サイコシャーマニズム的なアプローチは、さまざまな真の変性意識状態(ASC)から導かれた、「意識拡張」と「創造力解放/覚醒」に関する、新しい実践的方法論です。
伝統的シャーマニズム、芸術創造(美的創造)、サイケデリック/意識探求、体験的心理療法(ゲシュタルト療法)、夢見の技法等々、さまざまな創造的方法論を総合したものとなっています。
近代社会(現代社会)においては、これら本来(古代)はひとつであった生の技法が、バラバラになって、それもレベルの低いものとして切売りされているものしかなくなってしまったので、私たちの真の「魂の全体性」を満たす方法論がなくなってしまったのです。
そのため、現代的な方法論は、どれも中途半端さや未然感を持ち、「核心」に触れるものや、トータリティ(全体性)を欠いたものになってしまっているのです。
それらを、なんらかの形で模索する人もいることもいましたが、残念ながら、現代社会では、その試みや深さがまったく理解されていないという現状になっているのです。
たとえば、映画監督で、「サイコマジック」の提唱者であるA.ホドロフスキーの試みは、この手のアプローチの重要な先駆的事業です。
しかし、当記事で解説する「サイコシャーマニズム」のアプローチは、現在でさえまったく理解されていない彼の方法論の、さらに数歩進めた方法論となっています。
(ホドロフスキーの「サイコマジック」が理解されていない理由は、彼の「無意識」や「物質」についての観念が、現代社会では理解されていないことと、彼のような実践を、他の人間がまったく行なっていないことにあります)
そのため、サイコシャーマニズム的アプローチは、現代社会の制限的な世界観の中では、理解の難しいものとなっていますが、「真の宇宙」はこのようになっているのです。
私たちが、空疎な現代文明を超えて、真に魂次元での生を創造しようとするならば、必ず必要となる事柄を、以下にご紹介してみようと思います。
ところで、サイコシャーマニズムの思想は、いくつかのキー概念から見ることができます。
◆〈意識〉の全能性/非限定性
サイコシャーマニズムで仮定している「意識 consciousness」は、通常の近代社会が想定している「小さな自意識」とは、まったく違うものです。
変性意識体験やサイケデリック(意識拡張)体験を数多く検証していくと、通常の現代社会が理解している「自意識」とは違う「意識の本質」に直面することとなるからです。
「自己実現」で有名な心理学者マズローととともに、トランスパーソナル心理学を発足させた精神科医のスタニスラフ・グロフ博士は、その膨大な臨床研究から、次のように語ります。
博士は、当時、合法の医薬品であったLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)を使って、数千回にわたるセラピー/セッションを行なっていたのでした。そこで、彼は、人間の深層心理から、限りなく驚異的なものが湧いてくることを観察(目撃)したのでした。
「LSD研究のなかでわたしはとうの昔に、ただ単に現代科学の基本的諸仮定と相容れないという理由で、絶えまなく押し寄せる驚異的なデータ群に目をつぶりつづけることが不可能なことを思い知った。また、自分ではどんなに想像たくましくしても思い描けないが、きっと何か合理的な説明が成り立つはずだと独り合点することもやめなければならなかった。そうして今日の科学的世界観が、その多くの歴史的前例同様、皮相的で、不正確かつ不適当なものであるかもしれないという可能性を受け容れたのである。その時点でわたしは、不可解で議論の的となるようなあらゆる知見を、判断や説明をさしはさまず注意深く記録しはじめた。ひとたび旧来のモデルに対する依存心を捨て、ひたすらプロセスの参加者兼観察者に徹すると、古代あるいは東洋の諸哲学と現代の西洋科学双方のなかに、大きな可能性を秘めた新しいエキサイティングな概念的転換をもたらす重要なモデルがあることを少しずつ認識できるようになった」
グロフ『脳を超えて』吉福伸逸他訳(春秋社) ※太字強調引用者
そのように彼は、起こってくる事柄をジャッジせずに、ただ書き留めていくということを行なっていったのでした。
そして、そのような結果、彼は、サイケデリック体験(現象)について、次のような結論を得たのでした。
「サイケデリック体験の重要な特徴は、それは時間と空間を超越することである。それは、日常的意識状態では絶対不可欠なものと映る、微視的世界と大宇宙との間の直線的連続を無視してしまう。現れる対象は、原子や分子、単一の細胞から巨大な天体、恒星系、銀河といったものまであらゆる次元にわたる。われわれの五感で直接とらえられる「中間的次元帯」の現象も、ふつうなら顕微鏡や望遠鏡など複雑なテクノロジーを用いなければ人間の五感でとらえられない現象と、同じ経験連続体上にあるらしい。経験論的観点からいえば、小宇宙と大宇宙の区別は確実なものではない。どちらも同じ経験内に共存しうるし、たやすく入れ替わることもできる。あるLSD被験者が、自分を単一の細胞として、胎児として、銀河として経験することは可能であり、しかも、これら三つの状態は同時に、あるいはただ焦点を変えるだけで交互に起こりうるのである」
