謎を知ることができるからである。
このトリック(逆説)が、ゲームの面白さである。
そのことで、私たちは、チャプター(章)を進み、ゴール(極点)に近づくことになるのである。

「こちら側の意識」以外にも、「向こう側の意識」の中には、さまざまな区画がある。
私たちは時たま、それらに迷い込む。
私たちの区画はとても小さな空間、とても小さな区画である。
他の区画には、もっと開放的な空間や巨大な施設、大きな都市もある。
国家もあれば、星々のようなものもある。
これらのロケーション(場所)を覚えておくと、私たちはそこを訪れることができる。

「向こう側の意識」を十全にとらえられると、「こちら側の意識」は小さな小部屋ではなくなる。
見えている風景も、薄絹のように希薄になり、内側からまばゆく光を放ちはじめる。
映像や物たちの姿は流動化し、溶けはじめる。
遍在意識がより感得されるようになる。
夏の日のまばゆさに、すべてが吸い込まれていくように、空間が広大無辺なものになっていく。

時空を超えた飛沫として、今ここに落ちるものがある。
宇宙の彼方から、汀に寄せる息吹がある。
時空の中で「役」を演じている、場所的な者として、私たちは自分を見出すようになるのである。


◆演技論

「向こう側の意識」は、無形の存在であり、制限というものがない。
だから、「向こう側の意識」としての私たちはすべてを知ることができる。
かつてあったことも、これから起こることも。どこかであったことも、どこかで起こることも。
そこでは「遍在意識」がより間近だからである。

まれに、私たちは、そのような「向こう側の意識」からの、人生の情景を垣間見ることがある。
(変性意識状態を通して知ることがある)
そのような時、私たちは人生の本質について、重要なヒント(別世界からのような)を瞥見することになる。

「向こう側の意識」は、流れる非限定の世界、際限のない深淵である。
「こちら側の意識」でありながら、私たちはそれらを垣間見ることがある。
「遍在意識」はすべてに浸透しているからである。

私たちは、普段意識することなく、闇の中で手探りするように、それらの体験を探している。
日々の生活の中で、その〈何か〉を探している。
それらが、今以上に、この人生に「意味」を与えてくれると感じるからである。
それらの中に、上位の「答え」、霊妙な隠されている「答え」を感じとるからである。

そして、「人間世界」と「際限のない深淵(向こう側の意識)」の間に、振幅を感じ、振幅の合間に、謎を解いていくのが私たちのゲームの楽しみだからである。

私たちが、自分をわざと小さな自分(私)と見なし、小さな「役」を演じ、「こちら側の意識」を生きているのは、このロールプレイング・ゲームによる刺激的な体験、地獄降りや、次元上昇体験(超越体験)を楽しみたいからである。
誕生(超出)のプロセスを、劇的に、濃密に味わいたいからである。
「英雄の旅」もそのことを示している。
この世界の多様さと豊饒さは、そこに由来しているのである。

バランスのとれた、一様で均質なものからでは、濃密な強度(体験)が生れない。
必要な摩擦や屈曲がないからである。
新奇さや鮮烈さに欠けるからである。

平穏で均衡的な平面からは、驚異や創造力は生れない。
格闘の軋轢や摩擦、屈折の中から、万華鏡のように極彩色が溢れ、目覚ましい閃光(創造)が生まれ出すのである。
私たちが、葛藤を抱えがちなのは、そのためである。

「こちら側の意識」があるのはそのためである。
「向こう側の意識」だけでは、静謐すぎて、圧や葛藤がないからである。
宇宙は、苦しみを通して、より多様なドラマや展開、多様な意識と至福を楽しみたいのである。
(それは、人類が楽しむ、映画や文芸が描く苦しみの姿を見てもわかることだろう)

「向こう側の意識」は、暗黒のひろがりであり、至福の無量光である。
「こちら側の意識」は、劇の役を演じている役者である。
しばしば、劇の登場人物を、自分だと信じ込んでしまっている役者である。

