その言葉は、ドイツ・ロマン派のノヴァーリスについて語った、作家ジュリアン・グラックの文章の中にあります。
ノヴァーリスについては、以前、別の記事でも、彼の言葉を引用してとりあげました。
→「混乱は、力と能力の過剰を意味する」―ノヴァーリス
今回は、グラックの言葉を参照して、ノヴァーリス自身の不思議に透徹した〈意志〉の世界をとりあげみたいと思います。
さて、ジュリアン・グラックは、戦後の、シュルレアリスム(超現実主義)の系譜に属する重要な作家(『アルゴールの城にて』『陰鬱な美青年』『シルトの岸辺』)です。
グラックは、ここで、ノヴァーリスと革命家サン=ジュストとの類似点について触れています。サン=ジュストは、グラックの好きなフランス革命時の革命家(恐怖の大天使)です。

「ノヴァーリスは、このような楽園を指向する革命におけるサン=ジュストであった。(中略) 彼にしかない鋭い光輝、何かしらこの上なく静穏な感じ、いかにも饒舌なあのロマン派の人々のなかにあって、彼を断章の大家、簡潔かつ断定的表現の巨匠たらしめているところの穏やかにしてゆるがぬ気配、肯定における絶対性という感じにおいてサン=ジュストと通じあうのである。道徳上の観念を、道徳とはもっとも無縁と見える領域に導入してくる、きわめて特異な領界侵入的なやり方においても両者は似ている(「全〈自然〉は〈徳〉の息吹によってのみ存在する。」この奇妙な箴言はノヴァーリスのものであるが、サン=ジュストが言ったとしても差支えないほどのものであろう)。また、内部にあって固定した楽園の明らかな影像に則って人間と世界を改造しようとする不変の決意によっても、さらにこれこそ言わなければならないが、障害の感覚がほとんど完全に欠如しているということにおいても両者は相通じている」
「障害の感覚がほとんど完全に欠如している」かのような、不思議に透徹した〈意志〉の感覚は、ノヴァーリスに特徴的なものであり、歴史的にも、彼を他の人々から際立たせているものです。
同じようなことを、グラックは、別の言い方でも表現します。
「ノヴァーリスがほかの人よりさらに大胆にドイツ・ロマン主義をその野心の限界にまでつき進めることを可能にしているもの――は葛藤の感覚というべきもののほとんど完全な欠如である」
(グラック、同書)※太字強調引用者
さて、この「障害のなさ/葛藤のなさ」は、ノヴァーリスの場合、その独自に透視的な世界観からやってきているのですが、そこに大きな謎と魅惑があるのです。
そして、その世界観/宇宙観は、彼の標榜する「魔術的観念論」という言葉から連想されるような、「浮世離れした」「非現実的」なものは違う、非常に堅固な味わいがあるのです。
澄みきった青空がそもそもの空の姿であるように、超人間的なたたずまいが、ごく自然な様子でそこにはあるのです。
グラックも、革命家サン=ジュストを引き合いに出しているように、どこかしら「現実的」で「世界改革的」なけはいさえあるのです。
「熟した完璧な知識の重みがこのような瑞々しさでその唇をみたすとき、世界は瞬間若々しく蘇り、苦患を減じ、可能性が満身にあふれて身をもたげるのである。人間はペンをあるいは道具をかたわらに置き、大きな期待を耳にこめて顔を上げる。一つの手が眼の前で通り過ぎ、あたかも生きるという古い眠りを払いのけて、その眠りから人間を解放してくれでもするように。至るところに道は開けている。世界は真新しく何一つまだ言われていないように思われる、このように荘厳なこのような陶酔にみちた希望の何時間かは、いずれ転落の憂き目を用意せずにおくまいなどという懸念は問題にもならぬ。想像力はなお長いあいだ何かしら輝かしく純潔な残映を保つであろう。しばらくのあいだでも、人間が多少なりとも人間以上のものになりうることを信じたというそのことで充分なのだ」
(グラック、同書)※太字強調引用者
