
ゲシュタルト療法を続けていくと、私たちはどんなところにたどり着くのでしょうか?
どのような心理‐存在状態になるのでしょうか?
ここでは、ゲシュタルト療法が、私たちを導く「人格統合」の姿を見てみたいと思います。
ゲシュタルト療法では、「玉ねぎの皮むき」という言葉があります。
ゲシュタルト療法では、セッション中のあらゆる場面(局面)が、欲求(感情)の表現であり、気づきの対象となります。
そのため、それらに刻々に焦点化し、気づきを深めることで、心の部分的な解放や統合が起こってくるのです。
ひとつ小さな解放が得られると、次の心の新しい層が現れて来ます。
次はそこに焦点を当て、気づきと解放をさらに深めていきます。
玉ねぎの皮を剥くように、次々に、未完了の心理部分が解放され、統合されていくことになります。
ところで、私たちの中には、なんらかの形で、さまざまな「やり残した仕事」「未完了のゲシュタルト」が沢山あります。
そのため、ゲシュタルト療法では、ワーク(セッション)の中で、それらを次々ととりあげ、どんどん解放していくということになります。
つまり、人格の中に蓄積していた「未完了のゲシュタルトや未完了の体験」がどんどんなくなっていくというわけです。
表面の部分から、心理的な課題がどんどんなくなってていく形です。
それはあたかも「玉ねぎの皮」のように表面(課題)の皮を剥いて、芯に向かうイメージです。
「未完了のゲシュタルト/体験」で覆われた表面の皮を剥き、より中心にある、とらわれのない本来の自己(オーセンティック・セルフ)に近づいていくイメージです。
そして、実際のところ、ゲシュタルト療法のワーク(セッション)を長く続けていくと、未完了のゲシュタルトが次々と解放されていき、目立った「やり残した仕事」が無くなってしまう時期がやって来ます。
ゲシュタルト療法の方程式では、未完了の体験がなくなると、「未完の体験(ゲシュタルト)に妨げられることなく、今ここを充分に体験できるようになる」といいます。
つまり、過去にできた心理的な歪み(プログラム)に曇らされることなく、目の前の物事を「直接にありのままに、全体的に」体験できるようになるというわけです。
また、欲求(感情)についても、囚われの無く自由で速やかな行動や表現ができるようになります。
私たちは、しなやかな流れるエネルギーに満ちた「自分自身」を体験できるようになるのです。
ここが、ひとまず目指すゴールといえます。
ところで、未完了のゲシュタルトについていうなら、何かのゲシュタルト自体が完全になくなるということもないのです。
なぜなら、「無意識」の中には、ユングが言うような創造的な作用があり、生きている限り、それらは湧き出してくるからです。
また、変化する環境との格闘の中で、ゲシュタルトは生み出されてくるからです。
もちろん、それは病的な状態ではなく、自己の無尽蔵の創造過程の結果と見なせるものです。
ゲシュタルト療法では、「人格の統合」という言葉でそのゴールを指しますが、実は、「統合」の結果とは、多彩で創造的な形なのです。
「統合」とは単純に、単一の自我に回収されることではありません。
人格的統合の姿とは、私たちの内部ある多様な自我の個性が、互いに競合することなく、生き生きと協働的・創造的に働いている姿です。
異質で個性的なさまざまな自我状態が相互に活き、響きあっているような多彩で創造的な姿です。
当然そこには、全体として統合された心身の統一性があります。
統一された力の感覚があります。
しかし、複数の自我状態について解説しましたが、そのような原理(両極性)が阻害的ではなく、創造的に働いている姿が、統合の姿なのです。
創造的なチーム(グループ)として活動しているような姿です。
そして、さらには、そのような人格的統合は、個人として自己完結してしまうものでもありません。
個人の内部で、多様な自我状態の個性が響きあうように、他者や環境との関係性においても、多様な個性的他者と響き合うことができるようになるのです。
そもそも、自己の中の異質な個性を許容できない人間は、異質な他者や環境を受け入れることはできません。
そのため、自己の異質な個性を統合していくと、異質な他者も受け入れられるようになるのです。
異質な他者に対しても、その個性を活かすように、響きあう存在として「ともに在る」ことができるようになるのです。
他者や環境との関係性においても、統合過程(創造的調整)は進んでいくのです。
そのように豊かで創造的な関係性や社会性が、ゲシュタルト療法の心理的統合の先にはあるのです。
