心の葛藤(苦しみ)と超越的体験―どこからアプローチするか? いじめ社会と精神活性

 私たち人間の心には、とてつもない大きなポテンシャル(潜在能力)、可能性があります。
 それは、現代社会の標準的な考え方、メインストリームの考え方の中では、ほとんど理解されていない(考えつかないほどの)遠大なポテンシャル、超越的な能力、超自然的にも見える素晴らしい能力です。
 そのため、アヤワスカなどのサイケデリック体験などをすると、それらさまざまな不可思議で超越的な体験(能力の発現)が実際に起こってきたりするのです。
 そのような事柄の全体像については、拙著でも、詳しく書いていますので、ご覧いただければと思います。
「詳細解説『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』」

 さて、しかし、そのように現れてくる超越的なもの、一種超自然的ものとは、私たちがもともと持っている「潜在能力」でもあるのです。
 私たちの本性に、何か後から「付加されたもの」「付け加えられたもの」ではないのです。
 それらは、「もともと在った」ものなのです。
 そのため、古今東西、古来より、秘教的な教えの中では、「悟り(の状態)」とは、そもそもはじめからあるものだと説かれているのです。
 それは、「今もここにある」ものなのです。

 では、なぜ、いま、私たちが、普段、その素晴らしい状態にないのか、その状態から引き離されているのでしょうか?
 その原因の一つは、私たちが育ってくる過程で、物心がつく前から、さまざまな「余計なもの」が沢山、心と体の中に降り積もり、底に溜まり、その素晴らしい状態とコンタクト(接触)することができなくなってしまっているからです。
 心や体の中に「降り積もったもの」が、その素晴らしい状態と、普段の私たちの間の「障壁」となってしまっているからです。

 その「降り積もったもの」とは、多くの感情体験です。
 人生で我慢したこと、心の痛み、苦しさ、悲しみ、怒りなどの膨大な感情体験が、そこに溜まっているのです。
 というのも、私たち人間は、人生でそのような苦しい感情体験に出遭うと、それを受け止めたくないので、それを「無いもの」にして、フタをして、「抑え込もう」とするからです。「抑圧」するからです。
 しかし、抑圧された感情というものは、消えるわけではなく、潜在意識のなかにもぐり、生き続けます。
 そして、機会を見つけて、人生で、この感情(欲求)を充たそうとしているのです。
 リベンジ(復讐)しようとしているのです。
 だから、私たちは、いつも似たようなパターンで、心の苦しみを感じることになるのです。
 「また、いつものパターンだ」と苦しむわけです。
 ゲシュタルト療法では、それを「未完了の体験」と言います。
 私たちの中には、そのような膨大な感情が、心の底に溜まっているため、本来の心の輝きに、触れることができなくなってしまっているのです。 

 また、これらの感情は、ただ降り積もっただけでなく、私たちが、日々、自分で抑え込み、「踏み固めている」ものでもあるのです。
 子どもの頃から、育つ中で「踏み固め」、抑圧しつづけているのです。
 なぜなら、ほっとくと苦痛な感情が、溢れだしてしまうからです。
 やかんのフタを、蒸気が、噴き上げるようなものです。
 だから、私たちは、「心の中」を覗くのを、怖れているのです。
 何か怖いこと、痛みや苦しみに気づいてしまうのが、怖ろしいからです。

 また、一方で、瞑想などが、効果を出すのは、そのためです。
 ごまかすことなく、じっと、自分の心に向き合うことで、それらを解放するきっかけになるからです。
 このことについては、別の記事で少し書きました。
「瞑想」で一番大切なこと―心の基盤とその取り組み方 

 そして、普段、私たちは、自分を抑圧して、感情を閉じ込めているので、その素晴らしい状態に触れられないだけなのです。
 なぜなら、人間とは、苦痛に注意を引かれる生き物なので、まず優先事項として、「苦痛を抑圧すること」が最優先されてしまっているからです。
 リソースやエネルギーが、それらの防衛作業に割かれてしまうのです。