そこには、「世界は瞬間若々しく蘇り」「生きるという古い眠りを払いのけて」「世界は真新しく何一つまだ言われていない」「人間が多少なりとも人間以上のものになりうる」と感じさせるような、未来的で、刷新的な、何か〈超越的なもの〉が、明朗かつ明晰に、なんら背伸びする感じがなく存在しているのです。
さて、ではなぜ、そのような絶対的な「けはい」が生まれているのかというと、それはさきも触れたように、彼の独特な「世界観/宇宙観」からやってきているのです。
その独特な宇宙観の中では、自然界―鉱物、植物、動物―や、人間界とその諸学、また、精神的、神的なものまでもが、きわめて緊密につながり、時空を透過して、深く連関したものとして働き合う―またそれがありありと感じられるような―不思議に精神的な宇宙像があるのです。
そのような宇宙観を表現したのが、未完に終わった小説『青い花(ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン)』と言えます。
そのような宇宙観に基づいているため、この小説は、近代小説にあるような、主人公の心理的葛藤による試練や成長、および、そのことによる「文学的」感動というものとは無縁な世界となっています。
私たちが普段親しんでいる小説のような、人間的次元でのカタルシスではなく、もっと大きな宇宙的なもの、運命的なものを、寓意的に暗示することが目的となっているのです。
グラックは語ります。
「ノヴァーリスも認めているように、――『自然必ずしも詩人ではないとしても、そして、人間の場合と同じく自然のなかにも無感覚・遅鈍という敵対者がいて、絶えず詩精神に戦いを仕向けてくるとしても』、そういう不活発・無活動の要素をまったくどうしようもなく否定的なものとみなすことはできない。それは、一つの制動力に過ぎず、絶対の悪とはなりえないからである。要するに「〈自然〉は、〈徳〉の精神を通じてしか存在しない」のであり、とりかえしのつかぬ呪いが自然にとりついているわけではないのだ。いやしくも存在するもので意味を持ちえないものは何一つない。『人間は自らそう望めば、あらゆるものを高尚にすることができる。すべてのものを自分にふさわしいものにすることができるのである』
(グラック、同書)
そのような透過的なまなざしが背後にあり、「悪」は見かけに過ぎないものであり、真の宇宙は善きものに向かって、動いているというような独自に澄みきったけはいがあるのです。そのため、その物語の中では、「病気」や「戦争」でさえ、肯定的なものとして、称揚されて語られていくことになるのです。
「ほかのいかなる書物のなかにもおそらく較べるものとてないであろうふしぎな透明さ、『青い花』の世界の浸っている一滴の毒にも毒されていないあの朝明けのような透明さはそこから生れている。完全に詩のなかに溶解しうる世界。葛藤のない、歴史のない、宿命のない世界。すでに人間に向かって歩み近づきつつある――人間によって理解され、滲透され、救い出されることを熱望している世界」
(グラック、同書)
そのような世界が描かれていくことになるのです。
ここには、私たち現代人が生きている、対立と克己による自己成長という「自我モデル」ではなく、神話的で、調和的な「宇宙的/自己モデル」が、物語の背景から微光のように透過しているのです。
「いまのわれわれの時代につきまとう固定観念となっている、あの「地理的、時間的に位置づけられている人間の条件」から、ドイツ・ロマン主義ほど雄々しくまた悠然と自らを解放しようと望んだ運動はない。重力もなく、不透明さもなく、苛烈さもない――『青い花』のなかの――すなおに夢になじむ〈世界〉、生きている人間を絶えず躓かせる石のすべてが取除かれている〈世界〉、他者との調和、精神と精神との自由にして透明な交流が、何の努力も要せず自然に成立するように見える〈世界〉。
(中略)それはつねに交響曲の譜面であり、対話者の一人一人が新たな主題を導入してはくるが、それが直ちに他の主題と調和しつつ完全階和の必然的協和音に発展してゆくのである。会話は言葉の投げ合い、衝突としてではなく、無限に豊かにされ、増幅される一連の谺として展開する」(グラック、同書)※太字強調引用者