「こちら側の意識」は、演技であり、役や劇の可能性の探求である。
劇中で、これが「劇」だと気づき、「向こう側の意識」をふたたび見出していくゲームである。
見出す中で、「劇」をさらに深めひろげるためのゲームである。

だから、私たちは、本当は、心の底ではわかっていて、のゲームをやっているのである。
(遍在意識はすべてに浸透しているからである)
しかし、「日常意識」では、それに気づけていないのである。

これは、脱出のゲームであり、かつ侵入のゲームである。
そのように「私」に出たり入ったりしながら、これらのゲームを楽しみつつ探求しているのである。

無明な「こちら側の意識」にも、重要な機能がある。
それは「役」の設定による体験の深化と、超脱への圧・推力である。
渇望や欲求不満、軋轢や摩擦がないと、深化と超出への推力が生まれないのである。

誰が、順風満帆の、平穏無事な、なんの事件も起こらない大長編映画を楽しむだろうか。
私たちは、いつも波乱万丈な物語、ジェットコースターのような上昇と下降の物語を求めている。
それが、未知のものへの超出と脱出を予感させるからである。
それでは意味がわからない「場面(シーン)」も、結末(終点)の中では、しかるべき意味をもつ。

伏線は回収し、すべては〈終点〉へ消えていくのである。


◆方法論1

「向こう側の意識」を体験するには、「こちら側の意識」が流動化していることが必要である。
「こちら側の意識」は通常、硬化し、固形化し、自閉しているからである。
そのことについては、現代の人類のレベルは、酷い末期の状態にある。
現代は、悪世末法の時代である。

いつ滅亡を迎えたとしても、不思議のないレベルである。
知覚と感覚の目詰まりをきれいに刷新し、感情と肉体を回復し、意識を流動化させることが求められる。

流動性が充分でないと、私たちは「向こう側の意識」を充分に体験することができない。また、統合することもできない。
流動性が強すぎると、私たちは体験することができない(とらえられない)。
自己を喪ってしまうからである。
「向こう側の意識」に吸い込まれ、私たち自身であることを喪ってしまうからである。

「向こう側の意識」を知るだけの透過性(浸透性)を得るには、鏡面の汚れや詰まりを除き、透き抜ける存在の流動性を得ることが前提となる。
伝統的に知られるように、無心な存在(パイプ)になることが必要である。
その「空無」の中で、エネルギーや情報、意味も曇りなく流れるようになるのである。

一方、「向こう側の意識」は、とらえがたい未知の非限定のエネルギーである。
その未知のエネルギーの中では、「こちら側の意識」の共振や焦点化も試される。
努力と錬磨を通してのみ、「向こう側の意識」を導き、変換し、この世界で活用することも可能となるのである。

そこで問われるのは、とりわけ、「とらわれのなさ/自由」である。
私たちが空無である分しか、「向こう側の意識」は、微細なエネルギーを満たさないからである。
人間心理的な抑圧や分裂、投影、思い込みや信念、二元的論理(作用反作用)は分厚い粗大な障壁であり、その鈍感さの中には、「向こう側の意識」の良質な霊妙さは透過しないのである。
仮に部分的に流れ込んでも、統合や流動性が不十分であると、私たちは、それを正しく運用できないのである。
それらに憑依され、乗っ取られ、暗黒に落ち込むこととなるのである(魔境」
)。

「向こう側の意識」を知りたければ、無心(無一物)の者として、その地に赴くしかないのである。
そのような接近を通してのみ、「向こう側の意識」の非限定なエネルギーから力を得ることも、無形の息吹を使いこなすことも可能となるのである。

これらの感覚は、継続的な探索と錬磨を通して得られていくものなのである。


◆方法論2

私たちは、「こちら側の意識」を通して「向こう側の意識」を体験する。
「向こう側の意識」のエネルギーや光が強く透過してくると、世界はまったく違うものとなる。
世界は、エネルギーや光に透過された別物のように変貌する。

