本書は、私たちの「意識変容(自己実現/自己超越)の全貌」と「その達成のためのロードマップ」を描いたガイドブックとなります。
私たちがたどり着ける自由と超越の到達点、まばゆい目覚めと解放の次元、「流れる虹のマインドフルネス」への道筋を概説したものとなっています。
そこから、宇宙的で、進化的な展望までを見渡せるようになっています。
特に、日本では、(今でもその意味合いがまったく理解されていない)1960年代のサイケデリック革命の意味合いが、前半ではさまざまに考察されています。
さて、本サイトでも、変性意識状態については各所で触れられていますが、本書では、その変性意識を含んだ、私たちの「意識の全体性」、心の「超越的全体性」をさまざまに考察しています。
変性意識の中でも、特に、意識拡張剤(幻覚剤)を使ったサイケデリック体験は、私たちの隠された心の「超越的全体性」を、驚くような形で教えてくれるものです。まずは、それらを題材に、その深層心理や心の全体性についての内容を見ていきます。
当時、ハーバード大学の研究センターにいた、ティモシー・リアリー博士らが、サイケデリック体験と、チベット密教で死者を導く経典である『チベットの死者の書』の内容に、本質的な共通基盤(構造)を見出したように、そこには深遠な深層意識が開示されているのです。
まず、それらを例に、私たちの深層意識の構造を詳しく見ていきます。
ところで、サイケデリック体験で現れる、私たちの心の「超越的全体性」は、「チベットの死者の書」のように、広大かつ深遠で、大変興味深いものです。
それらは、(日本ではよく理解されていませんが)幻覚でもなければ、ドラッグでハイになることでもありません。
そこで現れてくるのは、意識の拡張した状態であり、その体験内容は、私たちの一般常識や科学的世界観からすると、一見想像を絶したものであり、「奇妙で」「信じがたい」ものでもあります。
しかし一方、実は、それらは古来より東洋思想で語られる「世界構造」や「エネルギー領域」と、非常に共通点を持つものでもあるのです。そのため、「チベットの死者の書」が参照されるのです。
本書では、そのような心の「超越的全体性」の構造や特性を検討しつつ、私たちが、心の「超越」と「統合」を達成するための、具体的な方法を見ていくこととします。
また、一方、普段の私たちの「日常意識」が持っている、人格的な抑圧(分裂)の構造は、知らずに、私たち自身を閉じ込めているという実情があります。
そのような人格的な抑圧(分裂)の構造があるために、普段の私たちは、鬱々と落ち込んだり、欺瞞的に明るく振舞ったりしているわけです。
そして、サイケデリック体験でも、バッド・トリップが起きたり、精神に問題を起こしたりするのです。
ここでは、通常の心理学や、また心理学を超えた観点から、それらを分析し、そこを脱出する方法を描いています。
(現代心理学そのものが、抑圧的な近代主義の結果なので、そのまま鵜呑みにすることも実は危険なのです。それは、日本の精神医学の実態や結果を見れば、よくわかることです)
本書では、体験的心理療法やトランスパーソナル心理学の諸理論や諸実践を検討しつつ、より彼方にたどり着き、十全な全体性を実現するための要件を見ていきます。
そして、心の「統合」と「超越」を通して、サイケデリック体験が垣間見せるような驚異の「超越的全体性」を、いかに獲得していけばよいのかについて、その方法論を解説していきます。
また、私たちの変性意識状態や超越的全体性が、大きな自然史的展望の中で、人間の宇宙的な進化とつながっている様子も見ていくことにします。
私たちの意識の進化の、あるべき方向性を、予感いただけるものと思います。
(※本作は、以前の拙著『気づきと変性意識の技法―流れる虹のマインドフルネス』とは、別の著作となります)
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『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
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【本文目次】
はじめに
第一部 変性意識とサイケデリック体験の諸相
第一章 変性意識状態
第二章 サイケデリック体験
第三章 リアリー博士と『チベットの死者の書』
◆「チベットの死者の書」の内容と構成
◆リアリー博士らの解釈とアプローチ
第四章 アウェアネスの技法と超越的全体性
第五章 グロフ博士によるサイケデリック体験の特徴
◆出生外傷について 分娩前後マトリックス(BPM)
◆グロフ博士の結論