そのような万有と対話の響き合う世界が、『青い花』にはあるのです。
それは、現代の私たちから見ると、小説の劇性としては何か物足りない、淡く朧げな世界とも言えます。
しかし、それでいながら、夜に見る「夢」のように、私たちに身近でありつつ、どこかしらつかまえがたい、遥けさと懐かしさを持っていたりもするのです。
さらにいうと、そこには、何かしら「未来的なもの/未来的な郷愁」を感じさせる要素もあるのです。
「すべての旅は、故郷への旅である」とは、ノヴァーリスの言葉ですが、そこには、そのような〈無時間的〉なけはいが支配しているのです。
そしてまた、ノヴァーリスは、小説とは別に、遺された膨大な断章の中でも、さまざまなジャンルや角度から、その宇宙観を語っています。
そこには、当然、個人的な息づきもより感じられますが、結晶から切りとられた断面のように、私たちの世界を多様に照らし出す、不思議な光彩を放つものになっているのです。
それらさまざまな断章の数々が、「世界は瞬間若々しく蘇り」「生きるという古い眠りを払いのけて」「世界は真新しく何一つまだ言われていない」「人間が多少なりとも人間以上のものになりうることを信じ」させるような、また、「障害の感覚がほとんど完全に欠如」している感じを生み出すようにもなっているのです。
その点が、ノヴァーリスを、世界史の中でも、独特な威光をもった存在にしているのです。
ところで、そのようなノヴァーリスの宇宙観は、ただ単に頭で考え出されたというものでもないのです。
もし、ただ、自我(エゴ)から考え出されたような作為的な宇宙像なら、このように〈絶対的〉で、「自己一致」した肯定性、透明性を生み出すことはできなかったでしょう。
どこか「無理してつくった違和感」が必ず感じられたでしょう。
人間の通常の自我(エゴ)は、このように開放的で厳粛な宇宙観に、完全に自己一致して在ることなどはできないからです。
それは、今現在、世間で流行っているモノ(濁流)を見れば、よくわかるでしょう。そこには、ノヴァーリスのような自己一致や澄んだ透明感などはまったくありません。
ノヴァーリスの場合は、有名な話ですが、ある神秘体験がその背景にあるのです。
夭折した許嫁(ゾフィー)の墓前で、とある夕暮れに、そのような神秘的な体験をした旨が、日記には記されています。
その体験は、その後、『夜の讃歌』の核心部分として、描かれることになりました。
「おりしも青色の彼方から――過ぎし日の至福の高みから――夕べの神立が不意に訪れ――突如としての臍の緒が――光の枷が――断たれた。地上の壮麗さは消え去り、ともにわが悲しみも消え失せ――憂愁も、新たな無窮の世界へと流れ込んだ――夜の熱狂、天上の眠りであるおまえが、わたしの身に訪れ――あたりは静かに聳えていった。解き放たれ、新たな生を受けたわが霊が、その上に漂っていた。墓丘は砂塵と化し――その砂塵を透かして、神々しく変容した恋人の面差しが見えた。その眼には永遠が宿っていた――わたしがその両の手をとると、涙はきらめく不断の糸となった。数千年が、嵐のごとくに遠方に吹きすぎていった」
ノヴァーリス『夜の讃歌』今泉文子訳(筑摩書房)
「臍の緒が――光の枷が――断たれ」て、「新たな無窮の世界」「夜の熱狂」「天上の眠り」が体験された様子、時空を超えるような体験をした様子が描かれています。
そこで、「昼の世界/地上/この世/現実」から、切り離されて、「夜の世界/天上/あの世/彼方(無限)の世界」に参入したのです。
「新たな生を受けたわが霊が、その上に漂っていた」状態になったのです。
そして、「数千年が、嵐のごとくに遠方に吹きすぎていった」のです。
「夜」とは、暗喩としてのそれですが、「夜の支配は時空を超えている」「夜がわれらの内に開いた無限の目は、あの煌めく星々のよりも神々しく思われる」(同書)とあるように、高次な次元のものであったのです。
このような「神秘体験/超越的体験」があったからこそ、彼は、その独特な宇宙観をもち、かつ生きるに至ったと言えるのです。
