ここでは、歴史上にある、さまざまな変性意識状態(ASC)の具体的事例や、筆者自身が実際に体験した変性意識状態(ASC)の事例をご紹介してみたいと思います。実際の変性意識状態(ASC)の、特異な可能性や、興味深い形態がご理解いただけると思います。
現在、日本の変性意識状態について書かれたものの多くが、概念的でボンヤリとした話が多いのは、実際に深い変性意識状態を体験して、それを統合している人間によって書かれたものではないことに理由があります。変性意識は、薬物などで他力的・散発的に体験しても、充分に統合的なもの、自分の能力として自家薬籠中に使えるものにはならないのです。
変性意識状態(ASC)とは、多彩で深遠な体験をさまざま数多く経験することで(繰り返して経験値を持つことで)、必要な地図(マップ)を手に入れたり、創造力として応用活用できるものになるのです。
ここで挙げている事例は、当然、さまざまな極端な事例ですが、〈意識〉自体の能力と可能性を示すものを選んでいます。さまざまな変性意識の形態を知ることで、その背後にある〈意識〉の本質がイメージできるからです。
ただ、実際のところ、私たちが普段、体験する変性意識状態(ASC)の多くは、もっと身近で、日常意識に近い形態のものとなります。しかし、その向こうには、このような「意識の世界」が広がっているということなのです。
→詳細紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
- 「臨死体験」事例
- 「光明体験(虹の空間‐次元体験)」の事例
- 「瞑想的な幻視」事例
- 「子宮回帰体験―呼吸法/ブリージング体験」事例
- 「サイケデリック(5-MeO-DMT)体験」事例
- 「人生回顧体験(ライフ・レビュー体験)」事例
- 「クンダリニー体験 (蛇の火)」事例
- 「聖地体験/パワースポット体験(大地の共振)」事例
- 「鉱物(琥珀/水晶/ダイヤモンド)との同一化体験」事例
- 自然発生的な「フロー体験」事例
「強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです」
スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳『魂の航海術』(平凡社) ※太字強調引用者
※「光明」体験の事例です。
「虹の空間‐次元の体験」 『砂絵Ⅱ: 天使的微熱 脱「人間」の心理学(仮題)』(近刊予定)より
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……………………………
……………………
………………
ただ「まばゆさ」がある…
不思議な「まばゆさ」がただ果てしなくひろがっている…
……………………………
……………………
あたり一面の…「まばゆさ」の透過……
遥かな…遠い芯からの… 「まばゆさ」の到来…
満ち満ちる「まばゆさ」の遍満… ひろがり…
宇宙の…存在の…芯からの… 〈光〉のまばゆい透過… 超過……
……………………………
眼を瞑っていても、圧倒的な光明のまばゆい毛羽立ちがある…
まばゆい〈光〉の遍満と膨満…
果てしなく、まばゆい空間が透過している…
まばゆい空間が満ち満ちている…
超過している…
あたりに、虹のように透過し、浸透する、不壊の空間‐次元のひろがり…
……………………………
まばゆい「虹の」空間‐次元の遍満。
まばゆい光明の透過-突き上げ-臨在。
「それ」を認知するというよりも、「それ」がいっさいであり、「それ」が透過し、「それ」がひろがり、満たし、超過し、「それ」が空間としてあり、次元としてあり、いっさいの顕れの「本体」だったのである…
遠い芯からの、まぶしい光明と次元の溢出…
満ちわたる遍満の輝きは、まばゆい放射であり、不壊であり、不滅であり、善きものである… 美であり、浄らかであり、至福であり、途方もない歓喜である…
圧倒的な光明の臨在=充溢があり、そこでは自己の存在などは、もみ殻のように微かで、稀薄なものになっていたのである…
広大な光のひろがりに透過され、ただサラサラとまばゆい微熱の中にあったのである…
風景の奥行きは無辺のひろがりであり、果てのない、まばゆさの透過であり、虹の空間‐次元の透徹がいっさいとして、いき渡っていたのである…
そのまばゆさは、宇宙の芯、遥かな存在の芯から来ると同時に、非時空的なまぢかさをもって、今ここに顕れ、透過していた…
そして、光は、非時空の無限のひろがりであり、宇宙の厚みを透けるように射しぬき、圧倒的な充溢=臨在で、今ここを超過しているのであった…
………………………………………
………………………………
見えるもの、感じるものすべてに「まばゆさ」の透過=超過がある…
その奥に、「まばゆさ」の空間=遍在がひろがっている。
(一粒の砂にも…)
物質や見かけに制限されないまばゆさの溢出=膨満…
すべての風景の細部から、白い光のような放射‐空間が毛羽立つよう溢れている…
まばゆく変成した世界が、そこにはあったのである。
真の無限は、有限に限定されることなく、有限さを属性のひとつとするといわれるように、目の前の有限な事物たちは、無限の光に透過され、無限なものの一部として、その表現(表れ)として、内包されたまばゆい超過として、そこにあったのである。
