- リリー博士について
- 「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」
- 高次階層の存在と実践的取り組み
- 「自己、本質、自我のメタプログラムの量的関係」
- 自我の拡散と集中について―ボードレール
- 「本質(エッセンス)/光明/まばゆさ」体験の諸相
- おわりに
◆リリー博士について
別の記事では、映画『攻殻機動隊』を素材に、現代社会では知られていない、私たちの〈意識 consciousness〉が持つ、隠された次元、高次の階層構造について考えてみました。
→「制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする時だ」(攻殻機動隊)―ゴースト Ghost の変性意識
また、別(前)の記事では、その映画の結末で使われている「制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする」というセリフを素材に、有名な「意識」研究者、イルカ研究者、LSD研究者、アイソレーション・タンクの発明者でもあり、娯楽映画『アルタード・ステーツ』のモデルにもなった科学者、ジョン・C・リリー博士の仮説をとりあげてみました。
また、あわせて、フロー体験やグレゴリー・ベイトソンの理論を見てみました。
→意識の多層性とメタ・プログラマー―イルカ博士ジョン・C・リリーの探求(その1)
今回は、その続編(本編)として、リリー博士の興味深い理論を取り上げて、内容を見ていきたいと思います。
ところで、リリー博士の興味深く貴重な点は、ただ頭だけで考えて、理論を提示するという学者タイプとは違い、博士自身の実体験として、さまざまな仮説(方法論)を確認していったという点にあります。
LSDによるサイケデリック・セラピーについて触れつつ、そのような姿勢が、彼の受けた医学的訓練にあることを、博士は語ります。
私は、自分自身が同じようなセッションを体験するまでは、この治療において、なにが起こっているのか知ることはできないだろうと判断した。被験者として、患者が体験していることを体験するまで、自分が効果的なプログラムを考案できるとは思えなかった。私のこのような考えは、ペンシルバニア大学のH・C・バセット博士の下で一医学生として人間の生理学を研究していたきわめてはやい時期に、そしてその後の長年の科学的生活によって培われたものである。(中略)
もしも、あなたが人間の被験者を用いることに関心をもつ科学的研究者ならば、J・B・S・ホールデンの次のような格言に従わなければならない。「自分が自分の実験の第一被験者にならなければ、あなたは、人を使った科学的実験をする際、なにが必要であるかわからないだろう」。リリー『意識(サイクロン)の中心』菅靖彦訳、平河出版社)
このような姿勢と実験報告が、多くの理論家たちとの違いであるとともに、実践的な見地からは、とても役に立つところでもあるのです。
彼は、自分が実際に体験し、目撃した風景を、さまざまに報告しているからです。
そのことで、私たちは、精神探求の、ある種の航海図を手にすることができるからです。
ところで、リリー博士は、もともとは、純然たる科学者であり、神経生理学の研究から「意識の研究」をはじめた人でした。
当時は(今も主流の考えですが)、「意識 consciousness 」というものは、脳の産物として、副次的に存在しているのではないかという仮説があったからです。
当初の理論では、ハードウェアである脳の上に搭載されている、ソフトウェアである「意識」は、外部の知覚情報の入力なしには、自律的・独立的に存在しないだろう、という仮説(予測)があったのです。
そのような見地から、脳への知覚入力を遮断する「感覚遮断」の実験をはじめたのでした。
その実験のために作ったのが、感覚遮断した状態をつくり出す装置であるアイソレーション・タンクだったわけです。
そして、その研究の一環として、人間よりも脳の大きな、イルカの研究も行なったのでした。
上のような論の組み立てからすると、ハードウェアである脳が大きければ、それに載っかっている「ソフトウェアである意識」も、当然存在することになるからです。
イルカにも、なんらかの形で、意識が存在すると考えられたからです。
人間よりも大きい、その脳のサイズゆえに、「イルカの意識」が想定されたのです。
(今でも、西洋社会で、イルカが特別な動物とイメージされるのは、そのようなわけです)
ところが、リリー博士は、さまざまな実験を繰り返していく中で、感覚情報なしに、「意識 consciousness 」は、不思議な形で自律的に存在していることや、感覚遮断した意識状態にさまざまな興味深い現象が現れることに気づいていくこととなったのです。
