世間では、さまざまな「変容 transfomation」について語られます。
しかし、人が実際に「変容するとどうなるのか?」「何がどう変わるのか?」など、変容の具体的な記述というものを見たことはないと思います。
表現が難しいなど、いろいろな理由が挙げられますが、一番の理由は、「本当に変容している人」が、あまりいないからであるというのが実情です。
現代は、社会全体の劣化とともに、以下で見る中で理解されるように、「操作的」で、表面的な方法論しかなくなってしまったので、深い次元で「変容した人」もいなくなり、当然ながら、「本当の変容」の具体的な姿もわからなくなってしまったということなのです。
人が本当に深い次元で「変容する」には、思考や意識の浅いレベルでアレコレ考えるだけでなく、感情や肉体の深いレベルから、全存在的に、全人格的に、「全面的」に刷新される必要があるのです。
しかし、そのような方法論も、それに取り組む人もほとんどいなくなってしまったことに大きな要因があるのです。
1960年代にアメリカからひろまった「体験的心理療法」は、そのような、真の変容を起こせる数少ない方法論です。
ゲシュタルト療法、エンカウンター・グループ(グループ・セラピー)、ブリージング・セラピー(ブレスワーク)、ボディワーク・セラピー(ライヒアン・セラピー)などの「強度の体験」による感情解放を軸にした方法論です。
日本では、そもそも、当時もそれらが広まることも根づくこともなかったので、マイナーなまま、一部の好事家によって継承されただけでしたが、その本質的な効果は、昔と変わることなく、存在しているのです。
さて、そのような体験的心理療法による「人格変容のプロセス」を表現した論考として、カール・ロジャーズの見事な業績があるので、この記事では、それをご紹介していきたいと思います。
彼は、後半生は、エンカウンター・グループ(グループ・セラピー)を中心に活動していましたが、この論考では、そこでの人格変容の姿が非常に的確に表現されています。
また、この論考を見ていくと、逆に、「なぜ、世の中の方法論が真の変容を起こせないのか?」をも理解できていくことになります。
論考では、「第一段階から第七段階」まで、徐々に、人格が変容していく姿がとらえられています。
このような人格変容は、それが充分に取り組まれた場合の、体験的心理療法に多く共通した要素とも言えます。
この研究では、変容過程の中で、人が、「何について、どのように話をしているか」「体験の仕方(感じ方)」が描写されています。
人が変容していくと、「話す内容」や、「体験の仕方」が変わっていくからです。
そこでは、主に、セラピーで核となる、その人の「感情の感じ方/コンタクト(接触)」が中心に述べられています。
併せて、「自己構成概念」「体験と把握との時差/距離」「体験過程のとらえ方」など、いくつかの指標を軸に、変容がどのように表れてくるのかが、描写されています。
「変容」のプロセスは、全体としては―
・感情は、外部対象への表出→内部(自己)対象への表出→非対象的表出へと推移していく。
・自己構成概念は、当初無自覚で固定化していたものから、だんだんと緩み、対象化され、流動化し、消失していく。
・体験が、固定的で遅延されて感じられていた状態から、より瞬時のもの、現在のものになっていく。
・体験が、固定的なものではなく、プロセス、流動性として体験されていく。
と変化していくことが記述されています。
では、実際に、各段階についての、ロジャーズの解説を見ていきましょう。
これは、グループ・セラピーなどで、その人が「どのような内容」について「どのような話し方」をしているのかをイメージするとわかりやすいと思います。
自分について話したがらない。外的な事柄についてしか、コミュニケーションがなされない。
感情や個人的意味づけに、自分で気づいておらず、またそれが自分のものになっていない。
(ケリーの有用な言葉を借りれば)個人的構成概念は極端に固定的である。
親密で隠し立てのない関係は危険だと感じられる。
この段階では問題を意識していない。
変わりたいとは思っていない。
自分の内側でのコミュニケーションに多くの障害がある。ロジャーズ『心理療法の過程概念』諸富祥彦他訳
/『自己実現の道』所収(岩崎学術出版社)
この状態は、通常の一般人の状態と言えます。
普通の人は、基本的には、「感じないようにして」(抑圧)生きているからです。