 そのため、そのような心理的な障壁(苦しみ)を次々になくしていき、抑圧がなくなっていくと、私たちは、膨大なエネルギーをみるみる取り戻しはじめることになるのです。
 そして、本来の素晴らしい状態を取り戻していくのです。
 私たちの心身は、こだわりを溶かし、流動化をはじめて、それら「超越的」なものも、現れやすくなってくるのです。
 ゲシュタルト療法などのセラピーでも、溜まっていた心の苦しみをきれいに取り去ると、トランスパーソナル(超越的)な体験が顕れてくるということなのです。
 トランスパーソナル心理学/インテグラル理論のケン・ウィルバーが、活動初期から、指摘していたような事柄です。

 ところで、普段の私たちは、自分で抑圧し、本来の可能性を抑え込んでいるという実感をあまり持っていません。
 人生の成長の中で、抑圧を繰り返す中で、抑圧自体を抑圧するという形(メタプログラム)で、幾重にも、抑圧の「地層」をつくって、踏み固めてしまったので、そのことさえも分からなくなってしまったのです。

 しかし、そのような、多重的で過度な抑圧が大きくなると、心の悩みや苦痛が大きくなり、心に不調が起こってくるということになるのです。
 これは、現代の日本社会では、ごく普通の風景です。
 私が、企業に勤務していた時代にも、同僚、後輩、上司と、何人もの社員が、メンタル的な失調で、休職していく姿を見ました。
 
 さて、しかし、実は、そのような「心の不調」は、別の面からいうと、「可能性の開花」や「潜在能力」であるということでもあるのです。
 決して悪いだけのものではないということです。
 今回の記事では、そのような事柄について、ご説明してみようと思います。

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 さて、企業の話が出たので、角度を変えて、今の日本の社会の中で、何が起こっているのかということを少し見てみたいと思います。

 経済指標として、諸外国と較べた場合の、日本人の「生産性の低さ」が指摘される昨今ですが、当然、技術的な問題など、複数の因子はあるのですが、日本の大きな企業で働いた経験のある人なら、もっと直截的に、その理由がわかるでしょう。
 端的に、「非生産的なこと」ばかりしているからです。

 そのようなことの事例として、作家の逢坂剛さん(元博報堂)は、会社員時代のことを振り返って、役員のための資料づくりの際、「各役員の好み」に合わせて、資料のホッチキス止めの角度をそれぞれ変えていたこと、それを重要なこととして真剣にやっていたことを回顧しています。
 一見、笑い話のようですが、ほんとうに、日本の会社や社会では、そのようなことが沢山あるわけです。
 そして、「ホッチキス止めの角度」が気にくわないと言って、文句を言ったり叱責する役員が、実際に、企業にはいたりするのです。
 日本社会では、そういうエライ人ほど、心理的に幼稚である場合が多いのですが、そのようなことが起こってしまうのです。
 そのため、「忖度 sontaku」が必要とされてしまうのです。
 「忖度 sontaku」を前提に、日本の会社/社会は、運用されているのです。

 そのため、会社の重要な決裁事項に関しても、「空気」を読み、戦略の合理性や経済合理性よりも、社内政治や根まわし、忖度やゴキゲンとりなどの幼稚な感情的調整が優先事項となり、社員が労するエネルギーの多くを占めているという状況にもなっているわけです。
 外のマーケットに向き合う仕事より、会社の「内向きの人間関係の仕事」の方が多くなってしまっているわけです。
 そんなところで、合理的に、生産性が高まる余地はないのです。
 ここでは、人間の非合理的で、感情的なやりとりが、労働の多くの部分を占めてしまっているのです。

 また、ある人が、「子どものいじめはなくならない。なぜなら、おとなの社会がいじめ社会だからだ」と喝破しましたが、心理学的には、まったくその通りなのです。
 子どもたちは皆、親の感情(欲求)を模倣することで、感情(欲求)を抑圧し、性格形成するからです。
 行動原理も同様です。
 親が、いくら表面で綺麗事を言っても、子どもは、潜在意識で、親の感情(欲求)/本音を「完コピ(完全コピー)」してしまうので、都合の悪い抑圧している事柄もみな、子どもの中に入ってしまうのです。
 むしろ、そういう抑圧している都合の悪い感情(欲求)こそ、子どもの中に入り込んでしまうのです。

「両親の存続。――両親の性格や意向の間にあった未解決の不協和音は、子どもの本質のなかで響きつづけて、彼の内面的な受難史を形成する」 ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』池尾健一訳(筑摩書房』

