ある未来の意識―ロートレアモン伯爵と変性意識状態

 別の記事、「映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) パワハラの由来 「投影」としての世界」では、私たちの普段見ている世界が、「自分の心理的構造/要素」を投影 projection した世界であることを解説しました。
 私たちは、普段、目の前に見ている世界を、「客観的なリアルな世界」だと思っていますが、決してそのような世界を見ているわけではないのです。
「映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) パワハラの由来 「投影」としての世界」

 ところで、このように心が投影される対象とは、必ずしも、事例のような「人間」ばかりとは限りません。
 私たちの潜在意識(無意識)が、投影されやすいテーマのものは、「観念」であれ、「事物」であれ、みな投影の対象となっているのです。
 特に、「芸術/アート」というものは、この「投影 projection の力」を利用したものです。
 私たちが、その作品に感動をするのは、それがどんな種類のものであれ、何かしら「自分の潜在意識の要素、感情(欲求)」をそれらに投影し、自分自身の体験であるかのように、それらに没入し、追体験するからです。
 そのため、その作品を読む者、見る者、聞く者の投影的体験を、いかに拡張したり、変容させたり、深めたりするかが、作品の質の良し悪しを決めていくことになるのです。作者も、それを工夫するわけです。
 そのため、自分の好んでいる芸術(文学、音楽等)に対して、自分が「何を投影 projection して」感動していたり、刺激や感銘を受けているか、「自分の心/意識に何が起こっているのか」を考察していくことは、とても意義深いことなのです。

◆孤絶した天才の作品

 さて、今回の記事では、その特異な作品において、「特殊な意識状態(変性意識状態)」を暗示している不思議な詩人、ロートレアモン伯爵 Le Comte de Lautréamont (本名イジドール・デュカス Isidore Ducasse )の作品を取り上げて、色々と見ていきたいと思います。
 その作品が、「投影」を通して、私たちの中から引き出す、さまざまな「潜在意識の力」は、通常の文学が私たちから引き出すものとは違う、とても深層的で、深遠な領域があるからです。
 その理解を通して、私たちの内に潜む
意識変容と意識拡張の可能性、想像的創作と夢見の技法シャーマニズムについて、さまざまヒントが得られることになるからです。

 ところで、ロートレアモンの作品は(『マルドロールの歌』『ポエジー』の二作品だけですが)、19世紀後半のフランスに忽然と現れ、世界の文学史の中においても、非常に孤絶した性格をもつ、他に類例のない作品となっています。そういう意味でも、よく比較されるアルチュール・ランボー Arthur Rimbaud の作品と似た性格を持っているのです。
 しかし、〈本質的な水準/次元〉で考えてみると、ロートレアモンの天才性は、非常に特異なものであり、これをそもそも、(ほぼオワコンに近い)「文学」の中に位置づけるのが相応しいのか、迷われるところでもあるのです。
 それほど、その作品は、風変りで、その真価は、いわゆる通常の「文学」とは違う次元にあり、より〈未来的な可能性〉に富んでいると思われるからです。
 実際、その作品が大きく注目を浴びたのは、彼の早い死の後、20世紀になってからであり、それも、当時登場してきた、(反文学的/反芸術的姿勢をもった)シュルレアリスト(超現実主義者)たちによる称揚がきっかけでした(※注1)。
 また、彼ら以前には、ロートレアモンに注目し、影響を受けた人と言えば、これまた特異な才能であるアルフレッド・ジャリ Alfred Jarryなどがいたのでした。
(※注1)初期の野望にもかかわらず、芸術の一ジャンルに回収されてしまったシュルレアリスム(超現実主義)の失敗については、別の記事で書いてみたいと思います。

 さて、彼の『マルドロールの歌』は、マルドロールを主人公とする六つの歌からなる長編の散文詩であり、『ポエジー』は、短く風変わりな批評エッセイです。
 どちらの作品も、
南米の領事館で働く父のもとに育った少年が、思春期をフランスの寄宿舎で生活した後に、孤独な夢想のうちに書きとめた作品なので、骨太な社会的思想や現実感覚を求めても、あまり大したものは得られません。
 しかし、その奇怪な幻想と
想像力は、まったく類例を見ない形で、未知の時空を創るものとなっているのです。

