自己変容を促進する、潜在意識(変性意識)と体験的心理療法の活用について

【内容の目次】
- 心の構造モデル
- 氷山モデル
- 変性意識状態(ASC)の存在
- A.マズローと「トランスパーソナル心理学」
- ケン・ウィルバーの「意識のスぺクトル」論
- さまざまなアプローチ手法と心の対象領域
- 当スペースのアプローチ 流れる虹のマインドフルネス
さて、ここでは、基本的な、深層心理学的な見方(心のモデル)をご説明することで、人間に可能な進化の姿や、当スペースの方法論が位置している文脈(コンテクスト)のご説明をしたいと思います。
「心が、どのようなものであるか」についての究極的な理解(解答)は、今現在、人類は持っていません。
例えば、さまざまな心の病(精神疾患)と呼ばれるものがありますが、その適切な治療法を見出すことさえ、現代の人類はできていないからです。
たとえば、厚生労働省の統計において、日本では毎年約九~十万人の精神疾患をもった方が純増、つまり増え続けています。増え続けるとは、人々が「ちっとも治っていかない」ということです。というのも、その病を治癒する方法論が分からないからです(薬は症状を抑制する効果しかありません)。それは、とりもなおさず、人類が、人間の「心の構造とその働き」がよくわかっていないということを意味しています。
そのため、ここで取り上げるモデルも、当然究極的な答えではありません。しかし、先進な心理学全体の傾向と、(西洋に限らない)古今東西の文化的・秘教的伝統が教える事柄、また、筆者自身のさまざまな現場での実践・検証した事柄、多くの多様な人々の「心(魂)とその変容体験」を共有させていただいた経験、そして個人的な心の探求(深遠で不思議な旅路)を通じて、一定の実効性があると考えている構造モデルとなります。しかし、これらは、現在の通常の(凡庸な)学問レベルや、巷に流布している安易な風説などよりも、遥かに人間の心(魂)の本質に迫るものになっていると思われます。
下に引用した言葉なども、名前だけは有名なA.マズローの、すでに半世紀以上前の言葉ですが、今現在でさえ、現状は変わらず、その指摘や深い意味合いがまったく理解されていないままなのです。
「至高経験は、厳密な意味で、症状をとり除くという治療効果を持つことができ、また事実もっている。わたくしは少なくとも、神秘的経験あるいは大洋的経験をもつ二つの報告――一つは心理学者から、いま一つは人類学者から――手にしているが、それらは非常に深いもので、ある種の神経症的徴候をその後永久にとり除くほどである。このような転換経験は、もちろん人間の歴史においては数多く記録されているが、わたくしの知るかぎりでは決して心理学者あるいは精神医学者の注目の的となってはいないのである」(A.マスロー『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房) ※太字強調引用者
あらかじめ、私たちの中に、「このような心の領域がある」ということを知っておくことは、とても重要なことなのです。
現在、世間にあるセラピー(近代主義的心理療法)は、そもそも、その世界観が凡庸で、機械仕掛けで、抑圧的なため、人を決して癒さないことにもなっているからです。そのことを知っていないと、心を病んで、医者にかかっても、かえってそのことで治っていかないことにもなるからです。

心が「氷山」のようである、というような話を聞いたことがあるかもしれません。これは、S.フロイトが創始した「精神分析 psychoanalysis」などが広めた「心の構造モデル」のイメージです。いわゆる「氷山モデル」というものです。
この図(絵)が示しているのは、人間の心には、私たちがよく知る、この「意識/顕在意識/日常意識」以外に、広大な「潜在意識」「無意識」が存在しているとことです。この「潜在意識」「無意識」の内容(中身)が何であるのかについては、心理学各流派によって考え方はまちまち、バラバラです。
さて、このモデルによると、私たちのこの自意識、論理的で理性的な合理的意識は、「潜在意識」の上に少し出た「顕在意識(日常意識)」であるということです。
北極・南極近くにある「氷山」というものは、その巨大な大きさのほとんどを海面の下にひそめていて、ほんの一部分を海面の上に出しています。私たちの心も同じだというわけです。そして、私たちの本当に深い欲求、願望、欲望は、「潜在意識/無意識」の深い領域に存在していて、私たちの「顕在意識(日常意識)」はそれらの内容をあまり知ることなく、それらに衝き動かされながら、生きているというわけです。
その深い欲求の原因は、抑圧され忘れ去られた過去の出来事に由来したり、私たちの知らない先天的な深い要因に由来を持っているものだったりしているわけです。
いずれにせよ、私たちのよく知る「これが自分だ」「これが私だ」「私ってこういう人」と思っているこの顕在意識(日常意識)は、心の全体の中では、氷山の一角でしかないというわけなのです。そして、私たちは、自分自身の本当の心については、自分自身でも本当はあまりよくわかっていないということなのです。