〈鏡〉の向こう側へ抜けると、そのひろがりは、こちら側の世界を内に含んだものとなる。
「こちら側の意識」は「向こう側の意識」の一片、「向こう側の意識」の力に透過されたものとなる。
その時、私たちは、すばやいものに追い抜かれた〈残像〉に過ぎなくなる。
振り向いて、確認された者(追憶)にしか過ぎなくなる。
(デジャヴ déjà vu は、その閃めく現れである)

まばゆい「誰か」が見ているものの中に、見られている「私」たちが〈残像〉のようにいるのである。
世界や私たちは、もはやエピソード(挿話)にしか過ぎなくなる。

世界は透けて、さまざまなカラフルな知覚情報が、まばゆく流動化しはじめる。
世界は光を放ち、この世界の「ほんとうの姿」が見えはじめる。

なぜ、この人生を生きているのか、存在の〈意味〉が浮かび上がるようになる。
瞬間瞬間の宇宙の光景(追憶)を通して、知覚と感覚を通して、生きている〈意味〉が把握されるかのようである。

旋律(メロディ)が復元されはじめ、そもそも聴いていた楽曲が聴きわけられるようになる。
データ(情報)が復旧され、自己に関する曲がわかるようになる。

この曲を自分で聴きとり、たどり出し、断片を歌い出すようになると、それがわれわれの生きる道となる。
自己という楽曲、さまざまなフレーズ、それらが旋律(メロディ)をとりはじめ、私たちの生きる意味になりはじめる。

さまざまな出遭いの中にも、旋律(メロディ)が散乱している。
長い歳月の後に、その旋律(メロディ)の全体がわかることもある。
…………………………………………………………

一方、その対極にあるのが、
「こちら側の意識」だけの世界である。
「向こう側の意識」とつながりのない「こちら側の意識」の世界である。

閉じた「こちら側の意識」は、閉鎖された無人施設のようなものである。
電源の通らない死んだハイテク施設である。

閉じた「こちら側の意識」は、人間だけが運用するゲームであり、宇宙的には死んだ無意味な場所である。
これが、人間だけが「現実」と考えている、信念体系、観念と言葉の世界である。

人間だけの虚構なので、そこに、私たちが生きているほんとうの〈意味〉をそこに見出すことはできない。
ほんとうの〈意味〉は内輪の外、「向こう側の意識」からやってくるものだからである。

しかし、そのような人間も、「生きる意味」を知っているフリをし、芝居をつづけている。
理由もわからずに、「人生」という劇で演じさせられつづけている。

そのような場合、私たちは、ただ惰性として生きているだけである。
「昨日やったことを今日もやる」だけである。
物心ついた時から、やっているのはそれだけである。

そのため、本当のところは、なんで生きてるのかもよくわからない。
自分を尊重していなければ、他人を尊重することもない。
自分を虐待しているし、他人も虐待している。
嫌になれば、死んで去りたいと思う。

私たちは、「生きる意味」がわからないのにわかったフリ(演技)をしている。
人生のはじめの幼い頃に、私たちは、大人たちのこのウソ(演技)に気づく。
「大人たちは、なぜ生きるのか、自分たちでもわかってない」という事実に、子どもは気づく。
そして、「そのことについては質問するな」という雰囲気を発散していることにも気づく。

そのため、「大人たちがついているウソに、気づかないフリをすること」、これが、私たちが子ども時代に学ぶ最初のサバイバル・テクニックである。
実際のところ、子どもは忖度するし、「裸の王様は裸だ」「お前は知らないだろう」とは叫ばないのである。
すでに「人生/人間ゲーム」をはじめた子どもは、大人たちが気づいてほしくないウソには、「気づかないフリ(演技)をする」というルールを理解するのである。