語る内容も、自分に本質的な次元では関係のない「何か」についての話が多いものです。
そして、本人も、「自分が感じていない」「感じられていない」「感じることができない」ということ自体を理解できない状態にいます。
自分とは無関係な話に関して表現がなされ始める。
問題は自分の外部にあると見なされる。
問題に対して個人的な責任を感じていない。
感情は自分のものではないものとして、またときには過去のものとして語られる。
感情が示されるかもしれないが、しかし、それは気づかれていないか、自分のものとはみなされていない。
体験過程は、過去の構造に束縛されている。
個人的構成概念は硬直しており、構成概念であるとは認識されておらず、事実と考えられている。
個人的な意味づけと感情の分化は非常に限定されていて大雑把である。
矛盾を表現することがあるが、ほとんどそれを矛盾と意識していない。ロジャーズ(同書)
第一段階と、第二段階の違いはわずかですが、「動き」が出はじめました。
少しだけ、「感情」が現れる兆しがあります。
対象としての自己についてもっと表現が流れ出ていくようになる。
自己に関連した体験を対象化し、それについて表現も行なわれる。
内省の対象として、自己を語ることもある。しかし、その場合も他者について語る中で、自己に触れることが多い。
今現在のものではないが、感情や個人的な意味についての表現や説明が多くなってくる。
自分の感情はあまり受け入れられていない。感情の大部分は、何か恥ずかしいこととか、悪い、異常なものとして、あるいは、どうしても受け入れがたいものとして表現される。
感情を表しており、しかもときには感情として意識されている。
体験過程は過去のものとして、あるいは何か自己から隔たったものとして語られる。
個人的構成概念は硬直しているが、外的な事実としてではなく、構成概念として意識されていることもある。
前の段階よりは、感情と意味づけの分化が大雑把ではなくなり、わずかだが鋭くなっている。
体験の中の矛盾を認める。
個人的な選択がしばしば役立たないように思われている。ロジャーズ(同書)
前の段階より、わずかに、自分や自分の感情を対象化する兆しが出ています。
ロジャーズは、「心理的援助を求める人の大部分がこの段階にある」と指摘します。
普通の人よりは、「自己の感情」について、思うところが出はじめています。
クライアントはさまざまなより強い感情を語るようになるが、それは今・ここのものではない。
感情を現在の対象として語る。
時折感情が現在のものとして表現される。ときにはそれはクライアント自身の意志に反して、それを突き破るような形で出てくる。
今ここでの感情を体験することに向かう傾向があるが、そうなることに不信と怖れを抱いている。
感情がオープンに受容されることはほとんどないが、それでもいくらか受容が示される。
体験過程が過去の構造に縛られることはより少なくなる。体験過程との隔たりはより少なくなり、そしてときにはほとんど遅れることなく生じることもある。
体験が構成される仕方がよりゆるやかになる。個人的構成概念についていくつかの発見がある。それらが構成概念であるということがはっきり再認識されて、その妥当性が疑われ始める。
感情、構成概念、個人的な意味づけの分化が増大し、象徴化の正確さを求める傾向がそれとともに生まれてくる。
自己と体験の間の矛盾と不一致について関心が示される。
問題について、まだ確固としたものはないが、自己責任の感情が生じる。
親密な関係はまだ危険に感じられているが、クライアントはわずかながら自ら危険をおかして、感情のレベルで人に関わっていこうとしている。ロジャーズ(同書)
ここでは、感情の表出がはじまります。
「時折感情が現在のものとして表現される。ときにはそれはクライアント自身の意志に反して、それを突き破るような形で出てくる」とあるように、生きた感情がではじめました。
ただ、一方で、
「今ここでの感情を体験することに向かう傾向があるが、そうなることに不信と怖れを抱いている」
「感情がオープンに受容されることはほとんどないが、それでもいくらか受容が示される」
とあるように、それはまだ「限定的なもの」です。
そして、
「それらが構成概念であるということがはっきり再認識されて、その妥当性が疑われ始める」
「体験過程が過去の構造に縛られることはより少なくなる。体験過程との隔たりはより少なくなり、そしてときにはほとんど遅れることなく生じることもある」