無限の光のまばゆい構成物として、そこにあったのである。
すべての風景が過度に彩り鮮やかであり、チリチリとまぶしい燐光に溢れていた。
無限なものの微光が、そこに燃えていたのである。
物たちは、内側からの、芯からの光明に透かされているようである。
そして、見えるものたちは、かろうじての形であり、薄い見せかけであり、中身の「本体」は超過する無限のまばゆさ、非時空のひろがりであり、光明をはらみつつ飽和する、影像のように感じられたのである。
そして、それは自分の肉体においても同様であった…
肉体は光に透過され、透かされ、光の構成物のように透明になっていたのである…
そして、触れる物たちは皆、摩擦を持たない粒子を表面に持つかのようになめらかであり、スルスルと精妙微細なもの、硬質で謎めいたものに感じられたのである…
影像としての世界… 顚倒した世界…
眼の前に、さまざまな物たちを見る。
確かにそれらはそこに在る。しかし、個々の物の区別や輪郭、構造や仕組みは、顕れている世界の表面的な虚構でしかなく、深層の実体ではなく、何らかの約束、契約上の設定(役柄)のように感じられたのである。
物たちのほんとうの実体‐素顔は、サラサラとした微粒子のまばゆい流動‐放射の層であり、見える景色は、まぶしい陽光に内から射しぬかれた表層、剥片として顕れているにすぎないと感じられたのである。
すべての物たちは、かりそめの役として、名をもつ固形物を演じているようで、その本性においては、微細な光をはらみつつ溢れ出ている、霊妙微細なものたちなのであった。
眼の前のいっさいに、背後で溢れる光の次元があり、膨満する光の内圧があり、表皮の剥けかかった物(果実)たちの輝き、表面のなめらかな沸騰があり、その鏡像の仮面劇、風景として、自分も宇宙もあったのである…
………………………………………
……………………………
…………………
マザー・セレナが五十年間もの間毎日瞑想していた礼拝堂に坐っていた私は、彼女が癒しために名前を読んでいるのを聞いているうちに、自分が意識の中を上のほうに昇っていることに徐々に気づき始めた。上昇しながらも、マザー・セレナが世界の安寧と平和のために祈りを捧げているのが依然として聞こえ、ニューヨーク市の北部ウェストサイドのトラックの音にさえ微かに気づいたままでいた。この霊的な上昇は、エレベーターのイメージに生きいきと移り替わっていた。エレベーターは、様々な階――探査するために私が停まることもできたであろう、天界域――を通過していったが、その終着地を垣間見ることへの切望が、私をこの幻視的エレベーターへ留まらせた。とうとうエレベーターは最上階に到着し、ドアが開き、私は金色の光の界域に足を踏み入れた。私の身体はこの光と同じ色および性質になっていた。私は浮かんではいなかったが、私のいつもの身体と同じように反応する、この金色の身体に充分に気づいていた。また、自分が何かの表面を歩いていることにも気づいていた。私は直観的に、これが最上部ではないということ、まだ究極的な眺めではないということを感知した。上に向かって円を描きながら強烈な金色の中に消えて行く階段があるのに気づいて、私は昇り始め、そして上昇するにつれて光がますます濃くなっていくことを実感した。通常の表面を歩いているという私の気づきは消え始めた。私の身体は光と溶け合い始め、すぐに身体はなくなり金色の強烈さだけがあった。私は依然として、意識の個別的な中心としての自分自身に気づいていたが、今やさらに昇っていくといういかなる感覚もなかった。なぜなら、身体的な隠喩が不適切になったからである。(中略)
それに続く動きは薄膜の浸透に似ており、なんのあても努力もなしに自発的に起こった。なんの意外感もなしに薄膜の反対側に出ていた。すべてが澄み渡っていた。〈存在〉の重い金色の濃密さは、まるで夏の湿気からいきなり秋の清澄さへと移ったかのように失せ、消散していた。(中略)この明るさはあまりに全面的だったので、「私」の余地はまったくなかった。けれども、特定の「私」が不在にもかかわらず、気づきが充分にそこにあった。この強烈な、圧倒的な存在あるいは明るさは、実体ではなく、単に気づきの清澄さだった。
レックス・ヒクソン『カミング・ホーム』(コスモス・ライブラリー)高瀬千図監訳 ※太字強調引用者
『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』 第三部 変性意識状態の諸相
「第二章 呼吸法を使った変性意識状態」より
……………………………
………………………
…………………
いつものように、
音楽に気を紛らわし、
過換気呼吸に、
集中していく…
過換気自体は、
不快なだけ、
苦しいだけ、
といってもいい…
探索するよう、
手さぐりするよう、
感覚と手がかりを求め…
呼吸を続けていく…
…………
………………
熱気が高まってきて…
顔や皮膚に、
ちりちりと、
蟻が這うよう、
痒さが走る…
茫漠とした不安に、
さきの見えない、
不快感が、
つのっていく…
呼吸に集中し…
気づきを凝らし…
内側から、
深層のプロセスが、
生起して来るのを、
見つめている…
光の斑点が、
眼の裏に、
交錯し、