 『マルドロールの歌』は奇妙な作品です。
 孤独と無限に透過された宇宙性、奇怪で美的な暗喩(メタファー)、溢れる動物たちや異形たち、悪と逃走、夢と渇望、変身と遍歴などを素材に、他の文学にない、時空の歪みと透視力を持ち、私たちの魂のとても深い領域に触れてくる作品となっているのです。
 そして、その奇怪な幻想の「けはい」が、何に似ているかというと、夜間の『夢』の雰囲気に似ているのです。
 そのためか、作品の表面的な「字面」だけを分析してみても、その魅惑の「芯」をつかめないようにもなっているのです。
 内容的には、奇天烈で奇怪な
幻想ではあるものの、語りや描写は整合的に語られているからです。
 しかし、実際、世界を見渡しても、これほど、夢と狂気に近い雰囲気をたたえた作品も他にないのです。
 その点が、夢と狂気を重視したシュルレアリスト(超現実主義者)たちを熱狂させた一因であったと思われるのです。
 そして、その作品は、まるで、隕石のようにどこか遠いところからやって来た印象、通常の私たちの心の次元を超えた拡がりを感じさせる、「不思議な意識の領域」を有するものとなっているのです(※注2)。

「谷間に二本の柱が、バオバブの樹と見るのはたやすくまた可能性がなくもないのだが、二本の針より大きく見えていた。だが本当は二本の巨大な塔だった」

「第四の歌をはじめようとしているのは、人間か石か木だ。足が蛙を踏んづけると一種の嫌悪感を覚えるが、人間の身体となると手でちょっと触れただけでも、指の皮は槌で砕いた雲母の薄片のように裂けてしまう、そして腹の中はまるで、一時間も前に死んでいるのにまだしぶとい生命力を示して甲板でぴくぴくしている鱶の心臓のように、接触の後いつまでも動転している」

「おれは額の人相学的な線によって年を読む術を知っているが、彼は、十六歳と四か月だ!彼は猛禽類の爪の伸縮性のように美しい、あるいはまた、後頭部の柔らかい部分の傷の中で動く筋肉の不確かな運動のように、あるいはむしろ、あのいつも獲物がひっかかって張り切っていて、一台で齧歯類を無限にとらえることもできれば、わらの下に隠しておいても役に立つ永遠の鼠捕り機のように、またとりわけ、解剖台の上でのミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい!」

「犬が主人を追いかけながら描く曲線の思い出のように美しいヴァージニア大公鷹は、廃墟となった僧院の割れ目にもぐりこんだ。成長の動きとその組織が同化する分子量とが相関関係にない、成人女性における胸部の発育停止法則のように美しい子羊禿鷹は、大気の高層へと姿を消した。寛大な許しを見せて、それがありうることとも思えなかったのでおれに多大な感銘を呼び起こしたペリカンは、再び丘の上に燈台のように堂々たる不動の姿勢で立ち、人間なる航海者たちに、おれの轍を踏まないように気をつけろ、陰険な魔女たちから自分の運命を守れ、と告げるかのように、いつまでも前方を見つめていた。アルコール中毒の手のふるえのように美しい黄金虫は、地平線に消えた」

ロートレアモン『マルドロールの歌』渡辺広士訳 (思潮社)※一部改訳

 さて、そのようなロートレアモンの作品の謎に対して、いわゆる文芸批評/評論的なアプローチは、およそ不満足で、退屈な結果しかもたらさないということは、多くの人が感じるところでもあるのです。
 ロートレアモンの特異な超越性や天才に対して、文芸批評/評論は、それらの謎を解き明かすのではなく、ありきたりな人間的文脈に置き換えることしかできないからです。
 しかし、『マルドロールの歌』は、普段、文学作品などをあまり読まない、感性豊かな人が読んだ場合でさえ、強い衝撃を覚えるというのは、いわゆる「文学」などとは関係のないところで、この作品が持っている、原質的な幻想/想像力、透視力に、人々が感電するからであると思われるのです。
(逆にいうと、ロートレアモンを基準にすると、他の文学は、すべて凡庸で退屈なものになってしまうのです)

