「しないこと」のゲシュタルトへ マインドフルネスの光明

さて、拙著『砂絵Ⅰ』では、心理的な変容過程(行きて帰りし旅)において、その本質的なレベルで、気づき awarenessの力が、とりわけ重要なことについて強調しました。この指摘は、ゲシュタルト療法体験的心理療法が多く陥りがちな落とし穴である同時に、私たちの心理的変容と拡充をさらに進化させるための要点として記されたものです。

気づき awarenessの能力は、ゲシュタルト療法の入口であると同時に出口でもあるのです。しかし、往々にしてゲシュタルト療法をやっている人の中でも、この awareness の真の核心が見失われて、マンネリや悪循環にはまっていくという事態になっているのです。
そして、またその危険が、教科書的なゲシュタルト療法の中では公式化されていないのです。これ自体がまさに気づき awareness の欠如という事態でもあるわけなのです。

今回は、世間でも認知度が上がって来た「マインドフルネス」という概念(補助線)を使って、この問題点の中身を見ていきたいと思います。

ゲシュタルト療法を、長くやっているにも関わらず、「なんか自分は進展がないなぁ」「行き詰っているなぁ」と感じられているような方にとっては、参考にしていただける内容になっていると思います。

◆気づき awareness の力

気づき awareness という能力の中にはさまざまな状態や帯域があります。
しかし、通常、ゲシュタルト療法の中でも、「気づき」という日常用語を漠然と使っているため、どのような状態や機能を指しているのかが、構造的に理解されにくくもなっているのです。
人は、自分はなんでも「簡単に気づける」と思ってしまっているわけです。
しかし、少しちゃんと取り組めばすぐにわかる通り、真のゲシュタルト療法の中では、気づき awareness とはある種のスキル(能力)であり、訓練によってこそ研ぎ澄まされていくものだということが分かるのです。
逆にいうと、普通の人の生活は、「気づき awareness のない(欠落した)生活」だともいえるものなのです。

ところで、ゲシュタルト療法の中では、「気づきの連続体 awareness continuum 」として知られている「気づきの姿勢・態勢」があります。
これは、ゲシュタルト療法のグループでは、主にエクササイズとともに教わります。
気づきの3つの領域 エクササイズ
刻々と瞬間瞬間、私たちが持つ3つの領域に気づき続けているような状態です。
該当ページで紹介しているようにエクササイズでその感覚を知りますが、これはあくまでも感覚イメージをつかむためのものにすぎません。
実際には、毎日の生活の中で留意し、いつでもどこでもこれを行なっていくことが大切(練習・訓練)なのです。
つねに、気づきの連続体 awareness continuum として存在できることがベースであり、覚醒 awakeness 的な在り様なわけなのです。
そして、このスキルが、私たちの心理的統合を進め、実際的に、ワーク(セッション)を深めやすくもするもの(能力)なのです。

実はこの気づきの連続体 awareness continuum とは、正規の文脈でいわれているマインドフルネスそのものでもあるのです。
判断(ジャッジメント、審判、価値判断)を挿し込まないオープンな気づきの状態であるということなのです。
(カバットジン博士も、マインドフルネスとはアウェアネスだと語っています)

◆気づくことの違い 同一化と脱同一化

さて、気づき awareness は、気づきの連続体 awareness continuum としてのマインドフルネスそのものなのですが、そのことがゲシュタルト療法の実践の中でも見失われたり、間違われていく理由(要因)がいくつかあります。

まず、それはセッションの実践上の風景で起こってきます。
ゲシュタルト療法のワーク(セッション)を長期にわたって継続的に続けていくと、ワーク自体がある感情的なテーマを中心に展開されるため、その内容(テーマ)そのものに気をとられてしまう(同一化してしまう)という点が、まず第一の理由です。

ワークの実践においては、ある微かな感情に気づきを持ち、それに深く没入して(同一化して)それをさまざまに展開していくことが重要となります。
そのことが、私たちの葛藤を内側から解きほぐし、情動的に深く解放していくことになるからです。