輪舞する…
どのくらい、
経ったのか…
汗ばむ熱気の中、
苦しさは薄まり…
痺れとともに、
遠いところから、
満ちて来る、
生理の、
深いざわめきに、
気づく…
呼吸を続け、
その波を、
増幅し、
持続させることに、
集中する…
いつものよう、
手足のさきが、
痺れはじめ…
熱気の中、
斑らに現れる、
奇妙な汗ばみ…
冷たさの感覚…
とりとめのない、
記憶や映像が、
夢の破片ように、
去来する…
どこへ向かっているのか、
予想もつかない…
しかし、
何かが、
満ちて来る気配…
内側の遥かな底に、
荒れ騒ぐよう、
何かが高まり、
生起する感覚…
呼吸を続け…
意識が、
途切れがちになる…
呼吸を保ち…
意識をただし…
気づきを凝らし…
………………………
………………
…………
どのくらい、
時間が経ったのか…
明滅する意識の向こうに、
ふと気づくと、
そこに、
「胎児である自分」
がいたのである…
それは、
記憶の想起ではなく、
今現在、
今ここで、
「胎児である自分」
なのであった…
感じとられる、
肉体の形姿が、
からだの輪郭が、
いつもの自分とは、
完全に違っている…
巨大な頭部に、
石化したよう、
屈曲した姿勢…
激しく硬直する、
腕や指たち…
手足のさきが、
堅く曲がり、
樹木のよう、
奇妙な形に、
ねじくれている…
からだ全体が、
胎児の形姿、
姿勢である…
そして、
気づくのは、
今ここに、
自分と重なって、
「その存在がいる」
という、
圧倒的な、
臨在の感覚である…
その存在の、
息吹である…
それは、
自分自身である、
と同時に、
かつて、
そうあったであろう、
「胎児である自分」
との二重感覚、
だったのである…
「いつもの自分」
の意識と、
「胎児である自分」
の感覚(意識)とが、
二重化され、
同時に、
今ここに、
在ったのである…
分身のよう、
多重化された、
肉体の、
感覚の、
意識の、
圧倒的に、
奇妙な現前が、
在ったのである…
そして、
ふと気づくと、
手足は、
異様なまでの、
硬直の激しさである…
その筋肉の凝縮は、
普段の人生の中では、
決して経験しない類いの、
岩のような硬直と、
巨大な圧力である…
自分の内部から、
このように、
途方もないエネルギーが、
発現している事態に、
驚いたのである…
肉体の深い層から、
生物学的で、
火山的なエネルギーが、
顕れていたのである…
………………
…………
何の感覚か…
まとわり、
ぬめるよう密閉感…
粘膜のよう、
煩わしい、
冷たい汗ばみ…
奇妙な匂い…
内奥に、
深く凝集し、
細胞的に遅延する、
時間の感覚…
生理的な、
生物的な、
渇き…
胚のよう、
種子のよう、
濃密に凝縮する、
発熱の、
震え…
暗闇に、
ぼうと浮かぶ、
輝くような、
始源の感覚…
未明の、
宇宙的な、
けはい…
肉と骨の奥処に、
岩のよう、
苛烈な硬直の、
軋み…
烈火のよう、
力のエネルギーが、
尽きることない、
火力が、
終わることなく、
滾々と、
放出されていたのである…
………………………………
………………………
※サイケデリック(5-MeO-DMT)体験の事例です。
「さまざまなメディスン―マジック・マッシュルーム、ブフォ・アルヴァリウス」より
……………………………………………………
急速に成分が血中で膨張していくのがわかる。
押し流すような眩暈とともに、氾濫するものが身体中にひろがり、
急速に知覚と身体が溶解していく…
急激に高まった海水が防波堤を越えるように、防波堤を決壊させるように、過剰なエネルギーの流れが超過してくると、
すべての知覚は溶け去り、
意識はへりをなくし、
意識は「一気に宇宙大に拡大」していく…
時空を突き破っていくような、
凄まじい爆発的な拡張感…
轟音のように膨張するエネルギーが一気に突き抜け、
人間の存在はかき消され、
消滅し、
意識はへりを喪ってしまう…
そして、
瞬時にして「宇宙そのもの」になっている。
「広大な宇宙そのもの」。
非時空の巨大なエネルギーとへりのない意識。
「宇宙そのもの」。
そして、
「神」になっている。
主語はない、宇宙そのものである神。
「完全である」という以外に言葉がない。
宇宙自体であり、
すべてが完全であるという至福。
踊るシヴァ神のようである。
人間が決して想像することのできない「完全さ」であり、
「完璧さ」である。
至福の上の至福の上の至福。
至上の瞑想の至福。
最上級の頂点の向こうにある至福。
(存在意識至福/サッチダーナンダ)
神であることの完全な至福。
「完全」であり、
自分のよろこばしい意志で、
すべての時空が踊るよう、
遊ぶよう創造された。
この宇宙のすべてを創った(神である)自分がわかる。
生も死もない。
この完璧な完全さの中では、
創造も破壊も等しくある「完全さ」だ。
自分の意志で、
この宇宙は創られた。
笑いと歓び、澄んだ意識と、
極相にひろがる舞踏。
何も「他」というものがない完璧な「完全さ」。
つまりは、
もともと、自分は「この神であったこと」を思い出している。
はじめは、「神であった」のだ。
生も死もない。
宇宙を創っている自分がわかる。
そして、まわりの皆(○○ちゃんも○○)も、宇宙そのものであり、神である。
すべてが、神である。