私たちは子どもの頃、大人たちがついているウソに、みな心の底では気づいている。
私たちは子どもの頃、大人の数百倍は鋭いからである。

そして、このゲーム(クソゲー)をつづけるために、子どもは、大人のウソに合わせて、自分でもウソを紡ぐことに同意し、その道を選んでいく。
子どもにとって、生きていくには、ウソしかない大人たちに合わせて、自分でもウソを紡ぐしかないからである。
そうでないと、苦痛が大きすぎるからである。

そのようにして、私たちは、ウソだけの「こちら側の意識」で生きていくようになる。
やがて、苦痛のために抑圧が起こり、ウソであること自体も忘れて、それを本当の「現実」だと(上書きして)思い込むようになるのである。
自分自身にウソをつくこと(抑圧)に慣れてしまうからである。
その後は、すべてがウソとフリ(演技)だけである世界が続くのである。
このようにして「こちら側の意識」、今のこの世界、私たちの今生きている世界があるのである。


◆分身論

私たちは、たまに考えたりする。
なぜ、人生の三分の一近くを眠って過ごしているのだろうか。
眠っている時間は、無駄ではないだろうかと。

私たちは、昼間に見る世界を、自分たちの本当の『現実』だと思っている。
夜の時間、眠っている時間は、休息の時間、現実ではない世界だと思っている。

夜の眠っている間の時間。
それは、もうひとりの自分、別の「私」たちが目覚めている時間である。
「向こう側の意識」が、主の時間である。
「こちら側の意識」は、より部分的、局所的な現れをする。

眠っている時間には、「別の私」の活動がよくわかる。
眠っている時間は、「向こう側の意識」「夜の私」が、舞台の前面に見えるからである。
しかし、本当は、昼間の背後にも、これらの存在はずっと活動しているのである。

私たちは皆、双子、三つ子、五つ子のような複数の存在である。
分身のような、自分たちが大勢いるのである。
私たちが双子を見たとき、不思議な眩暈を感じるのは、このことを思い出させるからである。
双子は、私たちに、忘れている分身たち(今も後ろから見ている)を思い出させるからである。

昼の私は、「こちら側の意識」である。
夜の私は、「向こう側の意識」である。

昼の私は、一本の樹木のようである。
幹と枝があり、価値の比重は均衡的に整理され、物事を構成している。
世界は、作用反作用の原理に従う機械仕掛けのシステムである。
われわれは、そのシステムに従って生きている。

昼の私は、論理的に考える存在である。
言葉を用いて、自動的に判定解釈しながら、世界を分節化している存在である。
解釈し、比較し、計画し、行動している存在、それが昼間の私たちである。

昼の私にとって、夜の私は、〈影〉のように不気味に感じられている。
日々の中で、何かの痕跡、何かの形跡の中に、昼の私は、夜の私をいつも予感している。
ふと後ろを振り返ると、そこにそいつがいるような気がしている。

夜の私は、姿を持っていない。
しかし、あらゆる場所に、記憶と残像の中に、未来の想像の中に潜んでいる。
私自身の目を通して視ている「他の誰か」、
それが夜の私である。

昼の私と夜の私は、夢の中では重なりあって存在している。
夢の中で、さまざまな登場人物として現れているのが、夜の私である。
夢の物語は、秘密アジトの無法地帯から、聖なる霊峰までを含む広大な空間である。
そこでは、観客か俳優か、敵か味方かの区別もつかないような、何重ものスパイ劇が展開されている。
芝居か現実かわからない、形而上学的なトリックに満ちている。
しかし、夢の中では、夜の私が持つデータ(情報)やネットワークも知ることができる。
夢の中での取引を通じて、昼の私は、夜の私の力をより利用することができるのである。

…………………………………………………………………………………
眠りの時間は、別の私たちが、舞台の前面に見える時間である。
伝説では古来より、分離した影やそっくりな分身、失われた魂について語られている。
それらの魂がどこかに彷徨ってしまう危険(破滅)をつねに警告している。
そのことは、現代においても、真実なのである。


