伝統的なシャーマニズムの世界では、人の魂を治癒する方法(技法)として、「魂の回復/救済(ソウル・リトリーバル)」ということを行ないます。
これは、多くのシャーマニズムの世界観に、人が病や不調になる原因に、その人が「魂を喪ったからだ」という考え方があるからです。
そのため、シャーマンは、患者の「喪われた/さまよっている魂」を連れ戻すために、「異界」にその人の魂を探しに行き、「魂」をこの世に連れ戻してくるというようなことを行なうのです。
このような魂の救済の方法を、「魂の回復(ソウル・リトリーバル soul retrieval )」と呼ぶのです。
しかし、このような方法(コンセプト)だけ聞いても、私たち現代人には、少し意味がわかりません。
というのも、この方法論(技法)を理解するには、そもそもの前提として、シャーマニズムの世界観の中で、人の「魂」がどういう構造を持つものとされているかを知らないと、この意味がわからないからです。
さて、ところで、現代社会や現代人は、「魂」をどのようにイメージしているでしょうか?
現代社会では、通常、「魂」というと、自分の「自我」や「自意識」の延長のものとして「魂」というものをイメージしています。
そのため、「魂」が喪われるとか、「魂」がさまよってしまうという状態が、何を意味しているのかピンとこないのです。
しかし、多くの古代的な文化の中では、「魂」とは、この「自意識」だけでなく、潜在意識も含んだ「もっと大きな実体」としてイメージされているのです。
例えば、折口信夫は、「魂」という言葉の語源は、「たま」であるとします。この「たま」とは、今でいう「神」や「もの」を含む広い概念であったことを指摘します。
そして、古代の日本では、「たま」というものは、増えたり減ったりするものであると考えられていたというのです。「たま」が増える季節が「冬(増ゆ)」の語源だともしているわけです。
「他界からやつて来るたまは、単に石や木や竹の様なものゝ中に宿るのではなく、人自身が、ものゝ中に這入つて、魂をうけて来るのであつた。をかしな考への様であるが、日本人が、最初から、現実に魂を持つて来て居ると考へたら、こんな話は出来なかつたと思はれる。即、容れ物があつて、たまがよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた」
このような「魂」のイメージがあるので、神道では、人間の中には、和魂(にぎみたま)」「荒魂(あらみたま)」「幸魂(さきみたま)」「奇魂(くしみたま)」と複数の魂があると言ったりするのです。
そして、シャーマニズムというものは、おおよそ、このような世界観を持っているものなのです。
そのため、前記の「魂の回復(ソウル・リトリーバル soul retrieval )」のような考えや方法論も出てくるのです。
さて、このように、シャーマニズムの古代的な世界観と、現代の私たちの世界観はずいぶんと違ったものです。
しかし、上記のような、「魂の回復(ソウル・リトリーバル soul retrieval )」で実践されていることの原理的・構造的な側面だけを見てみると、実は意外なことに、現代の心理療法(ゲシュタルト療法)が行なっている事柄と、やっていることは、さほど変わりがないものとも言えるのです。
そのことを解説していきましょう。
例えば、別の記事では、深化/進化型のゲシュタルト療法などで理解されている、人間の中の「複数の自我状態」について解説をしました。
→「複数の自我状態」
深層心理学が指摘するように、私たち人間においては、潜在意識にある「複数の自我状態」が葛藤や衝突を起こすことにより、さまざまな障害、苦痛や生きづらさが生まれているという事態です。
たとえば、ゲシュタルト療法などでは、これらの「複数の自我状態」の間に、独特のアプローチをすることで、交流と融合を起こし、その分裂を統合することを行なっていきます。
その結果、その人の心理的な円満(苦しみの除去)を達成するのです。
これらのことは、一般的な、通俗的な世界では、まったく理解されていないことなので、少し説明をすると―