すべては、本源の、他のない神である。
やがて、だんだんと形象が戻ってくる。
舞踏のように、極相から極相へとめぐるもの。
そして、「人間」「この私」であることもまた善い。
「この私」「人間」であることと、「神」であることに矛盾はない。
イエス・キリストの意味合いがわかる。
私たちは、皆、イエス・キリストだ。
地球を遥か下方に見るようだ。
「第三章 人生回顧体験」より
◆人生回顧体験
民間伝承などではよく、人は死ぬ直前に、「自分の全人生を、走馬燈のように回顧する」といわれる。人生回顧(ライフ・レビュー)体験とは、そのような体験のことである。この現象は、臨死体験者の事例報告が収集されるようになってから、そのような現象が、比較的高い頻度で起こっていることが、確認されるようになったことでもある。臨死体験研究のケネス・リング博士によって作られた測定指標の中でも、臨死体験を構成する特徴的な要素として、一項目が採られているものである。
さて、過去に見られたさまざまな事例からすると、この体験は、突発的な事故などの、何かしらの生命危機に際して、遭遇しがちな体験となっているものである。しかし、実際に瀕死状態にならずとも、その危機を判断することの中でも起こるようなので、緊急時における、何らかのリミッター解除が原因となっているのかもしれないのである。筆者の場合は、特に急な事故でもなく、普段の生活の中で、この変性意識状態に入っていったのである。しかし、多くの事例を仔細に見ると、危機的状況による過度な内的圧力(ストレス)が、そのきっかけになることが考えられたので、筆者にあっても、何らかの過度な圧力が、その原因になったと類推されたのである。
◆体験内容
さて、その体験は、普通に街を歩く中で、突然、訪れたものであった。当然そのような出来事が、自分の身に起こることなど予期していなかったのである。そして、起こった後も、それをどうとらえてよいのか、苦慮したのである。その体験が起きた時は、気分の悪さを抱えながらも、普段どおりに市街を歩いていただけであった。
…………………………………
…………………………………………
重苦しい気分で通りを歩いている。
暗い感情が波のように、心身の内を行き来するのがわかる。
煮つまるような息苦しさ。
あてどない、先の見えない苦痛に想いをめぐらせていたとある瞬間、
ある絶望感がひときわ大きく、
塊のようにこみ上げて来たのである。
内部で苦痛が昂まり、過度に凝集し、限界に迫るかのようである。
自分の内側で何かが完全にいき詰まり、
行き場を失うのを感じたのである。
その時、
固形のような感情の塊が、
たどり着いた、後頭部の底で、
「砕け散るのを」
感じたのである。
物体で打たれたような衝撃を感じ、
視像の中を、
透明なベールが左右に開いていく姿を、
知覚したのである。
内的な視覚の層が、
ひらいていく姿だったのかもしれない。
奇妙な知覚状態に、
入っていったのである…
見ると、
随分と下方に、
遠くに(数十メートル先に)、
「何か」があるのが見えたのである。
何かクシャッと、
縮れたもののようである。
よく見てみると、
そこにあったのは、
(いたのは)
数日前の「私」であった。
正確にいうと、
「私」という、
その瞬間の自意識の塊、
その風景とともに、
その瞬間の人生を、
「生きている私」
がいたのである。
たとえば、
今、私たちは、
この瞬間に、
この人生を生きている。
この瞬間に見える風景。
この瞬間に近くにいる人々。
この瞬間に聞こえる音たち。
この瞬間に嗅ぐ匂い。
この瞬間に感じている肉体の感覚。
この瞬間の気分。
この瞬間の心配や希望や思惑。
この瞬間の「私」という自意識。
これらすべての出来事が融け合って、
固有のゲシュタルトとして、
この瞬間の「私」という経験となっている。
さて、その時、
そこに見たものは、
それまでの過去の人生、
過去の出来事とともにある、
そのような、
瞬間の「私」の、
つらなりであった
各瞬間の、
無数の「私」たちの、
膨大なつらなりである。
それらが時系列にそって、
そこに存在していたのである。
瞬間とは、
微分的な区分によって、
無限に存在しうるものである。
そのため、そこにあったのも、
瞬間瞬間の膨大な「私」たちが、
紐のように、
無数につらなっている姿であった。
それは、
遠くから見ると、
出来事の瞬間ごとのフィルム、
もしくはファイルが、
時系列にそって、
映画のシーンように、
沢山並んでいる光景であった。
そして、
そのフィルムの中に入っていくと、
映画の場面の中に入り込むように、
その時の「私」そのものに、
なってしまうのであった。
その時の「現在」、
その瞬間を生きている「私」自身に、
戻ってしまうのであった。
その瞬間の「私」を、
ふたたび体験できるのである。
主観として得られた、
過去の「私」の情報のすべてが、
そこにあったのである。
………………………
そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない、無数の洞察を、閃光のように得ていたのであった。そして、この時即座に言語化されて、理解されたわけではなかったが、この風景の姿から、直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのであった。