 というわけです。
 https://freegestalt.net/other/words/words2/#o
 その結果として、総いじめ社会が維持されることになるのです。

 しかし、これは、文化的な差異が多少あっても、大きく人類史的に見ても、大枠では、そのような「いじめ構造」になっているのです。
 さまざまな共同体で見られる「生贄(の山羊)」の構造について、哲学者のルネ・ジラールは、「満場一致で一人を殺す」と、その法則性を公式化しました。
 会社においては、どの職場でも、なんとなく「怒られ役」の人というのがいて、そういう人は、どの職場に移っても、「怒られ役」になってしまいがちです。
 そして、その人が退職すると、今度は、別の人が「怒られ役」にされてしまうというゲームが、繰り返されることになっているのです。
 組織内の人間関係の緊張(圧力)を、どこかでガス抜きしないと、組織内の緊張が高まりすぎてしまうからです。
 システム的に、そのようなホメオスタシス、生贄のシステムが働いているのです。
 そのため、緊張(圧力)の高い組織においては、攻撃対象(生贄)が、必要とされるわけです。
 かつて、山岳ベース・リンチ事件(あさま山荘事件)を起こした赤軍メンバーが、「誰かを攻撃の的にしないと、自分がやられていた」と、その極限的状況を回顧していましたが、そのような状況が、もっとソフトな日常においても、実は、起こっているということなのです。
 ネット炎上なども、テーマ云々というよりも、炎上そのものが必要とされているというわけなのです。
 
 特に、近年の日本では、あらゆる状況が逼迫していて、厳しい状態にあるので、「貧すれば鈍する」で、ますます抑圧が強まって、解離的になって、現実感を喪失しはじめているとも言える状況です。
 抑圧の強度は高まり、離人症的になっているのです。
 そのような状況の中で、メンタル的に失調してしまう人が多く出るというのは、自然と言えば、自然のなりゆきなのです。
 社会全体が病んでいて、そのしわ寄せの圧力が、どうしても、一部の人に集まってしまうからです。

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 さて、それでは、そのような「心の不調」は、可能性の開花や潜在能力の発現であることについて見ていきたいと思います。

 まず、「心の不調」とは、前段で見たようなわけで、個人の歴史の中で、抑圧されたものが原因で起こってくるものです。
 状況や外部の要因は、さまざまあったとしても、心の中にもともとの抑圧されたものがなければ、不調にはならないのです。
 同じパワハラ上司の下になっても、影響のある人とない人の違いが出るのは、そのせいです。

 では、そもそも、心の不調は、深いレベルでは、なぜ起こるのでしょうか?
 それは、心が抑圧を取り払い、心の十全な機能を「回復」しようとして、起こしてくるのです。
 今までの人生のように、適度に不調なままで、低位安定型で生きるのを、心が奥底で拒絶し、Noと言い出した時、私たちの心は、みるみる悪化し出すのです。
 つまりは、「回復」の機能、「回復」への指向として、起こってくるということです。
 私たちの心が、「回復」しようとするとき、「心の全体」を良くしようとするとき、心の表面では、苦痛が増大し、脆弱になり、不調になるのです。

 そして、その際、抑圧の主体であった、表面的な「旧来の自我 ego」は危機にさらされます。
 なぜなら、この表面的な「自我 ego」が抑圧するから、「心の全体」「自己 Selfの全体」が抑えられ、生きられなかったからです。
 この「旧来の自我 ego」とは、普段、私たちが「私」と感じている主体の部分です。

 そして、「自己 Selfの全体」は、この「旧来の自我 ego/私」を破壊して、「新しい自我 ego」につくり変えて、より「自己 Selfの全体」「心の全体性」を生きられるようにしようとしているのです。
 これが、心の不調の原因であり、回復のプロセスなのです。

 「自我の死と再生」という言葉がありますが、それは、このような人間的成長や、心の全体性、自己 Selfの回復のプロセスを、或る角度(自我の角度)から見たときの姿(表現)なのです。

 特に、このような変容プロセスが、神話に投影されたものが、古今東西の英雄神話なのです。
 私たちの自我 egoというものは、英雄/主人公に投影されやすいからです。
 「英雄の旅/ヒーローズ・ジャーニー」とは、そのパターン/モデルのことなのです。
「英雄の旅/ヒーローズ・ジャーニー」とは何か

