海外の宿泊所には、しばしば、世界の旅行者が残していった本が、本棚のようになって置かれているものです。
そんな本棚の中に、珍しい本を見つけるのは、その旅行者のさまざまな姿や想いが想像できて、楽しいものです。
インドの或る宿に泊まった際、そんな本棚の中に、Arthur Rimbaud の綺麗な “Une saison en enfer” (地獄の季節)が一冊ありました。
中身は、“Une saison en enfer”しか含まれていないほんとに薄い一冊で、そういえば、Rimbaud 自身が自費で印刷したのも、こんな薄いものだったのだと、あらためて思い出されたのでした。
そして、その薄さと内容の濃密さとの不思議な対照性に感慨を深めたのでした。
◆「彗星的」な通過
さて、別の記事では、19世紀のフランスの詩人ロートレアモン伯爵 Le Comte de Lautréamont について取り上げました。
そして、その天才的な作品が暗示している、私たちの「拡張された意識状態」について色々と考察してみました。
今回の記事では、ロートレアモン伯爵としばしば並べて語られる、同じような特異な天才、アルチュール・ランボー Arthur Rimbaud について取り上げ、その幻視/透視の天才性について、少し見てみたいと思います。
ランボーとロートレアモンは、通常の文学とは別に、その親和性からいっても、後の時代の「シュルレアリスム(超現実主義)」の中で特別な扱いを受けることになったわけですが、それには、それなりの正当な理由があったと言えます。
「シュルレアリスム(超現実主義)」も、初期のランボーと同じく、文学や芸術に、現代社会では考えられないくらいの、過剰で超越的な野望を持たせていたからです。
ランボーの初期の野望は、非常に若かったことや影響関係など、さまざまな要因がありますが、その抜きんでた才能と無縁のものとは言えないのです。
しかし、ランボーには、ロートレアモンと似ている部分とそうでない部分もさまざまにあります。
似ている部分は、ほぼ同時代のフランスに生きたこと、ともに作品の創作時に若年であったこと、またとりわけ、その天才の本質的な部分、その作品(幻視/透視)の啓示的閃光が、人類史の中でも孤絶した性格を持っており、今もって謎のままであるという点にあります。
そして、ロートレアモンの場合と同じように、ここでも、通常の文芸批評/評論のたぐいは、ランボーの超越性を、ありきたりの人間的次元に回収してわかったつもりになる(抑圧する)という意味で、凡庸で退屈な結果しかもたらさないという点です。
そして、ロートレアモンの場合と同じように、ランボーを基準にすると、他の普通の文学は、すべて凡庸で退屈なものになってしまうという点です。
歴史上、最初にランボーを世に紹介したフェリックス・フェネオンが、(たしか)「これは文学ではないかもしれない。しかし、それ以上のものである」と語ったように、事態は今もってそのままなのです。
そして、ランボーの天才の特徴は、ロートレアモンと似た意味で、「彼が本当には何を書いているのかよくわからない」にもかかわらず、その強烈なプリズム的閃光によって、読む人間が、深層意識の次元で啓示を受けてしまうという点です。
その屈曲的な光線は、私たちの精神の最奥を照らし出し、不思議な天啓(イリュミナシオン)を浴びせてくるのです。
コクトーは、ランボーの作品が「閉じている」と表現しました。そのような意味で、ランボーの作品は、普通(凡俗)の理解というものに対しては開かれていません。しかし、その理解不能さとその超越性は、不可分に結びついていると言えるのです。
歴史上最初期に、彼に触れたポール・クローデルやその他の人々が、ランボーを読んで(それが啓示となり)、キリスト教に回心したというのは、教派的な事柄を超えて、ランボーの中に、一種「超自然的」とも呼びうるような、まばゆい超越性が含まれていることを暗示しているのです。
クローデルは、ランボーのことを「野生状態にある神秘家」と呼びましたが、ランボーには確かにそんな風情があるのです。
後の時代になって、ランボーのことを尋ねられたマラルメは、実際に見たランボー本人の姿を遠く回想しつつ、歴史が準備しなかった存在、歴史における「彗星のような」「通行人」としての彼について語りました。
そのように、今でも、ランボーのまばゆい光芒は、人類の中でも孤絶した性格をもつものと言えるのです。
精霊
彼は愛情だ、現在だ、泡立つ冬にも夏のざわめきにもその家を開け放ったじゃないか、彼は飲物を、食べ物を浄めた彼、次第に遠ざかる場所の魅惑であり、停止する土地の超人的な歓喜である彼。彼は愛情と未来だ、力と愛だ、おれたちは狂熱と倦怠のうちに立ったまま、彼が嵐の空を、恍惚とはためく旗に囲まれて過ぎてゆくのを眺めるのだ。
彼は愛だ、完璧で再び発明された尺度としての、思いもかけなかった驚くべく理知としての愛だ。そしてまた、永遠だ。宿命的な諸特質によって愛されている機構なのだ。おれたちは皆、彼の譲歩に恐怖を覚えた。おれたちの譲歩にも。おお、おれたちの健康の享受、諸能力の躍動、彼への、その限りない生を通じておれたちを愛する彼への、自分勝手な情愛と情熱……
おれたちが彼を思い起す、すると彼が旅をしてくる……崇拝が立ち去っても、鳴りわたるのだ、彼の約束が鳴りわたるのだ。「引っ込め、このさまざまな迷信、古くさい肉体、それらさまざまな所帯、さまざまな年令。そんな時代は崩れ去ってしまったのだ!」
彼は立ち去ることはないだろう。どこの天から再臨しもしないだろう。女たちの怒りや男たちの浮かれ騒ぎやまたあの罪のすべてを償いもしないだろう。彼が存在し、愛されていることで、事は片付いているのだから。
おお彼の息吹き、彼の頭、彼の疾駆、形態や行為を完成するおそるべき神速。
おお精神の豊饒さよ、宇宙の測り知れぬ広大さよ!
