「ジャッジしない」とは何か―その心理的構造、防衛機制、効果的実践法

 別の記事「心の葛藤(苦しみ)と超越的体験―どこからアプローチするか?」では、世間であまり理解されていない「心の不調」の肯定的で創造的な意味合いについて解説しました。
心の葛藤(苦しみ)と超越的体験―どこからアプローチするか?

 また、関連して、よく理解されていない「心の働かせ方」などについても色々と触れてみました。
 今回も、似たような事柄として、「ジャッジしない」という言葉について、少し解説してみたいと思います。

 この言葉は、自己啓発系、スピリチュアル系、心理療法(セラピー)系と、さまざまな文脈で、幅広い意味合いで使われています。
 実際、その内容も、底の浅いものから、それなりの妥当性をもっているものまで、玉石混交です。
 
 さて、この言葉の使い方を大別すると、大きく二つの方向性があるようです。

 一つの方向性は、ジャッジ judgeという言葉を、「裁く」とか「非難する」という意味にとらえて、「他人を裁かない」「自分を裁かない」のような考え方を語るものです。
 他人や自分を責めてばかりしていると、感情的にもしんどいし、人生の視野や可能性が狭まってしまうというわけです。

 もう一つの方向性は、ジャッジ judgeを「審判(審査)する」とか「判定する」という意味にとらえて、「物事について(善し悪しを)決めない」「評価しない」「判断をしない」というような意味合いで使われています。
 これは、より認知的な視点からの見解と言えます。
 つまり、制限的・限定的な判断を持たないで、物事に接すると、より開けた展望や体験、可能性が得られるという考えです。 
 そして、多くの場合は、この二つが混合された意味合いでさまざまに使われています。

 さて、このように使われる「ジャッジしない」という言葉ですが、そのどれもが、決して間違っているというわけではないのですが、それが、「実践的・実効的であるのか?」と言えば、そうでもないのです。
 そのため、口ではそう語る人々が、実際に「ジャッジしない」ことができているかというと、全然そんなことでもないのです。
 その深い意味合いや原因が、あまり理解できていないからです。
 というのは、「ジャッジする/しない」とは、頭で考えて、また心意気で、なんとかできるたぐいのものではないからです。

 そのため、まずは、この「ジャッジする」という欲求(感情)が、私たちの心のどんな構造に由来するのかを、よく理解しておかないといけないのです。

 そもそも、「他人や自分を裁く」とか「善し悪しを判断する」とか、「物事を審判(審査)する」という欲求(感情)は、心理学的にいうと、私たちの深層意識、フロイトのいう「超自我 super ego」からやってくるものです。
 フロイトのいう「超自我 super ego」とは、私たちが育つプロセスで、主に両親から、その価値感情を「取り込む introject」ことで形成される人格要素です。
 「超自我 super ego」は、私たちの中の「社会性」「善悪感情」「価値感情」を構成する部分です。
 私たちが、なぜ、親の道徳感情、羞恥心、罪悪感などをそっくり受け継いでいるのかというと、物心のつかない幼少期の頃から、愛情欲求を基盤に、私たちが両親の欲求(感情)というものを「すべて」吸収し、同化し、完コピして、「自分のもの」とするからです。
 親自身でさえ意識できていない、親の深層意識の中身までをも、子どもは吸収、同化するのです。
 それが、潜在意識(無意識)というものの力なのです。
 子どもは、潜在意識(無意識)で、親が怖れていることを怖れ、親が不安なことを不安がり、親が恥じていることを恥じ、親が焦っていることを焦り、親がごまかしていることをごまかし、親が抑圧していることを抑圧していくのです。
 だから、私たちは、深層心理では、親に似ているのです。
 ただ、これは、潜在意識で起こっていることなので、私たち自身にも、あまり自覚のないことが多いのです。
 そして、親が「自分のこういう部分は似て欲しくなかった」というところばかりが、子どもに受け継がれていくのも、そのような理由からなのです。

