さまざまな〈夜〉の意識/変性意識―ヘルダーリン、アルトー、ミロシュ…

◆「昼の意識」と「夜の意識」

 通常、私たちは、「この私」、この「日常意識」だけを意識だと思って生きています。
 それ以外にも、さまざまな変性意識や潜在意識があり、それが精神や創造性に重要なものであることを、当スペースでは、中心的なコンセプトとしています。
 そのような日常意識と、潜在意識や変性意識との関係は、喩えると、「昼と夜」の関係のようでもあります

 私たち人類は、有史以来、昼の時間と夜の時間のサイクルの中で生きてきました。
 そのため、さまざまな古い創世神話の中でも、昼や夜がどのようにして分かれたのか、生まれたのか等が、さまざまな形で語られてきたのです。

 普段、私たちは、「昼」の世界を中心に生きています。
 とりわけ、近代社会は、「昼」の世界の価値観が、世の中で大勢を占めだした時代です。
 現代では、そのような「昼」の世界の価値観が、皓々と光る、24時間営業のコンビニのように、人生のすべての局面を埋め尽くしています。
 そこでは、人生で行なうさまざまな事柄の価値が、経済的な価値観にのっとり、明確で、くっきり
照らされるようにあります。
 しかし、それは、どこか表面的で限定的、平板で、空虚な装いを感じさせます。
 人間の魂のひろがりは、昼のように「計算可能なもの」のみでできているわけではないからです。

 晩年の三島由紀夫が、自らの来歴を語るにあたって、「批評の昼」と「告白の夜」との間の「黄昏(誰そ彼)」の文体/領域が必要だと感じたように、私たちがそこおいては、もはや、「誰そ彼/私ではない誰か」に近づくような、そのような領域が、魂には必要なのです。
 というのも、そのような「誰そ彼/私ではない誰か/非人称の領域」こそが、魂の起源であり、そのような領域につながることで、私たちは「この私」(日常意識)という空虚な役割(仮面)を生きることもできるからです。
 魂がそこからやってくる領域とは、「昼」の世界ではなく、「夜」の世界と言えるからなのです。
 そのため、人類は、「夜」について、さまざまなイメージや物語を語ってきました。

 人類が、「夜」について持つイメージは、さまざまな神話や文化的な表象の中でも多く描かれていますが、私たちにとって、豊穣で深遠な意味を持つものです。
 暗黒と無限、死と冥界、夢と啓示など、昼の世界の外にあって、それに回収されない、無形の、暗闇の広大なひろがりがあるのです。
 そして、それは多くの霊感を、私たちにもたらしてくれるのです。

 この昼ばかりになる近代社会の幕開け時代、ドイツのヘルダーリンは歌っていました。

この崇高の極みのもの 夜の不思議な恵みは測りがたい。何びとも
いつから、何を 夜から受けるかを知ることはない。
こうして夜は 世界を そして希望することをやめない人間の魂を動かすが、
賢者さえも夜が授けるものをさとらない。
(中略)
そうだ、夜に花環と歌とを捧げるのは 事理にかなったことなのだ、
なぜなら、夜は 物狂いの者たちにも死者たちにも崇められているが、
それはみずからによって存続し、最も自由な精神をもっているからだ。
だがそればかりでない、夜は 逡巡の時代 暗黒のなかにも、われらに
なんらかの支えをあらしめようと
忘却と聖なる酔いをさずけ、
さらに 恋する者のように眠りを知らぬ奔流する言葉を恵み、
また よりゆたかに溢れる杯と より奔放な生と
そのうえ 暗黒の時代にも目ざめてあるようにと 聖なる記憶をわれらに贈るのだ。

ヘルダーリン『パンと葡萄酒』浅井真男訳(河出書房新社)


 そのように、私たちの生にとって、「夜」のもたらすものは、深遠で底知れないものがあるです。

 一方、現代社会は、昼の計算的な世界が、かつてないほどの打算ですべてを埋め尽くし、「夜」が排除され、周縁化されている世界です。
 昼の明るさは、私たちをピカピカの狭苦しい世界に縛りつけ、抑えつけ、真実はそこでは収奪されていくことになっているのです。
 そのようなわけで、アントナン・アルトーが激越な調子で、その拘束を振りほどくときに、彼が使う「夜」という言葉も、そのような喩えから来ているのです。
 そこでは、生に縛りつけられた「意識(日常意識)と、無限の、とらわれのない「夜の身体」が対比的に語られているのです。

無限とは何か

われわれはそれをよく知らない!