第六章 サイケデリック体験(変性意識)の落とし穴―人格の統合と分裂
第二部 仮面と影の世界
第一章 現代人の苦痛への対処法
◆「潜在意識」の存在
◆「潜在意識」への理解とは
第二章 シャドー(影)とニセの主体
第三章 それでは、なぜ解決できないのか
第四章 英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)
第三部 超個的体験技法 ―流動化と変容の方法
第一章 前史1 体験的心理療法
第二章 前史2 トランスパーソナル心理学
◆「意識のスペクトル」論
第三章 超個的体験技法
◆「十字」型の統合 超個的統合とサイケデリック体験の落とし穴
◆超個的体験技法のポイント
①感情エネルギーの流動化と変容
◆About-ism(について主義)とIs-ism(である主義)の違い
②身体エネルギーの流動化と変容(物理面と微細エネルギー面)
③言語エネルギーの流動化と変容
④変性意識状態の利用(超越的作用)
第四部 流れる虹のマインドフルネス
第一章 意識の諸相と微細エネルギーの領域
◆エネルギー的な側面からの考察
◆心理的な側面からの考察
◆体験後の世界
第二章 流動化する世界―意識/存在の相転移
◆日常世界のバルドゥ(中有)
第三章 流れる虹のマインドフルネス
第四章 宇宙的シャーマニズムとその未来
◆人類のバッド・トリップ
◆変性意識の進化論的展望
付録「アヤワスカ―煉獄と浄化のメディスン」
【参考文献】
~~~~~~~本文より~~~~~~~~
南米のシャーマンのもとで、あるセレモニー(儀式)に参加していた時のことです。
セレモニーの終盤、シャーマンが私を見て言いました。
あなたのまわりに色が視える、と。
「虹の色だ」
彼女は、私のまわりの微細なエネルギーを見て、嬉しそうにそう言ったのでした。
彼女は、日本人である私の素性については何も知りません。
私が、「流れる虹のマインドフルネス」という意識/存在状態について語っていることも、当然知るよしもありません。
しかし、彼女は、そのようなエネルギーを視てとったようなのでした。
……………………………………………………………
流れる虹のマインドフルネスとは、私たち人間に可能な、拡張された意識状態、存在状態のことです。
その可能性を、私たちは種子のように内部にあらかじめ持っています。それは、すでに完成されている〈本来の自己SELF〉の意識とも言えます。ただ、普段、現代社会の中では、私たちはそれとコンタクト(接触)を喪ってしまっているだけなのです。
その状態でいる時、私たちはあたかも、〈まばゆい透明の次元〉とともにいるかのようです。
眼には見えない、とても微細なエネルギーのまばゆさ‐次元に透過されているかのようです。
その見えない微細なエネルギーは、意識や肉体、見えている風景の背後にひろがる広大無辺な〈透明さ〉の次元、無限の〈非次元‐非空間〉から浸透しているかのようです。
世界の内側から微細な〈透明さ〉が、まばゆく透過しているので、私たちの意識や肉体、あたりの風景は、固形物や実体ではなく、あたかも「澄明な微粒子の集まり」「微光の放射/泡立ち」のようにも感じられます。
それらの輝きの方こそが、本当の〈自分の本体〉〈存在の本体〉と感じられたりもします。
また、その状態では、あらゆるものが、「固体」ではなく「流体」「微粒子体」として、そして、「実体」ではなく「空」として存在しているかのようです。
それまでの物理的な法則なども稀薄に感じられます。当然、物理的な因果や作用反作用などはあるのですが、それは大して重要なことではなく、『この宇宙』というゲームの表面にある、任意の「設定」「取り決め」程度にしか感じられないのです。
それよりも重要なのは、まぢかに透過しているまばゆい本体の輝き、流れるよう放射する非因果的な可能性と、自由なスペース(間)のひろがりだと感じられているのです。
明晰さは一段深い微細で精妙なもの、透視的に澄んだものとなり、透明のむこう側の透明さとなり、さらにそのさきの透明さとなり、事物の隠れた結びつきや微細な旋律の流れをたどる、別のまなざしになっているのです。
宇宙や自然界、現象界の彩りあざやかな無限の戯れ、内部で広大にひろがる微細な放射、その美しさ、その核にある存在の〈本質〉に注意が惹かれているのです。
また、そこにおいては、「自分自身/私」を生きることも、あまりこだわりのない事柄になっているのです。
自分自身(私)よりも本質的な、大きな〈透明/光-非空間〉が内側から透過して、超過して、自分(私)を追い越し、すべてを肯定し、すでに生きてしまっているからです。「何事か大いなる達成」は、すでに為され、成就されてしまっているかのようです。