 そこには、私が他の記事でもテーマとしているような、変性意識状態(ASC)意識拡張(サイケデリック)の様態、深層心理にある元型的領域や夢見の技法に関係する、さまざまに興味深い秘密があると考えられるのです。

(※注2)ちなみに、世の中には、字面だけをよんで、そのような不思議な幻視性(意識の変容感、拡張感など)を感じとれないタイプの人間も、大勢います。芸術/アートがよくわからない人々などは勿論そうですが、そればかりではありません。歴史上でいえば、たとえば、ロートレアモンについての論文によって、シュルレアリスムの首領アンドレ・ブルトンと論争したアルベール・カミュ(『異邦人』/ノーベル賞作家)などもそのような人物です。G.バタイユなども、この論争をとりあげる中で、カミュの「不感症(「深い慄きを感ぜずに読んだ」こと)」について訝しげに触れています。ブルトンは語ります。

「『知的』と言ったのは次のようなわけだ。つまり、これまで、ロートレアモンについて、これほども大ざっぱで、これほどもくだらぬことが書かれたことがなかったのである。このような論文を書く人間は、ロートレアモンについてただ噂で知っているだけで、じっさいに読んだことはないのではないか、と考えたくなるほどである。「意志」についての無数の問題を提出し、同時にいくつかの面で活動し、互いにはまり込みあったさまざまな意味にあふれ、まじめなもののとユーモアの絶えざる相互干渉を目指し、合理的な解釈を組織的に途方にくれさせている、この近代におけるもっとも天才的な作品について、彼はわれわれに、せいぜい新聞小説の筋書程度の一本の横糸を示しているだけだ」

モーリス・ブランショは、(中略)――カミュも注でのなかでこの研究に触れているが、この注たるやなんとも無意味なものだ――すでにこうした粗雑な単純化を非難している。彼は、ロートレアモンの心が『世界の心でもあり』、ロートレアモンのたたかいが、それ自身の苦しみを『世界全体のたたかいとの賭金や表現』と化していることを示すことが出来た。彼は、読者に不意打ちを加えようとするロートレアモンの好みが、『この読者は彼自身であり、彼が不意打ちを加えねばならないのは、未知に向かって逃亡している彼自身の苦悩する中心である』ということとかかわっていることを、誰よりもよく理解しているのだ。また誰ひとりとして、いっさいが『欲望』を軸として組み立てられ、その運動がエロチックな経験の動きをしき写しているような作品の深い鼓動を、彼以上に明らかにすることは出来なかった。しかしながら、このように決定的なかたちでなされた警戒のことばも、カミュにとっては馬耳東風であった」

ブルトン『黄色い砂糖』粟津則雄訳(『野を開く鍵』所収/人文書院)

 ブルトンは、これらをカミュの「知的」な問題として攻撃するわけですが、これは「知的」というより、もっと高度な感性的/意識構造の問題なのです。つまり、字義通りにしか文章を理解できなかったり、暗喩的な表現の深さや多重性を理解できないという事態は、その人の心理構造、意識構造に由来しているのです。それらも、その人間の「投影 projection 」によって把握されるものだからです。この問題も、実は、別の記事でも取り上げているさまざまなテーマ群と関係しており、心理(意識)構造の問題として存在していることであるのです。お粗末な現代文明は、「意識」と言えば、皆が「同じ意識」を持っていると勘違いしていますが、「意識構造」は、個々人でまったく状態の違うものなのです。ロートレアモンの世界は、そのような事柄についても、色々と教えてくれるものなのです。


◆無意識世界/潜在意識世界との間近さ―アウトサイダー・アート、動植物の世界、サイケデリック、不眠と覚醒

 さて、それでは、実際の内容面について少し見ていきたいと思います。
 『マルドロールの歌』では、主人公が、さまざまな存在に変幻自在に変身しながら経験する内容(奇怪な幻想)が、奇妙な文体とと
もに語られていきます。