さて、上記に、真面目なかたちで、「統合」状態について解説を試みましたが、実は、こういう真面目な書き方自体が、少し堅苦しくて、ゲシュタルト療法的ではないという側面もあります。
というのも、日本では、ゲシュタルト療法が、カウンセリングの亜流としてひろまったせいもあり、見えにくくなっていますが、本来のゲシュタルト療法とは、もっと自由な遊び心と創造性、少しふざけた感覚(トリックスター性/飛躍性)を持っているものであるからです。
そこに、美質(可能性)があったりするからです。
それは、パールズの晩年の風貌を見てもわかると思います。
(なので、あなたの知っているゲシュタルト療法家が、もし、堅苦しかったり、杓子定規だったり、過度に糞真面目だったりしたなら、その人のゲシュタルト療法的な統合・達成具合を疑ってかかってもいいでしょう)
実際のところ、「統合」が深まって、諸々の拘束が「抜けてくる」と、主観的な気分としては、もっとくだけた感じ、いい意味で(一周まわった)「どうでもいい」という感じが生れてくるのです。
これは決して、虚無的になるわけでも、ネガティブになるわけでもありません。
アレコレつまらない「こだわり」というものが無くなっていくからです。
もろもろの葛藤が「抜けてしまう(身心脱落)」からです。
ポジティブな意味で、色々な事柄が「どうでもいい」「どうあってもいい」「何であってもいい」と感じられるようになってくるのです。
つまり、「すべてが面白く、楽しく、素敵だ」と感じられるようになってくるのです。
たとえば、お酒を飲むと、どんな食べ物でも(多少苦手なものでも)美味しく感じられるように、すべての事柄が、(苦痛でさえ)楽しく感じられるようになるのです。
「快」のハードルが低くなるともいえます。
宇宙の万物の彩りが、まばゆく豊かになってくるのです。
パールズは、「人生はリーラ(戯れ/神々の舞)だ」と言いましたが、そのような軽妙な感じが現れてくるようになるのです。
「抜けている」感じ、地に足の着いた等身大の超越、風狂、流れるような心地よさと自由さが、現れるようになるのです。
そして、その状態になると、逆にまた、「本当にがんばる/ふんばる」ということもできるようになってくるのです。
「がんばらなくちゃ」と思っている間は、私たちは、本当にがんばることはできません。
「トップドッグ(ボス犬)」の声(がんばれ/しっかりやれ)に、尻を叩かれ、急かされ、妨害されている状態、葛藤分裂している状態(もう一方には「やりたくない」の声)だからです。
「どうでもいい」という状態に深く安堵し、肚落ちし、腰を据えることができると、逆に、純粋に「やりたい」「がんばりたい」「やる」と、根のパワーが猛然と湧き上がり、自己一致して、事を起こすことができるようになるのです。
本当に「しない not doing 」ことができてはじめて、本当に「する doing 」ことができるようになるのです。
「本当にがんばる」ことができるようになるのです。
そして、その時の「がんばる/やる」とは、まさにリーラ(戯れ/神々の舞)であり、決められたルールに従うような凡庸なものではなく、シヴァ神の宇宙的ダンス(リーラ)のように創造と破壊がひとつになった、自由で自発的な歓びの行為なのです。
なので、「どうでもいい」とは、とてもパワフルで、豊かな状態であるのです。
ゲシュタルト療法における統合や成熟とは、そのような領域に私たちを導くのです。

【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については、基礎から実践までをまとめた拙著↓
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧下さい。
普通のゲシュタルト療法を超えた、より高次のトランスパーソナル心理学的な人格統合、超越的全体性については、拙著をご覧ください。
→『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
→『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
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↓動画「ゲシュタルト療法と生きる力の増大」
↓ゲシュタルト療法については、拙著『ゲシュタルト療法ガイドブック:自由と創造のための変容技法』をご参照ください。
【参考】
【参考】いい意味で「どうでもいい/どうあってもいい/何であってもいい(これでいい)」