あれほど長い期間、苦心惨憺、七転八倒し、物事をコントロールしながら、人生を切り拓いてきたこの主体、「自分自身/私」が今では淡く稀薄になり、大して重要なものには感じられないのです。
それは芝居の役柄(配役)のように、過去生での自分のように、懐かしい追憶のように、彼/彼女のように、人生を冒険し、創造するための場所(役)として、興味深く感じられているのです。
それは、生きていくのにとても気楽な、肩の力の抜けた、それでいて、好奇心にみちた、興味深い、創造的な状態でもあります。
そして、ふと気づくと、この人生の劇そのものが、微光に満ちた広大無辺な非次元‐非空間の浸透によって、遥か昔に、とっくに、すでに救われてしまっていたかのようでもあるのです…
また、その状態は、人生の中で、物事や事業に取り組んで、創造的なものをつくり出すことにおいても、能動的で、楽な状態となっているのです。
広大で超越的な意識の片鱗が、透明な空間のひろがりが、まぢかに透過しており、隣にある不思議な空間から物(素材)を取り出すかのように、深い夢見と想像の間から、映像のように忽然とモノを引き出せるようにもなっているからです。
そこには、無尽蔵に豊かな創造のまばゆさが、吸いこむような魅惑への注視が、宇宙的遊戯の心地良さが、沸き立つようにあるのです。
さて、このような拡張された意識‐存在状態(流れる虹のマインドフルネス)は、私たちが、心とからだの変容に、真摯に取り組んでいくと到達できる状態となっているのです。本書では、その道筋と方法論を明らかにしていきたいと思います。
現代社会(特に日本)の中では、想像がつきにくくなっていますが、歴史的には、そのような超越的変容の形態は、古来よりさまざまな文化的・秘教的伝統で語られてきました。それは、私たちの心の本性、本来の心の基本構造(超越的全体性)といえるものだからです。なにか不自然で人工的なものを付加して、つくり上げるというものでもないのです。私たちが、余計な歪みをただし、抑圧を解放し、「無=無垢」になっていけば、その状態に帰還することができるのです。歴史上の多くの流派や神話が、そのように語るのにもわけがあるのです。
しかし、そのような自己の本来性への旅(帰還)に関しては、さまざまな道や行き方があります。本書は、そのような心の超越的全体性へ向かうロードマップのひとつです。その基本的な航海図となっています。
ではまず、最初に、本書の全体の流れを示しておきたいと思います。
第一部では、「変性意識状態(ASC)とサイケデリック体験の諸相」と題して、私たちの心の広大な可能性を見ていきます。「変性意識状態」とは、私たちのこの「日常意識」が変異したさまざまな状態のことです。変性意識には多様なタイプがありますが、中でも、幻覚剤を利用した「サイケデリックpsychedelicな意識状態」は、その変化の特徴が顕著で、「意識」の隠された構造を見ていくのに、とても参考になるものです。そのため、ここでは、そのサイケデリック体験のさまざまな諸相を検討し、変性意識状態が現わす意識の驚異的な可能性を見ていきたいと思います。ただ、さきに断っておきますと、変性意識状態(ASC)は、さまざまな方法で体験できるものであり、サイケデリック体験はあくまで、意識構造の秘密をわかりやすく知っていくためにとりあげているにすぎないということです。サイケデリック体験ではない、変性意識状態にも、同様の無限の可能性があるのです。そこで現れてくるものは、〈意識〉そのものの可能性だからです。また、サイケデリック体験は、極端で強い作用があるため、ネガティブに働く側面もあります。しかし、それも、私たち人間の心理構造そのものに由来しているものであるのです。
第二部では、そのような、私たち現代人の歪んだ心理構造である「仮面とシャドー(影)の世界」を見ていきます。ここでは、心理学も含めて、この現代社会が「正常/健康」と考えている人間像(心理モデル)が、それ自体として、抑圧的で歪んだものであることを検討していきます。そのような中途半端な自我状態と世界観に執着しているかぎり、超越的な変性意識(サイケデリック)体験を真に統合することはできないし、人間が本来持っている真の全体性を回復していくことはできないからです。
第三部では、「超個的体験技法」と題して、そのような仮面と影の世界を超えて、変性意識の諸相が垣間見せる真の全体性を回復する方法を見ていきます。ここでは、体験的心理療法やトランスパーソナル心理学を素材に、形骸化したそれらの方法論を蘇生し、超越的な水準にまで高めるアプローチ法を見ていきます。
