さて、当サイトでは、よくフロー体験について取り上げています。
その体験や状態が、私たちが、より拡張された心身状態(変性意識状態(ASC))へ移行するための分かりやすい類型となっているからです。
実際、そのシステム的な作動性をよく理解して、意識的に物事に取り組むことは、日常生活の中で高いパフォーマンス(アウトプット)を発揮するのに大いに役立つことであるからです。
また、別に、その関連でベイトソンの学習理論を参照にしつつ、私たちの日常意識よりも高い、上位階層にあるかのような心理(意識)システムが働く可能性についても各種の事例から考えてみました。
→「聖霊」の階層、あるいはメタ・プログラマー ジョン・C・リリーの冒険から
→映画『攻殻機動隊』ゴースト Ghostの変性意識
ある種のフロー的かつ覚醒的な意識拡張の体験過程にあっては、私たちは、自己の内なる領域に、高次の働き(メタ・プログラマー)を感じ取り、その働きによって、より拡大された現実を体験したり、未知なる能力を発揮するかのようであるということなわけです。
さて、今回は、ドイツの作家ハインリヒ・フォン・クライストを素材にして、そのような意識拡張の可能性や意識進化の姿(物語、神話)について少し考えてみたいと思います。
ところで、クライストの作品はとても不思議な作品です。
そこにおいては、何か得体の知れないものが凄まじい速度で通過していきます。
過度に結晶したような、硬質な文体の向こうに、以前見たロートレアモンのように、にわかにそれとはとらえがたい熱狂的な強度や速度、変性意識的な何かが通過していくのです。
焼き尽くすように通過していくのです。
そして、私たちは、それらを読み終わった後に、その火傷を感じつつ、「あれは何だったのだろう」と思いを巡らせるわけなのです。
ところで、クライスト本人が、どのような方法論のうちに、そのような作品を書いていたのか、筆者は知らないのですが、それらが偶然そうなったわけではなく、(明確な方法論ではないかもしれませんが)ある種の気づき awarenessのうちにあったのだと教えてくれる素晴らしい文章を、彼は残しているのです。
『マリオネット芝居について』という、或る舞踏家と、クライストらしき話者とが、操り人形の舞踏について対話するという短編がそれです。
このテーマに関して、この一編をものしたことから考えても、クライストが、そのテーマの重要性について、明確に意識していたことがうかがえます。これは、意識の進化と存在を巡るとても核心的なテーマでもあるのです。
その物語は、話者が、或る卓越した舞踏家を、大衆的な芝居小屋で、しばしば見かけており、そのことについて以前から興味を持っていたわけなのですが、機会あって、彼本人からそのことについての興味深い理由(智慧の話)を聞かされるというストーリーになっています。
ところで、話を聞く中でわかってきたことは、舞踏家にとって、人形の舞踏から学ぶことが多々あるからである、というわけだったのです。
人間にはない優美さがそこに宿っている、
ということだったのです。
「人形は絶対に気取らない、という点が長所なのです。―というのも気取りというのは、ご存知のように、たましい(vis motrix)がどこか運動の重心以外の点にきたときに、生じるのですからね」(種村季弘訳、河出文庫)
そして、このような気取りや自意識が、演技において、失策となることを語ります。
「『こうした失策は』とややあって彼はつけ加えた、『私たちが認識という樹の木の実を味わってしまったからには、もう避けられません。だって楽園の門は閉ざされ、織天使は私たちの背後にまわってしまったじゃありませんか。私たちは世界をぐるりと経めぐる旅に出て、裏側から、どこかしらにまた楽園への入口が開いてはすまいかと、この眼でさがすほかありません。』」(同書)
話者は、舞踏家の意外な見解に対して、さまざまな疑問をぶつけていくことで話は進みます。
「あなたがいかにたくみにご自分の逆説の問題を弁じられようと、人体機構によりは機械製の関節人形のほうにはるかに優美が宿りやすいだなんて、そんなことを私に信じさせようったってそうはまいりませんよ。答えて彼の言うには、その点では人間は関節人形にまるで及びもつきません。この領分で物質と太刀打ちできるのは神だけかもしれません。ここには円環的世界の両端が噛み合う点があるのです。私はますます驚いたが、この奇妙な主張に対してなんと言えばよいか、言うべきことばを知らなかった。」(同書)
そして、舞踏家は、聖書における、
「あの人間形成の最初の時期をご存じないお方とは、それから先の時代の、ましてや人類最後の時代の話は実際のところできかねますね。」(同書)
と、人類の未来の姿まで匂わすのです。
そして、話者が、直接実感した、過剰な自意識により優美さを失った少年の話や、舞踏家自身のフェンシングで、熊にまったく勝てなかった挿話が振り返られた後で最後に語られるのです。
「『さて、すばらしき友よ』、C.氏は言った、『これで私の申し上げることを理解するのに必要なものはすべてお手許にそろいました。これでおわかりですね、有機的世界においては、反省意識が冥く弱くなればそれだけ、いよいよ優美がそこに燦然とかつ圧倒的にあらわれるのです。―けれどもそれは、二本の直線が一点の片側で交差すると、それが無限のなかを通過したあと突然また反対側にあらわれる、とか、あるいはまた凹面鏡に映った像が無限の彼方まで遠ざかったあとで、突然私たちのすぐ目の前にきている、とかいうふうにしてなのです。このように認識がいわば無限のなかを通過してしまうと、またしても優美が立ちあらわれてきかねないのです。ですから優美は、意識がまるでないか、それとも無限の意識があるか、の人体の双方に、ということは関節人形か、神かに、同時にもっとも純粋にあらわれるのです。』『とすると』私はいささか茫然として言った、『私たちは無垢の状態に立ち返るためには、もう一度、認識の樹の木の実を食べなければならないのですね?』『さよう』と彼は答えた、『それが、世界史の最終章なのです』」(同書)
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さて、このような、意識の様態(進化)についてのヴィジョンが、決して神話的なものではなく、フロー体験や意識の階層構造への検討から見て、あるレベルで、実現可能であるということは、本当のところなのです。
それは、当スペースでも、さまざまな実践的な方法論を通して、テーマとして、取り扱っているのなのです。
そして、それが、クライストの作品の持つ不思議に意識拡張的な速度を、創り出している一因でもあるといえるのです。
そして、さらにはまた、そのことはクライストのいう「裏側に開いている楽園への入口」という風に、考えていくことも可能なのです。
※変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。