「サイケデリックな意識状態は、われわれの日常的存在を特徴づけるニュートン的な線形的時間および三次元空間に代わりうる多くの異種体験をもたらす。非日常的意識状態では、時間的遠近を問わず過去や未来の出来事が、日常的意識なら現瞬間でしか味わえないような鮮明さと複雑さともなって経験できる。サイケデリック体験の数ある様式(モード)のなかには、時間が遅くなったり、途方もなく加速したり、逆流したり、完全に超越されて存在しなくなったりする例もある。時間が循環的になったり、循環的であると同時に線型的になったり、螺旋軌道を描いて進んだり、特定の偏りや歪みのパターンを見せたりしうるのである。またしばしば、一つの次元としての時間が超越されて空間的特性を帯びることがある。過去・現在・未来が本質的に並置され、現瞬間のなかに共存するのだ。ときおり、LSDの被験者たちはさまざまなかたちの時間旅行(タイム・トラベル)も経験する。歴史的時間を遡ったり、ぐるぐる回転したり、完全に時間次元から抜け出て、歴史上のちがった時点に再突入したりといった具合だ」
「非日常意識状態についてふれておきたい最後の驚くべき特徴は、自我(エゴ)と外部の諸要素との差異、もしくはもっと一般的にいって、部分と全体との差異の超越である。LSDセッションにおいては、自己本来のアイデンティティを維持したまま、あるいはそれを喪失した状態で、自分をほかの人やほかのものとして経験することがありうる。自分を限りなく小さい独立した宇宙の一部分として経験することと、同時にその別の部分、もしくは存在全体になる経験とは相容れないものではないらしい。LSD被験者は同時にあるいは交互に、たくさんのちがったかたちのアイデンティティを経験することができる。その一方の極は、一つの物理的身体に住まう、分離し、限定され、疎外された生物に完全に同一化すること、つまりいまのこのからだをもつということだろう。こういうかたちでは、個人はほかのどんな人やものともちがうし、全体のなかの無限に小さな、究極的には無視してかまわない一部分にすぎない。もう一方の極は、〈宇宙心(ユニヴァーサル・マインド)〉ないし〈空無(ボイド)〉という未分化の意識、つまり全宇宙的ネットワークおよび存在の全体性との完全な経験的同一化である。」
(グロフ、同書) ※太字強調引用者
サイケデリック体験において、なぜ、このような事態が可能になるのかというと、「意識 consciousness」自体がそのような存在、能力を持っているからと言えるのです。
論理的に考えれば、描かれている体験が可能になるには、そのように時空に縛られない「意識 consciousness」の存在を想定せざる得ないのです。
そして、彼も「古代あるいは東洋の諸哲学」と指摘するように、そのような「意識」の姿については、実は、古今東西、特に東洋の思想では古来より語られていたことでもあったのです。
特に、梵我一如の思想、インドのヴェーダンタの哲学では、それに類したことがすでに語られていたのでした。
梵我一如とは、梵=ブラフマン(宇宙創造の神)と、我=アートマン(私たちの真の自己)とは、同一のものであるという思想です。
1,000年以上の前の、インド最大の思想家の一人シャンカラーは語ります。
「認識対象を捨て、つねにアートマンを〔あらゆる限定を〕離れた認識主体であると理解すべきである。「私」と呼ばれているものもまた、すでに捨てられた〔身体の〕部分と同じであると理解すべきである。
アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、統覚機能の認識とは異なって、その認識は限定されたものではない。
シャンカラ『ウパデーシャ・サーハスリ―』前田専学訳(岩波書店)
ここでは、私たちの〈意識〉の本質―それを彼はアートマンと呼ぶのですが―は、「私」や心、自我や物質ではなく、それらを超越したもの、宇宙的な目撃者であることが語られているのです。
そして、インドの哲学思想の中では、このような思想は、むしろ、オーソドックスなタイプのものであるということなのです。
これらは、グロフ博士が描く、サイケデリック体験の極相を理解するうえで、とても参考になるものであるのです。
私たちの心についての「心理学的知識」と言われているものは、近代主義的な科学的世界観の上にできているものです。