そのため、「精神分析 psychoanalysis」系などの「潜在意識/無意識」を重視する流派は、人間の主体性などはあてにならないものであると考えているわけです。そして、「潜在意識/無意識」にいかに理解し、働きかけるかを重視しているのです。また、そのように考える深層心理学の流れでは、睡眠中の「夢」というものを、私たちの潜在意識の表現であると考えて重視しています。各流派によって、夢の解釈方法や位置づけは変わりますが、大勢としてそう考えているわけです。つまり、私たちは「夢」を通して、私たちは、自分の「潜在意識」と出会っているというわけなのです。そして、そのような深層心理学の諸派は、人々が「潜在意識/無意識」の中に抱えている、わかりづらい葛藤や分裂を分析して深く理解することで、病気の癒しや、人格的統合が実現されるのだと考えているのです。
しかしながら、現在、そのような教科書的・古典的・メインストリームの心理療法が、実際には、あまり人を治癒(治療)できていないというのは、前段で触れた、世間の精神疾患者の実情を見てもわかる通りです。それは、充分なほど、人間心理を理解しているわけでもないからです。
筆者が企業勤務していた時分、鬱病や心の病で、上司や同僚、先輩後輩が休職するということが度々ありました。或る同僚が職場復帰した後に漏らした一言は、印象深いものでした。「お医者さんって、ホント何もしてくれないんだねぇ」とその同僚はしみじみ語っていました。しかし、現代の心理療法/心理学/精神医療の理論と実践とは、残念ながら、そのレベルのものであるということなのです。そのことを前提として理解しておくことが、なんらかの理由で、病院にかかるときも重要なのです。
そのため、私たちは、よくよく心の構造やその本質、その未知の可能性について、近代主義的な思い込み(信念)を超えて、古今東西やそれを超える大きな視点から、幅広く真剣に考察・探求しなければならないのです。
そして、それはとても甲斐のあることなのです。
・変性意識状態の位置①

・変性意識状態の位置②


さて、他にも、「そもそも『意識』それ自体とは何か」という大問題があるのですが、これはとても大問題であり(ハード・プロブレムとも呼ばれる)、また文化によってもそのとらえ方がさまざまに多様なものですので、ここでは一旦定義を保留しておきます。ただし、この場合に問われている「意識」とは、この顕在意識(日常意識)だけを指すのではなく、潜在意識も含めた意識全体の本質的要素とイメージしておいていただければと思います。これは、後述のトランスパーソナル心理学などで重要なポイントとなるところです。
さて、ここで取り上げる「変性意識状態(ASC)」とは、この意識の本質について、私たちに不可思議なヒントを与えてくれる興味深い意識状態です。
変性意識状態については、別のセクションに詳しく書きましたが、私たちのこの「日常意識」状態以外のさまざまな意識状態を指した言葉です。具体的には、「瞑想状態、催眠状態、酩酊状態、シャーマニズムなどにおけるトランス状態、夢、ドラッグによるサイケデリック(意識拡張)状態、宗教的な神秘体験」など、日常意識とは違う、少し変わった意識状態のことです。広義には、俗に「ゾーン ZONE」と呼ばれる(フロー体験 flow experience 、臨死体験(NDE)、体外離脱体験(OBE)なども、これに含められると考えてよいでしょう。
→変性意識状態(ASC)とは何か はじめに
→変性意識状態(ASC)とは何か advanced 編「統合すれば超越する」
さて、上の図の「変性意識状態の位置①」にあるように、私たちに、一番なじみのある変性意識状態といえば、それは日常意識と潜在意識の間にある領域です。眠りに入る直前に、また目覚めの時に、私たちはその領域をいつも体験しています。夢見心地な状態です。
変性意識状態は、そのように間にある状態なので、潜在意識の内容がよりとらえやすくなります。日常意識的な明晰さをある程度保ちながら、その中身が分かっていくということが起こるのです。また、そこに秘められた能力が発揮されやすくなっていくのです。
そのため、この変性意識状態という状態を、適切に操作できると、私たちは潜在意識や潜在能力の膨大な富をより生かしていけるようになるのです。
実は、これは、心を扱うオーソドックスな心理療法が、よく分かっていないこと、実践的に実現できていないことなのです。
変性意識状態は、汎用的な概念ですので、多様なタイプが含まれています。上に述べた、夢見心地な状態とは逆に、超覚醒的で、超明晰な状態もあります。そして、それらの中には、私たちの未知の潜在能力を発現させて、深い治癒や創造力を発揮させる興味深いものがあります。それらの状態の中には、私たちが閉じ込められている、この近代主義的な合意的現実を、超出させる働きがあるものもあるのです。
上の図の「変性意識状態の位置②」に描かれているように、「日常意識」を超えたところにそれらは位置しています。
この領域で、私たちに、比較的親しみがあるものといえば、例えば、スポーツ選手(アスリート)などがその最高のプレイの最中に入っていくといわれる「ゾーン ZONE」と呼ばれる状態があります。プレイ中に「ボールや他の選手の動きが止まって見える」というような、高度に覚醒した意識状態のことです。少年漫画などでは、昔から描かれていた世界です。これは心理学では、フロー体験(flow experience)と呼ばれている現象であり、変性意識状態(ASC)の一種と考えてよいものです。