それは
われわれの意識が
法外な、
果てしない、法外な
可能性に向けて
開かれるのを
示すため
われわれが使う
一つの言葉でである。

意識とは一体何だろうか。

われわれはそれをよく知らない。

それは無である。

われわれに何か理解できないことがあるとき
どの側面において
これを理解できないか
示すために
一つの虚無を
われわれは使用する
そのとき
われわれは
意識といい、
意識の側面というのである、
しかし他にも、
無数の側面が存在するのである。

それで?

意識は
われわれの内部で
性欲に
飢餓に
縛り付けられているようだ。

しかし意識が
こういったものに
まったく
縛られないこともありうるであろう。
こうもいわれるし
またいうことができる。
つまり意識とは
ひとつの欲望、
生きる欲望であると
いうのもあるのだ。

そして生きる欲望の傍らに
じかにやってくるのは、
食物への欲望であり
これはじかに精神にやってくるのである。

いかなる食欲もなしに食べ
しかも飢えている
人間などまるで存在しないかのように。

なぜなら
食欲もなしに
飢えるということもまた
存在するのである。

それで?

それで

可能性の空間は
ある日私に与えられた
まるで私がひり出す
大きな屁のように
しかし空間についても、
可能性についても、
私はそれが何だかよく知らなかった、
それを考える必要も私は覚えなかった、

それらは
一つの欲求の
切迫した必要に直面して

実在し
実在しない
物事を定義するために
発明された言葉である。
この欲求とは観念を、
観念とその神話を打ち消し、
そのかわりにあの爆発的な必要性の
雷鳴のような表出を

君臨させようとする欲求である、
私の内部に夜の身体を拡張すること、

私の自我の
内部の無の身体

夜であり、
無であり、
無思考であり、

何か
置き換えられるべきものが
存在するという
爆発的な確信である

私の身体。

アルトー『神の裁きと決別するために』宇野邦一訳(ペヨトル工房)


 昼の狭苦しく凡庸な世界に、「否」をいう時も、夜の非限定や無限のイメージは召喚されてくるのです。

 
◆「夜の意識」と変性意識

 さて、私たちは、「昼」の世界を中心に生きていますが、それは「魂の全体性」にとっては、ほんの一部の世界でしかありません。
 昼の「日常意識」に対比して、それらを溶解させる「変性意識状態」を語ることもできるでしょう。

 「夢」も、変性意識状態のひとつですが、他にも、さまざまな〈夜〉的な変性意識を語ることができるのです。
 そのような変性意識状態を経由して、私たちは、「魂の全体性/超越的全体性」に触れていくことができるのです。

 別の記事「ノヴァーリスと〈魔術的透過性〉」では、ドイツ・ロマン派のノヴァーリスを題材に、その不思議な宇宙観を見ていきました。
 彼のその宇宙観は、彼の神秘体験から来たものでした。
 そこでも、〈夜〉が、重要な存在であったため、彼は、『夜の讃歌』を書くことになったのです。
 彼が、 夭折した許嫁(ゾフィー)の墓前にいる、とある夕暮れに、〈夜〉がやって来たのです。

「おりしも青色の彼方から――過ぎし日の至福の高みから――夕べの神立が不意に訪れ――突如としての臍の緒が――光の枷が――断たれた。地上の壮麗さは消え去り、ともにわが悲しみも消え失せ――憂愁も、新たな無窮の世界へと流れ込んだ――夜の熱狂、天上の眠りであるおまえが、わたしの身に訪れ――あたりは静かに聳えていった。解き放たれ、新たな生を受けたわが霊が、その上に漂っていた。墓丘は砂塵と化し――その砂塵を透かして、神々しく変容した恋人の面差しが見えた。その眼には永遠が宿っていた――わたしがその両の手をとると、涙はきらめく不断の糸となった。数千年が、嵐のごとくに遠方に吹きすぎていった」

ノヴァーリス『夜の讃歌』今泉文子訳(筑摩書房)


「臍の緒が――光の枷が――断たれ」て、「新たな無窮の世界」「夜の熱狂」「天上の眠り」が体験された様子、時空を超えるような体験をした様子が描かれています。
 そこで、「昼の世界/地上/この世/現実」から、切り離されて、「夜の世界/天上/あの世/彼方(無限)の世界」に参入したのです。

