マズロー アイデンティティの極致としての至高体験

さて、別に、マズローの自己実現に影響する至高体験  peak-experienceのさまざまな特性について見てみました。
マズローの「至高経験」の効能と自己実現

今回は、アイデンティティ(自己同一性)の極致として現れる、至高体験の姿について見てみたいと思います。

通常、私たちは「自分とは、誰であるのか」と、自己の存在/体験について、つねに確信と不確信の間を揺れ動いています。
それは、私たちの日常意識や自我が、構造的に持っている不十分さを反映しているためと考えられます。

しかし、マズローの定義する至高体験(至高経験) peak-experienceにおいては、その構造的欠陥がいっとき消し去られます。

マズローは述べています。

「人びとが至高経験におかれているとき、最も同一性 identityを経験し、現実の自己に近づいており、最も個有の状態であるというのがわたくしの感じなので、これは純粋、無垢のデータを提供してくれるとくに重要な源泉であると思われるのである。」(『完全なる人間』上田吉一訳、誠信書房)

それらを描写するマズローの言葉をいくつか拾っていってみましょう。

「至高経験にある人は、他の場合以上に精神の統一(合一、全体、一体)を感ずる。かれはまた(観察者から見ても)いろいろのかたちで(以下に述べるように)
一段と統合しているようにみえる。たとえば、分離分裂が少なく、自分に対して闘うことよりもむしろ平和な状態にあり、経験する自己と観る自己との間にずれが少なく、かれのすべての部分的機能がたがいに巧妙に、齟齬なく体制化せられ、それが集中的、調和的、効率的である、など。以下、統合およびその基礎となる条件について、違った観点から述べてゆきたい。」

「かれが一段と純粋で単一の存在になるにつれ、世界と渾然一体と深くつながることができるようになり、以前には自己でないものとも融合するようになる。たとえば、愛人は、たがいに緊密になって、二人の人間というよりはむしろ一体となり、我―汝の一元論は可能になり、創造者は創造している作品と一つになる。(中略)つまり、同一性 identity、自立性 autonomy、自我性 selffoodの最高度の到達は、同時にみずからそれ自体を超越し、自己を超えてすすむのである。その際、個人は比較的無我になることができる。」

「至高経験における個人は、普通、自分がその力の絶頂にいると感じられるのであって、すべてのかれの能力は、最善かつ最高度に発揮せられているのである。ロジャーズはいみじくもいっている。かれは『完全に機能する full-unctioning』のを感ずると。かれは、他のときと比べて、知性を感じ、認知力に優れ、才気に富み、力強く、好意的であることを感ずる。かれは最善の状態にあり、調子をかため、最高の状態におかれている。(中略)かれはもはや自分と闘い、自分を抑えようとして無駄な努力を重ねようとはしない。(中略)普通の状態では、われわれの能力の一部は行為に用いられ、また一部は、この能力を抑えるために費やされる。ところがいまや、浪費するところがないのである。」(前掲書)

ちなみに、このような葛藤の消滅感などは、ゲシュタルト療法のセッション後に、私たちが、しばしば感じる強烈な高揚感の重要な原理・構造的理由でもあるのです。
続けて、彼の言葉を見きますいくと…

「完全に機能する full-functioningという状態を、わずかばかり違った面から見ると、人が最善の状態にあるときは、労せずに容易にはたらくということである。他日努力し、緊張し、苦闘したことがらも、その場合、なんの努力も、骨折りも、苦労もなしに『おのずと生ずる comes of itself 』のである。それとともに、すべてのことが『ぴったりと clicks 』と、あるいは『整然 is in the groove 』と、あるいは『力いっぱい in overdrive 』におこなわれるとき、よどみなく、易々と、労せずして、完全にはたらく状態は、往々優美感や洗練された外観を呈するといっても過言ではないのである。」

「ある人は、至高経験においては、他の場合以上に、自分を活動や認知の責任ある能動的、創造的主体であると感ずるのである。かれは、(人に動かされたり、決定されたりする無力で、依存的、受動的で、弱々しく、隷属的であるよりは)根本的に運動の主体であり、自己決定者であると感ずる。自分は自制して、
責任を完全にはたし、断固とした決意と、他の場合にみられないような『自由な意志 free will 』でもって、自己の運命を開拓している、と感ずるのである。

「かれはいまや次の状態から極めて自由な立場におかれている。つまり、障害、抑制、警戒心、恐怖、疑惑、統制、遠慮、自己批判、制止である。」

「かれは自発的で、表現に富み、天真爛漫に振舞う。(悪意がなく、純朴で、正直、率直、純真で、あどけなく、飾り気もなく、開放的で、気どらない)また自然で(単純で、滑脱、敏活で、素直、誠実で、とり繕わず、特定の意味からいっても素朴で、実直)こだわりがなく、自己を自由に表出する(自動的で、直情的、反射的、『本能的』で、天衣無縫、自己意識がなく、虚心、無自覚)のである。」

「かれは、したがって、特定の意味からして『創造的』である。かれの認識や行為は、強い自信や確信に支えられて、その本質が問題性をもった場面、あるいは問題でない場面に対し、『彼岸 out there』の立場乃至要請から、(中略)つくりあげてゆくことができるのである。(中略)当意即妙、無より生ずるもので、予想できるものでなく、新奇で斬新な、陳腐でも通り一ぺんでもない、教わることのない非慣習的のものである。」