彼の肉体! 夢見られてきた解放、新たな暴力によぎられた優雅の粉砕!
彼の視力、彼の視力よ! 歩みすぎるにつれてかき立てられる、いっさいの古い昔のいっさい拝跪と苦しみ。
彼の日よ! 高鳴りうごめく苦悩の、さらに激しい音楽のなかでの絶滅。
彼の歩みよ! 往昔の侵入のかずかずよりも、さらに途方もない移住。
おお、彼とおれたち! 失われた慈愛よりもさらに思いやりにあふれた倨傲。
おお、世界よ! そして、新たなる不幸の明るい歌よ!
彼は、おれたちすべてを知り、おれたちすべてを愛してきた。この冬の夜、おれたちは知ろうじゃないか、岬から岬へ、ざわめき荒れる極地から館へ、群衆から浜辺へ、まなざしからまなざしへ、力と感情の限りを尽くして、彼に呼びかけ、彼を眺め、それから彼を送り返すことを、また、潮のしたをかいくぐり、雪の砂漠の丘にも登って、彼の視力、彼の息吹き、彼の肉体に、また彼の日に、つき従って行くことを。ランボー『イリュミナシオン』粟津則雄訳(集英社)
そのため、ロートレアモンの場合と同じように、(オワコンに近い)「文学」のような文脈で、ランボーについて考えても、私たちの精神的覚醒 awakeness や解放、創造性に、なにも資することがないことになっているのです。
そのため、この記事では、角度を変えて、ランボーにおける幻視/透視体験とその超越性、その症状とは何だったのかについて、少し見てみたいと思います。
◆方法論について
ところで、一方、ランボーがロートレアモンと似ていない点は、彼が、普通に「文学」的な意味で、非常に早熟な、巧みな書き手であったことです。
これは、まばゆい幻視的結晶を創る以前から、テクニカルな意味で、普通の意味での、いわゆる優れた「文学」作品を自在に書けていたということです。
また、ロートレアモンと違って、若書きや草稿、手紙、他者の証言による生涯の記録が、さまざまに残されているという点です。
例えば、彼が活動の初期に、知人への手紙の中で、方法論として書いた「見者(視る者/千里眼)voyant 」についての文言は有名なものです。
「見者であらねば、見者にならねばならない、と僕は言っているのです。 『詩人』は、すべての感覚の、長きにわたる、途方もない、考え抜かれた乱調をとおして見者になるのです。愛や、苦悩や、狂気のすべての形です。彼は自分自身を探し求め、自らのうちであらゆる毒を汲み尽くし、その精髄だけを保持するのです。筆舌に尽くしがたい責め苦であり、そこで彼は信念のすべてを、超人的な力のすべてを必要とし、とりわけ大いなる病者、大いなる犯罪者、大いなる呪われた者になるのです」
「あらゆる信念と、あらゆる超人的な力が必要とされる、えも言われぬ拷問であり、そこで彼は、あらゆる人々の中で最も偉大な病人に、最も偉大な罪人に、最も偉大な呪われ人に、―そして至高の『賢者』となります! なぜなら、彼は「未知」に到達するからです! 彼はすでに豊かな自分の魂を誰よりも鍛錬したからです! 彼が未知に到達して、狂乱して自分の見た幻影の理解力を失ったときに、彼は本当にそれを見たのです! 数え切れない前代未聞のものの中での躍動で、彼が死ぬほど疲れ切ればよいのです」
「彼は自分の発明を感じさせ、触れさせ、聞かせなければなりません。「彼方」から持ち帰ったものに、形があれば形を与え、形が定かでなければ、定かでない形を与えます。言葉を見つけることです」
鈴木創士訳(河出書房新社)
十代の若者が書いたものとはいえ、このような言葉は、今の時代から見ると、とても大仰なものに見えます。
現代では、文学や芸術に、このように、魔術的で、修行的で、超越的なものを求める者など、誰もいないからです。
しかし、結果として彼の残した作品を見ると、実際、そのようなものがいくらか達成されてしまったかのようにも見えるのです。
そのような意味で、この言行一致も、彼の謎/神秘感を深める要素となっているのです。
ところで、ここで、彼は何を語っているのでしょうか?
なぜ、「すべての感覚の、長きにわたる、途方もない、考え抜かれた乱調 un long, immense et raisonné dérèglement de tous les sens」が、人を未知のものにたどり着かせるのでしょうか?