→フロー体験とは何か フロー状態 ZONEとは何か
上の図で、「拡張された〔超〕意識状態」としたものは、フロー体験のように、統合された超意識的な変性意識状態(ASC)を指しています。そのため、日常意識の上に割りつけています。しかし、フロー体験などは、まだまだ日常意識に近い(重なっている)領域にあります。次に見るマズローの「至高体験 peak-experience 」や、各種の超越的体験などは、もっと日常意識を離れて、超えたものも多く存在します。しかし、一般には、変性意識状態(ASC)そのものは、定義にもあるように、もっと漠然としていて、無限に多様な形態を持つものなのです。
いずれにせよ、この変性意識状態を含めて、「心の構造の全体」を考えていくことは、通常の心理学/心理療法を超えて、実践的・現実的にとても有効なこととなるのです。
ところで、一般のビジネス界・産業界においても、心理学者A.マズローが提唱した「自己実現 self-actualization 」や「欲求五段階説」というものは広く知られています。そんなマズローが、晩年、特に重視した「至高体験 peak-experience 」などは、多様な形態を持ちますが、日常意識を包み込み、より拡大するような変性意識状態の一種となっています。
→マズロー「至高体験 peak-experience 」の効能と自己実現
人間の心の成長を「自己実現 self-actualization 」と提言して有名になったマズローですが、実は、晩年のマズローは、「自己実現」は、人間の成長のゴールではないと感じるようになっていました。そして、彼は、「自己実現」のさきにある人間の達成状態というものを、「自己超越 transcendence 」として構想するようになっていたのでした。
その要因となったのは、マズローが、自己実現した人々を多く観察・研究する中で、彼らが、非常に頻繁に体験する「ある心理状態」に気づいていったからです。彼はそれを「至高体験 peak-experience 」と名付けました。
そして、そのような「至高体験 peak-experience 」の多数の事例が、彼を「自己実現」を超えた、「自己実現」の次にある「自己超越 transcendence 」のビジョンに導いていったのです。そこに彼が、人間が本来的に持っている「自然な超越的な能力」を感じたからだと思われます。
「わたしが見出したところでは、自己実現する人間の正常な知覚や、平均人の時折の至高経験 peak-experience にあっては、認知はどちらかといえば、自我超越的、自己忘却的で、無我であり得るということである。それは、不動、非人格的、無欲、無私で、求めずして超然たるものである。自我中心ではなく、むしろ対象中心である。つまり認知的な経験は、自我にもとづいているのではなく、中心点を対象におきその周辺に形作っていくことができるのである。それはあたかも、みずからとかけ離れ、観察者に頼らないなんらかの実在を見ているかのようである。美的経験や愛情経験では、対象に極度にまで没入し、『集中する』ので、まったく実際のところ、自己は消えてしまうばかりである」(A.マスロー『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房)
「至高経験は自己合法性、自己正当性の瞬間として感じられ、それとともに固有の本質的価値を荷なうものである。つまり、至高経験はそれ自体目的であり、手段の経験よりもむしろ目的の経験と呼べるものである。それは、非常に価値の高い経験であり、啓発されることが大きいので、これを正当化しようとすることさえその品位と価値を傷つけると感じられるのである」(前掲書)
「わたくしの研究してきた普通の至高経験では、すべて時間や空間について非常に著しい混乱が見られる。これらの瞬間には、人は主観的に時間や空間の外におかれているというのが正しいであろう。(中略)かれらはある点で、時間が停止していると同時に非常な早さで経過していく別の世界に住んでいるかのようである」(前掲書)
「至高経験においては、現実そのものの性質をさらに明確に見ることができ、またその本質がより深く見透されるものだとの命題を認めたい」(前掲書)
「至高経験は、この観点から見ると、絶対性が強く、それほど相対的ではない。(中略)それらは比較的達観し、人の利害を超越しているというだけではない。それらはまた、みずからは『彼岸』にあるかのように、人間臭を脱し、自己の人生を超えて永続する現実を見つめているかのように、認知し反応するのである」(前掲書)
※太字強調引用者
このように描写される「至高体験 peak-experience」の状態は、一般にイメージされる「自己実現」のイメージとは大きく違うもの、その領域を遥かに超えてしまっているもののように感じられるのではないでしょうか? 「自己実現」は、どこまで行っても、西洋個人主義的な人間観やそのイメージの内側にあります。しかし、引用に挙げたような精神領域は、もはや個人的人格の領域を超えてしまっている要素を持つからです。東洋的なマスター(師)のような人格像・世界観を含めて、新たな人間像が模索されたのでした。
このような考察の結果、マズローは自己実現から自己超越へと、拡張した人間像・人格モデルを探求するために、1969年に「トランスパーソナル心理学会」を立ち上げたのでした。
通常の「パーソナル(人格)」を超えた(トランスした)人間像を描く必要があったからです。
そして、そんなマズローが、トランスパーソナル心理学会をともに立ち上げたのが、LSD研究と変性意識状態研究の大家であったS.グロフ博士とであったというのはとても示唆的です。マズローの理念に共鳴できる人もそんなに多くいなかったろうと類推されるからです。
「至高体験 peak-experience」という変性意識状態(ASC)の事例(リアリティ)が、マズローを必然的に導いた結果であると考えられるわけです。
トランスパーソナル心理学を、A.マズローとともに立ち上げた、スタニスラフ・グロフ博士は、元々チェコで、合法だったサイケデリック(LSD)・セラピーを行なっていた最重要人物です。
下の彼のインタビュー動画は、サイケデリック(LSD)の登場、効果、普及の理由などを、彼自身の個人的体験として、歴史的に回顧する大変興味深いものとなっています。↓
https://www.ntticc.or.jp/ja/hive/interview-series/icc-stanislav-grof/
※インタビュー中の、「イサレム」はエサレン、「バルド界」と訳されているものは、「チベットの死者の書」でいう「バルドゥ(中有)」のことです。
さて、そんな多様な変性意識状態(ASC)ですが、この変性意識状態(ASC)に自覚的に親しみ、あつかい方に慣れてくると、「顕在意識(日常意識)」以外の広大な潜在意識の世界に少しずつ知見と経験が深まり、人格変容も起こってくることになります。
そこに、実は、人生の秘密を解き明かす(解放する)鍵も含まれているのです。
体験的心理療法、特に、深化/進化型でのゲシュタルト療法のような体験的心理療法は、実践の中で深い変性意識状態(ASC)に入っていくことも多いため、その感覚と効果がだんだんと深まっていくことにもなるのです(すべてのゲシュタルト療法がそうなるわけではありません)。
その果てに、当スペースがご案内する「流れる虹のマインドフルネス」の状態なども、自然な進展のうちに現れてくることとなるのです。

さて、ここでひとつ、トランスパーソナル心理学の有名な理論について見てみたいと思います。たとえば、上の図の「ウィルバーのモデル」とは、トランスパーソナル心理学の理論家(現在はインテグラル心理学を名乗る)ケン・ウィルバーが唱えた「意識のスぺクトル」論という、「意識/心」の構造モデルです。
まずはじめに、下の、交通事故に遭った人の体験報告を読んでみていただければと思います。
「強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです」
スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳『魂の航海術』(平凡社) ※太字強調引用者
これは、いわゆる「臨死体験 Near Death Experience 」と言われる体験の報告ですが、この時、私たちの「意識/心」に、はたして何が起こっているのでしょうか? なぜ、こういうことが可能になるのでしょうか? ケン・ウィルバーの「意識のスぺクトル」論は、これらの体験(現象)の由来や、〈意識〉の可能性について、一つの重要な理論的示唆を与えるものでもあるのです。以下で、そのことを見ていきたいと思います。
さて、まず、ウィルバーは、「意識のスぺクトル」論によって、世界のさまざまな心理療法と東洋思想を、ひとつのパースペクティブ(見方/遠近法)のもとに、統合的に理解することを目論見ました。当時(1960~70年代)のアメリカ西海岸では、新しい体験的心理療法が沢山現れており、また東洋の伝統的な思想や方法論も多く輸入されていたからです。その混沌とした状況を整理することを目指したのでした。
そして、それらを体系的にマッピング、タイプ分けする(グルーピングする)にあたって、ウィルバーは、さまざまな心理療法や東洋思想が「何を、自己の『(真の)主体』として見なしているか(主体として同一化しているか)」という「主体(意識)の範囲・内容」の違いによって各心理療法や東洋思想をマッピングしていったのです。
ちなみに、ケン・ウィルバーが、著書のタイトルで使っている「意識 consciousness 」という言葉を、私たちが通常使っている意味での「意識」と解釈すると、少し意味が分からないでしょう。(日本に限らず)現代の私たちが通常「意識 consciousness 」という言葉を使う時、この自分の自意識(西洋哲学でいえば、フッサールの現象学などが指すこの「意識」)だけを「意識」と呼んでいます。一方、ケン・ウィルバーが使っている「意識 consciousness 」という言葉は、インド思想などで、「ブラフマン(梵天/至高神)は、サッチダーナンダ(存在・意識・至福)である」という時に使われている「意識」の概念で使われているのです。つまり、万物に遍在していて、鉱物から植物、動物から人間、神々までに共通している基底的意識状態を考慮に含めて(前提として)、大きく「意識」という言葉を使っているのです。ここに、ウィルバーの論の進め方の戦略があるのですが、彼は、東洋の伝統的な見方(言い方)と同じく、現代の私たちがいう、この「意識 consciousness /自意識」こそが、特殊な、任意な限定のうちにある(限定なものに同一化した)「誤った状態(仮面)」なのだということを示唆しているのです。ちなみに、当スペースでは、このような普遍的な「意識」のことを、ベタに「遍在意識」と名付けています。ウィルバーのいう「意識」が、通常、普通の人には体験できないし、イメージもつきにくいからです。
さて、このような「〈意識 consciousness 〉が、何を、自分の真の主体として(同一化して)いるのか」という視点は、別の言い方をすると、(逆に/反対に)何を自己として見なしていないのか(認めなく/同一化していないのか)」ということになります。
実は、ここが本丸なのです。
私たちは、「何を、自己以外のものとして排除・抑圧しているのか」「何と分裂しているか/解離しているのか」ということが、本丸なのです。
そして、それは「人間が行なっている、心の抑圧と分裂が、どのような境界線(自己と他とを分ける境界線)として現れているか」という見方にもつながります。
また、反対(逆)から見ると、「何と何を統合すると、自己の全体的な統合と見なすのか」という視点をも意味します。そのような視点で、さまざまな心理療法流派や東洋思想を、マップ上に位置づけていったのです。
上の図がその大まかな図式です(他にも彼は詳細な図表をつくっています)。下にいくほど、「自己や主体の範囲(意識の内容物)」がひろくなっていくという図表です。
その本人が「『意識や主体』として、何と同一化しており、反対に、何を『非自己/客体・他者』として抑圧・排除しているのか」、そして「人間が、統合(治癒)されるとは、何と何が統合されることなのか」「統合されたことによる、人間の全体性とは何なのか」。
その答えが、各流派によって大きくタイプ分けできるというのがウィルバーのアイディアなのでした。そして、ウィルバーは、一番下の層がそうであるように、すべてが統合されると、東洋的な思想がしばしばそうであるように、「宇宙自体を自己と見なす」そのような境位(ワンネス)があると考えていたわけでした。
と言っても、実際(現実的)には、統合されたからと言って、上の層自体がすべて消えてなくなってしまうというわけではありません。下のより普遍的な層が、上の層に浸透的に透過し、各層が「垂直的に」統合されている状態が「統合」という意味なのでした。「垂直統合」されている状態です。
具体的に見ていくと、上の図では、オレンジの斜線の左側が「意識や主体」、右側が「無意識や客体・他者」となっています。
例えば、現在の多くの心理療法が、(近代主義的世界観自体そのような立場ですが)健全な「自我」が確立されることをもって、心理的な統合/ゴールであると見なしています。(図の②の層)
というのも、通常多くの場合、私たち現代人は、自分にとって都合のいい「セルフ・イメージ(仮面)」を、自己や自己の主体と見なしています。そして、自分の見たくない部分を抑圧して、それが自分にはないもの(影)のとして生きています。(図の①の層)
「仮面」(偽りの自己像・セルフイメージ)を主体と見なして、「影(シャドー)」を抑圧して生きているという状態です。私たち現代人は、それが当たり前だと思って、大体そのようにして生きています。人生で、誰も「心の統合はこうあるべきだ」と教えてくれない場合、現代社会の自然状態では、そのような心の構えになってしまうからです。
しかし、この「仮面」と「影」の分裂が極端に大きくなっていくと、メンタル的な病気となってしまうのです。鬱や神経症もそのようなことで起こってきます。現在、日本の企業においても、このようなメンタル的な病気が多く生じてしまうのは、決して「脳」ばかりが原因なわけではなく、さらに大元に、このような心の態勢づくりが大きく関係しているのです。
そして、そのような場合に、通常の心理療法では、「仮面」(偽りの自己像・セルフイメージ)だけを主体として、見たくない「影(シャドー)」を抑圧している人々に対して、「影(シャドー)」の部分を意識化し、主体に受け入れさせて、統合させていくことを、治療的なアプローチとしていきます。
私たちの心の中では、偽りの自己像(仮面)を維持するために、自分のものだと認めたくない嫌な感情(欲求)を抑圧することで、「影(シャドー)」が生まれてきます。本人が、この嫌な感情(欲求)を自分のものとして受け入れていくことで、ニセの自己像(仮面)と「影」の境界(区分)が溶け出し、融合し、健全な「自我」主体が確立されてくるというのが、通常の心理療法でのアプローチの考え方となります。(図の②の層)
しかし、別の流派(心身一元論的セラピー)の視点からすると、このような「自我」主体の確立だけでは、統合が不十分(部分的)であると見なされます。なぜなら、そこでは「身体(肉体)」の存在が抑圧され、排除されているからです。(図の②の層/オレンジの斜線の右側)
