【目次】
◆日本におけるNLPの概況
◆日本への導入(輸入企業)の問題について
◆カウンター・カルチャー/サイケデリック・カルチャーとしてのNLP その出自と前提
◆未来的ヴィジョンとしてのNLP
◆日本におけるNLPの概況
さて、NLP(神経言語プログラミング)も、日本に導入されてから、20年以上が経ち、普及期を越え、停滞期、衰退期に入ったようです。
現在、本やスクールは多くあり、その効果を大きく謳っている一方で、ネットの中でも「怪しい」「胡散臭い」「効果がない」などの言葉も報告されています。
これらの言葉は、皆、どれも正しいのですが、そもそもの歴史的な経緯(1980年代以前)を知らない人々にとっては、基本的な知識や文脈の情報が欠けているようなので、日本導入の最初期にマスタープラクティショナーをとった者として、「本当のところはどうなっているのか」ということを少し書いておきたいと思います。これは、クライアントの方に、「NLPとはどうなのか?」とよく聞かれるからでもあります。
形だけは、NLPの資格をとったものの、何の役にも立っていないという方にご参考にしていただければと思います。
本質的な事柄は、以前の記事にまとめていますので、そちらをご覧いただければと思います。
→【謎解き】NLP 神経言語プログラミングとは何だったのか モデリング技法 ―効果と課題
◆日本への導入(輸入企業)の問題について
まず、「怪しい」「胡散臭い」側面ですが、これは、ある意味その通りであり、それは日本における導入の経緯や輸入会社(企業)に関係している事柄でもあります。
例えば、現在では、普通に広まっている「コーチング」でさえ、元々は商業セミナー(いわゆる自己啓発セミナー)由来のものであり、日本でも商業セミナーを運営していた会社が、社会問題化した自己啓発セミナーに代替する「商品」として輸入したという経緯があります。
そのため、方法論自体の妥当性は、一旦脇に置くとしても、本質的な面で、特有の胡散臭さやいかがわしさがあるのです。
元々、導入した会社が、方法論的内容や効果よりも、事業的に金になることを主眼としていたからです。
こういう「企業の出自」というものは、企業文化の核心的な事柄(DNA/生誕神話)なので、一見したところよりも、実は重要な問題をはらんでいるものなのです。
これは、NLPにおいても、少し似たような側面があるのです。そのため、NLPを学んでみたいという人は、スクールの各団体や主催者が、どういう出自を持っているのか、またNLPの原理とはそもそも何であり、どういう適用範囲や効果が可能なのかを、よくよく見極めておくことが必要なのです。
◆カウンター・カルチャー/サイケデリック・カルチャーとしてのNLP その出自と背景
NLP(神経言語プログラミング)が、日本でわかりにくい点のひとつは、オリジナルのNLPがその出自として持っている、文化的な背景、カウンター・カルチャーやサイケデリックス・カルチャーの意味合い(文脈)が、感覚的に理解されていないということです。これは、当時に流行り出した、NLPの元ネタ、「ゲシュタルト療法」などについても同様に言えることです。
ところで、カウンター・カルチャー(対抗文化)やサイケデリック・カルチャーとは、ヒッピー云々のような表面的で風俗的な流行とは、本質的には、あまり関係のない事柄です。
例えば、アップルのスティーブ・ジョブズが、サンフランシスコ禅センターに熱心に通ったのは、確かに流行もあったでしょうが、彼の深いところにあった直観であり、共鳴だったのです。そのため、彼は生涯にわたって、禅に深くコミットすることになったのです。
(ちなみに彼は、その自伝の中で、自身のLSDの体験を、人生で最も重要な出来事に挙げています)
また、ビートルズでさえ、決して流行で、マハリシの超越瞑想を行なったわけでも、それで終わったわけでもなかったのです。
→「映画監督デヴィッド・リンチ監督とポール・マッカートニーの対談が実現」
ところで、NLP(神経言語プログラミング)は、グリンダー博士とバンドラー博士によって、心理療法家であるパールズ、エリクソン、サティアなどを、モデリングしてつくられたとされています。
しかし、日本の一般の人には、「なんで心理療法家なんだ?」という問いが生まれるかもしれません。
この点もイメージがつきづらい点ですが、そもそも、アメリカにおける心理療法(サイコセラピー)は、日本とは違い、ずっと一般の人々の生活の近くにあるものなのです。
ハリウッド映画などでもよく出てくる風景ですが、かつては、自分の分析医(精神分析医/アナリスト)を持つことが、一種のステータスだった時代もある国です。