その内容を論点によって切り分けると、おおよそ以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で、言語化され、整理された要素である。
1.箱庭的な自意識
まず、この体験の光景で、真っ先に直面させられたのが、自分の「小さな自意識」であった。これは自分の自意識の中身を、外側から視ることによって、赤裸々に示されたことである。瞬間瞬間に、自分がどんなに些細なことに囚われ、こだわって生きているかを、突きつけられた感じであった。通常、私たちは、雑念が高速で去来する、意識の流れなどには、無自覚である。しかし、この光景の中では、それらのプロセスが、静止画のように、そこにあったのである。箱庭のような自意識の無明性である。そして、瞬間瞬間の「私」とは、その場その場の置かれた状況によって、かなり自動反応している機械仕掛けのような存在なのであった。そのことを、自分の自意識を外から視るという、いささか気乗りのしない映像により、見せつけられたのであった。
2.自意識の非連続性
通常、私たちは自分の自意識、「私」というものを、主観的には、時間を超えて連続している、単一の存在だと感じている。しかし、この体験で見た風景の中では、「私」というものは、瞬間瞬間に、その場の出来事として生起しており、連続している単一の存在(主体、実体)などでは全然なかったのである。その時その時の、思念や情動の偶然的な結びつきによって、編まれている情報の塊であった。「私」という連続性や単一性は、実体ではなく、むしろ表象機能のひとつとして、仮象として、分泌されているようであった。そして、「私」というものは、自分自身に対して、統御することも、気づくこともできていない存在であり、自己の「主体」などでは全然なかったのである。
3.全開された生の姿
その一方で、この小さな箱庭的な自意識の、反対の極として暗示され、示唆されていたのは〈ありうべき生の姿〉であった。
瞬間瞬間の生を、自意識のゲームではなく、自己のまったき解放として、極限までの自由として、「行動をもって、果てまで生き抜け」と、この光景は告げているようなのであった。
その自由を生きることこそが、この生の成就、この生を生きる意味、この生を〈真の実在〉たらしめる成就であると言うかのようにである。あれこれ顧慮することに価値はない。物理的な行動をもって、解放を実現すること、自由を実在させること、そのことこそが重要であると告げているようであった。
「自分自身であること」を極限まで、可能なかぎり生き抜くこと。果てまで生ききること。
それこそが、生の成就であり、人生の唯一の肝要事であると、告げているようであった。
また、この風景の中では、世俗的、人間的な価値観は、完全に無化されてもいた。
この世間で、何かを成し遂げるとか、成功するとか、さらには生活で喰っていくとか、そんな人間的なゲームは、この人生の成就(実在化)となんの関係もない。それは副次的なこと、ついでのことに過ぎないと。むしろ、世間的には、没落することの方が、はるかに実在に触れられる可能性さえあるのだと。いずれにせよ、肝心なのは、極限までの自由を、彼方まで非妥協的に生き抜けるか否かである。そのような容赦ないメッセージが、そこには含まれているようであった。
そこには、「することDoing」に対する「在ることBeing」の絶対的な優位が、示されていたのであった。
4.人生という通り道
さて、そこには、目の前に、全「人生」が横たわっていたわけであったが、その光景はまた、「この人生」という道を通らずには、それを避けては「先に進めない」ことも告げているようであった。逃げることや途中下車などはできない。自殺などして、逃げ出そうとしても無駄であると。人生を逃げ出すことなどできないのである。
もし、この先に、別のところに行きたいのなら、
むしろ、
「この道(人生)を通っていけ」
「この道(人生)を向こう側へ突っきれ」
「この人生を生ききれ」
それしか道はない、それこそ最良の道なのだと、この光景は告げているようであった。
5.「共有された人生」
通常、私たちは、自分の中の想念や思念というものを、「私」という独自の感覚を、自分だけの、孤独な、究極の秘密であり、その内実を、決して他人に知られることはないものだと思っている。「私の内界は、私だけのものである」と自明に思っている。
しかし、この体験の風景においては、この筆者の全人生の「私」がそこにあった。すべての「私」がそこにあったのである。
すると、奇妙な閃きを得たのである。
この人生は、「自分だけのものではない」という感覚である。
もし誰かが、この「すべての私」の情報(フィルム)にアクセスすれば、「私」の情報(フィルム)に入っていけば、誰もが、筆者の人生そのものを主観的に体験できるのである。いや、筆者そのものになれるのである。筆者そのものになってしまうのである。
私たちの「人生経験」とは、宇宙の共有財産なのかもしれない。
そのような奇妙な直観を持ったのである。
………………………………………………
さて、じきにこの変性意識的な視像は終わり、普通の街なかを歩いている、普段の自分に戻ったのである。