 さて、このように、自我 egoが生まれ変わり、自己 Selfが前面に出てくるとき、可能性の開花や潜在能力の発現が、起こりやすくなってくるのです。
 たとえば、世間の噂話などにおいて、心がどん底に落ちていた時に、「神秘的な体験」や「超越的な体験」をしたというような話を、どこかで聞いたことがあるかもしれません。
 それは何故なのかというと、このような自我 egoの解体と、自己 Selfの顕現との関係があるからなのです。
 自我 egoが溶け出し、流動化し、感じやすく透過的になった一方で、自己 Selfはその潜在意識/潜在能力の〈光明〉を、より前面に現わしてくることになるからです。
 そのような状態のとき、「不思議なこと」が起こってきたりもするのです。

 さて、以上、いろいろと見てきましたが、このような理由で、私たちは心の失調にあるときに、本来持っている「超越的能力」「超自然的能力」が現れてきがちであるというわけなのです。
 そして、心の不調は、別の面からいうと、「可能性の開花」であり、「潜在能力」発現の機会であるという意味合いでもあるのです。

 そのため、程度の強弱はいろいろありますが、苦しみや心の調子が悪くなった時は、ぜひ、人生の「チャンス」であると、とらえていただきたいと思うのです。
 「自我 egoの死と再生」「潜在能力や超越的能力」「真の自分Self」の発現の機会だからです。
 自分が「生まれ変わる」チャンスだからです。
 現代の抑圧社会を生きる多くの人々のように、(自覚はなくとも)抑圧を強化しつづけて、低位安定型で生きていくことを止め、自己を刷新し、別の存在になるチャンスだからです。

 また、現代社会は、抑圧社会の特性(躁的防衛)として、いつわりの「ポジティブ指向」が奨励されています。
 自己啓発的なものによく見られる、表面だけの欺瞞的な明るさです。
 心を操作 manipulate して、真の問題に、目を向けないようにしているのです。
 インスタでバエている、嘘くさい世界です。

 しかし、そのような見せかけだけの、まやかしのポジティブ指向は、かえって、抑圧と病気を強化してしまうものなのです。
 旧来型のポジティブな自我 egoは、心や潜在意識を抑圧するものだからです。
 そのため、現代では、だいたい、病気と抑圧の強い人ほど、キラキラと「私は健康そのものです。やりたいことはみんなできています。悩みも全然ありません」と言います。
 しかし、眼の奥を見ると、光がないのです。
 生気が遮断されてしまっているのです。
 見る人が見ると、逆に、「病気そのものじゃないか」という具合になってしまっているわけです。
 ですので、この病んだ社会においては、「私は、ちょっと調子が悪いのかもしれない」というぐらいが、健康である証拠なのです。
 自分の状態に、アウェアネス(気づき)が持てているからです。
 私はよく、「苦しんでいる人は、治りかけている」と言いますが、それは、そのような意味合いなのです。
 苦しみを感じるということは、心が生きている証拠だからです。

 過度なポジティブ指向は、抑圧と回避の行動であり、自己の真の潜在意識を体験することを避けるものです。
 そして、ほんとうの潜在能力、超越的な能力を封じ込めてしまうものなのです。
 
 そのため、むしろ、自分の悩みや苦しみを通して、心を探求し、古い自我を変容させていく道の方が、冒頭に触れた「遠大なポテンシャル」「超越的な能力」「超自然的にも見える素晴らしい能力」を解放する早道となっているのです。
 今回は、タイトルに、「どこからアプローチするか?」と付けましたが、超越的な能力を取り戻すには、心の葛藤や苦しみからアプローチするのが、一番適切なアプローチということなのです。
 制限的な抑圧を取り払い、深い痛みの感情を解放することが、一番威力あるアプローチであり、本来的な超越的能力を爆発的に発現させる近道だからです。
 それは、心の全体性を回復しようという「潜在意識」が、そのような苦しみを引き起こしているからです。
 つまり、心の葛藤や苦しみは、決して悪いものではなく、私たちの心が、全体性を回復しようとしている深い意欲の現れであり、そのヒントでもあるということなのです。

【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。

底打ち体験と白い夜明け デイヴ・ビクスビー dave bixby