 さて、このような親の欲求(感情)を同化し、「超自我 super ego」として人格形成する中で、私たちの善悪感情や判断基準というのも形成されていくのです。
 それらは、無意識、潜在意識の中にあるものであり、決して、合理的なものや頭で考え出されたものではないのです。
 また、普段の生活の中でも、それらの判断作用は、無意識的/潜在意識的に瞬時に作動しているものなのであり、私たちの意識的なレベルよりも、つねに深いレベルで働いているのです。
 私たちの中の埋め込まれた自動プログラムのようなものです。
 それは、私たちの潜在意識の中のフィルタリング(濾過)作用として働いているのです。

 そのため、頭で考えて、「ジャッジしない」ようにしても、本当の深いレベルでできているわけではないのです。
 心の浅い層でそんな気になっているだけで、場合によっては、「ジャッジしてはいけない」と強迫的に考えることで、かえって、感情(欲求)を「抑圧」してしまっている場合もあるのです。
 それは、私たちの心を歪ませ、病気をつくりだす原因にもなっていくのです。
 これは、別の記事で触れた、世間にある、過度な「ポジティブ指向」と同様の問題なのです。
 →
心の葛藤(苦しみ)と超越的体験の関係。どこからアプローチするか?

 そのため、本当に、自動プログラムとして、「肉中の棘」のように働いている、無意識下の「ジャッジ(判定)」を変えたいのであれば、浅い自己啓発系のものなどではなく、深い潜在意識(無意識)をあつかえる本当のセラピー(心理療法)に取り組んで、自己を変容させていくしかないのです。

 さて、では、「ジャッジしない」という姿勢が、実際に効果を出す場面とは、どのような場面なのでしょうか?
 実は、それは、上記したような深い潜在意識(無意識)をあつかうセラピーの場面や、深く心を研ぎ澄ます瞑想の場面などで、役に立ってくるものなのです。

 以下では、「ジャッジしない」という態度が、本当に効果を持つ場面とはどのようなものなのかについて見ていきたいと思います。

 さて、上記の中では、そもそも、「ジャッジする」という欲求(感情)が、私たちの潜在意識、無意識 unconsciousness の人格要素から来るということについて見てみました。
 それは、心理学的には、フロイトいう「超自我 super ego 」から来るものであり、私たちに深く埋め込まれている、或る人格要素から来るということです。
 そして、心の深い層にある「ジャッジする」欲求(感情)は、私たちの人生を支配しているとても大きな欲求(感情)であるのです。
 それが、問題の多くを起こしていると言ってもいい要素なのです。
 そのため、ゲシュタルト療法でも、このフロイトの「超自我」の一面を、「トップドッグ(ボス犬)」と呼んで、重要な取り扱いテーマにしているのです。
 トップドッグ(ボス犬)は、私たちの中で、「お前は~~すべきだ」「お前は~~ねばならない」「お前は~~できていない」「お前は~~が足りない」「お前には価値がない」と、ガミガミうるさく、自己や他者を責めてくる存在です。

 そして、私たちが、トップドッグ(ボス犬)から自由になるには、心の深い層をあつかうセラピー的で、徹底的に取り組むことが、必要なことなのです。

 さて、では、なぜ、多くの人の間に、できもしない「ジャッジしない」という言葉が広まったのでしょうか?
 それは、「ある場面」においては、その態度が、とても大きな効果を出す場面があったからなのです。
 
 それは、より「玄人筋」というか、心を深く取り扱う人々の間で、その効果が認められたからなのです。
 それは、上記したような深い層をあつかうセラピーの場面や、心を深く研ぎ澄ます瞑想の場面などで、それらが役に立ったからなのでした。