この体験自体は、物理的な時間にすれば、おそらく数秒間の出来事ではないかと思われた。
しかし、意識の底における時間の経過は、それよりもずっと長く感じられていたのであった。襞をなす映像を分け入る中での、時間の緩やかな遅延と延長があったのである。
記憶がほどける中で、川底を透視するかのような、多層的な時間風景があったのである。
(つづく)
「第四章 蛇の火について」より
……………………………………
◆白光
「…」
「……」
「…………」
「やって来る」
「やって来る」
「やって来る」
「噴出の」
「来襲の」
「白色の」
「閃光」
「ロケット噴射のよう」
「凄まじい速度で」
「白熱し」
「貫き」
「横ぎる」
「未知の」
「まばゆさ」
…………………………………………
……………………………
………………………
「凄まじい閃光が」
「一瞬に」
「走破する」
「宇宙的な」
「超自然の」
「火柱のよう」
「巨大な」
「白の」
「延焼」
……………………………
………………………
………………
「霊肉を」
「物心を」
「昼夜を」
「透過し」
「貫き」
「蹂躙する」
「急襲する」
「謎の」
「まぶしい」
「獰猛」
「存在の」
「芯を」
「焼きはらい」
「彗星のよう」
「彼方へ」
「拉し去る」
「まばゆさの」
「弾道」
「けばだつよう」
「遥かに」
「恍惚する」
「白の」
「君臨」
………………
……………
…………
………
「熱エネルギーの」
「光輝のよう」
「暑い」
「残照」
「火の」
「余燼」
「物質の芯を」
「熔かすよう」
「膨満する」
「核の」
「まぶしさ」
「放射能の」
「ちりちりと」
「熱い」
「臨在」
「白痴のよう」
「飽和し」
「実在の向こうに」
「熔けるよう」
「惚けていく」
……………………………
………………………
………………
…………
◆未知のエネルギー
それは、一種のエネルギー的体験であり、俗にヨーガでいう、クンダリニー体験と呼ばれるものに分類されるであろう出来事であった。尾骶骨あたりにつながるどこかの亜空間からか、物質と精神を透過する、凄まじくまばゆいエネルギーが噴出して来たのである。謎めいた、稲妻のような白色のエネルギーである。それが肉体と意識を透きとおし、未知の宇宙的状態をもたらす、ある種の極限意識的・変性意識的な様相を呈したのである。
後になって思い返してみると、たしかに予兆となる現象はいくつかあったのである。しかし、当然ながら、このような事態につながるとは、予期していなかったのである。そして、体験直後のしばらくは、あたかも放射能に焼かれたかのように、奇妙な熱感が、心身にこびりつき、とれない状態であった。そこには何かしら、物質と意識の両域をひとつにしたような、変性意識的で、微細なエネルギーの余燼があったのである。
しかし、実際のところ、この体験がより怖ろしい影響を持ちだすのは、この体験より後の、長い歳月を通してであった。その影響とは、日々の生活の中で、間歇的に訪れてくる、奇妙なエネルギーの浸潤ともいうべき体験であった。ゴーピ・クリシュナの著作にあるような、苦痛きわまる、困難な体験だったのである。
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「どこからか」
「実在の向こう」
「彼方の亜空間」
「からか」
「やって来る」
「漆黒の」
「放射能のよう」
「冷たい」
「高熱」
「洩れ射す」
「影の」
「光子たち」
「骨に滲みこみ」
「割いてくる」
「胆汁のよう」
「にがい」
「荒廃」
「悪寒のよう」
「虚脱し」
「神経を」
「蝕み」
「焼いてくる」
「まばゆい」
「痛さ」
「神経の」
「銀箔を」
「喰いちぎり」
「熔かしてくる」
「白い」
「日蝕」
「痛苦の」
「痺れ」
「冥府の」
「漆黒の昏睡に」
「意識を」
「熔かすよう」
「虚空の」
「まぶしさ」
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「そこでは」
「眠りの」
「最奥でさえ」
「燦然とかがやく」
「蝕の太陽」
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「神経的な減耗に」
「筋無力的な陥落に」
「痛苦と陶然」
「骨と神経が」
「焦げつき」
「熔け落ちるよう」
「灰燼になる」
「恍惚と覚醒」
「天国と地獄が」
「ひとつである」
「冥府の」
「薄くらがり」
「遥か」
「底の方では」
「汀をなし」
「透過してくる」
「半睡の滴」
「銀紙の」
「破れた味に」
「漏れだすよう」
「真白い蝕の」
「裸の舌」
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その状態が訪れると、肉体の芯に力が入らなくなり、筋無力症的に脱力していくのであった。神経を焼かれるような痛さと、硬直的な痺れが現れ、主体的な意志の行使や、集中した行為が難しくなるのである。意欲そのものが萎え、減耗していくようであった。滲みて来るエネルギーによって、神経が、白銀的な苦痛に苛まれる中、(脳は光量に麻痺し)時をやり過ごすしかなくなるのである。意識の背後が、あたかも口を開けたかのように空間を開き、光が照射され、とらえがたい極微な情報が行き来するのであった。そして、苦痛でまばゆいエネルギーに透過される中、それらの謎を凝視しつつも、地衣類のように、その宇宙的発熱に耐えるしかなかったのである。いくらかでも、状態を統御する手がかりを得ようと奮闘するも、徒労を繰り返すばかりであった。浸潤する苦いエクスタシィに抗しつつ、注視を凝らすしか、すべがなかったのである。