そのような流れが背景にあり、60年代カウンター・カルチャー全盛の時代には、一般の感度の高い人々、先端にいる若い人々が、当時の新しいタイプの心理療法(=体験的心理療法)に飛びついたというわけなのです。
ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントというものです。
そして、ゲシュタルト療法やエンカウンター・グループなどを治療のために行なうのではなく、心の創造性を解放する手段として、これらを受けたわけです。これは、医薬品である(当時合法だった)LSDを治療のために使うのではないのと同じことです。
それは、LSDなどのサイケデリック体験と同じ、意識拡張体験や心の解放として位置づけられていたのでした。
実際、後述するエサレン研究所をつくったマーフィーは、エンカウンター・グループについて、「アメリカの新しいヨガであり、LSDと同じくらい魂を恍惚とさせるものだ」という言葉を残しています。
日本では、この体験的心理療法と普通の心理学の違いも、よく理解されてないため、イメージがますますつかないという事態になっているのです。
さて、このような文化的思潮は、大元としては、当時、サイケデリック体験の普及がきっかけになって、「意識の拡張した状態」「心の解放された状態」に、人々の興味関心が向いたというところに原因がありました。
心や意識の可能性に、興味と期待が集まったのでした。
東洋的な瞑想などに、人々の関心が向かったのも、同様の事柄です。
そのような文脈で、少し触れたように、体験的心理療法のメッカであるエサレン研究所なども注目されたわけなのです。
そして、その周辺には、それらの手法を見よう見まねで取り入れたカルト系団体や商業系の自己啓発セミナーたち、「エスト EST」 やその他のグループも非常に沢山あったわけなのです。
当時若かったグリンダー博士もバンドラー博士も、もともとの専門領域は、言語学や数学であり、専門の心理系ではありませんでした。
しかし、彼らは、ゲシュタルト療法のサークルの近くにいましたし、カウンター・カルチャー(対抗文化)のかなり中心に近いところにもいたのでした。
ただ、上記のような文化的背景もあり、当時の新しい体験的心理療法は、専門家だけではなく、一般の人々にも開かれていたのでした。
エサレン研究所なども、単なるワークショップ・リトリート・センターであり、医療機関でもなければ、学術的な機関でもなかったのです。
しかし、スタニスラフ・グロフ博士に言わせれば、「どの研究機関や大学よりも、心理学と精神医学に貢献してきた」ということだったのです。
※スタニスラフ・グロフ博士の興味深いインタビュー ↓
http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/grof
また、本当に変容効果だけを求めるなら、流派や専門領域などというジャンル分けもあまり意味を持たなかったのです。
彼らが、パールズ、エリクソン、サティアと流派もバラバラな人々をモデリングした背景には、そのような自由な背景もあったわけなのです。
また、異議申し立てのカウンター・カルチャー(対抗文化)でしたので、メイン・ストリームの学問を疑っていたし、そもそも、それらに対抗していたのです。
ちなみに、そのことをうかがわせる、興味深いエピソードがひとつあります。
NLPが、一部の巷で話題になり出した頃、エリア的・文化的に近いところにいたからでしょう、グリンダー博士とバンドラー博士らは、家族療法と催眠療法の総本山、有名な MRI(Mental Research Institute)に呼び出されて、デモンストレーションをやらされたことがあるようです。
グリンダー博士曰く「MRIの奴らは、度肝抜かれていた」とのことで、その結果(その後)、MRIでは、NLPについて一切言及しないようにと緘口令が敷かれたとのことです。若き日のバンドラー博士らが、どんな得意の挑発的な言辞で、先生たちを揶揄ったのかはわかりませんが、いかにもそれらしいエピソードです。
ところで、グリンダー博士に言わせると、アカデミックの世界などに持ちこんだら、NLPはつぶされていた、広まらなかっただろうというのが、博士の見解であるようです。
その結果として、より一般の人々に訴える方向で、NLPを普及させる方に向かったわけです。
そもそもがカウンター・カルチャー(対抗文化)ですので、そこのところは問題とはならなかったのです。
そして、その後、良くも悪くも普及したというのが現状なのです。
◆未来的ヴィジョンとしてのNLP