 以下では、その使い方の例として、クラウディオ・ナランホ博士 Claudio Naranjo の言葉を引いて、色々と見ていきたいと思います。

 クラウディオ・ナランホ博士は、フリッツ・パールズ直弟子のゲシュタルト療法家(パールズの三人の後継者の中の一人)であり、シャーマニックなプラントメディスン「アヤワスカ」の最初のきちんとした研究家であり(初の国際会議でオープニング・スピーチを行なう)、現在流布しているエニアグラムの心理学的記述の構成者(O.イチャーソ直伝)など、多様な顔を持つ、初期のトランスパーソナル心理学に貢献した重要人物です。
クラウディオ・ナランホによるゲシュタルトの基本姿勢

 そんな彼が、ゲシュタルト療法で必要な「姿勢」を記した言葉の中に、次のような言葉があります。
 セッション(ワーク)の際の、クライアントの心得、注意事項としてなのですが…

 「操作したり、説明したり、正当化したり、ジャッジ(審判/判定)しないで、むしろ表現せよ」
 Exprss rather than manipulate, explain, justfy, or judge.

 ゲシュタルト療法をはじめ、体験的心理療法においては、プロセスが進んでいくと、私たちの内側の深いところから、さまざまな「感情(欲求)」が湧き上がってくることになります。
 それらを自分で気づいて、生々しい感情(欲求)の発露として、ナマの形で、外に表現することやシェアすることが、解放を促進していくことになります。
 それらの感情(欲求)の中には、普段の生活の中で、決して出てこないような、さまざまな「抑圧された感情(欲求)」も含まれています。

 そのようなものが出てきたとき、人は、無意識的に、それらの感情(欲求)を、ごまかしたり、「抑圧」しようとします。
 「操作」したり、「説明」したり、「正当化」したり、「ジャッジ(判定)」したりして、受け取らないようにするのです。

 なぜなら、それらが、自分にとって、「都合の悪い感情(欲求)」だからです。
 「自我 ego」の底にある「無意識 unconsciousness」が、それらの感情(欲求)を脅威に感じ、それから、自分を「防衛」しようとするのです。
 フロイトが、「抵抗」とか「防衛」とか呼んだ態度は、そのような一連の態度です。
 フロイトにおいて、「自我 ego」というものは、大部分「無意識」の存在なのです。

 さて、そのように、「自我 ego」は、「自動的に」、都合の悪い欲求(感情)を抑圧しようとするものですが、それというのも、そもそも、私たちのこの「自我 ego」というものは、成長する過程の中で、さまざまな感情(欲求)を、「シャドー(影)=悪いもの」として抑圧していくことによって、できたものだからです。
 そのため、抑圧された感情(欲求)の湧出に、怖れを感じるのです。
 私たちは、そのような感情(欲求)を、シャドー(影)として抑圧し、抑え続けることで、「普段の自分」「自分らしさ」というものを作ってきたからです。
 だから、抑圧された感情(欲求)が溢れ出してきたりすると、「悪い感情(欲求)/価値のない感情(欲求)」として、自動的に防衛し、抑圧してしまうのです。

 ところで、心理学でいう「防衛的な態度/防衛機制」とは、人が、自分の中に、それら「都合の悪い感情(欲求)」を見出した時に、それらの感情(欲求)を素直に認めて、受け入れるのではなく、否定し、ごまかすときにする態度のことです。
 上のナランホの言葉の中で、「表現 express」(自然で自発的な感情の発露)に対置されているものは、みな、そのような「防衛的な態度」のことです。
「操作」「説明」「正当化」「ジャッジ」です。

