「真の変容」のないワークについて―ワークが行き詰まる問題点

 ゲシュタルト療法をしばらくやっていると、もしくは、浅いゲシュタルト療法しかやっていないと、しばしば、陥る状態があります。
 それは、「真の変容」が起こらないという問題です。
 自分の心について、表面的には、一部の改善はなされたけれど、全面的な「真の人格変容」にまでは至らないという問題です。
 ワークの現象としては、「浅い変化」「その場のカタルシスのみ」「マンネリ」というような状況です。

 これは、昔から垣間見られた問題点でしたが、近年のように、浅いゲシュタルト療法が、ゲシュタルト療法だと勘違いされている状況では、より顕著に表れるようになった点なので、ここで少し解説してみたいと思います。

 これは、「防衛」とか「抵抗」などと呼ばれる問題群です。
 ゲシュタルト療法でも、深い理解を持たずに、なんとなくやっていると、ワーク中も、このような「防衛的な態度」のうちにワークを進めており、変容が深まっていかないという現象が起きてしまうのです。

 ここでは、クラウディオ・ナランホ博士 Claudio Naranjo の言葉を引いて、これらについて、色々と見ていきたいと思います。

 クラウディオ・ナランホ博士は、フリッツ・パールズ直弟子のゲシュタルト療法家(パールズの三人の後継者の中の一人)であり、シャーマニックなプラントメディスン「アヤワスカ」の最初のきちんとした研究家であり(初の国際会議でオープニング・スピーチを行なう)、現在流布しているエニアグラムの心理学的記述の構成者(O.イチャーソ直伝)など、多様な顔を持つ、初期のトランスパーソナル心理学に貢献した重要人物です。
クラウディオ・ナランホによるゲシュタルトの基本姿勢

 そんな彼が、ゲシュタルト療法で必要な「姿勢」を記した言葉の中に、次のような言葉があります。
 セッション(ワーク)の際の、クライアントの心得、注意事項としてなのですが…

 「操作したり、説明したり、正当化したり、ジャッジ(審判/判定)しないで、むしろ表現せよ」
 Exprss rather than manipulate, explain, justfy, or judge.

 ゲシュタルト療法や体験的心理療法においては、プロセスが進んでいくと、私たちの内側の深いところから、さまざまな「感情(欲求)」が、自発的に湧き上がってくることになります。
 それらを自分で気づいて、生々しい感情(欲求)の発露として、ナマの形で、外に表現することやシェアすることが、解放を促進していくことになります。
 それらの感情(欲求)の中には、普段の生活の中で、決して出てこないような、さまざまな「抑圧された感情(欲求)」も含まれています。

 そのようなものが、内側から湧き出てきたとき、人は、無意識的に、それらの感情(欲求)を、ごまかしたり、「抑圧」しようとします。
 
「操作」したり、「説明」したり、「正当化」したり、「ジャッジ(判定)」したりして、受け取らないようにしているのです。

 なぜなら、それらが、自分にとって、「都合の悪い感情(欲求)」だからです。
 「自我 ego」の底にある「無意識 unconsciousness」が、それらの感情(欲求)を脅威に感じ、それから、自分を「防衛」しようとするのです。
 フロイトが、「抵抗」とか「防衛」とか呼んだ態度は、そのような一連の態度です。
 フロイトにおいて、「自我 ego」というものは、大部分「無意識」の存在なのです。

 さて、そのように、「自我 ego」は、「自動的に」、都合の悪い欲求(感情)を抑圧しようとするものですが、それというのも、そもそも、私たちのこの「自我 ego」というものは、成長する過程の中で、さまざまな感情(欲求)を、「シャドー(影)=悪いもの」として抑圧していくことによって、できたものだからです。
 そのため、抑圧された感情(欲求)の湧出に、怖れを感じるのです。
 私たちは、そのような感情(欲求)を、シャドー(影)として抑圧し、抑え続けることで、「普段の自分」「自分らしさ」というものを作ってきたからです。
 だから、抑圧された感情(欲求)が溢れ出してきたりすると、「悪い感情(欲求)/価値のない感情(欲求)」として、自動的に防衛し、抑圧してしまうのです。