では、まず、「NLP(神経言語プログラミング)とは何か」といえば、それは、単なる「心理学ツールの寄せ集め」である」ということです。
そのため、(別で触れたように)そのNLPのテクニックは、「眼光紙背に徹す」のスタンスで、「解体的に」利用することが必要なのです。
ぞれがどんな元ネタから来て、どんな原理を想定しているのか、どのような条件やコンテクスト(文脈)の中で利用すれば、意味や効果を持つのかと理解することが重要なのです。
→【謎解き】NLP 神経言語プログラミングとは何だったのか モデリング技法 ―効果と課題
また、それをどのようなフレーム/コンテクスト(文脈)で使えば、意味を成すのか、と考えることも、重要なヒントのひとつです。
そして、そのことでいうと、NLPは、そもそもカウンター・カルチャー、サイケデリックス・カルチャーを前提としたものなので、人生(人間)そのものを、旧来の思想にない形で、新しいものに創り変えていくという60年代特有の、少しSF的な、オルタナティブなヴィジョンを背景に持っているわけです。
R.A.ハインラインのサイケデリックなSF小説、『異星の客』が、ヒッピーたちのバイブルとなったというのはもっともな話ですが、そのような「新しい拡張意識や人間のかたち」が模索されていた時代だったのです。
(余談ですが、最近もまた映画化された『DUNE 砂の惑星』ですが、これもまた、原作は、面白い、壮大なサイケデリックSF小説であったため、今でもファンが多いものです。日本の映画評は論外ですが、映画では、サイケデリックな「スパイス・オブ・スパイス」メランジによる、時空を超える内的宇宙の体験描写がまったく省かれてしまっています。これではなぜスパイスがそんなに貴重で秘密めいた資源なのかも伝わらなくなっています。原作をちゃんと理解していなければ、なぜ、この物語を、かつて、ホドロフスキーが映画化しようと目論見、デヴィッド・リンチがまがりなりにも映画化(リンチの珍しい駄作)したかの意味も分からないでしょう)
ところで、彼らは、ダブル・バインド理論で有名な思想家グレゴリー・ベイトソンに、初期の本の序文を書いてもらっています。
「グリンダーとバンドラーは我々がその時に直面していた問題に直面したのであり、その結果が、このシリーズである。彼らには我々が持っていなかった―あるいはその使い方が分からなかった―道具がある。彼らは言語学を、理論の基礎に置くと同時に、治療の道具にすることにも成功した。彼らは精神医学の現象をこれで二重に照合して確かめることができ、今なら私にもわかるが、その時には残念ながら見逃していたことを彼らはやりとげたのである」
『人間コミュニケーションの意味論』ベイトソンによる序文、尾川丈一訳(ナカニシヤ出版)
ベイトソンは、「知の巨人」(日本のメディアのせいでデフレ化したこの言葉が、真に当てはまる人は、おそらく彼くらいしかいないでしょう)とも呼ばれる、きわめて広い学際的活動を行った人ですが、人類学や精神医学の研究から、私たちの通常の「性格/人格」も、(彼の学習理論にしたがって)「二次学習の結果」であると見なしていました。
そして、それを変化させるのが、さらに上位階層レベルの学習、三次学習(学習Ⅲ)であると考えたわけです。
ベイトソンは、二次学習発生の由来が、おそらく問題解決に費やされる思考プロセスの経済性(効率性)であると指摘したうえで、以下のように記しています。このイメージ自体が、少し、SF的なヴィジョンとも言えるでしょう。
「『性格』と呼ばれる、その人にしみ込んださまざまの前提は、何の役に立つのかという問いに、『それによって生のシークェンスの多くを、いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける』という答えを用意したわけである。『これが優れた音楽がどうか知らないが、しかし私は好きだ』という対処のしかたが、性格の獲得によって可能になる、という考え方である。これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい」
「習慣の束縛から解放されるということが、『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である。『私』とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、形づけ方の『型』である。要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。とすれば、Ⅲのレベルに到達し、自分の行動のコンテクストが置かれたより大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、『自己』そのものに一種の虚しさ irrelevance が漂い始めるのは必然だろう。経験が括られる型を当てがう存在としての『自己』が、そのようなものとしてはもはや『用』がなくなってくるのである」