例えば、通常、私たち現代人が、「これが自分である」「これが私自身である」と感じている自分自身というものは、本当は、「自分自身」ではありません。
「複数の自我状態」の中の「ひとつの自我状態」にすぎないのです。
ある自我状態の中の「ひとつのもの」でしかないのです。
それが、ルーティンで使っている自我状態、「いつもの私」です。
自分が思い込んでいる「セルフ・イメージ」ともいえます。
この「いつもの私」(セルフ・イメージ)というものと対照的に、もう一方で、私たちは、「これは自分ではない」と排除している「別の自分」というものを持っています。
「別の自我状態」というものを沢山持っています。
それが、俗に、「シャドー(影)」と呼ばれているような存在です。
(これは、元々は、心理学の概念で、別の意味を持っているものですが、ここでは最近の通俗的な使用で使います)
つまり、私たちの心というものは、「いつもの私」になっている時には、無意識的に、「シャドー(影)」を抑圧排除して成り立っているということなのです。
シャドー(影)は、潜在意識の中に満ち溢れているのです。
それが心の構造というものなのです。
しかし、通常の私たちというものは、自分が「何を抑圧しているのか」「何を排除しているのか」を気づかずに生活しています。
抑圧されているシャドー(影)が、反旗を翻して、私たちの「いつもの私」を苦しめはじめて、初めて、私たちはシャドー(影)が存在していることに気づくのです。
しかし、「シャドー(影)」は、一般的には、なかなか見つけづらいのです。
このシャドー(影)が、前段で触れたような「喪われた魂」なのです。
たとえば、ゲシュタルト療法(心理療法)のセッションでは、クライアントの「潜在意識」の中に入っていき、この「シャドー(影)」「喪われた魂」を救い出し、その人本人に統合していくというようなことを行なっていきます。
まさに、これらのプロセスは、シャーマニズムで行なう「魂の回復」そのものの作業となっているのです。
このように見て見ると、現代の心理療法(ゲシュタルト療法)においても、見かけは違うものの、魂の回復(ソウル・リトリーバル)が行なわれているということがよくわかると思います。
また、シャーマニズムが言う「魂の回復/ソウル・リトリーバル」も、さほど奇妙なことではないことがわかるのです。
そして、逆にいうと、当スペースで行なっている、深化/進化型のゲシュタルト療法のセッションにおいて、クライアントの人の「潜在意識」の中に入っていくことで、さまざまな超越的な次元や、トランスパーソナルな次元が現れてくるという事態も、シャーマニズム側の視点からすると、普通のことだとも判断されるのです。
【補遺】幽霊という存在(状態)について
ここでは、いわゆる「幽霊」という存在(状態)について少し解説しておこうと思います。
そもそも、「幽霊」という状態を理解するには、上記のような、「私たちの心(魂)とは、どのような構造/仕組みを持っているのか」を理解できないと、それらを理解することができないからです。
そのため、通俗的な番組で、面白おかしくあつかわれる幽霊についての内容は、低級で有害なものしかないのです。
そもそも、それらを語る人間たち自身が、心/魂の構造について、まったく無知で鈍感なレベルの人間たちだからです。
以下を理解すると、幽霊と私たち生者とは、まったく同等で、同じ存在であることがわかるでしょう。
◆「幽霊」とは、「この世」の存在である
幽霊を端的に定義すると、「物質から離れた、断片化した魂である」ということになります。
人は、死ぬと、その人の魂は、肉体(物質世界/粗大領域)から離れます。
魂とは、上記で見たように、「潜在意識を含めた心の全体性」です。
その際、魂の中には、「複数の自我状態」があるのですが、その中の、「未完了の感情(欲求)体験」に強く結びついた自我状態が分離して、「この世」に残ります。
それが、幽霊という存在状態です。
(つまり、幽霊とは「この世」の存在なのです。真の「あの世」に移行した魂の部分を、通常、人は簡単に視ることはできません。そのため(付言すると)、幽霊に「あの世」のことを聞いても無駄です。彼らはそれを知らないからです)