そして、真の統合が、抑圧や葛藤を統合する「水平統合」だけではなく、意識の多次元性を統合する「垂直統合」も必要であることを見ていきます。縦軸横軸が合わさった「十字型の統合」になってはじめて、私たちの真に必要な超越的全体性を回復していけることを見ていきます。
第四部では、超個的体験技法を突きつめた後に出でくる、超越的な領域、意識やエネルギーの諸相を見ていきます。それらをさらに推し進め、十全なものにしていくための「流動化の技法」を検討していくこととします。そして、そのような流れる虹のマインドフルネスがもつ、宇宙の進化論的な意味合いを見ていきます。
(つづく)
~~~~~~~本文より~~~~~~~~
さて、リアリー博士らは、サイケデリック体験においては(『死者の書』においてと同様)、この3つの領域が、3→1へと順次現れると見なしたのでした。サイケデリックな成分が効いているときは、より強く超越的なものが体験されやすく、成分が効かなくなってくると、だんだんと通常の自我状態が戻ってくるということです。実際のサイケデリック体験においては、それほど截然とこの3領域が分かれることはないにしても、おおよそ大体の推移としては、このような領域が重層的な形で現れてくることになります。
「チベット・モデルにしたがい、われわれはサイケデリック体験を三つの局面にわけている。第一期(チカエ・バルド)は、言葉、〔空間-時間〕、自己を超えた完全な超越の時期である。そこには、いかなるヴィジョンも、自己感覚も、思考も存在しない。あるのは、ただ、純粋意識とあらゆるゲームや生物学的なかかわりからの法悦的な自由だけである。第二の長い時期は、自己、あるいは外部のゲーム的現実(チョエニ・バルド)を非常に鮮明な形か、幻覚(カルマ的幻影)の形で包含する。最後の時期は(シパ・バルド)は、日常的なゲーム的現実や自己への回帰にかかわっている。たいていの人の場合、第二(審美的ないし幻覚的)段階がもっとも長く続く。新参者の場合には、最初の光明の段階が長くつづく」(リアリー他、同書 ※一部名称変更)
階層として整理すると、表層の「自我を中心とした領域」。より深層の「集合的無意識、元型的な領域」。さらに深層かつ超越的な「〈空性〉的な領域」という風にも理解できます。そして、このような「三層・三重構造」は、東洋・アジアの宗教思想全般に見られるものなので、かなり普遍的なものだとも言えます。仏陀が持っているという三身/三つの身体(法身=究極の身体=空性、報身=霊的身体=如来、応身=物理的肉体=釈迦)」はそのようなものです。また、ヨガでいう身体(シャリーラ)も同様のパターンです。粗大身(スツーラ・シャリーラ)、微細身(スークシュマ・シャリーラ)、原因身(カーラナ・シャリーラ)となっているのです。そういう意味では、ここには、私たちの存在の「超越的全体性」が表現されていると見ることもできるのです。実際、後で見るトランスパーソナル心理学の「意識の構造モデル」などでは、このような三層構造を心のモデルとしているのです。
さて、経典に話を戻しますと、経典では、一貫したメッセージを繰り返します。「バルドゥでは色々な如来や神々が現れてくるが、それらを自分の心の現れであると悟れ」というメッセージです。
「現象の世界のすべてのものが光明と仏の身体をもって現われている。すべての幻影が光明と仏の身体をもって現われている。これを汝自身の意識のみずからの輝きであると覚るべきである。みずからの輝きがみずからの光明や身体と一体に溶け入った時に、汝は仏になることができるのである。
我が子よ、汝が見ている幻影がたとえどのようにおびえさせる現われであっても、汝自身のすがたの現われであると覚らなければならない。これを光明であり汝の意識のみずからの輝きであると覚るべきである。
このように覚るならば、今この時において汝が自然に仏になることは疑いないのである。〈一刹那における完全な成仏〉と呼ばれているものが今まさに生じているのである。このことを心に刻んで記憶すべきである」(『原典訳チベットの死者の書』川崎信定訳、筑摩書房)
そして、この大前提の上で、経典では、それぞれのバルドゥを体験している時に、さまざまな「二種類・二タイプの如来や神々」が現れるとされます。おそろしくまぶしい光とくすんだ光、まばゆい如来とくすんだ神々などの二タイプです。
この「二極性(二方向性)」の理解と方向付け(舵取り)が、経典においては重要なポイントとなってくるのです。なぜなら、前者に向かい、それを自分の本性と知り、同調できると私たちは解脱することができ、後者の親しげなものに惹きつけられると、私たちは執着に巻き込まれ、次のバルドゥへ進んでしまうとされているからです。そして、最終的に、転生してしまうのです。しかし、私たち衆生は、親しみやすさ(執着と迷妄)から、後者の神々に向かいがちであるということなのです。