学習Ⅱで獲得される諸前提が自動的に固められていく性格を持つということは、学習Ⅲが、人間といえどもなかなか到達できないレベルの現象であることを示している。(中略)
しかし、サイコセラピーの場でも、信仰のめざめというような体験においても、なにかこの種の、性格の根底的な再編ということが起こると考えられているし、実際に起こっているようである。学習Ⅲが、きわめて創造的に展開した場合、矛盾の解消とともに、個人的アイデンティティーがすべての関係的プロセスのなかへ溶出した世界が現出することになるかもしれない。
『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社)※太字強調引用者
「習慣の束縛から解放されるということが、『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である」
「要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである」
「これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい」
「なにかこの種の、性格の根底的な再編ということが起こる」
「個人的アイデンティティーがすべての関係的プロセスのなかへ溶出した世界が現出する」
というようなヴィジョンが、カウンター・カルチャー(対抗文化)やサイケデリックス・カルチャーを背景に持ち、パールズ、エリクソン、サティアなどと交流し、その変容効果をまじかに見た若者たちにとって、どのような人間(人生)のあるべき姿を夢想させたかということは、想像するだに、ロマン主義的な風景と言えるのです。
(興味深いことに、この時代の典型的な人物であり、この時代とともに終わったドアーズのジム・モリスンは、生前、「後の時代の人々は、1960年代をとてもロマンチックな時代として回顧するのではないだろうか」と語っていました)
そこに、NLPの原風景があるわけです。
NLPの少しSF的で、遠大なイメージ、そのような点にもあるのです。
要は、その内容が、ヴィジョンや心意気に届かなかったということなのです。
しかし、この心意気やヴィジョンは、現代社会においては完全に喪われてしまっている、決定的に重要な要素でもあるのです。
現在のような、(NLPを取り巻く)創造性を欠いた現状からも、グリンダー博士は、NLPの未来には悲観的なようです。
意欲と思想のない、日本においては、なおのことよく見受けられる風景です。
また、ここが、日本のNLPが、とりわけ凡庸で、つまらないものになっている原因のひとつでもあるのです。
そのため、今の私たちに必要なのは、過去のNLPや、NLPが超克しようとしたメインストリームの方法論、既存の方法論を、後生大事に抱えていることではなく、むしろ、それらすべてを解体し、乗り越えることを考えていくだと思われるのです。
その方が、よっぽど可能性と創造性にみちた結果を生み出すと思われるのです。
それは、当時の思潮の中で、NLPの黎明期に、バンドラー博士やグリンダー博士が、取り組んだような積極的なヴィジョンやスタンスであるのです。
NLPを、そのような取り組みのインスピレーションとしてとらえることが、私たちの未来にとっては、重要なことであるのです。
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→知りたい人のための自己啓発系学習ガイド コーチング、NLP
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変性意識状態(ASC)を含めたより総合的な方法論については、拙著↓
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、深遠な変性意識状態(ASC)事例も含んだ
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については、基礎から実践までをまとめた総合的解説、
拙著『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』をご覧下さい。