(後述しますが)それが、『既存の私(自我)』を噴き飛ばすことになるからです。
そのために、このような試練的な事柄が求められるということです。
また、手紙の中で、『見る/視る』という言葉で指している事態について言えば、例えば、次のようなアンドレ・ブルトンの言葉があります。
シュルレアリスムの首領ブルトンが、かつての盟友アントナン・アルトーについて語った講演での言葉です(精神病院から出てきたアルトーの生活費を皆で工面するための会合にて)。
私は知っています。アントナン・アルトーは見たのです。ランボーや、ランボーより以前にノヴァーリスやアルニムが、見ることについて語ったような意味で、見たのです。『オーレリア』が出版されて以来、このようにして見られたものが客観的に見うるものと一致しないなどということはほとんど何の意味もなくなっています。その一員たることにますます誇りが持てなくなっているような社会が、相も変らず人間にたいして、鏡の裏側に抜け出したことをつぐないえぬ罪として責め続けているというのは悲劇的なことです。
ブルトン『アントナン・アルトーへのオマージュ』粟津則雄訳
(『野を開く鍵』所収/人文書院)
凡俗の世界を突き破って、向こう側の世界を視ること、多くの人々が信じ込んでいる「合意的現実」の向こう側を視てしまうこと、つき抜けてしまうこと―、そのようなことを、「見る」とか「鏡の裏側に抜け出した」と言っているのでしょう。
ランボーの中にも、そのように、超越的に「視る」感覚や直観があったと思われるのです。
◆ハシシについて
そのような「考え抜かれた乱調 raisonné dérèglement 」をつくり出す方法論のひとつとして、「ハシシ hashish (大麻樹脂)」がありました。
直接の影響は、ランボーが、「第一の見者、詩人の王、真の神 le premier voyant, roi des poètes, un vrai Dieu 」とまで呼んだ、ボードレールの影響でしょう。
上記の手紙を書いた年の年末には、遅くとも、ランボーが、ハシシ(アシーシュ)を使ったことが推察されています。
幻覚が始まる。外界の物が怪物じみた外観を帯びる。それまで知られなかったような形をとって現われてくる。ついで、それらが歪み、変形し、最後には諸君の存在の中に入りこむ。でなければ諸君が、それらの中に入る。まったく奇妙な意味の混同や、およそ説明のつかない観念の置き換えが行われる。音は色彩を持ち、色が音楽を持つ。音符は数となり、音楽が耳許で繰り拡げられるに従って、諸君はおそるべき速度で、驚くべき計算問題を解いてしまう。座って煙草を喫っていると、パイプの中に座っているような気がしてくるし、また諸君を吸っているのがパイプで、諸君は青みがかった雲の形になって拡散する。
個性が消えてしまうこともある。ある種の汎神論的詩人や偉大な喜劇俳優を作り出す客観化の能力が、極めて強くなって、諸君は外界の存在と混じり合ってしまう。風を受けて唸り自然に向かって植物の旋律を語る樹木になるかとおもうと、今度は、はてしなく拡大された蒼空の中を飛翔している。一切の苦悩は消え失せてしまった。諸君は、もはや逆らわずに、運ばれるがままになっている。もはや自分が自分の支配者ではない。しかしそれも苦にならない。もうすぐ時間の観念も消え失せてしまうだろう。ときおり、また一瞬目ざめることがある。不思議な幻想世界から抜け出して来たような気がするのだ。
また別のときには、音楽が無限の詩を物語り、おそるべきあるいは夢幻的な劇の中に諸君を置くこともある。音楽が諸君の眼前の物と結びつく。天井画が、たとえ平凡俗悪なものでも、恐ろしいほどの生命を持つに至る。すきとおった蠱惑的な水が、うちふるえる芝生の中を流れる。きらめく肉体を持つニンフたちが、水や蒼空よりももっと大きな澄んだ眼で、諸君を眺める。
近東の人びとがキエフ Kief と呼ぶもの、絶対の幸福である。それはもはや渦巻き騒めくものではない。平静で不動の、至福の状態である。あらゆる哲学上の問題は解決されてしまう。神学者がてこずり、推理好きの人間たちを絶望させる種類の難問も、透明かつ明晰なものとなる。矛盾はすべて統一される。人間が神に移行したのだ。
ボードレール『人工の天国』安東次男訳(人文書院)
さきの手紙の中で、「私とは、ひとつの他者なのです Je est un autre」と記すランボーの感覚と響き合うものが感じとれると思います。「私が考えるのではない、何かが私を考えているのだ C’est faux de dire : Je pense : on devrait dire : On me pense」という、彼の感覚と通ずるものがあるのです。
ボードレールは書きます。
もし諸君がそういう魂の持ち主の一人だったら、形や色に対するもって生まれた愛情が、まず酩酊の最初の発展段階において無限の糧を見出すであろう。いろいろな色彩が普通でない力を持ち、勝ち誇る烈しさを以て頭に入って来る。(中略)よしんば眼前の光景がしごくとるにたらぬありふれたものであっても、数々の問題に満ちた生の深淵がそっくりそのままそこに姿を現わし、目にし耳にするものすべてが、雄弁な象徴となる。フーリエとスエーデンボルグが、一人は《類推(アナロジー》により、もう一人は、《照応(コレスポンデンス)》によって、諸君の視線の先の植物や動物に化身し、声で教える代りに形や色によってその説を諸君に吹きこむ。寓意を理解する力が、諸君の体内でこれまでにかつてないほどの強さになっている。(中略)これはポエジーの最も自然な形の一つであって、酩酊によって天啓を受けた理性においては、これがその正当な支配力をとり戻すのである。すると全生命の上にアシーシュが魔法のワニスのように拡がり、おごそかにこれを彩り、その深部の一切を照らし出す。(中略)要するに一切のもの、あらゆる存在が、すべて思いもかけなかった新しい輝かしさを帯びて立ちはだかってくるのである。
ボードレール(同書)
ところで、ハシシ(アシーシュ)は、いわゆる「サイケデリックス」のような強力な作用を持つものではありません。
ただ、たしかに、THC(テトラヒドロカンナビノール)には、さまざまな知覚のきらめく拡大において、実際に、ある種のサイケ感はあるのです。
作用は通常の用量で、これまで論じてきたほかのほとんどのドラッグより穏やかでコントロールしやすい。とはいえ、精神薬理学的、文化的な理由からサイケデリックと呼んでいいところがある。LSDが銀河系の旅だとすれば、マリファナは地上から少し浮遊した歩行にたとえられるだろう。あるいはメスカリンが機関車だとすれば、マリファナは小馬にたとえられる。
レスター・グリンスプーン他『サイケデリック・ドラッグ』杵渕幸子他訳(工作舎)
さて、そんなハシシですが、当然、使用量や個人との相性で、さまざまな効果や影響を生みます。それは、個々人でまったく違う反応を生むものです。
また、念のために言っておくと、(他のサイケデリックスも皆そうですが)ハシシの効果が、ランボーを特別な者にしたわけではないということです。
ランボーの幻視性や天才性は元々あったものあり、それが倍加加速されたということです。
このようなサイコアクティブ(精神活性)なものは、どれも、その人自身をただ増幅するものでしかないからです。
ボードレールは言います。
アシーシュには奇蹟的なものは何一つないこと、過度の性能以外のものは絶対にないことを、十分に知っておくべきである。アシーシュが働きかける脳や器官は、その持ち主の普段の反応しか示さない。その数や強さはたしかに増すとはいえ、やはり元の姿と別物になることはない。(中略)アシーシュは、人間の不断の印象や思考を拡大してくれる鏡ではあっても、鏡以外のものではない、ということである。
ボードレール(同書)
ただ、ランボーのように、並外れた才能や素因がある場合、それが倍加加速されることはあるのです。
身近な例でいうと、例えば、ビートルズは、もともと天才的な才能を持っていましたが、『ラバー・ソウル Rubber Soul』以降の作品において、異様な形で、その才能が質的に次元上昇したのには、たしかに、サイコアクティブなものの影響があったのです。
ところで、「暗殺者 assassins」とは、ハシシを飲む人の隠語ですが、(ボードレールも使ってますが)、ランボーの作品の中にも現れてきます。
陶酔の午前
おお、おれの善! おれの美! おれがよろめくことのない兇暴なファンファーレ! 夢幻的な拷問台! 今こそはじめて歓呼せよ、この未聞の業に、この驚くべき肉体に! それは子供たちの哄笑のうちに始まった、彼らの哄笑で終わるだろう。たとえファンファーレの調子が変わっておれたちがもとの調子っぱずれに戻されるようなことになっても、この毒はおれたちの血管のすみずみにまで残るだろう。おお、今やおれたちは、こういう責め苦にふさわしい身だ! 燃えあがる思いをもってとり集めよう、創り出されたおれたちの肉体と魂に対してなされた人間の力を超えたこの約束を。この約束、この錯乱を! 優雅と、科学と、荒々しい力を! おれたちには、善悪の樹を闇に埋めかさにかかった実直さなど追い払ってやろうと約束されている、おれたちが、世にも純潔なこの愛をもたらすことができるように。それは、何だかむかつくような感じで始まったが、結局は――おれたちにはこの永遠を即座にとらえることが出来ないからだが――結局は、乱れ散る香りのうちに終わるのだ。
子供たちの哄笑、奴隷たちの慎み深さ、乙女たちのいかめしさ、今ここに見る姿かたちや事物のおぞましさよ、おまえたちもこの不眠の夜の思い出で祝福されよ。何から何まで野暮くさい調子ではじまったが、今やそれは、焔と氷の天使で終わるのだ。
陶酔のうちに過ごしたささやかな一夜よ、これは神聖なものなのだ! たとえそれが、おまえがおれたちに与えてくれた仮面のためにすぎぬとしても。おれたちはおまえを認める、方法よ! おれたちは忘れはしない、昨日おまえが、おれたちの年齢のそれぞれに栄光を与えてくれたことを。おれたちはこの毒を信じている。毎日のおれたちは、おのれの命をあますところなく投げ出すことが出来るのだ。
さて今や、暗殺者のとき。ランボー『イリュミナシオン』粟津則雄訳(集英社)
これは、初期の作品(おそらく『地獄の季節 une saison en enfer 』より前)と考えられており、おそらく、ハシシによる啓示が、高揚したトーンで語られています。また、ボードレールの語る語彙やテーマとさまざまに共通するものも見られます。
一方、同じように、「暗殺者 assassins」という言葉が使われているものに、後期の作品があります。
野蛮人
日は過ぎ、季節は流れ、人びとも国々ももうはるか昔のこと。
今、北極の海や花々が作りなす絹のうえに血のしたたる肉の旗、(海も花も実際在りはしないのだ。)
あの古い勇壮な軍楽から解き放たれ――それは今なおおれたちの心と頭を攻めつけはするが――昔の暗殺者たちから遠く離れ――
おお! 北極の海や花々が作りなす絹のうえに血のしたたる肉の旗、(海も花も実際在りはしないのだ。)
心地よさ!
燃えさかる炭火は吹きつける霧氷とともに雨と降り――心地よさ!――おれたちのために永久に炭化した大地の心が投げつける、金剛石の雨風ととにも燃え立つ火、――おお、世界よ!――
(あの日の隠遁、あの昔の焔、今もきこえ今も感じるそれらから遠く離れ、)
燃えさかる炭火と水。音楽よ、深淵の渦巻き、氷塊の星への衝突。
おお、心地よさ、世界よ、音楽よ! そしてあそこには、さまざまな形態が、汗が、髪の毛が、眼が、漂い動く。白い涙が、たぎり立つ、――おお、心地よさ!――そして、北極の火山や洞窟の底にまで響いてきた女の声。
旗が……ランボー『イリュミナシオン』粟津則雄訳(集英社)
非常に清々しい作品ですが、ここでは、幻が相対化され、昔の日々から離れた様子や、今の心地よさ douceurs の感覚が表現されています。
しかし、昔の影響が、感じられたり、攻めつける感じとして残っている様子も同時に描かれています。また実際のところ、幻視的な作品であります。
この作品は、末期の方に書かれたと考えられています。
この2つの作品の間に、『地獄の季節』が書かれたわけですが、彼の地獄とは、いったい何で、どんな地獄だったのでしょうか?
おれの健康はおびやかされた。恐怖がやって来た。幾日も続く夢に落ちこみ、起きあがってもまだ世にも悲しい夢から夢を見続けていた。この世におさらばをする時が熟していた。かずかずの危機にみちた道を、おれの弱さがおれを導いて行った、世の涯に、闇と旋風の国キンメリアの涯に。
『錯乱Ⅱ/地獄の季節』粟津則雄訳(集英社)
『地獄の季節』は、フィクションなので、キリスト教や近代主義など、普遍的なテーマがさまざまに織り込まれ、それとして語られていますが、実際に体験した地獄(修羅場/消耗)とは、ヴェルレーヌとの愛憎関係や、ハシシがきっかけとなった症状(発熱、憔悴、胃痛、幻覚他)だったのでしょう。
幻 hallucination/vision について、ランボーは、いたるところで言及しています。
自分は、人が羨むような幻をどこにでも見ることができる、その秘密を握っていると。
「その秘密を握っている」に類した表現は、彼に多く見られます。
「幻視」というものは、人のコントロール下にあるとき、人は能動的で、創造的であり得ます。
しかし、コントロールが効かなくなった時、それは、「幻覚」となり、人を攻め苦しめ、危機に陥れるものになるのです。
このことについては、また後で見ていきたいと思います。
◆「私とは、他者なのです」
さて、別の記事、「内なる「本質(エッセンス)/光明」の含有量とメタ・プログラマー―イルカ博士ジョン・C・リリーの探求(その2)」では、多様な「意識 consciousness /変性意識」の研究者、リリー博士の理論に基づいて、私たちの心が持っている、さまざまな階層や次元について見てみました。
そこでは、通常の私たちがほとんど知らない、意識の高次階層や次元についても、いろいろと見ました。
それらは、通常の私たちの「自我(エゴ)」を超える次元の領域です。
そのような「本質(エッセンス)」のまばゆい次元が存在しているのです。
ところで、ランボーは、「見者」について語った手紙の中で、「私とは、他者 Je est un autre なのです 、銅が朝起きてラッパになったとても銅のせいではない」という、これもまた有名な言葉を残しています。
「われ思うというのは間違いだ、私とは思われているのだ C’est faux de dire : Je pense : on devrait dire : On me pense」と言うのです。
そのように、ランボーにおいては、もともと、「私」という自意識や「自我(エゴ)」そのものを相対化する感覚があったのでしょう。
「かつて別の時代を生きていた自分/存在」というテーマも、彼にはよく出てくるテーマです(それはすでに10歳の頃に書いた作文にも現れていました)。
そのように、「この私/自我(エゴ)」ではない領域/生を感じる感覚が、彼にはあり、それが、「自我(エゴ)」を超えて、見者に至る方法論を思いつかせたのでしょう。
そして、その感覚が、彼の作品を、とても神秘的に見せる要因にもなっているのです。
「イリュミナシオン」における主観性は、その主観性が対象を併呑し、(中略)対象を同化してしまう異常な点に存する。ひとが今までに或る詩家について、その裡に宇宙を懐抱していると云い得たとするならば、それは正にアルチュールにおいて云うにふさわしいことである。
(中略)この愕くべき作品において、この詩人は透視者となり、意の儘に自己を両分したり非人間化したりしているのである。そこでは自己を女性化したり、複数化したり、一人物或いは同時に幾人かの人物のなかに、また一風景或いは幾つかの風景のなかに自己を解体したりしているのである。イザベル・ランボオ『カトリック的ランボオ』菱山修三訳(白馬書房)
自我(エゴ)と本質(エッセンス)の区分で言えば、彼の作品には、そんな本質(エッセンス)の次元が垣間見えるのです。
本質(エッセンス)の次元の光明/まばゆさが、余人にない形で、射しこんでいるのです。
それは、例えば、エピソードとして、他人を見る時に、「その人の本当の姿」を透視するかのような場面にも現れます。
おれには人々がみな、他のいくつかの生を負わされているように思われた。この旦那は自分が何をしているのか御存知ない。ところが彼は天使なのだ。この一家は一腹仔の犬ころだ。おれは誰かれのまえで、彼等の別の生活のひとつのなかの或る瞬間と、大声でしゃべりあったものだ。
ランボー『錯乱Ⅱ/地獄の季節』粟津則雄訳(集英社)
王権
或る美しい朝、とても心やさしい人びとが住む国で、すばらしいひとりの男とひとりの女が、広場で叫んでいました。「皆さん、私は彼女を王妃にしたいのです!」「私は、王妃になりたいのです!」彼女は、笑ったり、身をふるわせたりしていました。彼は、人びとに、天啓や、やり終えた試練について話していました。ふたりは、しっかり抱き合って、うっとりしていたのです。
実際、ふたりはずっと王でした、家々に深紅の幕がかかげられた午前中も、彼らが棕櫚の植わった庭の方へ歩いて行った午後のあいだも。ランボー『イリュミナシオン』粟津則雄訳(集英社)
「鏡の向こう側」を透かし視るように、人びとの別の面/別の生を視ているかのようです。
多重化/多層化された生の姿が視えてきているのです。
そのような、自我(エゴ)ではない、本質(エッセンス)の非人称的なまなざしが、彼の作品には横溢しているのです。
大洪水のあと
大洪水の眺めがおさまると直ぐ、
野兎が一匹、岩おうぎと揺れ動く釣鐘草のなかに立ちどまり、蜘蛛の巣ごしに虹に祈りを捧げた。
おお! かずかずの宝石は身をかくしてゆき、――花たちはすでに眼を凝らしていた。
きたならしい大通りには、肉屋の店々がそそり立ち、人びとは舟を曳いた。まるで版画に見るように彼方に高く段をなした海に向かって。
血が流れた。青髭の家で、――屠場で、――闘技場で、――その窓は、神の刻印を受けて蒼白く染まった。血と乳が流れた。
ビーバーどもが巣を作った。ここかしこのカフェで「マザグラン・コーヒー」が湯気を立てた。
また窓ガラスに水がしたたる大きな家のなかでは、喪服姿の子供たちが、不思議なものの姿を見つめた。
扉がひとつ、ばたんとしまった、――次いで村の広場では子供が腕を振りまわし、音立てて降りつける俄か雨のしたで、至るところの風見や鐘楼の鶏が、それに応じてうなずいた。
何とか夫人が、アルプス山中にピアノを据えた。ミサや初聖体が、大聖堂の数知れぬ祭壇で厳かに執り行われた。
隊商たちが旅立った。そして、豪華大ホテルが、極地の氷と夜の渾沌のなかに建てられた。
そのとき以来、月は、タイムの匂う砂漠で、ジャッカルどもが泣き叫び、――果樹園では、木靴をはいた牧歌がぶつぶつと恋のなやみを呟くのをきいた。それから、芽ぐみ始めた菫色の大樹林で、ユーカリスが、おれに春ですよと言った。
湧き起れ、池よ、――橋をこえ、森をこえて、泡立て、うねれ。――黒い棺の布よ、オルガンよ、――稲妻よ、雷鳴よ、――高まれ、うねれ。――水よ、悲しみよ、高まれ、もう一度大洪水を起せ。
と言うのも、大洪水が引いて以来、――おお、埋もれていった宝石たち、それにあの開いた花たち!――まったくうんざりなのだ! それにまた、女王は、素焼の壺の燠を吹き起こしているあの魔女は、けっしておれたちに話そうとしないだろう、彼女は知っていて、おれたちの知らぬことを。少年時 Ⅲ
森には一羽の鳥がいて、その歌は人びとの歩みをとどめ、顔を赤らめさせる。
時を打たぬ時計がある。
白い生きものが巣を作った沼地がある。
沈んでいく大聖堂と登っていく湖がある。
小さな車が一台あって、雑木林のなかに乗り捨てられているが、ときにはまた、リボンで飾られて、小道を走り降りていく。
衣装をつけた子供役者の一座がいて、その姿が、森のはずれを通して路上にかいま見える。
最後に、腹がすき喉がかわいたときに、人びとを追い立てる誰かがいる。
ランボー『イリュミナシオン』粟津則雄訳(集英社)
◆幻視と幻覚―グロフ博士の「スピリチュアル・エマージェンシー」
さて、そのような透視力/幻視力は、ランボーの元々の素因としてあったと考えられますが、それが、ハシシによって増幅加速され、さらには、彼を思わぬ危機的方向へと、陥れていったと思われるのです。
幻視は、コントロールできない幻覚となり、彼の心身を、発熱・胃痛等を含め苦しめるようになったと思われるのです。
彼の幻視/幻覚が、ただの病的な妄想とは違う、超越的な、本質(エッセンス)的な次元に類するものであることは、その作品からも感じられることです。
そして、そのような幻視家としての、ランボーの実際の姿については、ランボーの死を看取った妹の興味深い証言があります。
それは、母親に送った、当時の彼女の手紙に記されています。
彼女は、病床の兄について語っています。
眼をさますと、彼は、一種の連続した夢のなかで、自分の生命を汲みつくしています。彼は妙なことを云います、たいへん、物しずかに、心臓を刺すような辛さを私に与えなかったならば、私をうっとりとさせてしまうだろうような声で。彼の云うことはかずかずの夢です。―それにしても、それは彼に熱のあった時と全然同じものではありません。まるで、特別な夢を見ているようです、そう私には思われます。
彼がそういう夢のようなことを、つぶやいていたとき、尼さんの看護婦が低い声で私に云いました、「―それではまた、意識を失ったのですの?」しかし彼はちゃんと聞きとって真赤になりました。「―僕のことを、ひとは気違いだと思っている。お前はそう思うかい?」いいえ、私はそう思いません。殆んど物質的なところのない存在なので、彼の思想はわれ知らずに漏れるのです。時々彼はお医者さまたちに、彼が見るような異常なものを見るかどうか尋ねています。そうして彼等に話しかけ、しずかにかずかずの印象を物語っています、とても私なぞに現すすべもないような言葉で。お医者さまたちは彼の眼のなかに見入り、いままでこれほど美しくもこれ以上賢くもみえなかったその美しい眼のなかに見入り、その胸のなかで窃かに思います、「ふしぎだ。」と。アルチュールの場合には、何か彼等の理解の及ばないものがあるのです。イザベル・ランボオ『死に臨むランボオ』菱山修三訳(白馬書房)