(つづく)
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第一部でとりあげたティモシー・リアリー博士は、後半生、サイバー空間(インターネット空間)にさまざまな可能性を見出していました。それは時代的には、サイバー黎明期以前の1970年代のヴィジョンでしたが、その中で彼は、サイケデリック体験と同じように、サイバー空間の中での、人類の意識の進化(拡大)をイメージしていたのでした。それは、若干古風な科学主義ではありますが、人類が地球や大気圏の枠から脱出して、未知の大気圏外(宇宙領域)に意識を拡大していく壮大なヴィジョンでした。
しかし、現在のサイバー空間(インターネット空間)を見ればわかるように、実際には、事態は真逆になっていったのです。そのことの意味合いを少し見ていきましょう。
さて、そもそも、リアリー博士は、第一部でも見たように、サイケデリック体験中に重要なことは、「既存の自我のゲーム」に囚われるのではなく、「超越的な次元」に意識を開くことだと指摘していました。「既存の自我のゲーム」に執着し、それにこだわると「バッド・トリップ」に陥るということです。これは、オリジナルの『チベットの死者の書』がそもそも繰り返し説いていたことでした。汝の〈本質〉であるまぶしい光明の方へ向かえ、そして、くすんだ親しみやすい神々の方に惹き寄せられるなということです。それは、なじんだ自我への執着であり、それは最悪な転生へつながる道だから、というわけです。
また、第二部では、私たちの心理構造、シャドー(影)と抑圧の構造を見てみました。そのことで、私たちが、ニセの主体(仮面)となってしまっている構造です。自分の受け入れたくないシャドー(影)を抑圧すると、それが他者に「投影 projection」されて、他者がシャドー(影)のように見えてくるという心理防衛システムについてです。その作用の結果、自分のニセの主体(仮面)である、良いセルフ・イメージは守られ、投影先の、他者は「悪」や「敵」 (シャドー)に見えるという感情が生まれるのです。「間違っている奴らは悪人であり、私たちはつねに善くて正しい」という、人間によくある、他責的な、敵意に満ちた二元論的なゲームが繰り広げられるのです。しかし、実際は、ニセの主体(仮面)に同一化し、執着し、自分のシャドー(影)と戦っているだけなのです。自作自演です。これが、現人類の、既存の自我のゲームです。
そして、サイバー(インターネット)空間の中では、これはわかりやすい形で増幅されて現れてくることになったのでした。リアリー的な言い方をすれば、「既存の自我のゲームに執着することで、バッド・トリップしている」状態です。サイケデリック空間と同様、サイバー空間でも、人間の心理的世界は増幅されやすいので、基本的な舵取りの方向性(=超越へ向かうか、自我のゲームへ向かうか)は同じだったわけです。そのような意味では、この二つを結びつけたリアリー博士の勘は、彼の楽観主義的展望とは別に、正しかったわけです。
昨今、『分断』が政治的状況として挙げられているわけですが、そういう意味では、サイバー空間の中で、「人類そのものが、バッド・トリップしている」というのが、現在の人類の状況(レベル)と言えるのです。そしてこれは、2000年以上前に、仏陀が、人間は自己(ニセの主体)を実体視したり執着することで、無明の中にとどまってしまう(解脱できなくなっている)ことを指摘して以来、なんの進歩も遂げていないということなのです。そして、心理的レベルにおいては、事態はむしろ悪化(分裂)しているとさえ言えるのです。
かつては印刷技術の進歩で「読むこと」の爆発的な普及が起こりました。そして、サイバー空間の発達では、「書くこと」の爆発的な普及が起こったわけです。すでに一世紀以上も前に、次のように書かれていました。
「すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。 そうすればあなたは血が精神だということを経験するだろう。
他人の血を理解するのは容易にはできない。読書する暇つぶし屋を、わたしは憎む。
読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者がつづいていれば、――精神そのものが腐りだすだろう。
誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。
かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。いまでは賤民にまでなりさがった」(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳、岩波書店)