結論から言うと、そのために返って、私たちは「心」の本質について、何も理解できなくなってしまっているのです。
上のグロフ博士の解説を、近代的な科学的な世界観の上で理解することはできません。
しかし、実際、意識や心は、彼の言うように、驚異的な能力をもった存在なのです。
本当の意味での、人の深い深層心理を実際にあつかう現場にいると、人の心の構造は、別様に理解されてくるものであるのです。
その心の驚異の力を解放して、自在にしていくのが、サイコシャーマニズムの方法論です。
通常、私たちは、自分の意識や主体を、この「自我」「私」「自意識」と思い込んで自明としていますが(それこそが近代主義です)、実際の心は、多層的・多元的に存在していて、私たちの「自我」「私」「自意識」などは、薄皮のように表層的なものでしかありません。
実際の私たちは、多数の自我状態を持っており、その多くは、「自意識」からは永遠に隠されています。
普通の人は、一生それらを知ることはできません。
「潜在意識」「無意識」などと呼ばれるいるものもそれらですが、それらを声高に語る商売人たちも、それを本当に見たことなどは一度もありません。
「意識を拡張する」という言葉は、小さな自意識から、上でグロフ博士が語る〈意識〉へ、意識を拡張させることを意味しているのです。
その間には、無限といってもよい、さまざまな中間的な意識状態があります。
その拡張の、解放的プロセスの中で、私たちは、さまざまな隠されていた自我状態に同一化し、それらを体験していくことができるのです。
それが、シャーマニズム的現象というものなのです。
宗教学者エリアーデが、シャーマニズムを、「脱魂の古代的技術」と呼んだのは、そのためです。
それらの具体的な方法論は、今後、スクールでご紹介していくように、さまざまありますが、サイコシャーマニズムの実践の中では、そのような「意識を拡張する」中で、さまざまな自我状態を解放し、私たちの魂のトータリティ(全体性)を実現することを行なっていくのです。
通常の私たちの人生は、「日常劇」という劇を演じているものです。
この「日常劇」では、物心ついた頃から、自分の「名前(役名)」が与えられ、その家族(役者)の中で、「求められた役」を演じていくことになります。
家族、友達、学校、職場など、成長の過程で、舞台は変わりますが、「求められた役」を演じていくことには変わりはありません。
人生の時期によって、「学校ごっこ」「会社ごっこ」「ビジネスごっこ」と、その場面その場面で、演ずる劇やゲームは変わりますが、「求められている役」を演じていることには変わりはありません。
しかし、この「役」で演じられている内容は、私たちの人格、魂のほんの一部でしかありません。
「人間ごっこ」の部分でしかないのです。
そのため、私たちは、心の底では、空虚感を感じることになっているのです。
上のグロフ博士の言葉で見たような、本当の魂のひろがりを生きることはできないのです。
しかし、例えば、(アヤワスカ・セレモニーのような)強力にシャーマニックで、サイケデリックな体験をすると、私たちの隠された魂の領域が解放され、その「人間ごっこ」を超えた姿に、啓示的に出会うようなことも起こってくるのです。
その時、私たちは、普段の「日常劇」が、いかに任意の、限定的なもの=劇でしかないかに気づくことになるのです。
私たちは、超越的な体験の中で、本当はそこを生きている「宇宙劇」の次元を感じられるようになるのです。
人生に、真の宇宙的な意味をもたらすことができるようになるのです。
ところで、心理療法である「サイコドラマ」では、演劇のようにして、人生の場面を再演して、さまざまな修正や解放を行なっていきます。
それは、それで効果のあるものです。
しかし、その方法論は、もっと別様に利用していくことが可能なものなのです。
というのも、私たちに本当に必要なことは、この普段の生活でも、人間ごっこや日常劇を超えて、多様な宇宙劇を生きられるようになるということだからです。
そのためには、日々の日常に創造的変化をもたらす、さまざまな切り口が必要となるのです。
たとえ、いっとき間歇的に、超越的な体験をできたとしても、その後、この普段の生活の中で、「日常劇を演じる」ことの中に閉じ込められてしまっては、なんの宇宙的創造性も育たないからです。
日常劇を修正し、解放する、シュルレアリスム的な作用が必要となるのです。
サイコシャーマニズムでは、そのような超越的な次元を、宇宙劇として、日々創造的に生きられるような実践を行なっていくことになります。
今後、それらのことを、色々とスクールではお伝えしていこうと考えています。
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。