野生・宇宙・自然―シャーマニズム 概論

  1. 潜在能力と潜在意識
  2. 私たちを包含する「野生と自然の世界」
  3. 人間という種を超えて
  4. シャーマニズム的な姿勢

◆潜在能力と潜在意識

さて、私たちが、この日常意識(顕在意識)の下に、広大な潜在意識(無意識)を持っているという仮説は、現代の深層心理学では、基本的前提となっている事柄です。
しかし、その深層心理学でさえ、「潜在意識の中に何があるのか」ということを、それほどわかっているわけではないのです。
単に、類推によってそれを仮定しているだけだからです。
また、流派によって、その考えも多様です。
しかし、歴史的にみると、人類は古来、先史時代から、潜在意識の中にさまざまものがあること、それも普段隠された予期しないものがあることをすでに知っていました。
そして、人間の中に、知られざる、秘められた能力が存在することをなんとなく感じていたのです(場合により、それを「超自然的なもの」と見なしていたりもしたのです)。
また、昔から「火事場の馬鹿力」として知られる現象なども、その知られ方のひとつといえるのです。

さて、次の事例は、事故で偶然、そんな「秘められた能力」が発現した人の報告です。この人は、登山中に滑落して、もはや降りざるをえなくなった絶壁を降りていく中で、その心身状態に入っていきました。潜在能力/潜在意識が急激に現れだしてきたのです。

 その下降中に“何か”が起こったのだ。それからずっと、そう、今日に至るまで、そのとき一体何が起きたのか、僕は考え続けている。しかし、これほど不可解で強力なインパクトはそれまでになかったものだった。
 気がつくと僕は普通では到底不可能なことを、いとも簡単にやりのけていた。ネバの絶望的に垂直な壁を降りながら、いくつもの、いや何十もの不可能事をやってのけていたのである。それもひどい怪我と、ショック状態の中での話だ。僕は恰もヒョウやヤギのように、非のうちどころない、しっかりとした足どりで下降(クライム・ダウン)していた。崩れかかった岩の急斜面に手足をかけると、その都度、岩が崩れ落ちるほどの場所だ。それはダンスだった。ワン・テンポ遅れると命取りになるダンス……花崗岩についた薄氷に指をかけて体を支える。氷は音をたてて砕けるが、そのときにはもう、僕の体は先に進んでいる、という具合だった。(中略)
 次は垂直に切り立った岩壁だ。手足の手がかり(スタンス)となるところはどこにもなかった。高度差は四~五メートル。僕はけし粒ほどの花崗岩にしがみついて――ありえないことのようだが、僕は本当にそうしたのだ――下降し、氷の消えた岩棚(レッジ)に立った。これは戸棚に入って、散弾銃の弾丸を避けるようなものだ。重力に抗い、アクロバチックな動作を繰り返しながら下降したのだった。
 (中略)僕は自分の限界を知っていた。この下降は、僕の技量的限界を遥かに上まわっていたのだ。心のある部分は恐怖と疲労に震え、助けを求めて叫んでいた。この荒涼とした岩場から、どこでもいいから他所へ連れて行ってくれと叫んでいたのだ。だが別の部分は反対に、自信に溢れ、気狂いじみた喜びに充たされて、動物的な生存のためのダンスを大いに楽しんでいたのである。(中略)
そのときの僕なら三〇歩離れたところから、松の葉で蚊の目を射抜くことさえ絶対できたはずであると、今も確信している。

ロブ・シュルタイス『極限への旅』近藤純夫訳(日本教文社) ※太字強調引用者

このような能力が私たちの中にあることを、昔から、人々は知っていたのです。

また、別の少し近い現象ですが、命が危機に見舞われた状況や、瀕死の状況の時に、「まわりの情景がスローモーションで見えだす」「走馬燈のように過去の人生が甦る」「まばゆい光を見る」などということも、昔から言われていたことではありました。
たとえば、次の事例は、
交通事故に遭った人のケースです。

「強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです」

スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳『魂の航海術』(平凡社) ※太字強調引用者

現在では、臨死体験(NDE)などに分類される事例ですが、昔から、このようなことが人間に起こることや、人間の中には秘められた能力が存在していることを、人々は知っていて、語り継いできたのです。
そして、その力が、潜在意識の中にあることを直観していたのです。
そのため、「潜在意識が、云々」というような、なんとなく胡散臭いことを言われても、信じてしまったりしていたのでした。