 「操作 manipulate」とは、自分の心を加工して、自分の感情(欲求)や体験を、自分でコントロールしよう(操ろう)という態度です。
 この背後には、内部の、生きた自発的感情(欲求)の表出に対する怖れ、信頼の欠落、不感症、空虚があります。
 この手の傾向の強い人は、そもそも、自分の素直な自発的感情(欲求)を感じないように、深く抑圧している状態にあるのです。
 「他人を操作しようとする」心理的態度は、「あの人はなんか操作的な人だ」と、その「わざとらしい態度/あざとさ/人を操ろうとする妙な態度」が、目につきやすいものですが、実は、人は、自分の心に対しても、そのような操作をしている場合も多いのです。
 自分の心を、あるがままに、そのまま受け取ることを拒否しているのです。
 そこに、「嫌なもの/怖いもの/弱いもの/無力なもの/みじめなもの/汚いもの/恥ずかしいもの」などがあることを、怖れているのです。
(私の中に、「こんな嫌な感情があることに耐えられない」と拒絶しているのです)
 自然な感情(欲求)を、そのまま素直に感じ、生きることよりも、何か自分で考えた意図的なものに体験をゆがめて、心をコントロールし加工しようとしているのです。
 そのことで、自発性や自然さを生きていない、人工的で、空虚な存在になってしまっているのです。
 セラピーにおいても、そのように作為的(防衛的)にふるまっていると、生きた感情(欲求)に触れたり、解放することができないのです。
 ナランホの指摘は、そのような態度や場面についての指摘です。
 自己啓発系のものに多い「ニセモノ臭さ」「自然さの欠如」は、このような「操作的」な態度に由来しているのです。

 「説明 explain 」や「正当化 justfy 」は、抽象化や概念化することで、そのままの生きた感情(欲求)体験することを回避しようとする態度です。
 「知性化」や「合理化」などの防衛的なふるまいです。
 何か感情(欲求)が湧いて出てきたときに、それを素直に感じたり、表現したりするのではなく、いちいち、何か「解説しよう」としたり、「説明しよう」とする態度のことです。「理由づけ」しようとする態度のことです。
 これも背後に、自然で生き生きとした、そのままの自発的感情(欲求)に対する信頼の欠如、恐怖心、不感症があります。 

 現代人に多いふるまいですが、それは、この近代社会全体が、そのような方向性と抑圧をもったゆがんだ社会だからです。
 このような態度も、私たちを、自然で・大地的・実体的な実存から解離させて、生気を欠いた空虚な存在にします。
 セラピーにおいても、しばしば、そのような防衛的な態度は、現れがちです。
 そのため、ゲシュタルト療法では、それらを「About-ism(について主義/理屈づけ)」と呼んで、「知的なおしゃべり」の害悪を警告したのです。
 パールズの「思考を離れ、感覚になれ」という言葉も、そのような点を強調するための言い方なのです。
 この手の文脈では、ブルース・リーの有名な「Don’t think, Feel.(考えるな、感じろ)」などもよく引用されます。

 「ジャッジ judge (審判/判定)」も、同じような防衛的態度として、挙げられているのです。
 そして、畳みかけられた表現の中では、最後のものが、一番重要であるように、この「ジャッジしない」が一番精妙で、難しいものであり、かつ一番核心的なものでもあるのです。

 例えば、セラピーのセッションなどの場面で、自分の中から、「或る見知らぬ感情(欲求)」や「嫌な感情(欲求)」がチラッと出てきた時に、
 人は、
 「この感情(欲求)は重要ではない」
 「この感情(欲求)には意味がない」
 「この感情(欲求)はテーマとは関係ない」
 「この感情(欲求)は本筋ではない」
 と、瞬時に周縁化して、排除してしまいがちなのです。
 
 それらを無かったものにしてしまうのです。
 つまり、ちゃんとは、受け取らないようにするのです。
 これは、心の防衛的なフィルタリングの作用です。
 これが、「ジャッジ judge (審判/判定)する」ということなのです。

 これらのプロセスは、閃光のように瞬時に起きます。
 一秒以内の出来事です。
 この場面で、「ジャッジ(審判/判定)しない」ということが、「ジャッジ(審判/判定)しない」ということの実践的な意味合いなのです。
 この「ジャッジ(審判/判定)」は、フィルタリングとして機能していて、何か不都合な感情(欲求)が現れると、瞬時にすばやく働いて、それらの感情(欲求)を排除/抑圧してしまいます。
 そのため、私たちも、それらの感情(欲求)に、なかなか気づくことが難しいのです。