つまり、「変性意識としてのさまざまな意識状態」に、気づいていくことになったのです。
そして、その研究プロセスの中で、さらに、当時、精神医学の領域で使われはじめていたLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)を用いて、意識についてのサイケデリックな実験も試みることになったのでした。
さて、そのような博士の著作に、『意識(サイクロン)の中心』(原題 : Centre of the Cyclone: An Autobiography of Inner Space )〔菅靖彦訳、平河出版社〕という自伝的な体裁をとった本があります。
博士自身が、研究の過程や仮説、精神的霊的探求の体験を、年代記風に記した著作です。
今回の記事では、この本での理論を中心に、色々と見ていきたいと思います。
◆「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」
さて、この本の中には、「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」と名付けられた図式があります。
これは、元々、前著『バイオコンピュータとLSD』(原題 : Programming and Metaprogramming in the Human Biocomputer)』〔菅靖彦訳、リブロポート〕で提示されていたモデルを改変したものです。
前著の中では、抽象的なモデルであり、一般的には、いまひとつ実践的なイメージがつきにくいものでした(元々、研究論文として書かれたものであるため)。
しかし、本書の中では、神秘家オスカー・イチャーソによる「意識のモデル」やその他の内的体験の描写と組み合わされて解説されることで、より実践的に、その図式の意味合いが伝わるものとなっているのです。
さて、以下では、これらを解説していきたいと思いますが、たしかに、これらの「意識モデル」は、実際に、意識の多様な諸次元(強度な変性意識状態)を体験していないと、イメージしづらいものではあります。
しかし、実際に、さまざまな変性意識や超越的な意識状態を体験していく段になると、非常に役に立つ図式であるのです。
「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」は、コンピューターの制御プログラミングのモデルを元にして、「人間」という生命コンピューター Biocomputer を考えた場合、どのようなプログラミングや制御の階層構造になっているかを示したものです。
10―未知なるもの
9 ―本質(エッセンス)のメタプログラミング
8 ―自己(セルフ)のメタプログラミング
7 ―自我(エゴ)のメタプログラミング
6 ―(制御システムとは関係のない)メタプログラミング全般
5 ―プログラミング
4 ―脳の諸活動
3 ―物質的構造としての脳
2 ―物質的構造としての身体
1 ―(身体と脳を含む)すべての側面をもった外的現実リリー『意識(サイクロン)の中心』菅靖彦訳、平河出版社)
上位にあるものが、その下位にあるものをプログラミングしたり、制御しているという構造になっています。下のものは、上のものによって、制御されているという形です。
ただ、「制御」と言っても、すべてが完全にコントロールできているという意味ではありません。
後述するように、制御の「系」は、多様であり、物質的なシンプルな機械のようにはいかないのです。
人間の内部は、より多様で、ネットワーク的に連携しているからです。
「そのような影響/プログラミングが可能な階層(次元)がある」ということです。
しかし、このような「制御系」と聞くと、それは、とても奇妙な考えであるかのように思われるかもしれません。
しかし、深い体験的心理療法の場面においても、またサイケデリック体験などにおいても、私たちの心(潜在意識)の深層が、まざまざと透視され、自分の中で『自律的に作動している心理プログラム』を目の当たりにするという事態は、起こってくるものなのです。
そして、それらの場面の中で、心理プログラムにアプローチし、再プログラミングを行なうということも、可能であることが実際わかってくるのです。
ただ、念のために付言しておきますと、それらは、以下で見るように、非常に深い深層次元で行なわれる、難易度の高いセラピー的作業であり、今、世間に溢れている(誇大広告している)自己啓発系のものでは、(当たり前のことですが)そのような再プログラミング/書き換えを行なうことはできません。
それは、前回の記事でも触れた、グレゴリー・ベイトソンの言う、
「学習Ⅱで獲得される諸前提が自動的に固められていく性格を持つということは、学習Ⅲが、人間といえどもなかなか到達できないレベルの現象であることを示している。(中略)
