野生・宇宙・自然―心理学的シャーマニズム 概論

  1. 私たちの野生と潜在意識
  2. 私たちを包む「野生と自然の世界」
  3. 人間という種を超えて
  4. シャーマニズム的な姿勢

◆私たちの野生と潜在意識

 さて、私たちが、この日常意識(顕在意識)の下に、膨大な潜在意識(無意識)を持つという理論は、フロイト以降の深層心理学では、基本的前提となっています。しかし、深層心理学でさえ、「潜在意識の中に何があるのか/潜在意識とは何であるのか」ということを、それほどわかっているわけではないのです。誰も、潜在意識を直接見ることはできないからです。そのため、各流派によって、その理論も多様でバラバラになっているのです。
 しかし、歴史的にみると、人類は、古来先史時代から、潜在意識(魂)の中にさまざまな要素があることをすでに知っていました。人間の中に、知られざる、秘められた能力(空間)が存在することを感じていたのです。
 そのため、世界のシャーマニズムの中には、変性意識状態(ASC)を使って、潜在意識の中をさまざまに探索する方法が共通して見られました。地域や民族によっては(シャーマニズムの中で)、メディスン(薬草)の力を借りて、潜在意識の不思議な世界に通暁した人々もいました。それらを使うと、潜在意識を直接見ることもできるからです。
サイケデリック・シャーマニズムとメディスン(薬草)―概論
アヤワスカ―煉獄と浄化のメディスン(薬草)

 また、民間伝承においても、昔から「火事場の馬鹿力」として知られる現象があります。火事になった際、「寝たきりだったヨボヨボのおばあさんが、箪笥を担いで急に逃げ出した」というエピソードです。これは、人間の中に、隠された途方もない力があることを暗示するエピソードです。これも、潜在意識の知られ方のひとつといえます。

 さて、次の事例は、事故で偶然、そんな「秘められた能力」が発現した人の報告です。
 この人は、
登山中に滑落して、もはや降りざるをえなくなった絶壁を降りていく中で、不思議な心身/能力状態に入っていきました。未知の潜在能力/潜在意識が急激に現れだしてきたのです。

 その下降中に“何か”が起こったのだ。それからずっと、そう、今日に至るまで、そのとき一体何が起きたのか、僕は考え続けている。しかし、これほど不可解で強力なインパクトはそれまでになかったものだった。
 気がつくと僕は普通では到底不可能なことを、いとも簡単にやりのけていた。ネバの絶望的に垂直な壁を降りながら、いくつもの、いや何十もの不可能事をやってのけていたのである。それもひどい怪我と、ショック状態の中での話だ。僕は恰もヒョウやヤギのように、非のうちどころない、しっかりとした足どりで下降(クライム・ダウン)していた。崩れかかった岩の急斜面に手足をかけると、その都度、岩が崩れ落ちるほどの場所だ。それはダンスだった。ワン・テンポ遅れると命取りになるダンス……花崗岩についた薄氷に指をかけて体を支える。氷は音をたてて砕けるが、そのときにはもう、僕の体は先に進んでいる、という具合だった。(中略)
 次は垂直に切り立った岩壁だ。手足の手がかり(スタンス)となるところはどこにもなかった。高度差は四~五メートル。僕はけし粒ほどの花崗岩にしがみついて――ありえないことのようだが、僕は本当にそうしたのだ――下降し、氷の消えた岩棚(レッジ)に立った。これは戸棚に入って、散弾銃の弾丸を避けるようなものだ。重力に抗い、アクロバチックな動作を繰り返しながら下降したのだった。
 (中略)僕は自分の限界を知っていた。この下降は、僕の技量的限界を遥かに上まわっていたのだ。心のある部分は恐怖と疲労に震え、助けを求めて叫んでいた。この荒涼とした岩場から、どこでもいいから他所へ連れて行ってくれと叫んでいたのだ。だが別の部分は反対に、自信に溢れ、気狂いじみた喜びに充たされて、動物的な生存のためのダンスを大いに楽しんでいたのである。(中略)
そのときの僕なら三〇歩離れたところから、松の葉で蚊の目を射抜くことさえ絶対できたはずであると、今も確信している。