 そのため、私たちは、心を研ぎ澄まして、心に「何か見知らぬ、自発的な感情(欲求)」が現れたときは、ジャッジ(審判/判定)のフィルター(排除)より、「すばやく気づいて」、瞬時にそれらをつかまえないといけないのです。
 そして、それらをきちんとつかまえて、外に表出しないといけないのです。
 それらは、夢のように淡く、すぐつかまえて実体化しないと、すぐ見失われてしまうからです。
 ただ、頭で考えるだけでは、それらは瞬時に消えてしまいます。
 私たちの無意識は、いつも、それらを排除しようとしているからです。
 そして、自分のものとしてきちんと受けとり、取り出して、味わってみると良いのです。
 ゲシュタルト療法やエンカウンター・グループなど、表現型のセラピーの場面では、口に出して、言葉にして、表現していくのが効果的です。
 ナランホが、「むしろ、表現せよ」と言っているのは、そういう意味でもあるのです。
 ただ、気づいたり、考えたりするだけでは、あまり大きな展開につながらないからです。

 そして、実際に表現してみると、今まで、考えもつかなかったような、抑圧・周縁化されていた感情(欲求)が、自分の中に存在していて、それが外に出たがっていたということに気づくことになるのです。
 外に出してみると、それが痛感されるのです。
 そこから、セッション(ワーク)が、新しい展開を迎えるということもよくあります。
 それは、私たちの重要な人格的側面だったのです。
 そのような気づきと表現することを1セットで行なうことで、私たちは、解決の難しかった心の問題を、打開していくことができたりするのです。

 そのため、特に、心を探求することを長くしていて、マンネリに陥っていたりする人は、自分が、上のような防衛的な態度、特に「ジャッジする」ことに陥っていないか、よくチェックしていくと良いのです。
 自分が、無意識的に、このような「ジャッジ(審判/判定)」や「周縁化」をしていないか、また、「操作 manipulate 」をしていないか、よくよく自己点検していくことが良い方法なのです。
 一見、「重要でない」と感じられた欲求(感情)の中に、答えがあることも多いからです。
 そして、心に取り組む際は、心を研ぎ澄まして、自分が瞬時にジャッジ(審判/判定)して、さまざまな自発的な感情(欲求)を周縁化したり、排除したりしていないか、よくよく気づいていくと良いのです。

 また、心を研ぎ澄ます瞑想の場面でも、このように或る感情(欲求)が出てきた場合は、それらを周縁化・抑圧しないで、受け入れて、体験していくと良いのです。
「瞑想」で一番大切なこと―心の基盤とその取り組み方

 さて、このように、心を深く探求している局面では、「ジャッジしない」ことが、実践的・実効的にレベルで、大変効果的になっているのです。
 そのため、周辺のさまざまなメソッドの中でも、取り沙汰されるようになっていったのです。

 しかし、その深い意味合いや場面が、あまり深く理解されずに、いい加減な形で使われてしまっているというのが、現状なのです。
 元来は、「判断しない/見方を限定しない」や「人や自分を裁かない」のような実効性の薄い一般論として、それ自体が目的かのように、やみくもに、「ジャッジしない」と使っていたわけではなかったのです。
 ましてや、それを「操作的な」態度/意向として、「ジャッジするな」と語っていたわけではなかったのです。
 「ジャッジしない」ことを通して、「その向こう側で得られるもの」こそが、問題の核心だったからです。

 なので、「ジャッジしない」という態度が、真に価値を持つ場面で、効果的に運用されると、それはそれで、とても大きな効果をもつということなのです。
 心を深く探求している人は、ぜひ、そのような場面で、「ジャッジしない」態度を役立ててみていただければと思います。

【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。

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