しかし、サイコセラピーの場でも、信仰のめざめというような体験においても、なにかこの種の、性格の根底的な再編ということが起こると考えられているし、実際に起こっているようである」ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社)※太字強調引用者
というレベルのことだからです。
学習Ⅱとは、取り組み行為の効率化や生存適応のために、私たちの内部に組成し、最適化された高次学習プログラムです。
ベイトソンは、「学習Ⅱ」という言い方で、わざとニュートラルに表現していますが、それは技芸の習得のようなものの他に、私たちの「感情(欲求)的反応」やその総体としての「自我状態」をも意味しているのです。
そのため、ベイトソンは、私たちの「性格」とは、「『学習Ⅱ』の産物の寄せ集めである」と言っているのです。
→グレゴリー・ベイトソンの学習理論と心の変容進化
それらを、再プログラミング(学習Ⅲ)するということは、実際には、とても難しいのです。
自分の「性格を変える」ことが、一般的には(特に日本では)、不可能と考えられていることを見ても、その難易度はわかるでしょう。
というのも、学習Ⅱのプログラムは、「その文脈(次元/階層)においては」最適化された、素晴らしいものだからです。
だから、人は、そのバッド・ループから、一生抜け出すことができないのです。
それを再プログラミング(学習Ⅲ)するには、「それを超えた/超越した文脈」が、実際に体験されないと、再プログラミング(学習Ⅲ)はされないのです。
ここで、重要なことは、「実際にそのような深い次元を体験する」ということです。
頭で考えるだけの方法や、その気になるだけの方法では、このような再プログラミングは、一切できないからです。
(そのため、ある種のサイケデリック体験はそれらを比較的起こしやすくもなっているのです)
この「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」は、そのようなことを理解するのにも役立つ図です。
再掲しますと―
10―未知なるもの
9 ―本質(エッセンス)のメタプログラミング
8 ―自己(セルフ)のメタプログラミング
7 ―自我(エゴ)のメタプログラミング
6 ―(制御システムとは関係のない)メタプログラミング全般
5 ―プログラミング
4 ―脳の諸活動
3 ―物質的構造としての脳
2 ―物質的構造としての身体
1 ―(身体と脳を含む)すべての側面をもった外的現実リリー(同書)
例えば、「学習Ⅱ」のような、部分的に最適化した、さまざまな「自我状態(感情/欲求)」は、図の「構造レベル7 自我(エゴ)のメタプログラミング」に該当します。
そのような自我状態は、私たちの中で、多数存在しており、私たちの中で競合し、私たちを苦しめる葛藤状態をつくり出します。
各自我状態は、互いにバラバラに存在し、私たちの中で軋轢になっているからです。
本物のコンピューターですと、不具合を起こして止まってしまうところが、人間生命コンピューターの素晴らしいところは、ひどい不具合があっても、なんとか稼働するところです。
しかし、その分、「生きる苦しみ」もあるということなのです。
→複数の自我状態 (私)について 心のグループ活動
しかし、それぞれの各自我状態は、閉じたプログラムであり、主観的には、自分は独立した単体であり、他の自我状態があるとは思っていないのです(その文脈がないのです)。
そして、現代人の平均的な自我状態とは、そのようなものなのです。
(付言すると、これが、この近代主義の行き詰まりをつくり出している原因でもあります)
リリー博士は指摘します。
「自我のレベルは、自分が力強い独立した実体であり、ネットワークも、本質も、いかなる創造者の観念も必要ないと思っているレベルである」
リリー(同書)
このような、自我(エゴ)のメタプログラミングを、制御するのが、「構造レベル8 自己(セルフ)のメタプログラミング」の次元です。
しかし、上記したように、自己(セルフ)のメタプログラミングが、簡単かつ自在に、自我(エゴ)のメタプログラミングをコントロールできたり、再プログラミングできるというわけではありません。
やり方によっては、「それが可能である」というだけです。
例えば、「3つのバラバラな自我(エゴ)」のメタプログラミングを例にとりあげて、それに関わる上位の「構造レベル8 自己(セルフ)のメタプログラミング」、つまり、自己メタプログラマーについて、リリー博士は指摘します。
「自己メタプログラマーはこれら三つの制御システムを行き来する場合もあれば、同時に、それらの一つ一つと同一化する場合もある。このような状態では、人間の生命コンピュータは、純粋な統一化された仕方で自らの状態を呼ぶために必要な統一段階にまだ達していない」
