別の記事では、映画『攻殻機動隊』を素材に、私たちの意識(心身)が持つ階層構造の可能性について考えてみました。
→「制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする時だ」(攻殻機動隊)―ゴースト Ghost の変性意識
そして、映画の結末で使われている「制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする」というセリフを素材に、有名なイルカ研究者、アイソレーション・タンクの発明者であり、映画『アルタード・ステーツ』のモデルにもなった科学者、ジョン・C・リリー博士の仮説やベイトソンの理論をとりあげてみたのです。
→意識の多層性とメタ・プログラマー―イルカ博士ジョン・C・リリーの探求(その1)
今回はその続編として、リリー博士の探求事例の中の興味深い仮説をもう少し細かく見てみたいと思います。
リリー博士の興味深く貴重な点は、ベイトソンのように理論だけを提示するといった、多くの学者のタイプとは違い、リリー自身の体験として、それらを実験し、確認していったという点です。
そこが、多くの理論家たちとの決定的な違いであるとともに、実践的な見地では、役に立つところなのです。
ところで、リリー博士は、もともとは、純然たる科学者であり、神経生理学の研究から「意識の研究」をはじめた人でした。
一切の知覚・感覚情報なしに(外部の知覚情報の入力なしに)、私たちの「意識」というものは、自律的に存在するものなのだろうか、というような切り口から意識の研究をはじめたのでした。
一切の知覚・感覚情報を遮断したら、「意識」はどうなるのだろうか?というのが、実験の主旨でした。
博士の当初の唯物論的な考え(仮説)では、「ハードである脳」の「ソフトウェアでしかない意識」などは外部情報の入力なしには、独立存在しないだろう、ということだったわけです。
その実験のために作ったのが、感覚遮断を起こす装置であるアイソレーション・タンクだったのです。
そして、その研究の一環として、(人間よりも脳の大きな)イルカの研究も行なっていたのでしたです。
ハードである脳が大きければ、それに、乗っかっているソフトウェアである「意識」も存在しているのではないかということです。
ところが、さまざまな実験を繰り返していく中で、感覚情報なしにも、「意識」は存在していることや、加えて、感覚遮断した意識状態にさまざまな興味深い現象が現れることに、彼は気づいていくこととなったのです。
つまり、「変性意識としてのさまざまな意識状態」に、気づいていくことになったわけです。
その探求過程で(もともと、博士は、精神分析の訓練なども受けていたわけですが)、さらに、当時発見され、精神医学の領域で使われはじめていたLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)を用いて、意識についてのサイケデリックな研究を試みることになったのでした。
さて、そのような博士の著作に『意識(サイクロン)の中心』(原題 : Centre of the Cyclone: An Autobiography of Inner Space )〔菅靖彦訳、平河出版社〕という自伝的な体裁をとった本があります。
博士自身が、探求の経過や仮説を、自伝的・年代記風に記した著作です。
この本の中には、「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」と名付けられた図式があります。
これは、コンピューターのプログラミングをモデルにして、人間の生命システムを考えた場合に、どういうプログラミングの階層構造になっているかを示したものです。
上位にあるものが、その下位にあるものをプログラミングし、制御しているという構造になっています。
10―未知なるもの
9 ―本質(エッセンス)のメタプログラミング
8 ―自己(セルフ)のメタプログラミング
7 ―自我(エゴ)のメタプログラミング
6 ―(制御システムとは関係のない)メタプログラミング全般
5 ―プログラミング
4 ―脳の諸活動
3 ―物質的構造としての脳
2 ―物質的構造としての身体
1 ―(身体と脳を含む)すべての側面をもった外的現実(リリー『意識(サイクロン)の中心』菅靖彦訳、平河出版社)
下のものは、上のものによって、プログラミングされ、制御されているという図式となっています。
「自我(エゴ)のメタプログラミング」とされているあたりが、通常の私たちの日常意識のレベル、つまり、さまざまな日常生活のつまらないことに心を囚われ、翻弄されている普段の自我状態(自意識)のレベルとなっています。
その上の「自己(セルフ)のメタプログラミング」は、私たちが通常は経験できない高度な意識状態や、高い統合の水準です。
そこでは下位のもの(自我状態)が、最適に統制され(妨げられることなく)、自己の全体が滑らかに作動している状態とされています。
例えば、体験的心理療法のひとつであるゲシュタルト療法的に言えば、内的な葛藤状態(感情のもつれや苦悩)が起こらず、よく統合され、自己の十全な統一が実現されている状態と言えます。
さらにその上の「本質(エッセンス)のメタプログラミング」は、さらなる上部構造システムの働きです。
超意識的、もしくは「トランスパーソナル的な領域」が入りこんできている状態でしょうか。