「このことはすべて、独自性、個性、特異性の極致にあるということができる。(中略)至高経験の際にはことさら純粋に異るのである。(中略)至高経験においては、かれらのひととなりは一層顕著になるのである。」

「至高経験においては、個人は最もいまここ here-nowの存在であり、いろいろの意味からして、過去や未来から最も自由であり、経験に対して最も『開かれている all there』。」

「いまや、人はより一段と純粋に精神的なものとなり、世界の法則のもとに生きる世界内存在の意味は薄れるのである。つまり、かれは相違があるかぎりでは、非精神的な法則よりも、精神内法則によって決定される点が多くなるのである。」

「至高経験において、人は動機をもたなくなる。(あるいは欲しないようになる)とりわけ、欠乏動機の見地から見てそうである。この同じ理論領域において、最高の、最もまともな同一性 identityを、無為、無欲、無私として、換言すれば、普通の欲求や衝動を超越したものとしてとらえても、同様である。かれはまさにかれである。喜びは達せられたのであり、喜びを求める努力は一時的な終わりを
とげているのである。」

「至高経験を伝える表現方法や伝達方法は、詩的、神秘的、叙事詩的になりやすい。」

「すべての至高経験は、デーヴィド・エム・レヴィの意味における『行為の完了 completions-of-the-act 』として、あるいはゲシタルト心理学者のいう閉鎖 closureとして、ライヒ学派の例でいえば、完全なるオーガズムの型として、あるいはまた全体的解発、カタルシス、カルミネーション、クライマックス、成就、空虚、終結として、効果的に理解できるかもしれない。」

「ある種の遊戯性は、B価値をもっているとわたくしは非常に強く感ずるのである。(中略)重要なことは、それが至高経験に際して最も多く報告されていることであり、(人の内面からも、外界から見られるところからも)また、報告している人以外の研究者によっても見られることである。(中略)このB遊戯性を述べることは非常にむずかしいが、たしかになんらかの敵意を超えた、宇宙的で神のような、よいユーモアの特性をもつものである。これは容易に、幸福の喜び、みち溢れる陽気さ、あるいは愉しさと呼ぶことができよう。」

「人びとは、至高経験の間およびその後で、著しく幸福、幸運、恩寵を感ずる。
『わたくしは分不相応だ』というのが珍しくない反応である。至高経験は企図せられるものでも、計画にしたがってもたらされるものでもでもない。それらは偶然におこるものである。われわれは『喜びでもっておどろく surprise by joy 』のである。思いもよらないという不意の驚きの反応、快よい『知ることのショック shock of recognition』は非常に多いのである。」(前掲書)

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さて、アイデンティティの極致としての至高体験の姿について、さまざまに見てみましたが、この姿は、個人性を超出する要素を持ち、自己同一性(アイデンティティ)ということを考える中では、ある意味、両義的な要素ともなるわけです。

マズローは、それを「逆説」と呼び、以下のように語っています。

「同一性 identityの目標とするところ(自己実現、自立性、個性化、ホルネイの現実自己、真実性等)は、同時に、それ自体究極の目標であるとともに、また、過渡的な目標、経路のならわし、同一性 identityの超越にいたる行路の一段階であるように思われる。このことは、そのはたらきがそれ自体を消してゆく、ということもできる。」


このような洞察が、
後に、マズローの研究を、自己実現のテーマから自己超越のテーマへと移させたことがわかります(「トランスパーソナル(超個的)心理学を提唱し、その学会」を立ち上げたのはマズローです)。

つまり、私たちは、究極の自己を求めるがゆえに、図らずも、自己を失っていく(超え出ていく)というプロセスをたどっていくことになるのです。

そして、しかし、その結果、自己を失う(超え出る)がゆえに、私たちは再び、真の自己(個人性を超えた)を発見していくといったことにもなっていくわけなのです。

そして、その点が、至高体験が、私たちの自己同一性 identityが持つ不確実感を克服する要素にもなっているわけなのです。

そして、このあたりの事情は、変性意識状態(ASC)をめぐる、さまざまな体験領域においても、同様に重要な問題となって来る事柄でもあるのです。

変性意識状態(ASC)においては、私たちの見知った日常意識が、さまざまに相対化されて(超え出られて)いくからです。

そのため、当スペースでは、普段の自我状態から、それらの状態が確固として自分の中に育つことを、「青空の通り道」として健康状態としても重視しているのです。

また、変性意識状態(ASC)と深い心理変容との関係を扱った、拙著『砂絵Ⅰ』においても、これらの事柄は重要なテーマ(行きて帰りし旅)として焦点化されて来ることになったのでした。
→内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』

【ブックガイド】
至高体験を得やすくする、ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた拙著↓
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
気づきや統合、変性意識状態(ASC)へのより総合的な方法論は拙著↓
入門ガイド
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、より深い事項は
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。

↓動画「ゲシュタルト療法と生きる力の増大」

↓気づきと変性意識の入門ガイドはコチラ。動画解説「気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス」