拙著『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』より引用
道化の創造性は、「無」の創造性である。
道化については、文化人類学などで、トリックスターの概念とともによくとりあげられる。社会的な機能としての道化は、さまざまな面から分析がされている。しかし、人生の同伴者としての道化も、私たちにとってかけがえのない存在である。かつて日本に、初期のゲシュタルト療法をもたらしたリビングストン女史は、「日常生活のクラウニング」を唱えていた。
道化は、ヒモづくように諸々のイメージをひっぱり出す。
愚か者。痴れ者。悪戯者。無用者。冗談好き。ヘヨカ。ジョーカー。メルクリウス。壊乱者。
私たちの内なる道化は、人生の中で私たちの視野が狭まり、何かの考えに凝り固まっている時に、動かずにうずくまっている時に、停滞している時に、私たちをからかい、けしかけ、笑い飛ばす。
「マジメになりすぎてるぞ!」
「モタついてるぞ!」
「にぶくなっているぞ!」
「退屈な奴になってるぞ!」
内なる道化は、自己や他者や出来事を真に受けないことをすすめてくる。自分と他人、出来事を同じように笑い飛ばすのである。
道化は、無用の者、底辺にいる者、失うもののない者、それ以上落ちることのない者として、
自由である。
無である。
しかし、存在していること自体の充溢であり、笑いである。
(私たちが、それ以上の存在であることなどありうるのだろうか)
道化は、形をもたない者、流動する者であり、あらゆるものを相対化していく。それ自体であることなど信用しない。線的に事が運ぶ、因果的に拘束されている世界など信じないのである。
道化にとっては、非線的な動き、運の、偶然の、裏をかくような俊敏な動きがその本性である。非因果的な自由がその本質なのである。同一のものを区別し、反対のものを一致させ、時間を逆行したり、別々の場所に同時に出現したりと、その創造性においても、宇宙の働きのように融通無碍である。一瞬前までの世界には興味を持たない。現在と未来こそが彼の領土であり、飛躍こそがその本性である。
道化は、ワイルドな存在として、野生のアウェアネスをもって、瞬間瞬間、人生の未知の経験に開かれている。
瞬間瞬間に、稲妻のよう変化する力であり、即興の閃きであり、瞬間瞬間に人生を切り拓いていく創造力である。
そして、これは、私たちの誰もが持っている素晴らしい素質、霊感なのである。
【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。