登山の至高体験 その意識拡張と変容 メスナーの言葉から

さて、別のところで、方法論として極めて重要な、気づきと自己想起について取り上げました。
気づき awarenessと自己想起 self-remembering

また、その流れで、芸術の即興表現と自己想起との関係についても考えてみました。
キース・ジャレットの覚醒と熱望

今回は、その関連として、登山体験というものを通して垣間見られる意識拡張や気づき、変容の諸相について見てみたいと思います。登山と瞑想はさまざまなレベルで、元来近似した要素を持っていますがここでは、特にその覚醒体験や至高体験の側面について考えてみたいと思います。
登山と瞑想

ところで、イタリアの登山家ラインホルト・メスナーといえば、人類史上初めて、八千メートル峰14座すべてに、単独無酸素で登頂した登山家として知られています。

今回は、彼の著書『死の地帯』(尾崎鋻治訳、山と渓谷社)から、その興味深い言葉をいくつか拾っていってみたいと思います。

というのも、メスナーは、優れた登山家であるばかりでなく、体験を通した生の哲学者といった面持もあり、その体験や洞察を言葉にする卓越した才能を持ってもいるからです。そのため、拙著『砂絵Ⅰ』でも、彼の言葉を何度か引きました。
→内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』

さて、ところで、メスナーはこの本の前半で、登山家が遭遇する極限的体験(滑落、臨死、瀕死等)の中で経験した、さまざまな意識拡張的な体験報告を取り上げています。

彼自身が、その経験者でもあるのですが、そのような体験領域の中では、私たちは日常意識から離れ、フロー体験や臨死体験で報告されるような、不思議な意識拡張的体験を経験しがちとなっているからです。

それらは、私たちが元来持っている潜在能力が、危機的状況の中で不意に現れたものともいえるものです。

メスナーは、そのような広大な潜在能力が、私たちのうちに在ることに注意を促していくのです。

そして、困難で苛烈な登山体験が、人を惹きつけていくその核心部分に、私たちの存在や意識を深いレベルで覚醒させ、解放していく秘密があることを示唆していくのです。

実際に、彼の言葉を見てみましょう。

 

「私は今でも八千メートル峰登頂への究極の動機が何であるのか、自分でもわからない。ただ、一度頂上へ登ってしまうと、また降りるのがとてもいやになるのだ。面倒だからというだけではない。私にとっては、下降によって私の中に虚しさがひろがるからである―失楽園―それは成功の意識によって満たされることはない。頂上に到達したときにすでにまったく別種の虚しさ、私の全存在をとらえる解放的な虚しさを私は何度も経験した。」(前掲書)

メスナーは山頂において、ある種の意識拡張を経験していたのです。

「私はエベレストの頂上から下山しようとしたとき、なかなか降りる気になれなかった。(中略)どうしてかはわからないが、もっと長くいられるものならいたい、永久にだってそこにいたいと思った。」

「八千メートル峰の上にそのまま座りつづけたらどうなんだろうなと、私はときどき考えた。登頂の隠された意味は頂上にとどまることではないだろうか。」

「無限の、なにもない空間の中心である頂に私は座っていた。はるか他の谷々に乳色の靄が沈んでいた。私のまわりの地平線が、私の中にある空虚さと同じように膨らんできた。すると私の深い呼吸が自然に凝縮して、純粋の幻視的な輪となった。なんともいいようのないほがらかな放下感とともに私のこの調和状態、一種のニルワナ―涅槃から目覚めた。」(前掲書)


そして、
彼は、山頂体験そのものが、至高体験 peak-experienceのようにある種の変容を人にもたらすことに思いをめぐらせます。

「ヘルマン・ブールがナンガ・パルバードの山頂から生還したのは、登頂したからである。もしも最高点を目前に失敗していたなら、あのように超人的な下山はできなかったろう。だから私にいわせれば、彼が生還したことこそが、彼が登頂した証拠なのである。彼はあの夢の点に触れたからこそ、時期を失せず、その点から離れることができたのである。」