夜がわれらの内に開いた無限の目は、あの煌めく星々のよりも神々しく思われる。その目は、数知れぬ星の群れの最も淡い星影よりもさらに向こうをのぞみ見、愛する心情の深みを――より高い空間を言い知れぬ喜悦で満たすものを――光を要せずして見通す。世界の女王よ。諸々の聖なる世界の高貴な告知書よ、浄福の愛の告知者よ、称えられよ。

夜の支配は時空を超えている。眠りは永遠につづく。聖なる眠りよ。

(同書)

そのように、〈夜〉とさまざまな変性意識状態は、私たちに、昼や日常意識では得られない、非時空のリアリティを体験させてくれるのです。

◆夜の変性意識/超越的意識へ

 さて、前段で、「誰そ彼/私ではない誰か/非人称の領域」こそが、魂の起源であり、そのような領域につながることで、私たちは「この私」(日常意識)という空虚な役割(仮面)を生きることができることについて触れました。

 夜と宇宙の彼方を透視し、そのような魂の起源の風景を描写した人に、リトアニア生まれの神秘的な詩人、オスカル・ミロシュ Oscar Milosz がいます。
 彼の透視的な瞑想は、そんな宇宙の奥処の姿を、驚異なかたちで、私たちに見せてくれるのです。

真夜中に 宇宙の最も完成した沈黙によって眠りから覚まされることが 私はおりおりある。あたかもそれは 天の多数の星たちが 私の思想の中に 彼らの到り着くべき極点を とつぜん認めて わたしの頭の上方(うえ)で 歩みをとどめ 息をひそめてわたしを見つめるかのようだ。するとはるかな幼い日々のように わたしの心の全体が 自然のさまざまな空間の奥からわたしを呼ぼうとする大きな声の方に向く。しかしわたしの待望はむなしい。わたしをつつんでいる平和がこんなにも完全なのは この平和が もう私には名づけようもないものだからなのだ。それは私の衷(うち)にあり そして われらの融合が完全なときのわれらはおなじく名指すことのできないこの場の中にある。最も普遍的な場ということばさえ、もう当てはまらない。此処と言っても その意味がやはりくっついているのでは 当てはまらない。われらが依然一つの彼岸を置くことのできるこの場で しかも何一つわれらの外にない。そして 思想の呼吸する全空間が われらに 容器(いれもの)として見えるのではなく 神の両手から落ちてきた美しい結晶の宇宙の 光りかがやく内面として見える。以前にわたしは 完全な沈黙の霊に自分がつかまれると 眼を星々の方に上げたものだった。今では私の眼は 自分の本質の中に降りて行く。なぜなら星たちの秘義は われらの本質の中にあり 星々自身にあるのではない。星たちが そこからわたしを眺めるその場所は わたし自身がそこから離れているのではないその場所だ。そして宇宙が愛をもってわたしを咎める表情を わたしが宇宙の顔にみとめるとき わたしは自分自身の良心のメランコリーをみとめるのだ。限られているいろいろの運動の限りなさから生まれる広大さは わたしの魂の空無を充たすちからを持たない。瞬時瞬時が わたしの心の鼓動を通じて数えられるものでないようなの外延が どこまで登ってもとどくことのできないような高処が在るのだ。だから いかに拡がっても無から無への拡がりでしかないものは もうわたしには どうでもいい! たしかにわたしは ずいぶん高いところから墜ちてきている存在だ。しかし わたしが世界と共に墜ちてきているその墜落の距離を計る尺度は 或る別の空間なのだ。 ほんとうの存在の場所 唯一の正しい在り場所 わたしの衷(うち)にある。まさにそのために この夜 宇宙であってわたしの良心であるものが めざめて めざめて わたしを見つめる。おお わがよ! わたしの悪の名は無智ではなく忘却です。あなたの子を 思い出すちからの泉に 連れもどしてください。わたし自身の血に 流をさかのぼれと命じてください。わたしの墜落の運動が 時間であって空間であるものを 作り出しました。このものは水のひろがりのように 無限定の不動の中で わたしをつつんで閉ざし そしてその水を容れる器を思い浮かべる力を わたしは持たない。それゆえ わたしは願う――わたしの上昇が 別の空間を――ほんとうの 本原の 聖化されている空間を投げ出すことを、そして その暗い眼ざしがわたしの魂を見ている わたしの悩みから生まれた息子である この宇宙が わたしといっしょに 金いろの浄福の ざわめく感化力のよろこばしい流の中を ふるさとへと登り行くことを。

ミロス『復帰の讃歌』片山敏彦訳(平凡社)

【ブックガイド】

変性意識状態(ASC)や意識変容、超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。