リリー(同書)
私たちは、通常、この水準で一生を過ごし、そして、一生を終えます。
そして、私たちが、複数の自我状態を「統合」するのには、方法論で、入念なセラピー的な再プログラミングのアプローチが必要であるということになります。
ただ、然るべきアプローチを通して、心に取り組むと、「自我(エゴ)のメタプログラミング」の不具合や競合状態は、再プログラミングされ、「自己(セルフ)のメタプログラミング」のもとに、下位の「自我(エゴ)のメタプログラム」がすべて滑らかに作動することも可能だとしているのです。
ところで、このように、私たちの中にある「自我 ego 」と「自己 self 」を分けて、階層的な考え方をするというのは、実は、進んだ心理療法の世界では、さほど珍しいということでもありません。
さまざまな流派で、自我 ego を超えた「全体性」を、「自己 self」と想定して、その実現を、自己実現のモデルとしているからです。
◆高次階層の存在と実践的取り組み
しかし、リリー博士の興味深いところは、「自己 self 」よりも、さらに上位階層の制御系をいろいろと想定し、それらを実際に、体験的に検証していったという点です。
図式にある、「構造レベル9 本質(エッセンス)のメタプログラミング」や「構造レベル10 未知なるもの」などです。
これらは、通常、私たち現代人がイメージする人間像の限界を超えた領域となります。つまり、学校では決して教わらない次元です。
これらの階層は、彼のサイケデリック体験や秘教的訓練の経験、また、臨死体験において、自らの高次な超自己であると同時に、ガイド(導き手)のように表象される不思議な存在者(実体)たちに出遭った経験から来ているのです。
この点が、彼を、意識の超越的次元をあつかう、トランスパーソナル心理学の先駆者/同伴者にしているのです。
「私は未知なるものを最上位に置いた。これは、探求者としての私の立場を要約するものである。未知なるものとは、私を超えたもの、われわれを超えたもの、われわれの現在の理解を超えたものである。未知なるものは、われわれの内部と外部に、そして、こうしたことすべてと関連するわれわれのあらゆる観念の中に存在する。だから、人間コンピュータとその働きを通して、未知なるものが最高なのである」
リリー(同書)
「未知なるもの」は、可能性を限定しないために仮定された階層であり、実践的なレベルで、何か取り沙汰されるというものではありません。
「本質(エッセンス)のメタプログラミング」の方は、ずっと実践的な関わりの中でやってくるものです。
「本質(エッセンス)のメタプログラミングとは、最も肯定的な意識状態、本書の他の箇所で、サトリとして説明されている状態に導くものである」
「本質(エッセンス)とは、人間、個人、身体、生命コンピュータに適用される、宇宙的法則の最高の表現である」
リリー(同書)
「本質(エッセンス)のメタプログラミング)」とは、前回の記事「意識の多層性とメタ・プログラマー―イルカ博士ジョン・C・リリーの探求(その1)」でも紹介した、A.マズローの「至高体験 peak-experience」や、ベイトソンの「学習Ⅲ(三次学習)」に関わる、かつ、それ以上の階層です。
超越的自己、トランスパーソナル・セルフ、ハイアーセルフなどと呼ばれると同時に、それらを超えた領域も含みます。
「学習Ⅲが、きわめて創造的に展開した場合、矛盾の解消とともに、個人的アイデンティティーがすべての関係的プロセスのなかへ溶出した世界が現出することになるかもしれない」
ベイトソン(同書)
このような高次の階層が現れてくる道筋を、リリー博士は、さまざまに記しています。
私たちは、セラピー的な再プログラミングを繰り返すことで、「自我のメタプログラミング」の競合(葛藤)状態を減らし、「自己のメタプログラミング」の統合力を増していくということです。すると、上位の「構造レベル9 本質(エッセンス)のメタプログラミング」が、働きやすくなるのです。それらが、私たちの人生に現れてくるのです。
「そうすれば、人は自我のメタプログラミングの力を減少させ、自己メタプログラミングの力を増大させ、本質のメタプログラミングの方へ移動しはじめることができるのだ」
ということです。
また、彼は、さまざまな「本質(エッセンス)」的な、超越的な体験を経験値として蓄積することで、そのプログラミングが組成し、私たちの中で働きやすくなるという点も指摘します。