ところで、そのような私たちの心について言えば、日常意識・顕在意識は「プール」みたいなものです。
一方、私たちの潜在意識は「海」みたいなものです。
成分は、おおよそ似ているものですが、その豊かさとパワーは、数百倍、数千倍違うものなのです。
その潜在意識が持っているものは、文化的な人間の枠に収まらない、「野生の力」「自然の力」なのです。
そして、これら「本来の力」を取り戻していくことで、私たちの人生はまったく違ったものになっていくのです。

◆私たちを包含する「野生と自然の世界」

さて、ところで、当スペースが方法論としているような、心身一元論的な心理療法を長年つづけていくと、私たちの心身は、内奥から弛緩・解放されて、しなやかな鋭敏さを増し、知覚も流動化したように開かれてきます。
意識状態も拡張的になり(覚めた変性意識状態(ASC)が得られやすくなり)、意識の可動域が拡大していくこととなるのです。
その結果、狭い自意識に限定されない外界の領域にまで、自己の範囲が広がっていくような状態になってくるのです。

(トランスパーソナル(超個的)心理学の多くが語っているのも、大枠ではそのような事柄です)

トランスパーソナル心理学(インテグラル心理学)の理論家ケン・ウィルバーも初期から指摘していることですが、心身一元論的セラピー(彼の用語ではケンタウロスのセラピー)というものは、その体験と統合を充分に深めていくと、潜在能力が大きく発現し、通常の人間性を超えた、トランスパーソナル(超個的)な領域が開いてくるということでした。
(ちなみに、ケン・ウィルバーは、心と身体を合わせた「有機体」の全体を主体と見なす心身一元論的な心理療法各派を、「ケンタウロスの領域」の心理療法であると呼んでいます。「ケンタウロス」とは、半人半馬の神話的存在であり、心理と野生との結合という、この領域の人間の状態をとてもうまく表現しています)

そして実際、ウィルバーは次のように、そのような感覚の拡張・自己超越の事例(証拠)として、或るゲシュタルト療法でのセッション風景を取り上げてもいるのです。少しわかりずらい文章ですが、見てみましょう。文中に「微細(サトル)」という言葉が出てきますが、これは主流の西洋科学にはありませんが、東洋思想においては古来よりその存在が知られている存在領域のことです(〈気〉やプラーナなど)。ケンタウロスのセラピーにおいては、そういう非西洋的な事態も起きてしまうことを指摘しているのです。
変性意識状態(ASC)とは何か advanced 編「統合すれば超越する」4.東洋的モデル(諸相)の示唆
また、最初のところは、心身一元論的セラピー(ケンタウロスのセラピー)が、「いかに剝き出しの原初的な野生の感覚を覚ますか」の指摘です。