「自己と体験の間の矛盾と不一致について関心が示される」
「問題について、まだ確固としたものはないが、自己責任の感情が生じる」
と、既存の自己やその「構成概念」が、相対化されはじめ、部分的に流動化しはじめる予感があります。
この段階は、人格の全体性でいえば、感情の流動化や、事後概念の流動化が、「一部」ではじまり、自分の中で、「一部の」新鮮な流れが感じられている状態です。
しかし、それらはまだ「対象」としてとらえられ、「○○について」という距離感で「対象化して」感じられている状態です。
全面的な体験ではなく、あくまで、部分的な体験なのです。
全体でいえば、古い自己概念や、その自我のコントロールの中で、すべてはとらえられ、行なわれているのです。
古い自我の方が、占有比は高いのです。
しかし、それでも、「効果」は充分に感じられ、「達成」された感覚もあります。
そして、実は、多くのセラピーは、この段階でゴールなのです。この段階止まりのものなのです。
そのため、「本当の変容」にまでは、行きつかないことになっているのです。
(そのため、効果も中途半端なのです)
「古い自我のゲーム」の内側で、すべてが進められてしまっているからです。
つまり、世の中で行なわれているこの水準のものは、「変容」というよりは、「改善」ということなのです。
変容とは、「全面的な刷新」をもって、「変容」と呼ぶに値するものだからです。
ここから先に、多くのセラピーが進まないのは、端的に怖ろしいからです。
古い自分や自我を捨てないと、この先には行けないからです。
そのため、多くのセラピーは、この段階で、「引き返して」行くことになるのです。
たしかに、「安全面を考慮して」ということは正しいのですが、実際は、この「向こう側」に行ったことがないので、よくわかってないということなのです。
しかし、この向こう側に行く「越境の感覚」に経験値を積んで慣れていくと、セラピーは、一次元深いものになっていくのです。
感情は自分のものとして自由に表現される。
感情はほぼ十分に体験されている。クライアントが感情を十分にかつただちに体験するときに感じる恐れや不信の念にもかかわらず、感情が「泡立てて出てき」たり「にじみ出」たりする。
ある感情を体験することは、直接の照合体(direct referent)にかかわることだとわかり始める。
「泡立ってくる」感情に対する驚きと怖れ、そしてまれに喜びがある。
自己感情が自分のものだという気持ちが強くなり、その感じでありたい、「本当の自分」でいたいという願望が増してくる。
体験過程がゆるやかに解放されて、もはや体験過程との隔たりがなくなる。体験過程はしばしばほとんど遅れることなく生じる。
体験の構成のされ方がゆるやかに解放される。個人的構成概念を構成概念として見ると多くの新鮮な発見がある。そして、それらを批判的に吟味し疑問視し始める。
感情と意味づけの分化が正確になっていく強い顕著な傾向がある。
体験の中の矛盾と不一致にますますはっきり直面するようになる。
直面している問題に対する自己責任をますます受容するようになる。また自分がどのように貢献するかという関心が強くなってくる。
自分の中でますます自由な対話が起こる。自分の内側でのコミュニケーションが改善されて、その障害が減少する。ロジャーズ(同書)
自発的な感情の表出がはじまり、何かが「突破され」はじめました。
そして、加速がはじまります。
体験的心理療法では、「核」となるものが体験され、クライアントは大いなる感動と解放を感じてくる段階です。
「ノッてくる」状態と言えます。
逡巡や怖れも少しあるけれど、解放感にともなう快楽の大きさや、この先に感じられる展望のひろさが、動機づけとなります。
そして、夢中で取り組んでいるうちに、次の段階へと近づいていくことになります。
それまでの「殻」がとれはじめます。
脱皮と羽化がはじまるのです。
「変容」が形を成しはじめるのです。
そのうち、解放の占有比が、古い自我の占有比を超えていくことになるのです。
以前には「滞って」いて、過程という特質を失っていた感情が、今ではただちに体験される。
感情が最後まで十分に流れる。
今ここでの体験がただちに、そして豊かさをもって直接に体験される。
この体験過程の瞬時性と、その内容を構成する感情とが受容される。それはあるがままに受容される。否定したり恐れたり、それと戦ったりする必要はない。