「ここで役立つと思われる一つの考え方がある。肯定的レベルの実践的・体験的な体験によって、既定の生命コンピュータの本質メタプログラミングの力を強化できるというものだ。そうした場合、この既定の生命コンピュータは、徐々に、本質と本質のメタプログラミングの状態に入りこんでいけるようになる。そして、最終的に、自己メタプログラミングの努力を通じ、最も高いレベルの状態を構築・達成し、本質そのもの(本質のメタプログラミング)と同一化することによって、本質の内部に入りこんでいくことができる」
リリー(同書)
そのためにも、私たちは、「自我のメタプログラミング」の競合(葛藤)状態を減らすことや、「本質のメタプログラミング」の経験値を増やしていくこと、そして、その両者のプロセスを、「自己のメタプログラミング」としていくことが必要なのです。
「自己メタプログラマーが、その進路を決定し、本質のメタプログラミングのレベルを発達させはじめると、「私は本質に向かって動いている。私は真の本質のリアリティを見るために自分の人生を工夫している。私は本質に向かうために必要なことならどんなことでもしようとしている」といったメタプログラミングを引き受けはじめる。肯定的状態は発達し、自己メタプログラマーは、本質のメタプログラマーへと移行する。
リリー(同書)※太字強調引用者
さて、ところで、本書の中には、『自己、本質、自我のメタプログラムの量的関係』と題されたグラフ図があります。
そこでは、上記のような、「自我のメタプログラミング」のノイズを減少させ、「本質のメタプログラミング」の制御が増えていくプロセス(構成比の変化)が、グラフを使って表現されています。
そこでは、自己の中における「自我」と「本質」の構成比(占有比)が表されているのです。
そして、この本の各所で示されている、さまざまな不思議な変性意識/存在状態が、どのような構成比(占有比)になっているのかが記されているのです。
そのため、このような心身への取り組みが、私たちを「どのような意識状態」に導き、かつ、それらの「構造/構成比」がどのようになっているのかを知ることができるようになっているのです。
その図式に従うと―、
普通の私たちは、「自我 99%」 + 「本質 1%」のような構成比です。
自我や自意識を主体とし、葛藤を抱えながら、日々生きている状態です。
そして、心に取り組み、再プログラミングを行なっていくと、「自我」の葛藤と分裂が減少し、「本質(エッセンス)」の占有比が少しずつ増大していきます。
「自我 75%」 + 「本質 25%」は、「専門家の領域」と呼ばれる、内的なノイズに妨げられることなく、物事に高度に集中して取り組める状態です。
フロー体験(ZONE)の領域なども、多くはこの領域に含まれます。
普通、私たちが生きていて、「絶好調だ」「最高だ」「最高の幸せだ」と感じるのは、ここまでの領域です。
ここからさきの体験領域は、普通の人は、心に特別に取り組むことがないならば、基本的には、人生で得ることのない領域となります。
現代文明の大部分の文物は、ここまでの事柄です。
「自我 50%」 + 「本質 50%」になると、それは、まばゆく超越的な、素晴らしく肯定的な状態、輝き出るような意識状態(エクスタシィ)の領域となります。
前回の記事でも触れたような「聖霊に満たされた」かのような体験領域です。
後で引用しますが、地上で体験できる極限的な至福状態とも言えます。
「自我 25%」 + 「本質 75%」になると、もはや身体が消滅した、「意識の点」としての体験領域となります。
そこでは、通常の時空が超えられ、さまざまな実体と融通無碍に透過しつつ、自らは「意識の点」であるという、不思議な体験領域/状態です。
「自我 1%」 + 「本質 99%」は、古典的なサトリの領域、宇宙と一体化した領域となります。
この本の中では、このような構成比(占有比)の推移と、さまざまな意識/存在状態が相関的に描写されていくこととなるのです。
◆自我の拡散と集中について―ボードレール
さて、上では、リリー博士の「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」に従って、私たちの現状のあり様(構造)や、可能となる超越的な意識を見てみました。
ただ、これらは図式的な話ですので、頭ではなんとなく類推できるものですが、個人の主観的体験としては、イメージしづらしいものがあります。
なぜなら、通常の私たちは、さまざまな「自我」に同一化し、その狭い「主観的世界」の中で生きているものだからです。
以下では、主観的イメージにおける、構成比(占有比)の推移について少し書いてみたいと思います。
ところで、私たちの中で、「本質(エッセンス)」の占有比が上がってくる、その主観的なイメージについていうと、それはまず、「フロー体験」におけるそれがイメージしやすいものです。
前回の記事でも触れたように、フロー体験においては、その取り組み行為の最中に(それがスポーツであれ、創作であれ、演奏であれ)、自分がその行為を完全にコントロールしているという感覚を持つのと同時に、「〈何か〉別の存在がその行為をしている」「その流れに運ばれている」というような不思議な感覚を持つものだからです。