本だけ読んでわかったつもりになるという About-ism (について主義)の弊害が、私たちを成長(統合)させないばかりか、抑圧と分裂を深めてしまう理由は各所で触れてきました。しかし、現在ではさらに、誰もが安易にデタラメを書きうるという状況の中で、他責感と敵意は増大し、実際に、精神は腐り、賤民以下になってしまったということです。
つまり、サイバー空間であれ、サイケデリック空間であれ、心の能力を増幅するきっかけにはなりますが、それ自体はあくまで触媒にすぎないのです。触媒の作用は、良い面にも悪い面にも働く両義的なものなのです。その上で、「心や意識をあつかうスキル」がなければ、その可能性の彼方に抜け出て行くことはできないのです。自分の心をあつかえずに、自由な開放空間に遊ぶことはできないのです。現在の人類自体のバッド・トリップを抜けるには、自分の「心に取り組む」以外に方法はないわけです(その点、サイバー・セッションは稀少な肯定的側面のひとつと言えます)。そのことで、私たちは、バッド・トリップの重力圏/重力の魔(ニーチェ)から出ていくことができるのです。
第一部で見たハクスリーの仮説では、進化した脳や神経組織の濾過フィルターによって、私たちは、この見ている世界に閉じ込められているということになります。脳や神経組織の進化は、地球上での生存や、人間社会での生存に適応した結果です。そして、サイケデリックスの影響でフィルターの力が弱まると、ブレイクの語るように、私たちは宇宙の無限の諸相を、あるがままに見ていくことも起こってくるわけです。ある意味では、「必要な刺激を与えると、一瞬にしてそういう形態の意識がまったく完全な姿で現れてくる。それは恐らくはどこかにその適用と適応の場をもつ明確な型の心的状態である」(ジェイムズ、同書) ということです。そのようなものに触れている可能性があるのです。そして、そのような心的状態が適用されている、未来の環境や新しい進化的状況を夢想することもできるのです。一方、ハクスリーは、そのような体験の構造を喩えて、宗教で語られてきたことを想起しつつ、脳などで濾された世界を「この世」、濾されていない世界を「他界」と呼んだりしました。
歴史的に見れば、この世と他界、日常意識と変性意識を行き来して、さまざまな事業を達成する技(スキル)というのは、世界中のシャーマニズムの伝統の中で普遍的に見られたものでした。なぜなら、シャーマンの仕事とは、この世と異界を行き来して、治癒的な作業から魂の救出(ソウル・リトリーバル)まで、さまざまな事柄を行なっていくものだからです。そして、そのようにして見てみると、そもそも、シャーマンの技の由来が、自我や脳の制限を超えて、つまり地球的進化の枠組みを超えて、「超越的全体性」の能力を生きようとする、私たちの宇宙的な潜在意識にあるということも直観されてくるのです。チカエ・バルドゥで見るような「根源の光明(クリアーライト)」やチョエニ・バルドゥで見る異形のものたちが、そこには溢れているからです。シャーマニズムの中でよく出くわす、天地をつなぐという宇宙樹ならぬ、宇宙的系統樹の果てしない流れが、そこでは予感されているのです。実際、「その適用と適応の場をもつ明確な型の心的状態」として、その変性意識の意味合いをまざまざと理解する日がくるかもしれないのです。
サイケデリック体験のような強い変性意識体験は、あたかも、この世から他界に行くような体験です。そのために、シャーマンは、魂の飛翔、エクスタシィ(脱魂/意識拡張)の技術を繰り返しの訓練のうちに磨いていったのでした。そして、今後、そのような精神宇宙飛行士 psychonaut の事業(使命)は、進化の袋小路にある現人類の中で、より重要な事柄となっていくと思われるのです。今の人類に残された道も、もうあまり多くないからです。
リアリー博士は、その進化論の中で幼形成熟(ネオテニー)などにも注目しました。それは、主に動物学者ローレンツのいう誕生時の刷り込み imprinting 効果への注目からでした。サイケデリック体験が、私たちの神経系を賦活して、誕生時にしか持てない再刷り込み効果を持つということを信じたからでした。それは、実際のところは(一般に理解されていませんが)、自明性の喪失やリセットを含む両義的な事態なのですが、ここでは、紙数の関係もあるので、とりあげないことにします。しかし、変性意識状態(ASC)の可能性はそのような次元にとどまるものでもないのです。
(つづく)
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