ロブ・シュルタイス『極限への旅』近藤純夫訳(日本教文社) ※太字強調引用者

 興味深い能力の発現です。このような能力が、私たちの中にあることを、昔から人類は気づいていたのです。そして、さまざまな修業的なシステムを考案して、そのような能力を引き出そうとしたのです。シャーマニズムの方法論も、このような考えの流れのうちにあるのです。

 また、別の少し近い現象ですが、事故に遭って命が危機に見舞われた状況や、瀕死の状況の時に、「まわりの情景がスローモーションで見えだす」「走馬燈のように過去の全人生が甦る」「まばゆい光を見る」などということも、昔から言われていたことではありました。
たとえば、次の事例は、
交通事故に遭った人のケースです。

「強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです」

スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳『魂の航海術』(平凡社) ※太字強調引用者

 これは、現在では、臨死体験(NDE)などに分類される事例ですが、昔から、このような現象が人間に起こることや、秘められた能力(潜在意識)が存在していることを、人々は知っていて語り継いできたのでした。「走馬燈のように過去の全人生が甦る」と言われる「人生回顧(ライフレビュー)体験」についていえば、例えば、以下などは、筆者自身が体験したことの一部です。

……………………………………………………
物体で打たれたような衝撃を感じ、

視界の中を、
透明なベールが左右に開いていく姿を知覚した。
内的な視覚の層が、
ひらいていく姿のようである。
奇妙な意識状態に、
入っていった…

ふと見ると、
随分と下の方に、
遠くに(数十メートル先に)、
「何か」があるのが見えたのである。
何かクシャッと、
縮れたもののようである。
よく見てみると、
そこにあったのは、
(いたのは)

数日前の「私」であった。

正確にいうと、
「私」という、
その瞬間の自意識の塊、
その瞬間の人生を、
その風景とともに、
「生きている私」
がいたのである。

たとえば、
今、私たちは、
この瞬間に、
この人生を生きている。

この瞬間に見える風景。
この瞬間に聞こえる音たち。
この瞬間にまわりにいる人々。
この瞬間に嗅ぐ匂い。
この瞬間に感じている肉体の感覚。
この瞬間の気分。
この瞬間の心配や希望や思惑。
この瞬間の「私」という自意識。
これらすべての出来事が融け合って、
固有のゲシュタルトとして、
この瞬間の「私」という経験がある。

さて、その時、
そこに見たものは、
それまでの過去の人生、
過去の出来事を体験している、
そのような、
瞬間瞬間の「私」の、
つらなりであった

瞬間瞬間の、
無数の「私」たちの、
膨大なつらなりである。
それらが時系列にそって、
そこに存在していたのである。
(近しい過去が手前にある)

瞬間とは、
微分的な区分けによって、
無限に存在しうるものである。
そのため、そこにあった「私」も、
瞬間瞬間の膨大な「私」たちが、
数珠のように、
無数につらなっている姿であった。

それは、
遠くから見ると、
体験(出来事)の瞬間ごとのフィルム、
もしくはファイルが、
時系列にそって、
映画のシーンように、
沢山並んでいる光景であった。

そして、
そのフィルムの中に入っていくと、
映画の場面(瞬間)の中に入り込むように、
その時の「私」そのものに、
なってしまうのであった。

その時の「現在」、
まさにその瞬間を生きている「私」自身に、
戻ってしまうのであった。
その瞬間瞬間の「私」を、
ふたたび体験できるのである。

主観として得られた、
過去の「私」の情報のすべてが、
そこにあったのである。
………………………

そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない無数の洞察を、閃光のように得ているのであった。この時即座に言語化され、理解されたわけではなかったが、この風景の奥から直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのである。
その内容をポイントごとに切り分けると、以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で言語化され、整理されたものである。
(つづく) 
『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』(改訂版)より

 
 さて、このように、私たちの潜在意識の中には、さまざまな未知の力が眠っているのです。
 そして、そのように、私たちの「心=潜在意識」について大きく考えた場合、私たちの自意識(日常意識・顕在意識)というものは、人工的な「プール」みたいなものです。文化的な所産です。
 人間たちが、文化によって育て、守り、維持している空間だからです。

 一方、私たちの潜在意識というものは、自然の「海」みたいなものです。
 
成分としては、似ていますが、その豊かさと命、パワーは、数百倍、数千倍違うものなのです。
 潜在意識が持っているものは、文化的な人間の枠に収まらない、本来の「野生の力」「自然の力」なのです。
 そして、これら「本来の力」を取り戻していくことで、私たちの人生はまったく違ったものになっていくのす。
 形を変えて甦ってきた、現代のシャーマニズム的方法論は、そのような力の修復手法として存在しているのです。