これが、「本質(エッセンス)」が入りこんでいる時の主観的な印象です。
主体が二重化し、「この自我(エゴ)を超えたものの働き」が感じられるのです。
この「二重感覚/二重化の感覚」が、本質(エッセンス)の占有比増の特徴であると同時に、注意深く見てみると、普段のさまざまな人間活動の中にも見られる現象なのです。
このような二重感覚は、私たちの人生のさまざまな場面で、折に触れ、体験されているものであるのです。
創造的な仕事をしている場面における、「霊感(インスピレーション)」などにも、そのような二重感覚があります。
かつて、フランスの詩人ボードレール Baudelaire は、手記に次のような言葉を書きつけました。
「自我」の拡散と集中について。そこにすべてがある。
ボードレール『赤裸の心』矢内原伊作訳(人文書院)
この「拡散と集中」にも、二重感覚は現れています。
自らの「自我」に集中して、自意識や内省を深めるという〈極性〉と、一方、「自我」を拡散させ、対象に没入したり、宇宙と法悦的に交感するという〈極性〉の、この両極の振幅と併存の中に、魂と創造のダイナミスムがあるのです。
そのような両極性をもつ「器」は、生の深淵を探索したり、創造的であるためには、必須の要素とも言えます。
その両極の振れ幅が大きければ大きいほど、(それがバランスしていれば)その人格の「器」となり、その創造的作用も深遠な力を発揮するからです。
ボードレールは、次のようにも指摘します。
「文学の根本的な二つの特質―超自然主義とイロニー。
作家の前にあるものの外観を個人的な眼でとらえ、ついで悪魔的な精神を働かせること。超自然はすべての色彩と抑揚を含む。すなわち、空間及び時間における緊張性、音響性、透明性、振動性、深さ、反響を含む。
人生には、時間と空間とが一層深くなり、生の感情が無限に増大するようなときがある」「ほとんど超自然のある種の魂の状態にあっては、眼の前にある極めて平凡な光景の中にも生命の深さの全体がすっかりあらわれる。それは生命全体の象徴となるのだ」
「霊感は、人がそれを欲する時にはいつでも到来するが、退散してほしい時にはいつでも退散してくれるとは限らない」
ボードレール『火箭』矢内原伊作訳(人文書院)
「超自然主義とイロニー」が、「自我の拡散と集中」と平行関係にあることは、見てとれると思います。
魂の開閉の原理としては、同じことだからです。
拡散の極は、超自然主義であり、集中の極は、イロニーだからです。
魂の働きの〈極性〉として、この二つの特質があるのです。
そして、才能のある人間、創造的な「器」を持つ人間というのは、このような両極性、二重感覚を持っているのです。
そして、その原理(構造)の内実はというと、これらは、上でさまざまに見てきた、「本質(エッセンス」と「自我(エゴ)」の関係であるということなのです。
そして、その構造や、構成比(占有比)の推移、二重感覚も、同様なのです。
このように、リリー博士のモデルは、決してまったく独自のものというわけではなく、さまざまな文物に見出される、普遍的な構造であると言えるのです。
さまざまな文物を見ていくのにも、それらは有効な切り口であるのです。
また、上で、ボードレールが語っている「霊感/ヴィジョン」の性質は、「本質(エッセンス」の夢見の力が持っている、ある種の性質/猛威と言えます。
これらも、リリー博士のいう「本質のメタプログラミング」の一種だからです。
(普通の人は、彼がいうように霊感は来ないと考えますが、それも構成比/占有比の問題です)
それらは、自我よりも深い力として、私たちを、終わりない「流れ」のプロセスに巻き込んでしまうです。
しかし、そのことで、私たちを然るべき場所に「運んでくれる」ことにもなっているのです。
ネイティブ・アメリカンの世界では、しばしば、ヴィジョンをまるで生き物(スピリット)のように語ります。
そのことなども、これらの事柄と深く関係しているのです。
また、ついでに言うと、「超自然主義とイロニー」という一対を見ると、通常、すぐにドイツ・ロマン派などが想起されるものです。彼らは、方法論的に、その極点を探求した人たちだったからです。そして、その深遠な属性は、たしかに、E・T・A・.ホフマンからドストエフスキーにつながる、霊感/幻視性の火山脈として、現代の私たちにも届いていると言えるのです。
◆「本質(エッセンス)/光明/まばゆさ」体験の諸相
さて、では実際に、リリー博士の本で、「本質(エッセンス」の占有比が高まったとき、私たちがどのような状態になるのか、体験をするのか、その描写を見てみましょう。