 ところで、ロートレアモンの作品は、死後に発見される形で、歴史の中に姿を現しましたが、最初期に彼を見出した人々が、その作品を、「狂気の人」が書いたものであると感じたのは、ある意味では正しい直観でした。
 それはまだ、19世紀末、
フロイトが世に登場して「無意識 unconsciousness」の存在を世に問う前夜、直前の時代でした。
 しかし、彼の作品が、一種、精神病圏の要素をどこかに感じさせたというのは、アウトサイダー・アートとの類縁性からいっても妥当であると言えるのです。
 アウトサイダー・アートが持っているような、加工されていない、ナマの「無意識世界」との接触感、高電圧的で剥き出しの直接性、非人間的な「元型的」感覚と、ロートレアモンの世界は、とても似た性格があるからです。
アウトサイダー・アートと永遠なる回帰(永劫回帰)

 実際、彼に大きな影響を受けた作家ル・クレジオなどは、ロートレアモンの言語に、近代的なものではない、辺境にいる未開部族の言語と似たけはいを感じとりました。その言葉の持っている、呪術的で原初的な性格に注目したのでした。そして、発狂した作家シャルル・ノディエの夢魔的な作品との類縁性を語ったのでした。

 また、哲学者のガストン・バシュラールは、ロートレアモンの作品に見られる動物世界との親和性について指摘しました。作品に現れる動物たちの圧倒的な種類と数、激しくせわしない動性から、その点をとらえたのでした。そこでは、大天使は大蟹になって、創造主は犀になって現れます。しかし、その原始的性格の「無意識世界」との本質的な間近さという点を深く見ていくと、ロートレアモンの世界は、動物以外の「植物」や「鉱物」の世界とも、充分すぎるほど間近い性質を持っているのです。
 別の記事「諸星大二郎の『生物都市』と鉱物的意識」でも触れたような、サイケデリック体験における「
鉱物的意識」のような要素とも、どこかで通底しているのです。
諸星大二郎の『生物都市』と鉱物的意識)
 サイケデリック体験で、鉱物の「琥珀」と同一化した人物は報告します。

「セッションのこの時点で、時間は止まっているようだった。突然自分が琥珀の本質と思われるものを体験しているのだ、という考えがひらめいた。視界は均質な黄色っぽい明るさで輝き、平安と静寂と永遠性を感じていた。その超越的な性質にもかかわらず、この状態は生命と関係しているようだった。描写しがたいある種の有機的な性質を帯びていたのだ。このことは、一種の有機的なタイムカプセルである琥珀にも同じく当てはまることに気づいた。琥珀は、鉱物化した有機物質―しばしば昆虫や植物といった有機体を含み、何百万年もの間、それらを変化しない形で保存している樹脂―なのだ」

グロフ『深層からの回帰』菅靖彦他訳(青土社)

 実際、そのようなサイケデリック体験においては、鉱物にかぎらず、自然界のさまざまな動物や植物と同一化し、通常ではありえない圧倒的な形で、その緻密な生態を体験する事例が多数報告されています。
 そして、それらの報告の多くは、『マルドロールの歌』における動物との深い同一化の描写、アウトサイダー・アート的な感触などと、大変類似した性格があるものなのです
 つまりは、そのような「自然界」と同一化している要素(「元型的」世界)が、ロートレアモンの世界には、不思議な形で存在しているのです。

 また、サイケデリック体験の関係で触れると、ロートレアモンの世界には、ある種独特な「不眠」の感覚、深夜の「眠らない/目覚めている/覚醒」感覚があります。
 この点なども、一部の人々が、彼の薬物使用を疑ったように、普通にはない、「特殊な意識状態」を感じさせる要素にもなっているのです。
 「夢」の世界に近いのに、「不眠/覚醒」の要素を持っている、このような不思議な点も、ロートレアモンの世界における「意識拡張的」「変性意識的」なけはいとして注目できる点であるのです。

 さて、以上、ロートレアモンの世界に見られる「夢」や「無意識世界」との間近さ、アウトサイダー・アート動植物や自然界、原初的な世界との類縁性、不眠と覚醒などを、いろいろと数えあげてみました。
 このようにして見ると、一見、孤立しているロートレアモンの世界を、少し囲っていくこともできるようになってくるのです。
 別の記事でもとりあげている、
シャーマニズムの世界サイケデリックな世界、明晰夢の世界ともつながってくることになってくるのです。
 そして、そのように見てみると、私たちが、ロートレアモンを読む時に、真っ先に感じる、あの奇妙な「求心と眩暈の感覚」や、「意識の変容状態(変性意識)」が、何に由来するのかということも少し見えてくることになるのです。
 彼が、シャーマニズム変性意識状態(ASC)の土地である南米で育ったということにも、意味深い符号が感じられたりするのです。
 後の時代に出てくる、南米の「魔術的レアリスム(マジック・リアリズム)」の作家たちは、シュルレアリスムを経由した、彼の後裔たちであるとも言えるからです。