 ところで、精神武関でいう「防衛的な態度/防衛機制」とは、人が、自分の中に、それら「都合の悪い感情(欲求)」を見出した時に、それらの感情(欲求)を素直に認めて、受け入れるのではなく、否定し、ごまかすときにする態度のことです。
 上のナランホの言葉の中で、「表現 express」(自然で自発的な感情の発露)に対置されているものは、みな、そのような「防衛的な態度」のことです。
「操作」「説明」「正当化」「ジャッジ」です。

 近年のゲシュタルト療法は、精神分析についての理解が浅いので、このような防衛機制への理解も浅くなっています。
 そのせいで、ワークも、そこへの気づき/アウェアネスが欠ける状態になっているのです。
 その落とし穴に落ちてしまっているのです。

 「操作 manipulate」とは、自分の心を加工して、自分の感情(欲求)や体験を、自分でコントロールしよう(操ろう)という態度です。
 この背後には、内部の、生きた自発的感情(欲求)の表出に対する怖れ、信頼の欠落、不感症、空虚があります。
 この手の傾向の強い人は、そもそも、自分の素直な自発的感情(欲求)を感じないように、深く抑圧している状態にあるのです。
 「他人を操作しようとする」心理的態度は、「あの人はなんか操作的な人だ」と、その「わざとらしい態度/あざとさ/人を操ろうとする妙な態度」が、目につきやすいものですが、実は、人は、自分の心に対しても、そのような操作をしている場合も多いのです。
 自分の心を、あるがままに、そのまま受け取ることを拒否しているのです。
 そこに、「嫌なもの/怖いもの/弱いもの/無力なもの/みじめなもの/汚いもの/恥ずかしいもの」などがあることを、怖れているのです。
(私の中に、「こんな嫌な感情があることに耐えられない」と拒絶しているのです)
 自然な感情(欲求)を、そのまま素直に感じ、生きることよりも、何か自分で考えた意図的なものに体験をゆがめて、心をコントロールし加工しようとしているのです。
 そのことで、自発性や自然さを生きていない、人工的で、空虚な存在になってしまっているのです。
 セラピーにおいても、そのように作為的(防衛的)にふるまっていると、生きた感情(欲求)に触れたり、解放することができないのです。
 ナランホの指摘は、そのような態度や場面についての指摘です。
 自己啓発系のものに多い「ニセモノ臭さ」「自然さの欠如」は、このような「操作的」な態度に由来しているのです。

 「説明 explain 」「正当化 justfy 」は、抽象化や概念化することで、そのままの生きた感情(欲求)体験することを回避しようとする態度です。
 「知性化」や「合理化」などの防衛的なふるまいです。
 何か感情(欲求)が湧いて出てきたときに、それを素直に感じたり、表現したりするのではなく、いちいち、何か「解説しよう」としたり、「説明しよう」とする態度のことです。「理由づけ」しようとする態度のことです。
 これも背後に、自然で生き生きとした、そのままの自発的感情(欲求)に対する信頼の欠如、恐怖心、不感症があります。
現代人に多いふるまいですが、それは、この近代社会全体が、そのような方向性と抑圧をもったゆがんだ社会だからです。

 このような態度も、私たちを、自然で・大地的・実体的な実存から解離させて、生気を欠いた空虚な存在にします。
 セラピーにおいても、しばしば、そのような防衛的な態度は、現れがちです。
 そのため、ゲシュタルト療法では、それらを「About-ism(について主義/理屈づけ)」と呼んで、「知的なおしゃべり」の害悪を警告したのです。
 パールズの「思考を離れ、感覚になれ」という言葉も、そのような点を強調するための言い方なのです。
 この手の文脈では、ブルース・リーの有名な「Don’t think, Feel.(考えるな、感じろ)」などもよく引用されます。

 「ジャッジ judge (審判/判定)」も、同じような防衛的態度として、挙げられているのです。
 そして、畳みかけられた表現の中では、最後のものが、一番重要であるように、この「ジャッジしない」が一番精妙で、難しいものであり、かつ一番核心的なものでもあるのです。