この場合の、「ある微かな感情」とは、「ある部分的な自我状態」に由来しているものです。
普段の日常生活では、私たちはそれらになかなか気づけません。ワークの中における微細な気づきの能力、軽度な変性意識状態(ASC)でこそ、それらが気づかれやすくなっているのです。
複数の自我(私)について ―心のグループ活動

ところで、ワークの中のこの場面において、私たちの心は「2つの働き方」をしています。
ひとつは、ある部分的な自我(感情)に気づく awareness という状態です。

これは、その感情を対象化している状態であり、主体はその感情そのものと微妙に離れた状態、つまり、脱同一化している状態にあるということです。このわずかな隙間、差異、脱同一化が、気づき awareness という状態の核心なのです。
該当ページで解説したように、気づきの「メタ的機能」ゆえにこのことが可能となるのです。

もうひとつの心の働き方は、その感情そのものに深く没入し、同一化している状態です。深く同一化しているからこそ、その感情(自我)を内側から深く把握し、その感情そのものとして自身を自発的に展開していくことが可能となるのです。

さて、ワークの中では、私たちの心は、この2つの働き(同一化と脱同一化)を同時に、2局面で浸透しながら振幅しながら行なっているのです。
そして、この2つ(同一化と脱同一化)を浸透・振幅しながら行なえることが、ワークが私たちを深く展開し統合していく肝の力なのです。
この同一化と脱同一化は、車の両輪のように働くものです。

そして、微細な気づきの能力と、変性意識状態(ASC)の中では、このことが可能となるわけなのです。

さて、話を元に戻しますと、ではなぜゲシュタルト療法の中で、気づきの連続体 awareness continuumというマインドフルネスがなぜ見失われがちになるのかという点です。

それは、今、前述に見たワークの場面に即していうと、ワークの中で起こるダイナミックに情動を解放していく側面、つまり各感情や自我と「同一化」する側面ばかりに、私たちが気を取られていくことになるからなのです。

そのことがワークの中で、私たちに大きなカタルシスや解放をもたらすものなので、その成功体験に引っ張られて、これらの体験を無意識裡に繰り返そうとしてしまうのです。
そして、そのこととゲシュタルト療法のやり方そのものを同一視してしまいがちだからです。
そして、その際、「気づき(脱同一化)の側面」よりも、「同一化の側面」に意識がいってしまうからです。

また、その結果として、同一化する心理的内容(各感情や自我)を、ワーク中に「無理に」探しはじめることにもなってしまうのです。そして、これが落とし穴のはじまりなのです。

よく、ゲシュタルト療法のグループでは、自分の持っている「問題」「テーマ」「パターン」などが取り沙汰されます。
ワーク(セッション)の素材(ネタ)となるものたちです。

そのため、人によっては、自分の「問題」「テーマ」「パターン」を無理に探しはじめることにもなります。
しかし、本来は、各感情(欲求)や自我状態は、無理やり設定するのではなく、自発的に、気づかれる awareness べきものなのです。
そのような設定は、先入観やビリーフ(信念)をつくり出し、かえってワーク中で「その場で起こっていること」への繊細な気づき awareness を阻害するものになったりするのです。
そして、このような態度は、結果的に、ワークの類型における「することのゲシュタルト」という間違った姿勢にもつながっていくこととなるのです。

◆「することのゲシュタルト」という落とし穴

さて、ワーク(セッション)においては、気づきと情動的な解放、脱同一化と同一化の浸透・振幅が表裏一体のものとなって、深い解放や統合が起こることは、さきに触れました。

しかし、ワークの中で、情動的な解放による「問題解決」「答え」ばかりを求めていくと、起こっている事態への今ここの繊細な気づき awareness が根本から見失われていくことにもなっていくのです。

同一化すべき感情ばかりを探して、自己のその時の状態(全体性)への気づき awareness が失われていってしまうのです。

そのようなワーク(セッション)においては、クライアントの方はしばしば心焦って、答えを求めて「何かをしよう」とばかりをしてしまいます。
これが「することのゲシュタルト」という落とし穴です。
これは、ワークの効果としても、逆効果になります。
つまり、変容が起こらないということです。
ゲシュタルト療法の中では、『変容の逆説』という原理が知られています。
自分を変えようとすると、「変えようとする主体」と「変えたい部分(対象・客体)」とに、自己が分裂して、かえって変化が起こらなくなります。
逆に、「変えようとすること」を止めて、「変えたい部分(対象・客体)」を受容し、受け入れると、その部分が自己の中に解消し、かえって、変化が起きるということです。