次の光景は、博士が、南米におる秘教的訓練のさなかに、「自我 50%」 + 「本質 50%」(本の中でいう「意識の振動レベル+12」)の状態に突入した際の体験描写となっています。
あたかも、私は新しい空間へと導く内部スイッチが入れられたかのようであった。このように突然、新しい空間に入りこむという飛躍があった。あらゆるものが輝き、反響し、喜びに溢れるものとなった。他の人々を、こうした美しい状態に連れていきたいと思った。大気の中に、シャンペンの泡のようにきらめくものを見た。床の上のほこりは黄金の塵のように見え、小鳥のさえずりは銀河の中心から宇宙を貫いて反響してくる声となった。私自身が「オーム」と唱える声も、同様だった。
あらゆるものが透明になった。宇宙エネルギーが私の身体に入りこみ、身体全体から他人に送られるのが見えた。私自身のオーラを見、他人のオーラを見た。なにもかも完璧だと思った。すべてのものが生きていた。すべての人々がかけがえのない存在であり、喜びに溢れていた。リリー(同書)
これらは、にわかに信じがたい体験で、あまりあるものではない体験/状態だと思われるかもしれません。
しかし、実は、そうでもないのです。
精神探求的な体験的心理療法などを本気で突き詰めていくと、実際、そのようなことが起こりはじめてくるのです。
身近で探求していた、私の知人の中でも、複数の人々がそのような体験を持っています。
「自我(エゴ)」が減少し、「本質(エッセンス」の占有比が高まってくるとそのようなことが実際に起こってくるのです。
そうなると、私たちの人生に、その「まばゆさ」が圧倒的な形で、侵入、透過してくることになるのです。
以下のものは、実際、私自身が体験した体験/状態です。
……………………………
……………………
………………
ただ「まばゆさ」がある…
不思議な「まばゆさ」がただ果てしなくひろがっている………………………………
……………………
あたり一面の…「まばゆさ」の透過……
遥かな…遠い芯からの… 「まばゆさ」の到来…
満ち満ちる「まばゆさ」の遍満… ひろがり…
宇宙の…存在の…芯からの… 〈光〉のまばゆい透過… 超過……
……………………………
眼を瞑っていても、圧倒的な光明のまばゆい毛羽立ちがある…
まばゆい〈光〉の遍満と膨満…
果てしなく、まばゆい空間が透過している…
まばゆい空間が満ち満ちている…
超過している…
あたりに、虹のように透過し、浸透する、不壊の空間‐次元のひろがり…
……………………………
まばゆい「虹の」空間‐次元の遍満。
まばゆい光明の透過-突き上げ-臨在。
「それ」を認知するというよりも、「それ」がいっさいであり、「それ」が透過し、「それ」がひろがり、満たし、超過し、「それ」が空間としてあり、次元としてあり、いっさいの顕れの「本体」だったのである…
遠い芯からの、まぶしい光明と次元の溢出…
満ちわたる遍満の輝きは、まばゆい放射であり、不壊であり、不滅であり、善きものである… 美であり、浄らかであり、至福であり、途方もない歓喜である…
圧倒的な光明の臨在=充溢があり、そこでは自己の存在などは、もみ殻のように微かで、稀薄なものになっていたのである…
広大な光のひろがりに透過され、ただサラサラとまばゆい微熱の中にあったのである…
風景の奥行きは無辺のひろがりであり、果てのない、まばゆさの透過であり、虹の空間‐次元の透徹がいっさいとして、いき渡っていたのである…
そのまばゆさは、宇宙の芯、遥かな存在の芯から来ると同時に、非時空的なまぢかさをもって、今ここに顕れ、透過していた…
そして、光は、非時空の無限のひろがりであり、宇宙の厚みを透けるように射しぬき、圧倒的な充溢=臨在で、今ここを超過しているのであった…
………………………………………
………………………………見えるもの、感じるものすべてに「まばゆさ」の透過=超過がある…
その奥に、「まばゆさ」の空間=遍在がひろがっている。
(一粒の砂にも…)
物質や見かけに制限されないまばゆさの溢出=膨満…
すべての風景の細部から、白い光のような放射‐空間が毛羽立つよう溢れている…
まばゆく変成した世界が、そこにはあったのである。
真の無限は、有限に限定されることなく、有限さを属性のひとつとするといわれるように、目の前の有限な事物たちは、無限の光に透過され、無限なものの一部として、その表現(表れ)として、内包されたまばゆい超過として、そこにあったのである。
無限の光のまばゆい構成物として、そこにあったのである。
すべての風景が過度に彩り鮮やかであり、チリチリとまぶしい燐光に溢れていた。
無限なものの微光が、そこに燃えていたのである。
物たちは、内側からの、芯からの光明に透かされているようである。
そして、見えるものたちは、かろうじての形であり、薄い見せかけであり、中身の「本体」は超過する無限のまばゆさ、非時空のひろがりであり、光明をはらみつつ飽和する、影像のように感じられたのである。