ちなみに、この六歳年下の妹は、ランボーの出発により、年若い頃に離れ離れになってしまったせいで、兄との交流はなく、手紙を書いた時点では、その作品について何も知りませんでした。しかし、彼女は、兄の幻視とその言葉に何かを感じとったようなのです。
そして、兄の死後、彼女は、その熱心な信奉者になっていきました。
さて、ここからは、少し別の事柄(テーマ)についての解説となります。
チェコ出身の精神科医スタニスラフ・グロフ博士は、A.マズローとともに、トランスパーソナル(超個的)心理学を立ち上げた人物として知られています。
彼は、元々、チェコで、当時合法医薬品であったLSDを使って、サイケデリック・セラピーを行なっていた人物でした。
数千回にわたるLSDセッション(サイケデリック・セラピー)を行ない、人間の深層的な力が湧き出してくる、その驚異的な事態を克明に記録、研究したのでした。
その研究成果に現れている、人間の超越的能力のさまざまな実態(可能性)に刺激を受け、晩年のA.マズローは、トランスパーソナル(超個的)心理学設立へと動いたのでした。
そんな、スタニスラフ・グロフ博士は、LSDが法的規制を受けた後も、体験的心理療法である、ブリージング・セラピー(ホロトロピック・ブレスワーク)を使って、人間のうちに潜むトランスパーソナル(超個的)な能力、超越的な能力を開花・統合させる取り組みを行なっていくことになりました。
そのような彼が、提唱した概念のひとつに「スピリチュアル・エマ―ジェンシー/霊性的緊急事態」と呼ぶ「症状」があります。
伝統的な概念で言うと、シャーマニズムなどにおける「巫病」の概念と近いものです。
シャーマニズムの世界観の中では、シャーマンは、シャーマンになるプロセスの中で、一種、狂気的な、苦痛のプロセスを経ることが多いのです。
同じように、「スピリチュアル・エマ―ジェンシー」も、他人からは精神病的にも見える、一種、超越的な能力が噴出してきてしまうという症状です(本人的には、激しく苦しい狂気的症状です)。
グロフ博士が、この概念を唱えたのは、体験的心理療法の現場において、心身の解放を、急激に、過激に推し進めた場合に、そのような症状が起こったりするからです。
体験的心理療法には、普通の、ただ癒しや治癒を求めるタイプの心理療法とは違い、精神探求的なタイプの体験的心理療法もあったりします。
そのような姿勢の中で、心身深層の奥深いエネルギーを過度に解放していくと、稀に、そのような症状が現れてくるのです。
ところで、スタニスラフ・グロフ博士が、この概念を思いついた直接の原因は、彼の奥さんの身の上に起こった事柄でした。
奥さんのクリスティーナは、ヨガをやっていたのですが、あることをきっかけに、「クンダリニー」の力が、暴発するように覚醒・開花してしまったのです。
「クンダリニー」とは、伝統的なヨガの中で、「蛇の力」とも言われる、尾骶骨あたりに潜むとされる、超自然的な高エネルギーのことです。
そのエネルギーが、人を悟りや宇宙との合一に導くとされているものです。
奥さんのクリスティーナは、その稲妻のようなエネルギーに噴き飛ばされ、圧倒され、翻弄され、その後、そのエネルギーを統合するのに、大変な苦労をすることになったのです。
(「本物のクンダリニー覚醒」は、ゴーピ・クリシュナの古典を読めばわかるように、日本のスピ系がいうようなお気楽・お花畑的なものでは全然ありません)
そのような奥さんへのケアを行ないながら、グロフ博士は、同じように、一見精神病的に見えるものの中に、病理ではなく、「超越的能力」の発現であるものも混じっていることに気づいていったのです。
それらの症状は、医学的には、単なる「病気」にしか分類されません。
そのため、多くの場合、「症状」は抑えられ、その「プロセス」は中断されられてしまうのです。
そのプロセスが、然るべき形で認められ、成就されたならば、トランスパーソナル(超個的)な統合が可能であったものが、「抑圧」されてしまうのです。
そのため、グロフ博士は、そのような人々を、注意深くサポートする活動を行なうことになったのでした。
スピリチュアル・エマ―ジェンシーの概念は、一般的には認知が低く、書籍その他でも、情報が大変少ないので、イメージがつきにくいものですが、グロフ博士の本や、有名なゴーピ・クリシュナの本などから、その症状の様子がうかがえるものとなっています。
そして、このようなスピリチュアル・エマ―ジェンシー的な症状は、多いものではないですが、体験的心理療法の現場レベルでは、稀にあることではあるのです。
実際、私の知人でも、幾人かそのようなプロセスに見舞われており、その苦労話を聞かされています。
また、かくいう私自身も、過度な探求の中で、クンダリニー・エネルギーが上昇し、大変なことになったという体験を持っているのです。その体験は、本にも記しました。
「神経的な減耗に」
「筋無力的な陥落に」
「痛苦と陶然」
「骨と神経が」
「焦げつき」
「熔け落ちるよう」
「灰燼になる」「恍惚と覚醒」