◆私たちを包む「野生と自然の世界」

 さて、ところで、当スペースが方法論としているような、心身一元論的な心理療法を長年つづけていくと、私たちの心身は、顕著に変容していきます。
 肉体が内側から弛緩し、解放され、知覚が鋭敏さを増し、エネルギーが流動化したようにしなやかになります。
 これは、1960年代に広がりをみせた、ボディワーク・セラピーの中ではよく知られている現象です(日本では、この流派はまったく広まりませんでした)。
 意識状態も流動性を高め、変性意識状態(ASC)に入りやすくなります。
 知覚の弛緩にともない、意識も拡大していくこととなるのです。
 その結果、狭い自意識に拘束されずに、ひろく外界の領域にまで、意識の範囲が広がっていくような状態になっていくのです。

 (トランスパーソナル(超個的)心理学の多くが語っているのも、大枠ではそのような事柄です)

 そして、トランスパーソナル心理学(インテグラル心理学)の理論家ケン・ウィルバーも1970年代から指摘していることですが、心身一元論的セラピーというものは、その体験と統合を充分に深めていくと、潜在能力が大きく発現し、個人性を超えた、トランスパーソナル(超個的)な領域が必然的に開けてくるということです。
(ちなみに、ケン・ウィルバーは、心と身体を合わせた「有機体」の全体を主体と見なす心身一元論的な心理療法各派を、「ケンタウロスの領域」の心理療法であると呼んでいます。「ケンタウロス」とは、半人半馬の神話的存在であり、心理と野生との結合という、この領域の人間の状態をとてもうまく表現しています)

 つまりは、本来の「心身一元論的状態/野生の状態」が回復・解放されることで、人間主義的な個人性や制限を超えて、元からある、自然や宇宙とのつながりも回復してくるというわけです。
 そして、そのような世界観や体感、方法論を一番端的に現わしているのが、古くからあるシャーマニズム的な方法論なのです。

 実際、ウィルバーは次のように、そのような感覚の拡張・自己超越の例証として、或るゲシュタルト療法でのセッション風景を取り上げてもいるのです。かなりわかりづらい文章ですが、見てみましょう。
 文中に「微細(サトル)」という言葉が出てきますが、これは西洋科学にはありませんが、東洋思想においては古来よりその存在が知られている、〈気〉やプラーナなどの領域です。ケンタウロスのセラピーが成熟すると、そういう西洋的世界では認知されていないような現象も起きてしまうことを指摘しているのです。
変性意識状態(ASC)とは何か advanced 編「統合すれば超越する」4.東洋的モデル(諸相)の示唆
 また、最初のところは、心身一元論的セラピー(ケンタウロスのセラピー)が、「いかに剝き出しの原初的な野生の感覚を覚ますか」の指摘となっています。

