さて、ゲシュタルト療法を続けていくと、私たちはどんなところにたどり着くのでしょうか?どんな心理‐存在状態になるのでしょうか?
ここでは、ゲシュタルト療法が導く「人格統合」の姿を記してみたいと思います。
◆玉ねぎの皮むき
ゲシュタルト療法では、「玉ねぎの皮むき」という言葉があります。
ゲシュタルト療法では、セッション中のあらゆる場面(局面)が、欲求(または欲求不満)の表現であり、気づきの対象となります。
そのため、それらに刻々に焦点化し、気づきを深めることで、心の部分的な統合が得られていくのです。
ひとつ小さな統合が得られると、次の心の新しい局面が現れて来ます。次はそこに焦点を当て、気づきと統合をさらに深めていきます。
玉ねぎの皮を剥くように、次々に、未完了の心理部分が統合されていくことになります。
ところで、この喩えをもっと大きな構造的な視点にも当てはめることが可能です。
どんな人でも多かれ少なかれ、なんらかの形で「やり残した仕事」「未完了のゲシュタルト」を持っています。
そのため、ゲシュタルト療法での継続した取り組みの中においては、ワーク(セッション)は、それらを次々とテーマとしてあつかい、どんどん完了させていくということになります。
つまり、人格の中に堆積していた「未完了のゲシュタルトや未完了の体験」がどんどんなくなっていくわけです。
表面に現れてくる心理的な課題がどんどんなくなつていく形です。それはあたかも「玉ねぎの皮」のように表面(課題)の皮を剥いて、芯に向かうイメージです。
つまりは、「未完了の体験」で覆われた表面的な皮を剥き、より中心にあるとらわれのない本来の自己(オーセンティック・セルフ)を目指すイメージです。
ところで実際、ゲシュタルト療法のワーク(セッション)を長く続けていくと、未完了の体験が次々と完了していき、目立った「やり残した仕事」がおおよそは無くなってしまう時期がやって来ます。
ゲシュタルト療法の方程式では、未完了の体験がなくなると、「未完の体験(ゲシュタルト)に妨げられることなく、今ここを充分に体験できるようになる」といいます。
つまり、過去にできた心理的な歪み(プログラム)に曇らされることなく、目の前の物事を「直接にありのままに、全体的に」体験できるようになるというわけです。
また、欲求(感情)についても、囚われの無く自由で速やかな行動や表現ができるようになります。
私たちは、しなやかな流れるエネルギーに満ちた「自分自身」を体験できるようになるのです。
ここが、ひとまず目指すゴールといえます。
ところで、未完了のゲシュタルトについていうなら、何かのゲシュタルト自体が完全になくなるということもないのです。
なぜなら、人生は継続する創造過程であり、生きている限り変化する環境との格闘や、私たちの自己の生成、創造力によって、積極的な生成力のゆえに、完了していないゲシュタルトは(わざと)生み出されてくるからです。
それは、初期のパールズらにもあった考えです。「自己」とはダイナミックな環境との創造的調整の中で生成しているものなのです。
もちろん、それは病的な状態ではなく、自己の体験の創造的要素と見なして取り組んでいけばいいわけです。
◆人格の統合状態
ゲシュタルト療法では、「人格の統合」という言葉でそのゴールを指しますが、筆者の考える「統合」とは、多彩な姿です。「統合」は単純に単一の自我に回収されることではありません。実際、そういう方も見たことはありません。むしろいたら、そのような人は「退屈な人」でしょう。
古典的なゲシュタルト療法においても、私たちの中にある「両極性/陰陽」がもつ創造的な働きについては、肯定的に考えられています。それが無くなってしまったら、私たちは創造の契機を失ってしまうからです。
筆者が観察し、実感してきた人格的統合の姿とは、私たちの内部ある多様な自我の個性が、互いに阻害(競合)することなく、生き生きと協働的・創造的に働いている姿です。異質で個性的な自我が相互に活き、響きあっている多彩で創造的な姿なのです。
当然そこには、全体として統合された心身の統一性があります。統一された力の感覚があります。
しかし別に、複数の自我状態について解説しましたが、そのような原理(両極性)が阻害的ではなく、創造的に調整的に働いている姿なのです。創造的なチーム(グループ)として活動している姿なのです。
そして、さらには、そのような人格的統合は個人として完結してしまうものでもありません。
個人の内部で多様な自我個性が響きあうように、他者や環境との関係性においても、多様な個性的他者とも響き合うことができるようになるのです。