そのため、幽霊というのは、通常、自分の過去の体験に感情(欲求)的に囚われていて、それらの体験を延々と繰り返している存在なのです。
物質(肉体)の制御がきかなくなった分、歯止めなく、より剥き出しの激情(欲求)に翻弄されているのです。
それらの自分のつくり出した時空(表象)に、繭のように閉じ込められているのです。
それらが、「未完了の体験(人生)」だからです。
そのため、彼らの多くは、とても混乱しているように見えるのです(それは精神疾患者のように見えたりします)。
(そのような点で、仏教において、執着や未練が、解脱を阻害し、次の転生を生んでしまうと指摘しているのは正しいのです)
幽霊のいる時空は、微細領域の非時空なので、私たちの物理的な時空を当てはめて、アレコレ言っても意味がありません(鈍感な人間たちがまったく理解できていない点はこの点です)
基本、彼らの内的表象が、彼らの感じ、存在している時空なのです。
そして、それらの表象は、感情(欲求)によって表象されるという意味で、「夢」の世界に近いのです。
また、彼らの内的表象は、ほとんどの素材が、生前の記憶(感情/情報)により構成されています。
そのため、彼らは、彼らの内的表象によって縛られてしまうのです。
生前の未完了の感情(欲求)が、なめらかな非時空の領域で、無限反復されてしまうため、彼らは、なかなかその状態から脱出(解脱/成仏)することができないのです。
粗大領域(物質世界)は、その点、摩擦や引っかかりが多いので、これらを解消しやすいのです。また、その点が、粗大領域(物質世界)の存在理由とも言えます。
しかし、幽霊にも、その状態を脱するさまざまな方途があります。
彼らには、膨大な非時空の長さがあるので、その中で経験や学びも少しずつ生じ、「未完了の感情(欲求)体験」が完了していくのです。
そのことで、彼らの縛られた自我状態も、ほどけていくのです。
また、彼らの「魂の本体」に関連したものが助けにくることもあります。
(しかし、その場合も、彼ら自身の心が過度に閉じている場合は、その機会を活かせません。それらが視えないし、気づけないからです)
また、彼らも、私たちと同様に、その心の底(本質)には、トランスパーソナル/超越的な次元が存在しています。
生者においても、探求や気づき awareness を通して、その領域に参入できる人間がいるように、彼らにおいても、それは可能なのです。そのことで、彼らの自我状態はほどけていくのです。
いずれにせよ、時間の差はあるものの(川が必ず海にたどり着くように)、やがては、彼らも「魂の本体」に統合されていくのです。
それが、彼らの側にとっては、解脱であり、成仏の体験なのです。
それは、体験的心理療法(ゲシュタルト療法)などにおいて、ワークのプロセスの中で、「既存の自我」が希薄になり、消滅し、別の自我と統合されていくのと、同じ体験/構造なのです。
さて、以上、見たように、幽霊というものは、単に、違う部屋(時空)にいる隣人なのであり、物質(肉体)が制御しないため、心が、より剥き出しになって、溢れ出した存在であるということにすぎないのです。
そして、実は、心の解放や統合をしていない、普通の人間(生者)も、「彼ら(幽霊)と、何も変わらない存在である」ということなのです。
そのため、もし、死後、彼らのように、自らの表象(感情/欲求)に閉じ込められた存在(状態)になりたくないのなら、生きている間に、充分に心を解放し、統合を進めておかないといけないのです。
つまり、生きている間に、自分の「魂の回復/救済(ソウル・リトリーバル)」を充分に進めておかないといけないということなのです。
この記事で、一見キワドイ、彼ら(幽霊)の存在をとりあげたのは、そのような意味合いからです。
彼ら(幽霊)は、普通の平均的な現代人が、そのまま無自覚に生きている姿を、鏡のように、そのまま体現している存在(状態)だからです。
【ブックガイド】
シャーマニズム、変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。