「自我的、文化的な図式化の被覆を取り除かれた感覚意識そのものが、覚醒時の領域に衝撃的ともいうべき鮮明さと豊かさを持ち込んでくる。さらにここまでくると、感覚意識はもはやただの“植物的”ないし“動物的”なものでも、単に“有機的”なものでもなく、より高次の微細(サトル)エネルギーや超個的な諸エネルギーの流入した一種の超感覚的意識になってくる。オーロビンドはいう。『内なる諸感覚を利用して――つまり、感覚力そのものの純粋で……微妙な活動……を用いて――われわれは感覚経験を認識し、周囲の物質的環境の組成に属さない事物の姿やイメージを認識することができる』。
 この“超感覚的”意識は、多くのケンタウロス・セラピストによって報告されており(ロジャーズ、パールズほか)、ダイクマンによって論ぜられ、神秘的洞察の初期段階の一つとしても知られているものである(人がケンタウロスのレベルに上昇し、さらにそれを超越するにつれて現れる)。
 思うに、実存主義の人々さえ、ときとしてさまざまな“超個的”リアリティ――彼ら自身の言葉である――を直観しはじめることがあるのはこの理由によるものだろう。フッサールもハイデッガーもそろって、しだいに超越的哲学への傾きを強めていった(マルセル、ヤスパース、ティリッヒなどの有神論的実存主義者たちはいうまでもない)。メイ博士自身、「非個的なところから個的なものをへて、超個的な意識次元へ向かう」運動について語っている。
 そして、ゲシュタルト・セラピーにおけるフリッツ・パールズの偉大な後継者の一人ジョージ・ブラウンは――なお、パールズ自身、ゲシュタルト・セラピーは純粋な実存主義のセラピーであると認めている――〈今ここ〉への集中というケンタウロス的変換を与えられた個人が、やがて一つの袋小路に突きあたるさまを次のように描写している。
 袋小路はさまざまに言い表すことができる。そこには超個的な諸エネルギーがかかわっており、人々は浮遊感、静けさ、平和といったものを口にする。しかし、われわれはそこで無理強いはしない。『けっこうです。つづけて、自分に何が起こっているか報告してください』と答える。そしてときには、そこに何か触れることのできるものがあるかどうかと尋ねる。もしできなければそれでいい。それができた場合、よくある例として何か光が見えはじめる〔真の微細領域〕。これは、超個的段階への動きと考えよいだろう。光が見えると、人々はしばしばそれに向かっていく。すると、戸外に出て、太陽が輝き、緑なす樹々や青い空、白い雲といった美しいものがある。それから、その体験が完了して目を開くと、色彩は前よりも鮮明になり、ものがずっとはっきり見え、知覚力が高まっている〔超感覚的ケンタウロスの意識〕
 その時点で、彼らはもろもろの幻想や病理によってかぶせられていたフィルター〔自我的・メンバーシップ的フィルター〕を切り払ったのだ。こうして見ると、実存的ケンタウロスは単に自我、身体、ペルソナ、影(シャドウ)のより高次の統合であるばかりでなく、同時に、さらに上位にある微細(サトル)および超個的諸領域への主要な転換点でもある(スタニスラフ・グロフの研究は、これを強力に裏づけるものであることに注意)。このことは、ケンタウロスの“超感覚的”モードについても、直観、志向性、ヴィジョン・イメージといったその認識プロセスについてもいえることである。それらはすべて、超越と統合を実現したより上位の領域の前ぶれにほかならない

ケン・ウィルバー『アートマン・プロジェクト』吉福伸逸他訳 (春秋社)
(※太字強調は引用者)


 さて、ここでは、心身一元論的セラピーを突き詰めることで、深い知覚と感覚の解放(変容)から、野生の覚醒へ、さらには超越的な微細(サトル)エネルギートランスパーソナル(超個的)領域へつながっていくことが語られています。
 そして、このような「感受性の変容/感覚の多次元性」は、やがて、「自然界/野生の世界」というものに対する、私たちの関係を変えていくことにもなるのです。
 というのも、ケン・ウィルバーが語るような「感受性の変容/感覚の多次元性」は、現代の人間文化からすると奇妙なことですが、宇宙的大自然としての「自然界/野生の世界」からするとみな「普通のこと」であるからです。
 そのすべてが、本来の「自然界/野生の世界」のプロセスの中に含まれて(包含されて)しまっているからです。
 少なくとも、伝統社会、部族社会で考えられていた「自然界/野生の世界」とは、そのような「生きている宇宙」でした。

 このことは、人間関係(関係性)だけを突き詰めていくことによって、しばしば行き詰ってしまう、従来的な心理療法に対する、別種の観点やアプローチとしても、意味を持ってくるものでもあるのです。
 かつて、精神科医の加藤清は語っていました。

「もしクライエントとセラピストとの関係、人間の関係だけであれば、場の基底がもうひとつ弱い。そこに、ディープ・エコロジカルな基盤があってこそ、出会いが成立する。人間と人間との出会いは同時に、自然とクライエントとセラピストの出会いでもある。魂の出会いといってもいい。
 これがもっと緑があって、空気が良くないといけないとか、治療室は冬はもっと暖房が効いていて快適でなければいけない、緑が多く、いい空気が吸えて、初めて治療ができるということなら、それはディープではなく、シャロー(浅い)・エコロジーなんです。そういう物質的環境ではなく、難しく言えば梵我一如の場――梵我とはブラフマンとアートマンのことです――、自分と世界が一つであり、無限に開けている場のようなことを、ディープ・エコロジカルな基盤と言っているんです。そういう場の中で、人間関係はきわだって円滑にいく。それは当然のことだと思います。こうして部屋の中で話をしていても、場が僕を助けてくれる。たとえばあの棕櫚竹からも、いまものすごく助けてもらっていると思います。棕櫚竹という自然が背景にあって、上野さんとこうやって話しているわけです。」(加藤清、上野圭一『この世とあの世の風通し』春秋社) ※太字強調引用者