そのため、ワークにおいて第一に何よりも重要なのは、「何かをすること」でなく「何もしないで」ただ自分の状態に気づいて awareness 受け入れていくということなのです。
そうすると、それまで感じられなかったような、微細な感情にも、気づいていけるのです。

自分の中で起こっていること(自分の状態)に、ただ気づいて awareness いること。
「答えを求めている」自分に、ただ気づいて awareness ともにいる Being ことなのです。
その中でこそ自己の内側から、真に自発的な感情(欲求)・表現・活路が現れてくることになるのです。

◆マインドフルネスと、「しないことのゲシュタルト」

さて、マインドフルネスの流れは、さまざまな文脈で日本でも知られはじめましたが、その大元はゲシュタルト療法が広まる背景でもあった米国西海岸で、ヴィパサナー瞑想や上座部仏教の瞑想法として広まっていたものでした。
日本では、鬱病への特効薬がない中で、認知行動心理療法のひとつとして認知度があがっていったのかもしれません。

その立役者の一人でもある、『マインドフルネスストレス低減法』(春木豊訳、北大路書房)の著者、ジョン・カバットジン博士は、マインドフルネスとは気づき awarenessのことだと端的に語っています。

その著書の中で、博士は、プログラムの参加者が、プログラムに取り組む様子を、次のように描写します。

「彼らが行っているのは、“ 何もしない”ということです。そして、一つの瞬間から次の瞬間へと連なっていく、一つひとつの瞬間を自覚し、意識するために、一つひとつの瞬間に意欲的に集中しようとしているのです。つまり、彼らは、“ 注意を集中する”トレーニングをしているのです。別の言い方をすれば、彼らは自分が“ 存在すること”を学んでいるともいえます。彼らは、何かをすることによって時をすごすのではなく、意図的に何かをするのをやめ、“ 今”という瞬間の中で、自分を解放しようとしているのです。心に気がかりなことがあったとしても、体が何か不快感を感じていたとしても、その瞬間の中で、意図的に、心と体に安息を与えようとしているのです。“ 生きている”ということ、“ 存在している”ということの本質に踏み込もうとしているのです。彼らは、何かを変えようとするのではなく、ただ自分の置かれているありのままの状況と共にその瞬間を過ごそうとしているのです。」(同書)


さて、ゲシュタルト療法においても、気づき awareness のベースラインは、
ここにあります。
ワーク(セッション)で何かをする Doing ことは、必須ではないのです。
しないことの中にこそ、豊饒な気づき awareness と存在 Being の空間があるのです。
これが、「しないことのゲシュタルト」です。

見たくない、受け入れたくない自分も含めて、判断(ジャッジ)しないで、刻々の剥き出しの自分をありのままに、ただただ気づいて awareness いくことなのです。
それだけでも、ワーク(セッション)は成立するのです。
そして、繰り返しになりますが、それは「変容の逆説」法則なのです。

つまり、何かを変えよう Doing とすると、逆に変化というものは起きないのです。
変化させたい自我状態(主体/能動)と、変えたい部分としての自我状態(客体/受動)がより分裂してしまうからです。
自分の足を掴んで、ジャンプしているようなものです。
しかし、変化を期待せずに、ただその状態(客体)を受け入れると変化は起こってくるのです(分裂の解消)。
変化を求めないと、逆に変化が起きるのです。

「変化は起こすのではなく、起こるのだ」とは、フリッツ・パールズの言葉です。

マインドフルネスの姿勢は、この本来のゲシュタルト療法の姿勢を、より鮮明に照らし出してくれるものなのです。

【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については、基礎から実践までをまとめた拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧下さい。
変性意識状態(ASC)のより総合的な方法論は、拙著↓
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。

↓ゲシュタルト療法については、拙著『ゲシュタルト療法ガイドブック:自由と創造のための変容技法』をご参照ください。

↓動画解説「流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス」

https://youtu.be/3r2BjR1duyU