自己の中の異質な個性を許容できない人間は、異質な他者や環境を受け入れることはできません。自己の異質な個性を統合していくと、異質な他者も受け入れられるようになるのです。
異質な他者に対しても、その個性を活かすように、響きあう存在として共に在ることができるようになるのです。
他者や環境との関係性においても、統合過程(創造的調整)は進んでいくのです。
そのように豊かで創造的な関係性や社会性が、ゲシュタルト療法の心理的統合の先にはあるのです。
◆いい意味で、「どうでもいい」感覚
さて、上記に、真面目なかたちで、「統合」状態について解説を試みましたが、実は、こういう書き方自体が、少し堅苦しくて、ゲシュタルト療法的な統合・成熟ではないという側面もあるのです。
というのも、日本では、カウンセリングの亜流(毛の生えたもの)として認知がひろまっているせいもあり、見えにくくなっていますが、本来のゲシュタルト療法的な統合・成熟とは、もっと自由な遊び心と創造性、少しふざけた感覚(トリックスター性/飛躍性)に、その美質(可能性)があったりもするからです。それを、パールズは、晩年の風貌を見てもわかるように、自ら体現することで伝えようとしたのです。
(なので、あなたの知っているゲシュタルト療法家が、もし、堅苦しかったり、杓子定規だったり、過度に生真面目だったりしたなら、その人のゲシュタルト療法的な統合・達成自体を疑ってもいいでしょう)
実際のところ、「統合」が深まって、諸々の拘束が「抜けてくる」と、主観的な気分としては、もっとくだけた感じ、いい意味で(一周まわった)「どうでもいい」という感じが生れてくるのです。
これは決して、虚無的になるわけでも、ネガティブになるわけでもありません。
アレコレつまらない「こだわり」というものが無くなっていくのです。
もろもろの葛藤が「抜けてしまう(身心脱落)」からです。
ポジティブな意味で、色々な事柄が「どうでもいい」「どうあってもいい」「何であってもいい」と感じられるようになってくるのです。
つまり、「すべてが面白く、楽しく、素敵だ」と感じられるようになってくるのです。
たとえば、お酒を飲むと、どんな食べ物でも(多少苦手なものでも)美味しく感じられるように、すべての事柄が、(苦痛でさえ)楽しく感じられるようになるのです。
「快」のハードルが低くなるともいえます。
宇宙の万物の彩りが、まばゆく豊かになってくるのです。
パールズは、「人生はリーラ(戯れ/神々の舞)だ」と言いましたが、そのような軽妙な感じが現れてくるようになるのです。
「抜けている」感じ、地に足の着いた等身大の超越、流れるような心地よさと自由さが、現れるようになるのです。
そして、その状態になると、逆にまた、「本当にがんばる/ふんばる」ということもできるようになってくるのです。
「がんばらなくちゃ」と思っている間は、私たちは、本当にがんばることはできません。
「トップドッグ(ボス犬)」の声(がんばれ/しっかりやれ)に、尻を叩かれ、急かされ、妨害されている状態、葛藤分裂している状態(もう一方には「やりたくない」の声)だからです。
「どうでもいい」という状態に深く安堵し、肚落ちし、腰を据えることができると、逆に、純粋に「やりたい」「がんばりたい」「やる」と、根のパワーが猛然と湧き上がり、自己一致して、事を起こすことができるようになるのです。
「しない not doing 」ことができてはじめて、本当に「する doing 」ことができるようになるのです。
「本当にがんばる」ことができるようになるのです。
そして、その時の「がんばる/やる」とは、まさにリーラ(戯れ/神々の舞)であり、決められたルールに従うような凡庸なものではなく、シヴァ神の宇宙的ダンスのように創造と破壊がひとつになった、自由で自発的な歓びの行為なのです。
なので、「どうでもいい」とは、とてもパワフルで、豊かな状態であるのです。
ゲシュタルト療法における統合や成熟とは、そのような領域に私たちを導くのです。
【ブックガイド】
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『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
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→『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
→『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
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