心身一元論的な心理療法の中では、この身体(肉体)の中にこそ、重要な感情や表現、生の基盤があると考えられているのです。そこでは有機体全体を、全身全霊のひとまとまりの全体性として、主体として生きられることが必要な「統合」だと考えられているのです。(図の③の層)
ところで、このような、心と身体を合わせた「有機体」の全体を主体と見なす心身一元論的な心理療法各派を、ウィルバーは「ケンタウロスの領域」の心理療法であると呼んでいます。「ケンタウロス」とは、半人半馬の神話的存在であり、心理と野生との結合という、この領域の人間の状態をとてもうまく表現しています。その他のケンタウロス的なセラピーとしては、実存主義的なセラピーの各派などもここに位置づけられています。
ところで、ボディワークを重視する心身一元論的な心理療法の多くは、フロイトの弟子のヴィルヘルム・ライヒの理論と実践から出発しています。ライヒは、ゲシュタルト療法の創始者パールズの先生でもありました。そして、ゲシュタルト療法は、ボディワークを主体としたローウェン(ライヒの弟子)のバイオエナジェティックスらとともに、この領域の心理療法に位置づけられているのです。
この位置づけは、有機体全体の生命力や、精神と野生との融合を溢れるように発現させるゲシュタルト療法の性格(位置)を、とてもうまく表現していると思われるものです。
そして、ウィルバーも指摘していることですが、心身一元論的セラピー(ケンタウロスのセラピー)というものは、その体験と統合を充分に深めていくと、隣接したトランスパーソナル(超個的)な領域が自然に開いてくることにもなっているのです。(図の④の層)
マズローが、自己実現のその先に、連続したものとして、自己超越を見出したようにです。
実際、ウィルバーは、次のように、その証拠(事例)として、ゲシュタルト療法でのセッション風景を取り上げてもいるのです。少しわかりずらい文章ですが、見てみましょう。文中に「微細(サトル)」という言葉が出てきますが、これは主流の西洋科学にはありませんが、東洋思想においては古来よりその存在が知られている存在領域のことです(〈気〉やプラーナなど)。ケンタウロスのセラピーにおいては、そういう非西洋的な事態が起こることも指摘しているわけです。
→変性意識状態(ASC)とは何か advanced 編「統合すれば超越する」4.東洋的モデル(諸相)の示唆
また、最初のところは、心身一元論的セラピー(ケンタウロスのセラピー)が、いかに剝き出しの原初的な(野生の)感覚を覚ますかの指摘です。
「自我的、文化的な図式化の被覆を取り除かれた感覚意識そのものが、覚醒時の領域に衝撃的ともいうべき鮮明さと豊かさを持ち込んでくる。さらにここまでくると、感覚意識はもはやただの“植物的”ないし“動物的”なものでも、単に“有機的”なものでもなく、より高次の微細(サトル)エネルギーや超個的な諸エネルギーの流入した一種の超感覚的意識になってくる。オーロビンドはいう。『内なる諸感覚を利用して――つまり、感覚力そのものの純粋で……微妙な活動……を用いて――われわれは感覚経験を認識し、周囲の物質的環境の組成に属さない事物の姿やイメージを認識することができる』。
この“超感覚的”意識は、多くのケンタウロス・セラピストによって報告されており(ロジャーズ、パールズほか)、ダイクマンによって論ぜられ、神秘的洞察の初期段階の一つとしても知られているものである(人がケンタウロスのレベルに上昇し、さらにそれを超越するにつれて現れる)。
思うに、実存主義の人々さえ、ときとしてさまざまな“超個的”リアリティ――彼ら自身の言葉である――を直観しはじめることがあるのはこの理由によるものだろう。フッサールもハイデッガーもそろって、しだいに超越的哲学への傾きを強めていった(マルセル、ヤスパース、ティリッヒなどの有神論的実存主義者たちはいうまでもない)。メイ博士自身、「非個的なところから個的なものをへて、超個的な意識次元へ向かう」運動について語っている。
そして、ゲシュタルト・セラピーにおけるフリッツ・パールズの偉大な後継者の一人ジョージ・ブラウンは――なお、パールズ自身、ゲシュタルト・セラピーは純粋な実存主義のセラピーであると認めている――〈今ここ〉への集中というケンタウロス的変換を与えられた個人が、やがて一つの袋小路に突きあたるさまを次のように描写している。
袋小路はさまざまに言い表すことができる。そこには超個的な諸エネルギーがかかわっており、人々は浮遊感、静けさ、平和といったものを口にする。しかし、われわれはそこで無理強いはしない。『けっこうです。つづけて、自分に何が起こっているか報告してください』と答える。そしてときには、そこに何か触れることのできるものがあるかどうかと尋ねる。もしできなければそれでいい。それができた場合、よくある例として何か光が見えはじめる〔真の微細領域〕。これは、超個的段階への動きと考えよいだろう。光が見えると、人々はしばしばそれに向かっていく。すると、戸外に出て、太陽が輝き、緑なす樹々や青い空、白い雲といった美しいものがある。それから、その体験が完了して目を開くと、色彩は前よりも鮮明になり、ものがずっとはっきり見え、知覚力が高まっている〔超感覚的ケンタウロスの意識〕。