「天国と地獄が」
「ひとつである」
「冥府の」
「薄くらがり」「遥か」
「底の方では」
「汀をなし」
「透過してくる」
「半睡の滴」
「銀紙の」
「破れたよう味わいに」
「漏れだす」
「真白い蝕の」
「裸の舌」……………………………
…………………………
……………………その状態が訪れると、肉体の芯に力が入らなくなり、筋無力症的に脱力していった。神経を焼かれるような痛さと、硬直的な痺れが現れ、主体的な意志の行使や、集中した行為が難しくなる。意欲が萎え、減耗していくのである。滲みてくるエネルギーによって、神経が、白銀的な苦痛に苛まれる中、(脳は光量に麻痺し)時をやり過ごすしかなくなった。意識の背後が、あたかも口を開けたかのように空間を開き、光が照射され、とらえがたい極微な情報が行き来する。そして、苦痛でまばゆいエネルギーに透過される中、それらの謎を凝視しつつも、地衣類のように、その宇宙的発熱に耐えるしかないのである。いくらかでも状態を統御する手がかりを得ようと奮闘するも、崩れるよう徒労を繰り返すばかりである。浸潤する苦いエクスタシィに抗しつつ、注視を凝らすしか為すすべがなかったのである。
そして、これらの格闘に、長い歳月を費やしたのである。喩えると、業火に焼かれるような体験であり、そのプロセスは、一種の「地獄降り」「黄泉の国の彷徨」の様相を呈したのである。松井雄『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』(改訂版)
ところで、実際、このような巫病的症状というのは、タイプや強弱はさまざまですが、探求している人びとの中では、稀に起こってくることであるのです。
グロフ博士は、その「症状」の意味合いが、現代社会においては、まったく正しく理解されていないため、特に、そのような人びとのサポートが必要であると考えたのでした。
さて、ここで話を戻します。
上のような、巫病的症状/概念をご紹介したのは、若年のランボーの身に起こった事柄も、これに類したことだろうと推察されるからです。
それは、晩年のランボーの幻視からも類推されることです。
なぜなら、このような「超越的能力」の発現というのは、(巫病がそうであるように)一時的に抑え込んでも、時期を経ると、後の人生で必ず噴き出してくるものだからです。
そのプロセスは、意識化し、統合されることを求めているからです。
私たちの潜在意識に抑圧されても、必ずそれは帰ってくるのです。
元々、素因のあったランボーの超越的能力が、ハシシその他のきっかけによって、爆発的に開花し(暴発し)、巫病的なプロセスとなってしまったことが推察されるのです。
(妹は、兄が1873年の初頭に、発熱、疲弊、憔悴、胃痛、興奮、幻覚その他の身体症状に苦しんでいたことを記録しています。これは彼が『地獄の季節』を書く直前の日付です。発熱はその後の人生でも、長く、彼を苦しめるものになっています)
つまりは、ランボーの中において、「ヴィジョンは終焉(R.シャール)」したのではなく、「抑圧」されたのです。そして、彼は逃げだしたのです。
しかし、若年の者にとっては、それは正しい選択と言えるのです。
というのも、若年者は、そのような超越的能力が暴発的に現れた場合に、それに対峙し、自身を溶解させつつ統合していく「自我」が育っていないからです。
そのため、まずは、逃げ出し、抑圧することが適切な対処なのです。
そして、多くの場合、中年近くになって、充分な「自我」が育った後で、それらに再び向き合い、統合していくというパターンが、現場でも一番よく見られるパターンなのです。
人は、一度覚醒してしまった、自分の「真の夢見の力」をごまかすことはできません。
それが、ランボーのように、並外れた性質と力のものであれば、なおさらのことなのです。
◆永遠なるランボー
ナチスの初期の幹部であったヘルマン・ラウシュニングは、実際のヒトラーと会話し、その世界観を語る彼の言葉を、さまざまに書きとめました。
そこには、凡庸な歴史研究などが語ることを超えた、(たとえそれが「悪」であれ)ヒトラーの魔力と魅力の本質が、生き生きと描写されていました。
そんな一冊に、かつて出版社は、『永遠なるヒトラー』という邦題を与えました。
ヒトラー的な「悪」のリアリティと力は、たとえそれが有害なものであれ、私たちの心の現実性の中に、「今も厳然と存在している」、そんな事態を指したタイトルでした。
ところで、日本では、ランボーについては、しばしば、「ランボーは、若い頃に読んだ」とか「ランボーは青春の書である」などの言い方があります。
通俗的な語り口で、よく、そのように言われるのです。
いわゆる「文学」的な見方だと、そのようなことになるのでしょう。
しかし、これまで見たように、本質的な次元でのランボー的問題は、今もって、未知の進行形の問題、むしろ、人類史的には、未来的な問題であると言えるのです。
彼の作品が、今もこのように未知なものであることを考えても、それはわかります。
ランボー的冒険は、今も、何も終わってないのです。
彼自身においてさえ未完了だったのであり、私たちにとっては、なおさら、模索と実験の初期段階、まだ探求の開始であるにすぎないのです。
※変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
および、
『ゲシュタルト療法ガイドブック 自由と創造のための変容技法』
をご覧下さい。