◆身体論

私たちは、さまざまな〈身体〉をもっている。

一つ目の身体は、私たちのよく知る「肉体」、「物理的・客観的な肉体」である。
物理的な輪郭と触感を持ち、「これが私の身体である」と考えられているものである。
他人から見ている自分の身体、同じく、私たちが、他人に見ている相手の身体である。
それは、わかりやすく存在しており、間違いなく自分の身体と言えるものである。
通常、私たちは、この肉体だけを、自分の身体、存在だと思っているのである。
この身体に同一化することで、この「こちら側の意識」は感じられている。
しかし、私たちの身体は、これに終わるものではない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

二つ目の身体は、それとは別の、それ以上のひろがりをもって働いている感覚的な身体、「生きられた身体」である。
よく哲学で語られる「身体性」、身体論の身体、もうひとつの身体である。
その柔軟で統合された感覚を通して、私たちの思考や知覚も働いているのである。
私たちがものを考えるとき、基盤として働いているのも、この身体である。
この身体のひろがりや流動性によって、世界や思考の範囲や射程距離も決まっている。
それらは皆、この身体の投影の上で運用されているからである。

音楽に没入している時、私たちの身体は、楽曲自身として流れている。
映画に没入している時、私たちの身体は、登場人物となって動悸している。
他者と深く交流している時、私たちの身体は、その人の感じ方に同期している。
しかし、この身体は、一つ目の身体の経験や記憶に、大きく影響や制限を受けている。
そのため、妨げなく活動するには、一つ目の身体の制限を解放していくことが重要になるのである。

しかし、〈身体〉は、これらのレベルに尽きるものではない。
私たちが、その空間に棲んでいるのは、実はもっとひろがりのある別の身体である。
その身体は、「向こう側の意識」とともにある。

私たちが、物を見るとき、時として「知らないことまでわかってしまう」のは、この身体のせいである。
この身体が透過していないものを、私たちは「本当には知る」ことができない。
この身体は、「向こう側の意識」だからである。

通常、これらさまざまな身体は、日常の身体感覚の中で混交しているため、それと気づかれることはない。
さまざまな身体を、肉体とは別に感じるようになると、私たちは、普通の人生を抜け出すこととなる。
人生とは、「肉体」の風景だからである。
肉体とは、「こちら側の意識」だからである。
別の身体は、「向こう側の意識だからである。
肉体から、別の乗り物に乗り換えるかのように、別の身体に移ると、私たちの見る世界は、人生とまったく違うものなる。
そのひろがりは、無辺になる。

「向こう側の意識」の身体は、肉体とは別の次元にある。
それは、人生や生死とは違う世界である。

それは、古今東西のさまざまな秘教が語ってきた身体である。
秘教の中では、微細身、金剛身、気の身体、光の身体などと呼ばれたりもしてきた。
それは、微細な身体(サトル・ボディ)、微細なエネルギーとしてひろがる次元にある。
(現代科学の中でも、捕捉しようとしているが、捕捉できない身体である)

その身体に入り込むと、すべてが、既存の人間形式(作用反作用)と違っている。
人間とは、肉体の上で運用されている「こちら側の意識」だからである。

別の身体は、「向こう側の意識」「別次元のひろがり」「夢の身体」だからである。
その身体に入り込むと、別のエネルギー空間と、それにそった「意識」が現れてくる。
それはもはや「私」の世界ではない。

その時、私たちは、〈別種の開放空間〉の中に入り込むこととなる。
なめらかさがひろがるシームレスな非時空に入り込むことになる。
すべては、如来や天使のような振動域の、無際限なひろがりの中にあるようである。

私たちは、別種の次の存在として、未知の旅(宇宙)をつづけていくことになるのである。


◆自己論

私たちはいつも「外界」、自分の「外側」のものに惹きつけられている。

なぜ、私たちはいつも、自分の「外側」のものに夢中になっているのか。
なぜ、私たちはいつも、自分の「外側」に答えがあると思い込んでいるのか。
なぜ、私たちはいつも、「外側」にしか答えを求めないのか。