それについて感じるのではなく、体験の中を主観的に生きているという特質が存在する。
対象としての自己は消えていく傾向がある。
この段階では、体験過程は真に過程という特質を帯びてくる。
この段階のもう一つの特徴は、それに伴って生じる生理的な解放である。
この段階では、自分の内側でのコミュニケーションが自由で、比較的妨げられていない。
体験と意識(awareness)との不一致は、それが一致に達して消失する際に生き生きと体験される。
この、まさに進行中の体験しつつある瞬間に(in the experiencing moment)、それに関連ある個人的構成概念が消失して、クライアントはかつて固定されていた枠組みから解放されるのを感じる。
十分に体験するその瞬間(the moment of full experiencing)は、明確にして明白な照合体となる。
体験過程の分化が鮮明になり、基本的なものとなる。
この段階では、もう内側にも外側にも「問題」は存在しない。クライアントは自分の問題ある局面を主観的に生きている。それは対象ではない。ロジャーズ(同書)
「感情と体験」の直接性と瞬時性。
体験過程を、そのまま生きる感覚が体験されています。
十全な体験がなされ、生が増大した感覚が味わわれています。
ここでは、人生が、かつては想像できなかったような解放と新鮮な姿で体験されていることに感動します。
これが、真の「変容した」後の姿です。
脱皮し、羽化した、舞い上がるようなしなやかな生の感覚が味わわれているのです。
これを読めば、世間のいう「変容」などが、「変容」でもなんでもないことがわかるでしょう。
それらは、「第四段階」のほんの小さな部分的解放でしかないのです。
心理療法の関係においてもまたその外でも、新しい感情がただちにまた豊かな詳細を伴って体験される。
このような感情を体験すること(experiencing)が明確な照合体として利用される。
これらの変化しつつある感情を、受容的に所有するという感覚がますます大きくなり、また継続的になってくる。自分自身の過程に対する基本的な信頼がある。
体験過程(experiencing)は、その構造拘束的な側面をほぼ完全に失い、まさに過程という性質の体験(process experiencing)になる。すなわち、状況は過去のものとしてではなく、その新しさにおいて体験され、解釈される。
自己は次第に、ただ、今ここで体験していることの主観的で反射的な気づき(the subjective and reflexive awareness of experiencing)になる。自己は対象として認識されることがますます少なくなり、過程において信頼をもって感じられる何ものかであることがますます多くなる。
個人的構成概念は、さらに今後の体験に照らして検証するために暫定的に再形成されるが、そのときもそれらに固執はしていない。
自分の内側でのコミュニケーションが明確になる。感情とその象徴化がぴったり符合している。新しい感情に対する新鮮な言葉が見出される。
新しいあり方を効果的に選択するということをまさに体験しつつある。ロジャーズ(同書)
自己が流動化し、消失し、体験過程が、現在性と流れそのものとして体験される様子が描かれています。
一種、老荘思想的というか、タオイズム的というか、そのような流動性が、ここでは実現されています。
その「変容」した果ての、生の姿がととらえられているのです。
このような、旧来の自我や固定化が消失した、流動化した姿が、「真の変容」の姿であると言えるのです。
一切の囚われが消失し、流れやプロセスとして、生を生きる姿が描かれています。
さて、以上、人格変容についての、ロジャーズの論考を見てきました。実際の論文には、「会話例」が色々と載っているので、よりイメージがつきやすくなっています。興味ある人は、ぜひ直接当たってみていただければと思います。
世間で安易に口にされる「変容 transfomation」ですが、どのような状態をもって「変容」と呼ぶにふさわしいのか、そのことがよくわかると思います。
「変容」とは、全面的な人格構造の刷新、性格の変容、存在の再生として現れてくるものなのです。
これらの指標や描写は、自己変容に取り組む人にとっても、また、変容をお手伝いする人間にとっても、とても参考となるものであると言えるのです。
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。