「人に踏まれることのなかったこの世界で、私を支配するものは、一方では雲や谷、深さや広がりの現実的知覚であるが、他方では、自然が演出するその劇とは一見ほとんど関係がないような、精神的感銘と内的照明(悟り)である。私は八千メートル峰から再び低地にもどったとき、精神的に生まれ変わったように思ったことが何度もあった。だから私が高所での体験から得た認識を、私は錯乱や幻覚ではなく、深い真実だと思っている。」(前掲書)

そして、つまりは、

「高く登れば登るほど、ますます自分が透明に、くっきりと見えてくる。感覚が研ぎ澄まされる。彼があれほど情熱を寄せた頂が、具体的な形で彼のものとなる。彼は一種の光明点の中へ入り、涅槃の中に消え去ることができる。」

「初めてのいくつかの大きな遠征の後で、私は自分の人生がひろがったのを感じたが、同時により思慮深くもなった。三つ目の八千メートル峰であるヒドゥン・ピークが私に鎮静作用を与えた後、涅槃とは何であるかがようやくわかりかけてきたと思った。つまり私は生を超えるものの息吹を吸ったのである。エベレストの頂上では一種の精神的オルガスムを体験した。それは時間と空間のない全有意識における感情的振動である。そのとき私の理性は完全にシャットアウトされていた。」(前掲書)

さて、ところで、メスナーは、彼自身のさまざまな極限状態における実体験から、このようなことを引き起こす、私たちの存在の秘められた組成について仮説を考えていきます。

「まもなく三十年になる私の登山家生活で体験した数々の幻視は、私の自己理解に本質的に寄与した。あるときは私は意識点としてだけ存在したり、またあるときは強い充実感にあふれたりした。そういうときには、悟性が特にそんなふうに働きかけなくても、知が認識になるのである。悟性はその認識を記録する。すると一瞬その認識は合理的に把握できるように見えるが、それは一瞬だけのことであって、二度と呼び戻すことはできない。」

「私の経験によれば、人間は、外的人間と内的人間とからなっている。外的人間―身体的・知的領域―は誰にでもかなりよくわかる部分である。しかし内的人間―精神的領域、それは意識下であり、まだよく解明されていない次元である(私はこれを精密素材領域と呼んでいる)―は、そこへ通じる方法を知らない限り、誰にもわからない。(中略)どの肉体も、すべてがそれからできている元の素材を自分の中に持っている。だからどの人間も万有を分け持っている。万有は無限だから、人間は無限を分け持っている。道具としての感覚器官と、記録装置としての意識の助けを借りて、人間は意識的に明確に自分自身を経験する(知る)ことができる。(中略)精神的な、私のいう精密素材的な人間には限界がないから、精神的人間の経験能力には限界がない。」

「死の地帯の体験は―いろいろと議論された死の経験と同じく―新しい意識領域へいたる階梯の重要なステップのひとつであろう。」(前掲書)


さて、以上、
登山にまつわるラインホルト・メスナーの言葉を見て来ましたが、これらの言葉は、登山に限定されないさまざまな生の場面に、適用可能な洞察となっていることが類推できると思われます。このような至高体験や体験領域を持つものは、私たちの人生の中で、多様に存在するからです。

そのような意味において、メスナーの洞察や示唆は、私たちの人生でさまざまに役立っていく刺激的(覚醒的)なものとなっているのです。

最後に、彼が、本の冒頭に記した言葉を引いておきましょう。これなども、この「登山」の言葉を、各人の取り組み事項に置き換えることで、その野生的創造の可能性を引き出す枠組みになっていくものです。

 

登山―それはひとつの可能性
登山―それは冒険
登山―それは積極的な自然体験
登山―それは創造的にして遊技的なスポーツ
登山―それは行為において存在を意識化する
登山―それは死の挑戦に抵抗するなかでの悟り
登山―それは天から地上への移行
登山―それは此岸と彼岸との架け橋
登山―それはより高い意識段階を求めること
登山―それはひとつの可能性
(前掲書)


※気づきや統合、変性意識状態(ASC)への
より総合的な方法論は、拙著↓
入門ガイド『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。