それは、私たちの基底にある指向と、抑圧(分裂)に関係している。

私たちは、生物として他に向かうようにプログラムされている。
そのため、生まれた後すぐ、保護と捕食のために他者に向かうようになる。
人間として群れ的家族的要素が付加されて、そのことが価値として強められていく。
他者と交わる中で、内面化(取り入れ introjection )した他者と他者像、自己と自己像とを愛憎する乳幼児期を持つ。

その中で、私たちは、他者像と自己像を融合し、取り違えるようなっていく。
「他者像のような自己」を想像し、「他者像」から模造した「自己(鏡像)」を、自分だと思い込むようになっていく。
しかし、本当に危険なのは、「自己(鏡像)」を裏から支える価値欲求(感情)である。
それは、その時の他者の価値感情(欲求)を取り入れ introjection ることにより創られるからである。
「保護者/脅迫者」像が取り入れ introjection られ、「自己像」の裏側から、それを圧迫するように生成するのである。
それらは、「自己像」を乗っ取り、価値欲求(感情)をつねに唱えるからである。
「お前はだめだ」「お前は十分でない」「お前には価値がない」「お前にはできない」「お前はすべきだ」「私は苦しい」「こんな人生嫌だ」「こんなはずじゃなかった」

自己像の中で、どこからか、謎の価値感情(欲求)がささやきつづけられるのである。
いつの間にか、「仮面/影」に分裂した自己像が、私たちの内に生成することになるのである。

「保護者/脅迫者」の抑圧/分裂が吹き込まれ、私たちの抑圧/分裂になっていくのである。
そのような「自己(像)」を、われわれは無自覚に、子どものうちに生きるようになるのである。

この存在の断層/ズレが、いつも欠乏と感じさせる理由である。
つねに足りない存在が、私たちになっているのである。
それが「こちら側の意識」の特徴である。

その欠乏を充たすために、私たちは、いつも外側に「何か」を求めざるをえない。
内側には、欠乏しか感じられないからである。

最初に取り入れ introjection たのと、同じ経路である。

人間は、基本、「投影 projection 」を通して世界を見ている。
外部に何かを見出す投影 projection は(外部に内部を映し出す投影は)、偽りの自己像(仮面)の防衛であるが、同時に、深いレベルでは、魂の回復(取り戻し)のきっかけにもなる補償といえる。

外部のものを、善きものや悪しきものとして信じ、「実体視(執着)」している限り、欠乏を充たそうとするウロボロス(自らの尻尾を咬む蛇)のように、私たちはその場で旋回するだけである。
この悪循環が、この現代社会の虚妄、ゲーム、マーヤーである。

このことに真に気づいた時、私たちは、自由になろうとしはじめる。
このことに真に気づいた時、私たちは、ゲームを断ち切り、抜け出そうとしはじめる。
このことに真に気づいた時、私たちは、自由になりはじめる。

私たちが自由になる方法は、「最初からの」誤りに気づくことである。
私たちが自由になる方法は、最初にかけ違えたボタンをはずすことである。
私たち自身から、信じている自己像(鏡像)から抜け出すことである。
そのことで、私たちは、ほんとうの自己に触れていくこととなる。

しかし、事態は、不可能的なことに思える。
私たちは、今信じている自己像を介してしか、物事を想像することができないからである。
ほんとうの自己について何も知らない「こちら側の意識」だからである。
すべては、知ることのできない、〈鏡〉の向こう側の世界にあるからである。

そのため、逆説的な方法が必要とされたのである。
古来より、伝統的な教えの多くが、逆説的な語り方をするのも、そのためである。
そこでは、さまざまな寓話的な「断層」が語られるのである。
私たちは、小さな寓話をたどるうちに、存在の事件に巻き込まれていくのである。