通常、このような強度な「神秘体験/超越的体験」をもった人間というものは、その人のすべてが書き換えられてしまい、その次元の力の透過や、まなざし(視界/透視)を、その後の人生においても持ち続けるようになるものなのです。
その体験が、彼においては、その宇宙観として、「障害の感覚が欠如」したような魔術的な意志の透過として、その後の人生に顕れてくることとなったのです。
さて、以上、ノヴァーリスについて、その特異な宇宙観や、その神秘体験についてとりあげてみました。
その不可思議な世界の一端が伝わったのではないかと思われます。
ところで、当スペースでは、さまざまな変性意識状態(ASC)や超越的状態について、方法論的にとりあつかっています。
というのも、それらの状態(体験)による変容結果として、まさに、私たちが、「人間以上のものに」なる感覚/状態を実際に得ることができるからです。
これらの諸状態は、ノヴァーリスの語る世界や神秘体験に関係するものなのです。
そして、とりわけ重要なことは、これらの体験や状態は、今現在、世間で信じられているような、単なる「僥倖/幸運」ではないということなのです。
もしそうであるならば、これらの体験/状態は、私たちの人生にとって、それほど大きなインパクトを持たないでしょう。
多くの人にとって関係のないものだからです。
しかしながら、かつては「僥倖/幸運」と考えられていたそれらの事象も、実は、ある程度「再現可能」であるということなのです。
現代社会では、そのことを知る人はほとんどいませんが、そのような「意識拡張」「意識変容」は、方法論的に起こしていくことができるものなのです。
そのような事柄を以前から、当スペースではあつかっています。
(歴史的には、宗教的・秘教的などの伝統で、それらが行なわれていたことを想起すれば、事態を理解できるでしょう。)
また、現代では、真摯な探求者のおかけで、過去よりは、いくらか方法論的/体験的にわかっている部分もあるからです。
(ただ、現代でもyoutubeなどの情報はみなデタラメなので、騙されないように気をつけないといけません)。
そのため、ノヴァーリスのように、「宇宙を透視するまなざし」や、また、彼が発している「障害の感覚の欠如」や、万能的な意志のけはいは、決して、彼個人に帰趨するものでなく、私たちの深い自己/魂/霊性が持っている、心の基盤的な在り方から浸透しているものだということもできるのです。
ところで、そもそも、私たちの中にある、「障害の感覚」「葛藤の感覚」とは何なのでしょうか? それは、どこから来ているのでしょうか?
それは、私たちが持っている「二元的な状態(自我とシャドー(影)」から来ているのです。
その「二元的な状態(自我とシャドー(影)」の成り立ちと構造については、別の記事で詳しく解説しました。
→アヤワスカ体験と非二元性―その原理と二種類の変容
つまり、重要なことは、私たちも、さまざまな変性意識状態(ASC)や超越的状態を方法論的に利用していくことで、自らに変容を起こし、「障害の感覚」「葛藤の感覚」を取り去っていくことができるということなのです。
その結果として、ノヴァーリスのように、ある種の透視性や透徹した意志を、自己の内なる領域として、創り出していくことのできるということなのです。
澄みきった青空がそもそもの空であるように、私たちの内側に、それらの領域は存在しているからです。
「楽園の明らかな影像」として存在し、私たちの世界を透過しているのです。
そのため、以上のような事柄を、多様な角度から教えてくれる稀有な存在としても、ノヴァーリスは、私たちにとって、未だ「未知の作家」であると言えるのです。
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ある未来の意識―ロートレアモン伯爵と変性意識状態
【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。