「自我的、文化的な図式化の被覆を取り除かれた感覚意識そのものが、覚醒時の領域に衝撃的ともいうべき鮮明さと豊かさを持ち込んでくる。さらにここまでくると、感覚意識はもはやただの“植物的”ないし“動物的”なものでも、単に“有機的”なものでもなく、より高次の微細(サトル)エネルギーや超個的な諸エネルギーの流入した一種の超感覚的意識になってくる。オーロビンドはいう。『内なる諸感覚を利用して――つまり、感覚力そのものの純粋で……微妙な活動……を用いて――われわれは感覚経験を認識し、周囲の物質的環境の組成に属さない事物の姿やイメージを認識することができる』。
 この“超感覚的”意識は、多くのケンタウロス・セラピストによって報告されており(ロジャーズ、パールズほか)、ダイクマンによって論ぜられ、神秘的洞察の初期段階の一つとしても知られているものである(人がケンタウロスのレベルに上昇し、さらにそれを超越するにつれて現れる)。
 思うに、実存主義の人々さえ、ときとしてさまざまな“超個的”リアリティ――彼ら自身の言葉である――を直観しはじめることがあるのはこの理由によるものだろう。フッサールもハイデッガーもそろって、しだいに超越的哲学への傾きを強めていった(マルセル、ヤスパース、ティリッヒなどの有神論的実存主義者たちはいうまでもない)。メイ博士自身、「非個的なところから個的なものをへて、超個的な意識次元へ向かう」運動について語っている。
 そして、ゲシュタルト・セラピーにおけるフリッツ・パールズの偉大な後継者の一人ジョージ・ブラウンは――なお、パールズ自身、ゲシュタルト・セラピーは純粋な実存主義のセラピーであると認めている――〈今ここ〉への集中というケンタウロス的変換を与えられた個人が、やがて一つの袋小路に突きあたるさまを次のように描写している。
 袋小路はさまざまに言い表すことができる。そこには超個的な諸エネルギーがかかわっており、人々は浮遊感、静けさ、平和といったものを口にする。しかし、われわれはそこで無理強いはしない。『けっこうです。つづけて、自分に何が起こっているか報告してください』と答える。そしてときには、そこに何か触れることのできるものがあるかどうかと尋ねる。もしできなければそれでいい。それができた場合、よくある例として何か光が見えはじめる〔真の微細領域〕。これは、超個的段階への動きと考えよいだろう。光が見えると、人々はしばしばそれに向かっていく。すると、戸外に出て、太陽が輝き、緑なす樹々や青い空、白い雲といった美しいものがある。それから、その体験が完了して目を開くと、色彩は前よりも鮮明になり、ものがずっとはっきり見え、知覚力が高まっている〔超感覚的ケンタウロスの意識〕
 その時点で、彼らはもろもろの幻想や病理によってかぶせられていたフィルター〔自我的・メンバーシップ的フィルター〕を切り払ったのだ。こうして見ると、実存的ケンタウロスは単に自我、身体、ペルソナ、影(シャドウ)のより高次の統合であるばかりでなく、同時に、さらに上位にある微細(サトル)および超個的諸領域への主要な転換点でもある(スタニスラフ・グロフの研究は、これを強力に裏づけるものであることに注意)。このことは、ケンタウロスの“超感覚的”モードについても、直観、志向性、ヴィジョン・イメージといったその認識プロセスについてもいえることである。それらはすべて、超越と統合を実現したより上位の領域の前ぶれにほかならない

ケン・ウィルバー『アートマン・プロジェクト』吉福伸逸他訳 (春秋社)
(※太字強調は引用者)


心身一元論的セラピーを突き詰めることで、深い知覚と感覚の解放(変容)から、野生の覚醒へ、さらは超越的な微細(サトル)エネルギートランスパーソナル(超個的)領域へつながっていくことが語られています。
そして、このような「感受性の変容/感覚の多次元性」は、やがて、「自然界/野生の世界」というものに対する、私たちの関係を変えていくことにもなるのです。
というのは、ケン・ウィルバーが語るような「感受性の変容/感覚の多次元性」は、現代の人間文化からすると奇妙なことですが、宇宙的大自然としての「自然界/野生の世界」からするとみな「普通のこと」であるからです。
そのすべてが、本来の「自然界/野生の世界」のプロセスの中に含まれて(包含されて)しまっているからです。
少なくとも、伝統社会、部族社会で考えられていた「自然界/野生の世界」とは、そのような「生きている宇宙」でした。

このことは、人間関係(関係性)だけを突き詰めていくことによって、しばしば行き詰ってしまう、従来的な心理療法に対する、別種の観点やアプローチとしても、意味を持ってくるものでもあるのです。
かつて、精神科医の加藤清は語っていました。

「もしクライエントとセラピストとの関係、人間の関係だけであれば、場の基底がもうひとつ弱い。そこに、ディープ・エコロジカルな基盤があってこそ、出会いが成立する。人間と人間との出会いは同時に、自然とクライエントとセラピストの出会いでもある。魂の出会いといってもいい。
 これがもっと緑があって、空気が良くないといけないとか、治療室は冬はもっと暖房が効いていて快適でなければいけない、緑が多く、いい空気が吸えて、初めて治療ができるということなら、それはディープではなく、シャロー(浅い)・エコロジーなんです。そういう物質的環境ではなく、難しく言えば梵我一如の場――梵我とはブラフマンとアートマンのことです――、自分と世界が一つであり、無限に開けている場のようなことを、ディープ・エコロジカルな基盤と言っているんです。そういう場の中で、人間関係はきわだって円滑にいく。それは当然のことだと思います。こうして部屋の中で話をしていても、場が僕を助けてくれる。たとえばあの棕櫚竹からも、いまものすごく助けてもらっていると思います。棕櫚竹という自然が背景にあって、上野さんとこうやって話しているわけです。」(加藤清、上野圭一『この世とあの世の風通し』春秋社) ※太字強調引用者