「こちら側の意識」と「向こう側の意識」の間に、歪みが生じ、「新しい事件」が影を落としはじめる。
やがて、私たちは、事件に巻き込まれ、自己を捜しはじめ、その真実に触れはじめることになる。
そして、私たちは、すばやいものに追い抜かれた〈残像〉に過ぎなくなるのである。


◆速度論――〈青空=まなざし〉

「遍在意識」は、始原からすでにあった。
インドでは、古来より「サッチダーナンダ(存在・意識・至福)」と呼ばれている。
別では、宇宙創造以前のプレローマと呼ばれることもある。

虚空としての意識。
ゼロ=無限=無内容として〈意識〉である。

私たちは、投影された身体によって、宇宙を創っている。
宇宙を「体験している」。
それは「こちら側の意識」である。

見ている者の〈本体〉はプルシャであり、プレローマであり、無際限の、無内容の〈意識〉の遍在である。
それは、超越(超個)的な目撃者 witness である。
誰でもない、根源的な気づき awareness である。
「向こう側の意識」である。

投影された身体が、この世界、私たちが見て体感する世界をつくっている。
投影された身体によって、「こちら側の意識」も生まれている。
投影された身体によって、私たちも生まれている。
「私」とは、見られ感じられている存在(図 figure )のことである。

投影された身体がクリア(清澄)になると、私たちもクリア(清澄)になっていく。
投影された身体が変容すると、私たちも変容していく。
投影された身体が曇りなくすみずみまで透過されたとき、そのとき見られている私たちは、もはや私たちではない。

そこでは、
「何者でもないもの」として、見ている者、目撃者が見ているのである。
〈青空=まなざし〉が見ているのである。
それが、存在のあちらとこちらにあるものである。

さまざまな伝承が、このことを語ってきた。
古今東西のさまざまな創世神話が、これらの役柄を名づけてきた。

それらは皆、同じことを指しているのである。

私たちの知る〈像〉はすべて、投影された身体から来ている。

すべての像は〈残像〉である。

投影される身体が完全に透けると、もはや像はない。

その時、私たちは、像のあちらとこちらにいて、まばゆい像なき像を生きているのである。


◆化身論

私たちは、「向こう側の意識」の複数の身体である。
それは古来から、さまざまな化身や界として描かれてきた。
それは、私たち自身の別の(本当の)姿である。

そのような姿は、伝統的には、さまざまな微細身(サトル・ボディ)として語られてきた。
如来たちの世界、天使たちの世界、祖形(元型)たちの世界である。
近代では忘れられた、そのような体験‐存在領域が知られていたのである。

「こちら側の意識」の心身を解き放ち、流動性を高めていくと、私たちは徐々に、旧来の自己像、日常的自我から離脱するようになる。
世界は流動化し、別の次元、「向こう側の意識」に離脱しはじめることになるのである。

粗大な身体を離れ、微細化した流れる身体、摩擦のない超電導のような身体、光のつらなるような滑らかな身体を感じるようになるのである。
透過してくるようになるのである。
その身体の無時間的な速さ/まばゆさが、世界を殻/粒子のような残像に変えていくのである。

その時、私たちは、ほんとうの自己(果肉/真我)といわれる世界に交わりはじめるのである。
人間の造ったものではない、シームレスな〈開放空間〉に入りこんでいくこととなるのである。

それは、古今東西、さまざまに描かれてきた、燦然とまばゆい、もういくつもの世界、ほんとうの世界である。

ところで、像のボタンがかけなおされると、かつての自己像や人間像は修復され、「配役」のひとつとして再び利用されていくこととなる。
〈光〉に吸い込まれ回収された後、ふたたび送り返され、「役」のひとつとして設定され、「劇」の中に置かれ、演じられるようになるのである。

私たちは、人間の姿をとり、世界で人々と交わっている「何者か/まばゆさ」として、生きていくことができるようになるのである