その時点で、彼らはもろもろの幻想や病理によってかぶせられていたフィルター〔自我的・メンバーシップ的フィルター〕を切り払ったのだ。こうして見ると、実存的ケンタウロスは単に自我、身体、ペルソナ、影(シャドウ)のより高次の統合であるばかりでなく、同時に、さらに上位にある微細(サトル)および超個的諸領域への主要な転換点でもある(スタニスラフ・グロフの研究は、これを強力に裏づけるものであることに注意)。このことは、ケンタウロスの“超感覚的”モードについても、直観、志向性、ヴィジョン・イメージといったその認識プロセスについてもいえることである。それらはすべて、超越と統合を実現したより上位の領域の前ぶれにほかならない」ケン・ウィルバー『アートマン・プロジェクト』吉福伸逸他訳 (春秋社)
(※太字強調は引用者)
図表に従うと、さらにより高次な統合的な視点からすると、心身一元論的心理療法においては、外部の環境世界(や他者)の存在が抑圧され、排除されていると見ることができます。(図の③の層/オレンジの斜線の右側)
しかし、変性意識的で、トランスパーソナルな状態では、〈意識〉が、心身一元論的な自己だけに限定されるのではなく、環境世界や他者までも、「自分の主体」「隠されていた本当の自分」であると感じられる体験領域があるのです。〈意識〉そのものに、そういうトランスパーソナル(超個的)な本質があるからです。正確に現象をいうと、〈意識〉が、「粗大領域」の心身への排他的同一化を離脱し、「微細領域」の心身(微細身)に同一化する事態が生ずるのです。「チューニング(同調/同一化)」が変わる(帯域が拡がる)のです。そして、「微細領域」の心身(微細身)というものは、私たちの知る「物質的時空」に限定されないものなのです。その時、私たちが、どのような「自己」や「時空」を知るかは、日常意識の私たちからでは、とても想像のできない世界です。しかし、そのような世界体験(現象)は、「臨死体験 Near Death Experience 」や「体外離脱体験 Out-of-body experience 」などでは非常によく報告されている状態です。通常の私たちは、「粗大領域」の「この肉体」に過度に同一化することで「この私」という感覚をつくり出しているのです。
「強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです」
スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳『魂の航海術』(平凡社) ※太字強調引用者
俗に「ワンネス」「ノンデュアリティ―(非二元)」などと言われますが、真の主体は、「無境界」、他のものと区別がない、宇宙そのものであるという透視的感覚です。また、禅では「無分別の智」と言ったりもしますが、東洋思想では、古来より「悟り」的なものとして語られていた境地とも言えるのです。しかし、これは実際に起こってくることでもあるのです。マズローが取り上げた、「至高体験 peak-experience 」などは、そういう状態でもあるのです。
このようにウィルバーのモデルでは、人格においては、下位部分(図では上の方)の分裂した心理的・自我的要素が統合されると、「主体」が上位の超越的な階層(図では下の方)に統合されていくシステムになっていることが分かると思います。
ただ、これは、上位に行くと、(ホロンのように)より包含するものが大きくなるという意味合いであり、下位の自我的部分(図では上の方)のものが消えてしまう、無用になるという意味合いではありません。
上位の超越的階層(図では下の方)のものが、下位の自我的部分(図では上の方)のものを、包含し、浸透・透過しているのが「統合」であるという意味合いです。
上の二次元的な図表では「垂直統合」されているということであり、3Dで表現すると、超越的階層(図では下の方)のものが、下位の自我的部分(図では上の方)にも透過・浸透しているという絵になります。
実際、上位の超越的階層の方の「意識」が、下位に透過されるようになると、下位の自我的要素は、より自由自在に扱えるようになります。それら内部に分裂が生じたとしても、上位からより統合的・調整的にコントロールすることができるからです。
そして、統合的なトランスパーソナル的なセラピーのプロセスにおいては、実際にそのようなことが、癒しにおいても、能力発揮においても起こってくることなのです。
そのことは、体験者に、大きな自由と解放、癒しの感覚として体験されていくこととなるのです。
それが、最初に引用したマズローの指摘していることでもあるのです。
「至高経験は、厳密な意味で、症状をとり除くという治療効果を持つことができ、また事実もっている。わたくしは少なくとも、神秘的経験あるいは大洋的経験をもつ二つの報告――一つは心理学者から、いま一つは人類学者から――手にしているが、それらは非常に深いもので、ある種の神経症的徴候をその後永久にとり除くほどである。このような転換経験は、もちろん人間の歴史においては数多く記録されているが、わたくしの知るかぎりでは決して心理学者あるいは精神医学者の注目の的となってはいないのである」(A.マスロー『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房) ※太字強調引用者