◆変異した時空の意識―フロー体験

 さて、次に、ロートレアモンを読むときに、私たちの「意識の背後」で起こってくる、不思議な「求心と眩暈の感覚」について、少し別の角度から考えてみたいと思います。
 これらも、原理的には、私たちの「投影」から生じていることではあるのです。
 ところで、哲学者のガストン・バシュラールは、ロートレアモンの「時間を喰らう」性質に注目しました。
 『歌』の不思議な速度感に飲まれていくと、私たちの時間が「食べられる」ように浸食され、喪われてしまうように感じられるからです。これは、当然、物理的な時間ではなく、私たちの主観的な「時間や速度」についての体験です。
 ここで何が起こっているのかが、注目されることであるのです。

 ところで、別の記事「フロー体験とは何か フロー状態 ゾーン ZONE とは」では、私たちが高度に集中した際に起こる特異な意識状態である「フロー体験」について解説しました
フロー体験とは何か フロー状態 ゾーン ZONE とは

 私たちは、物事に高度に集中している時、しばしば、俗に「ゾーン/ZONE」と呼ばれているような「フロー体験」に入り込みます。

「…これらの条件が存在する時、つまり目標が明確で、迅速なフィートバックがあり、そしてスキル〔技能〕とチャレンジ〔挑戦〕のバランスが取れたぎりぎりのところで活動している時、われわれの意識は変わり始める。そこでは、集中が焦点を結び、散漫さは消滅し、時の経過と自我の感覚を失う。その代わり、われわれは行動をコントロールできているという感覚を得、世界に全面的に一体化していると感じる。われわれは、この体験の特別な状態を『フロー』と呼ぶことにした」

「目標が明確で、フィートバックが適切で、チャレンジとスキルのバランスがとれている時、注意力は統制されていて、十分に使われている。心理的エネルギーに対する全体的な要求によって、フローにある人は完全に集中している。意識には、考えや不適切な感情をあちこちに散らす余裕はない。自意識は消失するが、いつもより自分が強くなったように感じる。時間の感覚はゆがみ、何時間もがたった一分に感じられる。人の全存在が肉体と精神のすべての機能に伸ばし広げられる。することはなんでも、それ自体のためにする価値があるようになる。生きていることはそれ自体を正当化するものになる。肉体的、心理的エネルギーの調和した集中の中で、人生はついに非の打ち所のないものになる」

M.チクセントミハイ『フロー体験入門』大森弘監訳(世界思想社)
※太字強調引用者


 こ
の「フロー体験」においては、私たちの意識は、一種の拡張された変容状態(変性意識状態)に入っていきます。そこにおいては時空の感覚に変化が起こってきます。
 時空の感覚は流動化し、時間は速くなったり遅くなったり、空間は伸びたり縮んだりします。
 知覚は澄みきり、通常はとらえられない、ミクロ的で微小な対象にさえ、完璧で透徹した注意力が行き届くように感じられるのです。
 一種の透視力的な感覚です。
 たとえば、山で滑落事故に陥った、或る作家は、その危機の中で、フロー的な意識に移行した時の状態を語ります。

「そのときの僕なら三〇歩離れたところから、松の葉で蚊の目を射抜くことさえ絶対できたはずであると、今も確信している

(シュルタイス『極限への旅』近藤純夫訳、日本教文社)

と表現しています。
 このような異様な集中と電圧の感じは、ロートレアモンを読むときに、私たちの「意識の背後」で起こってくる、異様な透視感覚と似たものでもあるのです。
 これは、さきに触れた「『夢』の世界に近いのに、『不眠/覚醒』の要素を持っている」事態と重なり合う「変性意識」のテーマであるのです。
 そして、このことを深く理解すると、「フロー体験」そのものを理解するにも役立つことにもなるし、ロートレアモンの世界を理解するのにも役立つことにもなるのです。