そして、これらの格闘に、長い歳月を費やしたのであった。喩えると、火に焼かれるような体験であり、そのプロセスは、一種の地獄降り、黄泉の国の彷徨の様相を呈したのである。
(つづく)
第三部 第五章 大地の共振
古来より聖地と呼ばれる場所があり、人々の生活になんらかの意味を持っていたことは、歴史的な遺跡や文献などからも、うかがい知れるところである。近年でも、俗にパワースポットなどと呼ばれる場所があり、かつての聖地の通俗版として機能していることがうかがえるのである。これらの事柄から考えると、場所や土地に関連づいた、何らかの効能が、昔から存在していたことが類推されるのである。
その原理は、よくわからないが、仮に推論すると、ひとつには、催眠的な効果などがある。たとえば、その場所が、伝承や信仰などと関連した象徴(トリガー)となっており、人がその場所を訪れると、一種の催眠的効果が惹き起こされる可能性などである。身体に聖痕が顕れる信徒などがいるが、そのような原理に基づいた、変性意識状態である。ただ、その場合は、その場所にまつわる何らかの信念に、当人が影響を受けていたり、惹起される効能(体験)に関する情報が、事前に当人にプログラムされていることが必要である。
また、別の可能性としては、純粋に物理的なエネルギー作用である。何らかの磁気的・エネルギー的作用が、そこに存在しているのである。現代の科学では、まだ検出されていないが、未知の成分が存在しており、それらが作用しているというわけである。気功の思想領域などで想定されている内容であり、将来的には、何かの検知が得られる可能性もあるのである。
さて、筆者は、ある見知らぬはじめての土地で、まったく予備知識もなかったにも かかわらず、ある種の変性意識状態、エネルギー的な体験を持つことになったのである。ここでは、その事例について見ていきたい。
ちなみに何らかの事前的なプログラムの有無についていえば、その土地は、情報もなく、突然行くことになった土地であった。かつ、その特定の場所についていえば、旅の途中で偶然知り、行き当たった場所であった。つまり、事前の情報は、皆無だったのである。さて、その時は、ほとんど観光として、そのあたりの土地土地をめぐっていたのであるが、ある場所を訪れた帰り道に、とある古い史跡のことを耳にしたのである。その周辺に来て、そのような場所があることを、偶然知ったのであった。
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その場所は、予想に反して、小さな山であり、樹林も少しある静かな所であった。
古く長い石段を登り、小高い史跡のあたり一帯を、散策してみることにしたのである。
とある高台のような場所にたどり着いた時、普段はそんなことをしないのだが、何気なく手をかざして、その場を肉体的に感じてみようとしたのである。するとその時、かすかにチクリと、何かの感覚が一瞬よぎったのである。
普段そのようなことはしないので、気のせいだと思い、あまり気にもとめずに、散策をそのままつづけたのであった。ひと通り、あたりも見終わり、帰り際にすることもなくなったのであるが、その時、ふとさっきの感覚が何であったのかが気になったのである。そのため、さきほどの場所に戻り、その感覚をたしかめることにしたのである。最初の場所に行き、そのあたりの方向に、(目立たぬよう)掌を向けてみたのである。その正確な方向と位置をさぐってみたのである。
すると、
見知らぬ若い女性に、声をかけられたのである。
向こうの方に、旧来の祠があるのだという。
いまの祠は、後の時代につくられたものだという。
こちらだと、その女性が早足に行ってしまった方向に、慌ててついていくと、
案内してくれた、その樹々の葉繁みの向こうに、
たしかに、古い巨石群(磐座)があったのである。
(後で調べると、弥生時代からの古い出土品も確認されている遺跡らしかった)
その人が、お祈りをしたあとに、
何気なく、その磐座に手をひろげると、
ブーンと、うなりをあげるように、
不思議な、波動のような、強い未知のエネルギーがやって来たのである。
エネルギーが、流れ込んで来たのである。
痺れるように、身体に浸透してきたのである。
さきに遠くで感じた熱感はこれだったのである。
共振する感じというべきだろうか。
磁気的な浸透というべきだろうか。
存在を透過するように、
心地よい、深く痺れるような、強烈な振動性のエネルギーに、
身体が浸されたのである。
包まれたのである。
それは、今まで経験したこともなければ、想像することもできないような、微細で、強烈な、浸透性ある振動エネルギーであった。また、それは、どこか奥行きや、巨大な力強さを感じさせるものでもあった。その力は、どこから来ていたのだろうか。磐座自体から来るというよりも、その磐座の下の大地そのものから、帯電した力として現れてきているように感じられた。