 例えば、セラピーのセッションなどの場面で、自分の中から、「或る見知らぬ感情(欲求)」や「嫌な感情(欲求)」がチラッと出てきた時に、
 人は、
 「この感情(欲求)は重要ではない」
 「この感情(欲求)には意味がない」
 「この感情(欲求)はテーマとは関係ない」
 「この感情(欲求)は本筋ではない」
 と、瞬時に周縁化して、排除してしまいがちなのです。
 
 それらを無かったものにしてしまうのです。
 つまり、ちゃんとは、受け取らないようにするのです。
 これは、心の防衛的なフィルタリングの作用です。
 これが、「ジャッジ judge (審判/判定)する」ということなのです。

 これらのプロセスは、閃光のように瞬時に起きます。
 一秒以内の出来事です。
 この場面で、「ジャッジ(審判/判定)しない」ということが、「ジャッジ(審判/判定)しない」ということの実践的な意味合いなのです。
 この「ジャッジ(審判/判定)」は、フィルタリングとして機能していて、何か不都合な感情(欲求)が現れると、瞬時にすばやく働いて、それらの感情(欲求)を排除/抑圧してしまいます。
 そのため、私たちも、それらの感情(欲求)に、なかなか気づくことが難しいのです。

 そのため、私たちは、心を研ぎ澄まして、心に「何か見知らぬ、自発的な感情(欲求)」が現れたときは、ジャッジ(審判/判定)のフィルター(排除)より、「すばやく気づいて」、瞬時にそれらをつかまえないといけないのです。
 そして、それらをきちんとつかまえて、外に表出しないといけないのです。
 それらは、夢のように淡く、すぐつかまえて実体化しないと、すぐ見失われてしまうからです。
 ただ、頭で考えるだけでは、それらは瞬時に消えてしまいます。
 私たちの無意識は、いつも、それらを排除しようとしているからです。
 そして、自分のものとしてきちんと受けとり、取り出して、味わってみると良いのです。
 ゲシュタルト療法やエンカウンター・グループなど、表現型のセラピーの場面では、口に出して、言葉にして、表現していくのが効果的です。
 ナランホが、「むしろ、表現せよ」と言っているのは、そういう意味でもあるのです。
 ただ、気づいたり、考えたりするだけでは、あまり大きな展開につながらないからです。

 そして、実際に表現してみると、今まで、考えもつかなかったような、抑圧・周縁化されていた感情(欲求)が、自分の中に存在していて、それが外に出たがっていたということに気づくことになるのです。
 外に出してみると、それが痛感されるのです。
 そこから、セッション(ワーク)が、新しい展開を迎えるということもよくあります。
 それは、私たちの重要な人格的側面だったのです。
 そのような気づきと表現することを1セットで行なうことで、私たちは、解決の難しかった心の問題を、打開していくことができたりするのです。

 そのため、特に、心を探求することを長くしていて、マンネリに陥っていたりする人は、自分が、上のような防衛的な態度、特に「ジャッジする」ことに陥っていないか、よくチェックしていくと良いのです。
 自分が、無意識的に、このような「ジャッジ(審判/判定)」や「周縁化」をしていないか、また、「操作 manipulate 」をしていないか、よくよく自己点検していくことが良い方法なのです。
 一見、「重要でない」と感じられた欲求(感情)の中に、答えがあることも多いからです。
 そして、心に取り組む際は、心を研ぎ澄まして、自分が瞬時にジャッジ(審判/判定)して、さまざまな自発的な感情(欲求)を周縁化したり、排除したりしていないか、よくよく気づいていくと良いのです。

 また、これは、心を研ぎ澄ます瞑想の場面でも、このように或る感情(欲求)が出てきた場合は、それらを周縁化・抑圧しないで、受け入れて、体験していくと良いのです。
「瞑想」で一番大切なこと―心の基盤とその取り組み方

 さて、以上、ナランホ博士の言葉を参考に、ワークのなかで起きてくる「防衛的な態度」を見てみました。
 ゲシュタルト療法をやっていて、何か、真に深い変容にたどり着けてないと感じられる方は、上のような点を注意してみていただければと思います。

【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。