ザ・ポップ・グループ THE POP GROUP の教え―怒り・テロ・絶望

さて、このセッションでは、以前(2015.3.1)来日した、イギリス、ブリストル出身のバンド、「ザ・ポップ・グループ THE POP GROUP」について書いてみたいと思います。

彼らは、1970年代末のロック音楽シーン、パンク/ニューウェーブの流行の中にあって、音楽面での創造性とアクティブな姿勢とが群を抜いていたバンドでした。
初期に関わりをもったストラングラーズのメンバーが、「当時のポップ・グループは、物凄いハードロックをやっていた」と語っていたので、おそらくそんなところから出発したのでしょう。
そこから、バンドの成長とともに、ファンク、ダブ、フリージャズなどを急速に同化しつつ変態(メタモルフォース)し、飛躍的に先鋭化していったものと思われます。
そのような探求の果てにつくられたセカンド・アルバム、For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?は、一種の極点的な音楽であり、ロック・ミュージックという形式を乗り越えてしまっていると同時に、さまざまなフリー・ミュージックの中にあってさえ、緊張・強度・創造性において群を抜いた、類い稀な傑作となっているのです。

そのような先鋭さを土台とした創造的な共同体が、人間のグループとして、長期的に維持継続できるわけもなく、歴史的には、彼らのバンドは瞬く間に消滅したのでした。
さて、そんな彼らも、歳月とともに長年のわだかまりも解けたのか、グループを再結成することになったのです。
多くの伝説的なバンドが再結成する中、彼らだけは再結成はしないと思っていたので、かなり意外なニュースとして受け止めたことを覚えています。
しかし、実際のところ、再結成などしても、大体のところ、老醜をさらすのが世の通例なので、傑作を創った伝説のバンドのままでいてほしかったというのが、本音のところでもありました。
再結成のニュースは、期待半分、残念半分といったところでした。

しかし、単独来日するとなれば、これもまた、一応、歴史の目撃者として見ておかなければしょうがないということで、まったく気乗りのしないままにライブ会場におもむいたのでした。

しかし、実際に見たポップ・グループは予想を大きく裏切り、歳をとっているのにも関わらず、まったく「錆びついていなかった」のでした。
むしろ、歳に反して、その精神の生きた尖鋭さが、明瞭に感じとれる類いのものだったのでした。

もちろん、音楽・演奏自体に、往時の肉体的テンションを求めるべくもありません。
しかし、その切れ味の鮮度は、こちらの感覚を充分に刺激させるものだったのです。なによりも、歳をとっても鈍っていない、その尖鋭さに感銘を受けたのでした。

音楽的には、かつてからあったタイム感覚の良さが細部に「突き刺さるようにあり」、健在であり、力強さを感じさせました。
しかし、歳とった彼らを、なおも鈍らせないものとは、なによりも、その音楽的身体と一体化した「精神的な姿勢(アティチュード)」だったのでしょう。そのことが、ビリビリと明瞭に伝わってきたのでした。
そして、何か勇気づけられる感じがしたのでした。

ヴォーカルのマーク・スチュワート Mark Stewart は、かつてインタビューで、もっとも伝えたいことは「怒りだ」と答えていました。
たしかに、昔のセカンド・アルバムには、怒りの烈火のような、火のような感覚が充ちていました。
しかし、それは個人的な憤懣というよりも、一種、元型的・神話的な(不動明王的な)といってもいいような、純化された精神的な怒り(火)の感覚でした(仏教には、憤怒尊という、仏の一群がいます)。

マーク・スチュワートは、バンドの精神的な側面を体現する人物ですが、その怒りの表現は、彼らを錆びつかせないエッジを研ぎつづける触媒でもあったわけです。


◆気づき awareness をもった怒りの効能―テロと絶望

さて、少し話を変えて、心理学的に、この「怒り」について考えてみたいと思います。

当スペースで、主に使っているゲシュタルト療法が、心理療法の中では珍しく、「怒りの表現」を大切にするのは特徴的な点です。
まず、第一の前提は、「攻撃性 aggression 」そのものは、動物においては、自己を守り、食物を破壊して体内に取り込むための自然な能力(機能)ということです。
しかし、人間社会の中では、この「攻撃性 aggression 」を捻じ曲げて、自分の方に差し向けるように教育します。
「言うことを聞かせる」ために、「自分を抑え」させるために、自分を攻撃して、抑圧して、我慢させるように仕向けるのです。
子どもはそれを素直に受け入れ、取り入れ introjection、人格(感情)の一部にしていきます。

そのような感情(欲求)が、過度な「罪悪感」「自責感」「自己懲罰感」へとなっていくのです。
人間が社会化する過程で、一定量の「内攻」(自分へ向かう攻撃性)は必要なことです。
それがなければ、「人間」にさえなれない面もあります。
しかし、自然で健康な状態であるためには、それらが、心理的に分裂していなく、「統合」されていることが必要なことなのです。
無自覚なままにある、分裂した、自己への攻撃性は、抑圧になり、その人を鬱や抑うつ状態に、さまざまな生きづらさに追い込んでいくことになるのです。
そして、そのような抑圧に、無自覚に同化した社会的抑圧へ反発・反感(怒り)は、とても健康なプロセスでもあるのです。

ゲシュタルト療法では、気づき awareness とコンタクトした(統合された)怒りの表現をとても大事なことと考えているのです。
セッション(ワーク)の中でも、自分の中にある怒りに気づき、ごまかさないで、それにコンタクトし、表現できる能力を重視します。
きちんとコンタクトされ、統御された表現を得ている怒りのエネルギーは、パワーと健康さの証です。
生物として、自然で健康な攻撃性です。創造性です。
無自覚に抑圧され、排除された怒り、表現されない怒りにこそ、ゆがみが、病が蔓延するのです。
表現することを奪われた怒り、無自覚に抑圧(弾圧)された怒りは解離を起こし、「暴力」となります。

たとえば、テロとは、怒りの表現ではありません。
怒りの存在(尊厳)や、表現を奪われた果てに現れた「絶望の表現」です。

健康な怒りの表現においては、それを行なう「主体」があります。
テロの絶望的な表現においては、主体が、すでに破壊(毀損)されています。
自爆する前に、そもそも、自爆しているのです。
だから、自爆的なテロもなくならないのです。
そのようなコントロールを失った絶望は、世界にきりなくあるからです。

さて、世に蔓延している(特に現代日本に蔓延しているような)、下等で低劣なものに対する正しい怒りの感覚や表現は、正義の賦活剤、精神的覚醒の賦活剤、人間の創造的精神の触媒となります。
精神性を錆びつかせないままにする尖鋭さとなります。

その歴史的偉大さと較べれば、ずいぶんと小さなライブハウスで、「ザ・ポップ・グループ」は、そのことを教えてくれたのです。

【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
気づきや変容、変性意識状態(ASC)を含むより総合的な方法論については、
拙著
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。