「集中しているからじゃない?」
セラピストは、そのように答えました。
これは、大昔、私が、セラピー学習のトレーニングを受けていた時、私の質問に対して、セラピストから返ってきた言葉でした…
この古い言葉を思い出したのは、南米でのアヤワスカ・セレモニーの際に、いろいろなシャーマンたちが、「集中しろ」と、よく言っていたからでした。
アヤワスカなどの強力なサイケデリック体験においては、私たちの通常の意識は、ぶっ飛んで、自分の体験を追えない状態になったりします。
いわゆる「もっていかれる」状態になってしまうのです。
また、自分の心に向き合うとか、フォーカスすることなどに慣れてない人は、一種パニック的な感じになったりもします。
そのようなことも含めて、シャーマンたちは、サイケデリックな体験の中で、「自分に集中すること」の重要性を繰り返し強調したのでした。
自分自身に集中し、「自分につながること(コネクト)」ができると、体験はさまざまに展開し、深まっていくことになるからです。
自分自身に必要な体験となり、癒しや変容を生み出すことになっていくのです。
さて、そんなシャーマンたちの言葉を思い出す中で、冒頭の、大昔のセラピストの言葉も思い出したのでした。
このセリフは、当時、私が感じていた疑問を、セラピストに投げかけたところ、セラピストから返ってきた言葉でした。
当時、私が疑問に感じていた点とは、多くの仲間が、そこでセラピーを学んでいたのですが、その変容の進み方に、さまざまな個人差があったのです。
私自身は、自分がみるみる変容し、「違う人間」になっていくのが、手に取るようにわかりました。
しかし、一方、私などより長く、そこでセラピーに取り組んでいるのに、あまり変わっていく感じのない人々がいたのです。
そこで、その違いが何に由来するのか、そのことを質問してみたのです。
そして、その答えが上記のもの、
私がワークに「集中しているから」、他の人より変容が速いのだ、というものでした。
たしかに、私は、他の仲間よりも、「集中して」いました。
また、その「或る感覚」を、仲間よりもよくわかっている感じがしたのでした。
というのも、体験的心理療法においては、自分の内的プロセスをとらえ、集中し、そのプロセスをたどり、その自発性のままに感情や欲求を解放するというところが、セラピー効果の核となります。
そこは、流派やテクニックを超えて、普遍的に重要な要素となっているのです。
その詳細については、拙著『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』の前半に詳しく記していますので、ご覧いただければと思います。
→詳細紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』(改訂版)
体験的心理療法においては、地下水のように、自分の深層に流れる「自発的な感情(欲求)プロセス」を、いかに的確につかまえ、追っていけるかが、ワーク(癒し/解放)のポイントなります。
自分が、クライアントをやっているときの「クライアント力」で、特に重要となるのが、その感覚です。
後から振り返って、私が違っていた点は、仲間と較べて、「自発的な感情(欲求)プロセス」をとらえる感覚や、そのために集中する意欲がとても強かった点でした。
また、私から見ると、多くの仲間が、表面的な「言葉」にとらわれすぎているようにも感じられました。
深い感情(欲求)が、自発的に湧出することが、癒しと解放になるのに、「言葉」でアレコレ言うことや解説することに、時間を費やしてしまっているのです。
深い感情(欲求)が存在しているのは、「状態/Being」の領域であり、「すること/言葉で言うこと/Doing」の領域ではありません。
しかし、「すること/言葉で言うこと/Doing」に気を取られて、肝心な感情(欲求)がついてきていないのでした。
「言葉で言うこと/Doing」で、かえって、言葉が上滑りし、感情(欲求)がすくえなくなってしまっているようでした。
そういう人は、しばしば、「思考の罠」に、おちいりがちに見えました。
そのせいで、表層的な領域で、停滞してしまっているように見えたのでした。
しかし、深い感情(欲求)が存在しているのは、「状態/Being」の領域であり、そこに「集中し」、とどまることによってこそ、湧き水のように、感情(欲求)も出てくるのでした。
そして、その湧き水の噴出が、発する言葉と一致したとき、解放は叫びとなり、大きな感情(欲求)の発露となるのです。
そして、癒しと統合になるのです。
そのような違和感を、それほど明確にではなかったですが、当時、かすかに感じてもいたのでした。
南米のシャーマンたちの言葉は、このようなシャーマニズムとセラピーの共通点について、いろいろと思い出させてくれたのでした。