そして、それは自分の肉体においても同様であった…
肉体は光に透過され、透かされ、光の構成物のように透明になっていたのである…
そして、触れる物たちは皆、摩擦を持たない粒子を表面に持つかのようになめらかであり、スルスルと精妙微細なもの、硬質で謎めいたものに感じられたのである…
影像としての世界… 顚倒した世界…
眼の前に、さまざまな物たちを見る。
確かにそれらはそこに在る。しかし、個々の物の区別や輪郭、構造や仕組みは、顕れている世界の表面的な虚構でしかなく、深層の実体ではなく、何らかの約束、契約上の設定(役柄)のように感じられたのである。
物たちのほんとうの実体‐素顔は、サラサラとした微粒子のまばゆい流動‐放射の層であり、見える景色は、まぶしい陽光に内から射しぬかれた表層、剥片として顕れているにすぎないと感じられたのである。
すべての物たちは、かりそめの役として、名をもつ固形物を演じているようで、その本性においては、微細な光をはらみつつ溢れ出ている、霊妙微細なものたちなのであった。
眼の前のいっさいに、背後で溢れる光の次元があり、膨満する光の内圧があり、表皮の剥けかかった物(果実)たちの輝き、表面のなめらかな沸騰があり、その鏡像の仮面劇、風景として、自分も宇宙もあったのである…
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そして、このような体験は、間歇的な体験としてだけでなく、穏やかになった状態で、恒久的に続くものとなるのです。
そして、私たちの人生を決定的に変えてしまうこととなるのです。
ところで、このような「本質(エッセンス)」の存在は、日常生活の中でも、活動の中で、探求/掘削されるものであるのです。
それらは、さまざまな探求方法の中で、「霊感/ヴィジョン」として、幻視/透視として、姿を現してくるものだからです。
特に、内なるものの創造的投影/幻視を通して、「本質(エッセンス)」に同調(共振)し、引き出し、それらを映し出すことが、可能なことなのです。
それらは、突破口を創り出す、いわば「夢見の技法」「幻視的シャーマニズム」と呼べるものです。
しかし、そのような幻視/透視を通して、さきにも引いたように、リリー博士のいうメタプログラミングを蓄積していくことができるのです。
「ここで役立つと思われる一つの考え方がある。肯定的レベルの実践的・体験的な体験によって、既定の生命コンピュータの本質メタプログラミングの力を強化できるというものだ。そうした場合、この既定の生命コンピュータは、徐々に、本質と本質のメタプログラミングの状態に入りこんでいけるようになる」
リリー(同書)
「本質(エッセンス)」は、険しい山を登攀するような集中と幻視(透視)のうちに、まばゆい姿を現してくるものなのです。
そして、そのような登攀と掘削のプロセスを繰り返す中で、「本質(エッセンス)」につながる鉱脈を発見し、そこにつながるメタプログラミングを、私たちの中に蓄積していくことができるのです。
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見晴らしもとめ
急峻なけもの径を
渇くようあがっていく
苔むす倒木を跨ぎこえ
巨木の交う秘かな暗緑の森陰
ぬけていく
見あげる高い樹冠に
葉蔭ひらき
覗く
濃緑の聳え
鬱蒼の山嶺
射しこむ
陽の烈しさ
ささめきひしめく暑熱の
白昼のしずまりに
凝視きしみ
砕き
伐りだされる
青空の
原石
ないものの奥に
眩みの
一点
澄んでいく
私が、「伐りだされた青空の原石」というヴィジョンを得たのは、二十歳の頃でした。
その時、そのような意識/存在状態があるに違いないと直観/確信したのでした。
そのようなメタプログラミングが、その後の人生の探求の中で生き続け、結局は、十年以上経って、私を、まばゆい「本質(エッセンス)」の地平にたどり着かせることになったのです。
そのようなメタプログラミングが可能なのです。
◆おわりに
さて、今回は、リリー博士の「人間生命コンピュータの機構(シェーマ)」という図式を使って、私たちに可能な意識/存在状態を見てみました。
また、図式の示す、さまざまな仕組みについて考えてみました
復習すると、
・階層/次元構造
・制御の仕方
・自我(エゴ)の分裂と葛藤
・自我(エゴ)と本質(エッセンス)の構成比/占有比
・主観的な二重感覚
・体験の諸相
などです。
リリー博士の探求には、他にも興味深いものがありますので、次回以降も、彼の示す「意識/存在状態」について、いろいろと見ていきたいと思います。
※変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