磁石のN極とN極を近づけると、反発する見えない力の存在をはっきり感じ取れるものである。そのエネルギーの力もまた、同じようにはっきりと感じとれるものであった。また、その力は、心地よい透過をもたらすものであると同時に、どこか神秘と畏怖の念を惹き起こすものでもあった。
しかし、一番手前にあった感覚は、透過してくるエネルギーの恍惚的な触感であった。また、謎と驚きの感覚であった。不思議な力の質性に加えて、このような奇妙な出来事が、実際に起こっていること自体にも驚いていたのである。そして、ただ、茫然として、その力を感じとり、その質性の謎をより知ろう、感じ尽くそうという気持ち以外に、あまり意図が働かなかったのである。
(つづく)
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(※引用者注 薬物(LSD)を使った人のサイケデリック体験談です)
「次の例は、琥珀、水晶、ダイヤモンドと次々に同一化した人物の報告だが、無機的な世界を巻きこむ体験の性質と複雑さをよく示している。(中略)
それから体験は変化しはじめ、私の視覚環境がどんどん透明になっていった。自分自身を琥珀として体験するかわりに、水晶に関連した意識状態につながっているという感じがした。それは大変力強い状態で、なぜか自然のいくつかの根源的な力を凝縮したような状態に思われた。一瞬にして私は、水晶がなぜシャーマニズムのパワー・オブジェクトとして土着的な文化で重要な役割を果たすのか、そしてシャーマンがなぜ水晶を凝固した光と考えるのか、理解した。(中略)
私の意識状態は別の浄化のプロセスを経、完全に汚れのない光輝となった。それがダイヤモンドの意識であることを私は認識した。ダイヤモンドは化学的に純粋な炭素であり、われわれが知るすべての生命がそれに基づいている元素であることに気づいた。ダイヤモンドがものすごい高温、高圧で作られることは、意味深長で注目に値することだと思われた。ダイヤモンドがどういうわけか最高の宇宙コンピュータのように、完全に純粋で、凝縮された、抽象的な形で、自然と生命に関する全情報を含み込んでいるという非常に抗しがたい感覚を覚えた。
ダイヤモンドの他のすべての物質的特性、たとえば、美しさ、透明性、光沢、永遠性、不変性、白光を驚くべき色彩のスペクトルに変える力などは、その形而上的な意味を指示しているように思われた。チベット仏教がヴァジュラヤーナ(金剛乗)と呼ばれる理由が分かったような気がした(ヴァジュラは「金剛」ないし「雷光」を意味し、ヤーナは「乗物」を意味する)。この究極的な宇宙的エクスタシーの状態は、「金剛の意識」としか表現しようがなかった。時間と空間を超越した純粋意識としての宇宙の創造的な知性とエネルギーのすべてがここに存在しているように思われた。それは完全に抽象的であったが、あらゆる創造の形態を包含していた」 ※太字強調引用者
スタニスラフ・グロフ『深層からの回帰』菅靖彦他訳(青土社)
(※引用者注 次の体験談は、登山中に滑落して、斜面を落下していく中で、自然発生的に体験された「フロー体験」の事例です)
その下降中に“何か”が起こったのだ。それからずっと、そう、今日に至るまで、そのとき一体何が起きたのか、僕は考え続けている。しかし、これほど不可解で強力なインパクトはそれまでになかったものだった。
気がつくと僕は普通では到底不可能なことを、いとも簡単にやりのけていた。ネバの絶望的に垂直な壁を降りながら、いくつもの、いや何十もの不可能事をやってのけていたのである。それもひどい怪我と、ショック状態の中での話だ。僕は恰もヒョウやヤギのように、非のうちどころない、しっかりとした足どりで下降(クライム・ダウン)していた。崩れかかった岩の急斜面に手足をかけると、その都度、岩が崩れ落ちるほどの場所だ。それはダンスだった。ワン・テンポ遅れると命取りになるダンス……花崗岩についた薄氷に指をかけて体を支える。氷は音をたてて砕けるが、そのときにはもう、僕の体は先に進んでいる、という具合だった。(中略)
次は垂直に切り立った岩壁だ。手足の手がかり(スタンス)となるところはどこにもなかった。高度差は四~五メートル。僕はけし粒ほどの花崗岩にしがみついて――ありえないことのようだが、僕は本当にそうしたのだ――下降し、氷の消えた岩棚(レッジ)に立った。これは戸棚に入って、散弾銃の弾丸を避けるようなものだ。重力に抗い、アクロバチックな動作を繰り返しながら下降したのだった。
(中略)僕は自分の限界を知っていた。この下降は、僕の技量的限界を遥かに上まわっていたのだ。心のある部分は恐怖と疲労に震え、助けを求めて叫んでいた。この荒涼とした岩場から、どこでもいいから他所へ連れて行ってくれと叫んでいたのだ。だが別の部分は反対に、自信に溢れ、気狂いじみた喜びに充たされて、動物的な生存のためのダンスを大いに楽しんでいたのである。(中略)
そのときの僕なら三〇歩離れたところから、松の葉で蚊の目を射抜くことさえ絶対できたはずであると、今も確信している。
ロブ・シュルタイス『極限への旅』近藤純夫訳(日本教文社) ※太字強調引用者
→詳細紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』