また、心身一元論的なゲシュタルト療法やボディワーク・セラピー、ブリージング・セラピーなどの体験的心理療法においては、「肉体という生理的領域」を活性化して、それらへの感度を高めていくため、私たちが、「生物として本来持っている知覚的能力(感受性)」「野生の力」に関してもさまざまな覚醒が起こってくることになるのです。
そのことが、私たちを「生物」「生命体」として、自然界と横断的に結びつけていく面でもあるのです。
 

◆人間という種を超えて

そのような視点から見ていくと、例えば、グループワークを主体とする体験的心理療法(エンカウンター・グルーブなど)では、仲間と協働してセッションを進めるため、私たち自身の「群れ」としての側面について、さまざまな気づきの洞察が深まっていきます。
下は、エンカウンター・グループ体験者の言葉です。

「私は、以前より、開かれ自発的になりました。自分自身をいっそう自由に表明します。私は、より同情的、共感的で、忍耐強くなったようです。自信が強くなりました。私独自の方向で、宗教的になったと言えます。私は、家族・友人・同僚と、より誠実な関係になり、好き嫌いや真実の気持ちを、よりあからさまに表明します。自分の無知を認めやすくなりました。私は以前よりずっと快活です。また、他人を援助したいと強く思います」(ロジャーズ『エンカウンター・グループ』畠瀬稔他訳/創元社)※太字強調引用者 

実際のところ、グループ・セラピーの現場では、しばしばありえないような形で、人々の心の共振・共鳴が生じます。それは、物理的な共振・共鳴とまったく似たような形なのです。そこにおいて、私たちは意識や感情エネルギーの生物的なあり様(反応システム)について、それまでにない感受性で、感覚的な理解を得ていくことになります。

そして、このような「つながり」の感覚は、ケン・ウィルバーが指摘したように、その感受性の拡張のさきに、人間共同体(家族、仲間、社会)を超えて、大自然(つまり大地、動植物、鉱物、宇宙、その他の未知)にまでおよんでいくこととなっていくのです。
大自然に対して、心や知覚力が拡張し、身体として浸透していくかのようです。
これらが、知的なものとしてではなく、直接的な感覚的理解として得られていくこととなるのです。

◆シャーマニズム的な姿勢

ところで、伝統的には、知覚力と意識の変容(変性意識状態(ASC))に関する技術をもち、大自然とじかに交わり、大地との交感を深めていく方法論といえば、それはシャーマニズム文化の領域と重なっていくこととなります。
そのため、映画監督でもあり、多方面で活躍するホドロフスキー氏が、自ら開発したセラピーを「サイコマジック」「サイコシャーマニズム」と呼ぶのは、まったく正当なことでもあるのです。
ホドロフスキー氏とサイコマジック/サイコシャーマニズム

そのため、当スペースでは、体験的心理療法のアプローチに片足を置きつつも、より大きなリアリティをとらえる観点から、変性意識状態と大自然を視野に入れる取り組み全般を、「心理学的シャーマニズム」(当スペースでは、ゲシュタルト・シャーマニズム)の姿勢であるとして方法論に組み込んでいるのです。また、拙著『砂絵Ⅰ』においても、この方法論を深く掘り下げているのです。
拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
伝統的なシャーマニズムと心理学シャーマニズムについて
野生の気づきとは
発声とエネルギーの通り道

登山と瞑想

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アウトプットの必要と創造性 サバイバル的な限界の超出


【ブックガイド】

ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
野生の気づき、自然、変性意識状態(ASC)についてのより総合的な方法論は拙著拙著
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
特に、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
の第五部(野生と自然)をご覧下さい。

動画解説 野生の気づき awareness

動画解説 魔法入門 変性意識活用法その2

動画解説 伝統的なシャーマニズムの世界観