「トランスパーソナルな意識」というものは、私たちの誰もが、潜在意識(心の基底部)に持っているものですが、それを顕現させ、充分に自分のもの(自家薬籠中の物)にすることで、私たちの人生は、大きな垂直統合(癒し)と創造性を持つことになるのです。
また、私たちが、あらかじめ、このような心の領域があるということを、知っておくことも、とても重要なことなのです。
現在、世間にあるセラピー(近代主義的心理療法)は、そもそも、その世界観が凡庸で、機械仕掛けで、抑圧的なため、人を決して癒さないことにもなっているからです。
そのようなわけで、このウィルバーの図式に則って、当スペースでは、この心理的システムを「統合すれば、超越する(超脱する/透脱する)」と呼んでいるのてす。




さて、上の図をご覧ください。ここまで、顕在意識(日常意識)、潜在意識、変性意識、遍在意識と、私たちの「心の構造モデル」について見てきました。
ところで、普段、私たちが身近に体験したり学んだりしている、さまざまな心を扱う技法(セラピー、カウンセリング、コーチング等)は、このような心のモデルに即していうと、それぞれ心の或る特定領域にアプローチしている方法論として区分けすることができます。
たとえぱ、図で「B」ゾーンにおいた、コーチングや、カウンセリング(ロジャーズ系)は、主にクライアントの方の顕在意識や日常意識に働きかけていく技法です。心理療法の中でも、行動主義的なアプローチは、顕在意識や日常意識に働きかけていく技法だといえます。
一方、図で「C」ゾーンにある、深層心理学系の心理療法などは、クライアントの方の顕在意識に働きかけると同時に、潜在意識にも働きかけていく技法だといえます。むしろ、そこに重点を置いているともいえます。
上の図で「A」ゾーンにある、「拡張された(超)意識」とした、比較的統合された変性意識状態(ASC)は、伝統的には宗教的な領域が受け持ってきました。少なくとも近代社会では、その存在について無知であったり、懐疑的であったりしたため、それらを直接扱う方法論は存在していませんでした。しかし、1960年代のサイケデリック(意識拡張)の研究や運動以来、その意識領域についての、心理学的理解も少しずつ進んできました。前述のトランスパーソナル(超個的)心理学やケン・ウィルバーの試みなどは、近代心理学モデルと伝統的な宗教モデルを統合しようとした試みだったともいえます。
そして、この状態も、「統合すれば、超越する(超脱する/透脱する)」ことによって、アプローチすることが可能ということでもあるのです。

⑦当スペースの統合的アプローチ 変性意識状態(ASC)と深化/進化型ゲシュタルト療法
さて、当スペースについて、このようなモデルに従ってご説明すると、精神分析由来のゲシュタルト療法(心身一元論的アプローチ)を使う面からも、クライアントの方の顕在意識と潜在意識とを合わせた幅広い領域に働きかけるアプローチとなっています。
また、当スペースの場合は、特に「深化/進化型の」ゲシュタルト療法ですので、セッションの中で現れる変性意識状態(ASC)を利用する視点からも、クライアントの方の潜在意識をより活性化させるアプローチとなっているのです。特に、上の図で「A」ゾーンにあるような、「拡張された(超)意識」「トランスパーソナル(超個的)な意識」などの変性意識状態(ASC)を統合的に扱えるという点が、当スペースの、他にない特徴といえます。
というのも、さきのケン・ウィルバーの指摘に見たように、実践の中で、心身一元論的な統合を充分に深く進めていくと、私たちは自然な形で、トランスパーソナルな領域に触れていくことになるからです。ここは、実践的には地続きの形で存在しているものなのです。「統合すれば超脱(超越/透脱)する」ものです。
そして、その変容は、私たちの人格の恒久的な変容となるのです。
そして、変容を通して、このようなトランスパーソナルな領域が充分に心の中で「垂直統合」されてくると、その状態は、普段のこの「自我」「自意識」の背後に、それを透かして、浸透して、トランスパーソナルな「青空のようなひろがり」「遍在意識」を(まばゆく)感じとるような状態でもあります。
あたかも心身の中に〈青空の通り道〉があるような感覚です。
そのような状態に変容していくことで、私たちは、この人生で、虹のように鮮やかなリアリティや創造性を手に入れることができるようになるのです。
そのような状態(領域)を、当スペースでは、「流れる虹のマインドフルネス」と呼んでいるのです。



【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については、基礎から実践までをまとめた総合的解説、
拙著『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』をご覧下さい。
気づきや変性意識状態(ASC)を含めたより総合的な方法論については、拙著↓
入門ガイド『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、深遠な変性意識状態(ASC)事例も含んだ
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。