「本質(エッセンス)とは、人間、個人、身体、生命コンピュータに適用される、宇宙的法則の最高の表現である」
リリー(同書)
そこでは、高次なものからのプログラミングで、すべてが最適に稼働している状態と言えます。
ところで、『意識(サイクロン)の中心』の中においては、特に終盤、オスカー・イチャーソの秘教的集団アリカ研究所の訓練の中で、このような階層構造を上がって(上昇して)いく様子が、さまざまに具体的に描かれています。
そこにおいては、暗喩的に、化学的グラフなど使って、この「本質(エッセンス)」が、私たちの中で、構成比/占有比を上げていく事態が表現されています。
そこでは、私たちの中で、上記の各階層のプログラムがどのような構成比になっているかが示されたりしています。
たとえば―
私たち(セルフ)の中には下位の「自我(エゴ)」と上位の「本質(エッセンス)」が含まれています。
その構成によって、「自己(セルフ)」ができているというわけです。
「自己(セルフ) 100%」=「自我(エゴ) 99%」 + 「本質(エッセンス) 1%」
普通の人間は、そのような構成比です。
そして、「自己(セルフ)」の中における、「自我(エゴ)」の含有量が減っていくと、反対に「本質(エッセンス)」の含有量が増えていくと描写されています。
ノイズが減り、純粋な自発性(エッセンス)が輝くように現れてくるわけです。
「自己(セルフ) 100%」=「自我(エゴ) 50%」 + 「本質(エッセンス) 50%」くらいになると、それは、素晴らしく肯定的な状態、輝き出るような意識状態(エクスタシィ)の体験として描かれています。
「自己(セルフ) 100%」=「自我(エゴ) 25%」 + 「本質(エッセンス) 75%」くらいになると、完全に身体が消滅した、「意識の点」としての体験が描かれるようになります。
一方、「自己(セルフ)」において、「自我(エゴ)」の含有量が増えていくと、ノイズや落ち込みが増え、「本質(エッセンス)」の含有量が無くなってしまうものとして描かれています。
苦痛や葛藤のに満ちた、ダウナーで、ローな状態になってしまうわけです。それは、この社会で暮らす普段の私たちの姿です。
さて、ところで上に見た、心の成分における「自我と本質の含有量」の構造などは、実は、体験的心理療法(例えば、ゲシュタルト療法)の世界においても、同様に普通に見られる現象と言えるのです。
体験的心理療法などでも、セッション(ワーク)を数多くこなしていき、自我の分裂や葛藤がなくなり、自己がより流動化し、全体として働く感覚が生まれてくると、自己の奥底にある「より自由で、自発的な本来の自己(オーセンティック・セルフ)」が現れてくるという仕組み(構造)があるのです。
それはまさに、「本質(エッセンス)」が現れてくる体験としても、感じられてくるものなのです。
そして、そのように心身が解放され、その変容が習熟してくると、私たちは、より「本質(エッセンス)」の多い状態にとどまれるようになっていくのです。
また、そのような、「自我と本質」の関係は、実は、伝統的なシャーマニズムにおいて言われることと同様の事柄とも言えるのです。
シャーマニズムでいうところの自己の詰り(ノイズ=自我)を取り去り、自己をパイプのように空洞にすればするほど、未知のメディスン・パワー(いわば本質)がそこを流れ、働きやすくなるという構造と似通ったものなのです。
それは、聖なる息吹に充ちたパワフルな状態であるというわけです。
そのために、シャーマンにおいては、戦士的な空無の状態であること(パイプ的状態)を重視することとなっているのです。
そして、それはまた、元ネタの『攻殻機動隊』にならって、新約聖書から引用することもできるのです。
ユングのよく引用する、ガラテヤ書にあるパウロの言葉「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである)という体験とも重なってくることであるのです。
同様に、「聖霊に満たされた」信徒たちも「本質(エッセンス)」の含有量の非常に高まった状態にあったのだとも考えられるのです。
このように、(興味深いことに)数々の事例から知られることは、自己が、葛藤なく「全体として」働けば働くほど、やがてそこから、自我や自己を超えた要素が、「本質(エッセンス)」的な要素が現れてくるということであるのです。
また、それは、ケン・ウィルバーが指摘する、心身一元論的なセラピー的統合(ゲシュタルト療法のようなもの)が進めば進むほど、ごく自然に、トランスパーソナルな次元が開けてくるという理論ともつながってくることであるのです。
リリー博士の、「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」は、そのようにさまざまな視点とも響きあう、興味深い図式であると言えるのです。
【関連】
→意識の多層性とメタ・プログラマー―イルカ博士ジョン・C・リリーの探求(その1)
→「サイケデリック psychedelic (意識拡張)体験とは何か 知覚の扉の彼方」
→「サイケデリック・シャーマニズムとメディスン(薬草)の効果―概論」
→「アヤワスカ―煉獄と浄化のメディスン(薬草)」
→「さまざまなメディスン(薬草)―マジック・マッシュルーム、ブフォ・アルヴァリウス(5-MeO-DMT)」
※変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。