 というのも、フロー体験は、「意識の全面」で起こってくる状態ですが、読書/ものを読むときは、投影を通して、「意識の背後」に起こってくる状態になっているからです。
 ここでは、「意識」のどこで、どういう
状態が発生しているのかを理解することが重要なのです。

 そして、フロー体験の理解においても重要なことは(通常ここがよく理解されていないことですが)、「フロー flow 」も、決して「操作」してつくり出せるものではないということなのです。
 フロー flow とは、「流れ」という意味であり、潜在的感覚/潜在意識が、速やかに自発的に流れているときに、そのような状態が現れてくるということです。
 そのため、フロー flow も、はじめは、「意識の背後」から、その状態(感覚の沸騰)が起こってくるということです。
 そのプロセスが増大し、ひろがり、やがて「意識の前面」にまで及び、さらに、「意識の全面」にまで及んだときに、完全な「フロー flow 体験/流れ体験」が現れるということなのです。

 さて、このように説明すると、気づかれると思いますが、私たちが、小説などの「没入的な読書」をするときは、多かれ少なかれ、「意識の背後」で、小さなフロー的なことが起こり、時間が歪むような変容を体験しているということなのです。
 しかし、バシュラールが指摘したように、ロートレアモンの場合ほど、「時間が貪り喰われる」ことは起こってこないのです。
 ここに、ロートレアモンの、「投影」を大きく活性化・増幅しつつ、私たちの深い〈何か〉を引き出す特殊な性格があるということなのです。

 また、批評家モーリス・ブランショは、ロートレアモンの持つその「明晰さ」についても言及しました。
 しかし、ロートレアモンの明晰さは、意識表層の単なる論理的な明晰さではなく、いわば、湧出するヴィジョンを明確にとらえる幻視家の明晰さなのです。
 「夢」の中でのように、欲望や情動の一貫した〈流れ〉に波乗りしていく透視的な意識状態としての明晰さ(鮮明さ)なのです。

 そして、その作品を読むことを通して(投影を通して)、私たちの「意識の背後」では、惹き込まれるような過度な〈求心力〉が感じられ、一方、「意識の前面」では、振り回されるような過度な〈遠心力〉が感じられているという、両面的な事態が起こってくるのです。
 その過度な求心力と遠心力が、ロートレアモンを読むときに、私たちが引き込まれていく、夢と覚醒がないまぜになった、奇妙に歪んだ時空感覚、透視的な時空の由来になっているのです。

 そして、実際、フロー体験の古典的な研究においては、「創作活動」の中で、芸術家が没入していくさまざまなフロー体験、意識状態についての事例が集められています。
 また、例えば、プラハの作家フランツ・カフカなどは、その日記の中で、創作している最中に、神秘思想家シュタイナーがいうような「透視的状態に入るように思われる」と、シュタイナー本人を訪れた際に、彼に話したと記しています。
 
そのように、創作時におけるフロー体験と意識変容は、多くの人に見られる事例であり、決して稀なことではないのです。
 しかし、それが『マルドロールの歌』におけるように、作品自体の特異な性格(時空)として、定着・造形されるということは、他にあまり類例のないことであるのです。


◆幻視的シャーマニズム、または変性意識状態

 さて、これまで、ロートレアモンの世界が持っている、「意識」のさまざまな要素について見てきました。
 このようにして見ると、ロートレアモンが、幻視的な想像力で、「夢想/幻想を解放して書くこと」を通して、さまざまな深層意識の世界を探索し、自らの意識(変性意識)の帯域や可動域を広げていった様子が見えてくると思います。

 無意識/潜在意識的な深層から日常意識までの諸領域を、また、自然界(動植物世界)から人間(天上)世界までの広い宇宙を、想像的意識の広い可動域として、自在に、extreme に、飛翔している構造が見えてくるのです。
 それは、あたかも、部族のシャーマン」のようである、とも言えるものです。
 というのも、世界中に見られるシャーマニズムの基本的構造とは、シャーマンが、脱魂(エクスタシィ)して、魂を「異界」に飛ばして、そこから〈何か〉を得て、こちらの世界に戻ってくるという「往還の旅」の形式にあるからです。
 これは、世界中で、細部はさまざま多様だとしても、おおよそ似たような構造を持っている「普遍的なもの」なのです。
 実際、私なども、セラピーのセッションにおいて、さまざまな人々の内界の旅路を目撃してきましたが、ごく普通の人の内的世界から(「シャーマン」という言葉さえ知らないような人々の中から)、とてもシャーマン的な旅路が現れてくるということもしばしばだったのです。