 また、心身一元論的な体験的心理療法(ゲシュタルト療法やボディワーク・セラピー、ブリージング・セラピー)などにおいても、肉体の生理領域を活性化し、感度を高めていくために、私たちが「生物として持っている能力(感受性)」「野生の力」に関してさまざまな覚醒が起こってくるのです。
 そのことが、私たちを「生物」「生命体」として、自然界と横断的に結びつけていく面であるのです。
 

◆人間という種を超えて

 そのような視点から見ていくと、例えば、グループワークを主体とする体験的心理療法(エンカウンター・グルーブなど)では、仲間と協働してセッションを進めるため、私たち自身の「群れ」としての側面について、さまざまな洞察が深まっていきます。
 下は、エンカウンター・グループ体験者の言葉です。

「私は、以前より、開かれ自発的になりました。自分自身をいっそう自由に表明します。私は、より同情的、共感的で、忍耐強くなったようです。自信が強くなりました。私独自の方向で、宗教的になったと言えます。私は、家族・友人・同僚と、より誠実な関係になり、好き嫌いや真実の気持ちを、よりあからさまに表明します。自分の無知を認めやすくなりました。私は以前よりずっと快活です。また、他人を援助したいと強く思います」(ロジャーズ『エンカウンター・グループ』畠瀬稔他訳/創元社)※太字強調引用者 

 実際のところ、グループ・セラピーの現場では、しばしばありえないような形で、人々の心の共振・共鳴が生じます。それは、物理的な共振・共鳴とまったく似たような形です。そこにおいて、私たちは意識や感情エネルギーの生物的なあり様(反応システム)について、それまでにない感受性で、感覚的な理解を深めていくことになります。

 そして、このような「つながり」の感覚は、ケン・ウィルバーが指摘したように、その感受性の拡張のさきに、人間共同体(家族、仲間、社会)を超えて、大自然(つまり大地、動植物、鉱物、宇宙、その他の未知)にまでおよんでいくこととなるのです。
 大自然に対して、心や知覚力が拡張し、身体として浸透していくかのようです。
 これらが、知的なものではなく、直接的な感覚的理解として得られていくこととなるのです。

◆シャーマニズム的な姿勢

 ところで、知覚力と意識の変容(変性意識状態(ASC))に関する技術をもち、大自然とじかに交わり、大地との交感を深めていく方法論といえば、シャーマニズムの方法論がありました。
 そのため、映画監督でもあり、多方面で活躍するホドロフスキー氏が、自ら開発したセラピーを「サイコマジック」「サイコシャーマニズム」と呼ぶのは、まったく正当なことでもあるのです。
ホドロフスキー氏とサイコマジック/サイコシャーマニズム

 そのため、当スペースでは、体験的心理療法のアプローチに片足を置きつつも、より大きなリアリティをとらえる観点から、変性意識状態と大自然を視野に入れる取り組み全般を、「心理学的シャーマニズム」(当スペースでは、ゲシュタルト・シャーマニズム)の姿勢であるとして方法論に組み込んでいるのです。また、拙著『砂絵Ⅰ』においても、この方法論を深く掘り下げているのです。
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
伝統的なシャーマニズムと心理学シャーマニズムについて
野生の気づきとは
発声とエネルギーの通り道

登山と瞑想

※サイケデリック・メディスン(薬草)を使ったシャーマニズムについては
サイケデリック・シャーマニズムとメディスン(薬草)の効果―概論
アヤワスカ―煉獄と浄化のメディスン(薬草)
さまざまなメディスン(薬草)―マジック・マッシュルーム、ブフォ・アルヴァリウス

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諸星大二郎の『生物都市』と鉱物的な変性意識状態(ASC)
フロー体験について
アウトプットの必要と創造性 サバイバル的な限界の超出


【ブックガイド】

ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
野生の気づき、自然、変性意識状態(ASC)についてのより総合的な方法論は拙著拙著
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
特に、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
の第五部(野生と自然)をご覧下さい。

動画解説 野生の気づき awareness

動画解説 魔法入門 変性意識活用法その2

動画解説 伝統的なシャーマニズムの世界観