 その意味では、ロートレアモンも、『歌』を書いていくことを通して、経験から学び、予期しない形で、シャーマニズムの基本構造を発見していったのだと思われます。
 そして、自らの脱魂(エクスタシィ)の「方法」をつかんでいったのです。
 書くうちに、幻視的想像の可能性をつかみ、序盤の青臭さを急速に脱して、自然発生的なシャーマニズムとして、変性意識の諸相(夢と覚醒)を振幅しつつ、そのスキルを上げていったのです。
 その想像的な変性意識のプロセスを、作品に定着したのです。
 その結果が、宇宙的な奥行きを持つ、特異で透視的な空間として残されたのだと考えられるのです。


◆夢見の技法

 さて、以上、ロートレアモンの作品を素材に、私たちの「意識」の諸領域や可能性、幻視的想像(創作)における変性意識の状態について、いろいろと見てみました。
 ここには、閉ざされた芸術や文芸などというジャンル(ゲーム)に限定されない、私たちの生が必要とする、多くの創造的沸騰があるのです。

 ところで、拙著『砂絵Ⅰ』では、「夢見の技法」と題して、私たちがある種の変性意識的な、意識の均衡状態を利用して、創造的なアウトプット(発出)や意識拡張を行なう方法論について検討しました。
 そのプロセスを通じて、私たちは、生のさまざまに多層的な次元を生きられるようになるからです。
→内容紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
 
 ロートレアモンの世界は、そのような「夢見の技法」の事例としても、私たちにさまざまな光を投げかけてくれるものとなっているのです。
 ロートレアモンの作品は、確かに特殊で例外的なものではありますが、そこに見られる体験世界や、探求方法は、普遍的なシャーマニズムと近い形態を持っているように、私たちの人生にとって、決して無縁なものではないからです。
 例えば、彼から霊感を受け、自らの守護神と見なした、超現実主義者(シュルレアリスト)たちの、「万人に開かれた創造(創作)」という考え方も、その具体的な方法(自動筆記)の効果は疑わしいものですが、とても正しい直観であったと思われるのです。
 「夢見の技法」としての創造活動(創作)は、私たちのすべてにとって開かれたものであり、人生の可能性を切りひらく、決定的な生の技法であるからです。
 そして、ロートレアモンの作品には、アウトサイダー・アートと同じように、文化的なゲームとは別に、原初的な創造性をかきたてる強い誘引の力があるのです。
 そのことを人に信じさせ、奮い立たせ、冒険に駆り立てるような、不思議な創造性の息吹があるのです。幻視的な詩人アンリ・ミショーが、『マルドロールの歌』を読んで、書きたくなった(書きはじめた)というのも、もっともなことなのです。

◆ある未来の意識

 さて、以上、この記事では、ロートレアモンのさまざまな要素を見てきました。
 当然、そのすべてが網羅されているわけではないですが、ここに挙げたような事柄だけから見ても、ロートレアモンが表現している、「心/意識の宇宙」が、遠大で、深遠なものを含んでいることがわかると思います。
 これらの「心/意識」の拡大された領域は、今現在、私たちが有している小さな「自意識」などに較べて、遥かに宇宙的なひろがりをもった、変容した「ある未来の意識」ともいうべきものなのです。
 そのような心/意識の不思議な透視力が、ロートレアモンを、いまだ未来的で、可能性にみちた存在にしているのです。
そして、その早い死から一世紀以上経っているのにかかわらず、彼の存在を、既存の文物の風景(牢獄)とは違う、「未知の開かれた領域」への里程標としているのです。

 

※変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。

Valentine Hugo  Les Chants de Maldoror

↓動画解説 「変性意識状態(ASC)とは何か その可能性と効果の実際」

↓動画解説「流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス」

※多様な変性意識状態についてはコチラ↓動画『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』