二元的な拘束状態とは
私たちが、何かに縛られたり、拘束されている状態には、共通した「深層構造」があります。
それが、「二元的な状態/拘束状態/葛藤状態」です。
そして、この二元的なゲームを支えている「エネルギー的な実体/本丸」が、背後の、〈感情・情動のテンション(強度)〉です。
一般にはあまり理解されていない事柄ですが、私たちが、「苦しみ」や「囚われ」から抜け出せないとき、そこには必ず、逃げたい「苦痛」と、自分の方で「抑えて(握って)いる側」との、2つの存在があるのです。
この矛盾した、二元的状態、拘束状態があります。
この事態の本質は、昔から、宗教や秘教など、心(意識)を探求する人々の中では、さまざまに指摘されていたことでした。
例えば、次のような寓話、譬話があります。
首の細い壺の中に、木の実が入っている。
そこに一匹の猿がやってくる。
猿は、壺の中を探って、木の実を見つける。
猿は喜び、その木の実をつかんで、取り出そうとする。
しかし、木の実をつかむと、手の指が拡がってしまうので、壺の細い首を通らない。
猿は、手が抜けないと騒ぐ。
しかし、つかんだ木の実は逃したくないので、決して握った手を放そうとしない。
そのため、ますます、猿は、壺から手が抜けない事態になっている。
というような寓話です。
人間は、猿の手が抜けない理由がわかっているので、その知能の低さを笑っているという話です。
しかし、実際は、私たち人間も、この猿と同じようなことをしているのです。
私たちが、苦しみや囚われから抜け出せないとき、このように、本来手放すべき「木の実(苦痛)」と、自分の方で「握っている側」との、2つの存在があります。
では、この「握っている」事態とは、どのようなことを指しているのでしょうか?
それは、「感じたくない/体験したくない」という事態(ふるまい)です。
「気づきたくない」「受け入れたくない」という事態(ふるまい)です。
当然のことですが、普段の私たちは、苦痛を感じたくありません。
そのため、日々、苦痛や不快を感じそうな場面を回避して、避けて生きています。
他人との会話の中でも、感情的な不快を感じなくて済むように、無難な話題や言葉を選び、会話を運んでいます。
人生の選択においても、なるべく安楽で済むように、物事の選択を行なって生きているのです。
苦痛や不快のない方向を選んで、人生の選択を行なっているのです。
しかし、人生では、期せずして、苦痛を感じてしまう場面に遭遇します。
そのような時、人は、「笑う」「怒る」「ごまかす」「嘘をつく」など、さまざまな手段を使って、瞬時に、苦痛を「感じない」ように、「ないこと」にしようとします。
感じた苦痛を消し去るように、「自分の心を操作して」、自分の苦痛をなかったことにするのです。
このようなふるまいは、大人になると、自動化されていて、自然のこととなっているので、そのことに違和感を持つ人はいません。
自分がそのようなことを行なっていることに気づいている人もあまりいません。
しかし、そもそも、幼い子どもの頃は、違っていました。
子どもの頃は、苦痛を感じるたびに、いちいち、とても「痛かった」「悲しかった」のです。
そのため、私たちは、その苦痛を感じないで済むようなふるまいを、だんだんと工夫していったのです。
自分の心を加工し、成長していったのです。
そのように、苦痛な感情をないことにして、心にフタをして、感じないようにするふるまいを、心理学的には、「抑圧」と呼びます。
苦痛を、「無意識 unconsciousness」「潜在意識」の方に押しやって、感じないようにするのです。
また、苦痛を意識の外に押しやって、なかったことにするのです。
これを、「周縁化」と呼びます。
しかし、一度感じられた苦痛は、外に押しやられても、決して消滅するわけではありません。
なくなってくれないのです。
いつまでもそこに在り続けるのです。
そのような苦痛の体験は、記憶の中で、その場面/映像を思い起こすたびに、チクリと痛みを感じさせたりするのです。
(苦痛のない体験は、記憶の映像をよくよく細かく思い出しても、私たちに何も感じさせません)
そのような苦痛は、著名なヒーラー、バーバラ・ブレナンが、「タイムカプセル」と呼んだように、時間を超えて、そのときの嫌な感情をそのままの形で閉じ込められて、そこに在り続けるのです。
この宇宙のどこかに、それはずっとあり続けるのです。
心理学(ゲシュタルト療法)では、それを「未完了の体験/未完了のゲシュタルト」と呼びます。
「苦痛なまま残っている」というような状態です。
その記憶の中の嫌な感情は、いつまでも、「その時のまま/現在形のまま」なのです。
しかし、私たちの心(潜在意識)というものは、このような、押し込められた「苦痛なまま/現在形の苦痛」をいつも吐き出したがっています。
当然ながら、こんな苦痛を抱えているのは、嫌だからです。
心にとって、それは「異物」であるし、刺さっているままであることが苦痛だからです。
そのため、心は、その苦痛なトゲ(エネルギー)を、どこかで吐き出し、解放しようと、人生の中でチャンスをうかがっているのです。
私たちが、いつも「似たような人生のパターン/場面」の中で、似たような失敗や苦痛を味わうのは、そのためなのです。
これが、真の引き寄せの法則なのです。
さて、では、その「苦痛」を消滅させるには、どうすれば良いのでしょうか?
そこに苦痛を溜め込んだのと、逆のことをすればよいのです。
つまり、そこに溜まっているエネルギーを放出し、エネルギーを抜くのです。
しかし、そのエネルギーを抜くには、部分的であれ、その苦痛を感じ、体験する必要があります。
その苦痛の「質感」の中に、エネルギーは充電されているからです。
「感じる」という質感の中にこそ、エネルギーは存在しているからです。
それを「感じる」ことなくして、エネルギーの放出は、決して起こらないのです。
それが部分的であれ、感じられ、体験されることで、はじめて、閉じ込められていたエネルギーは放出しはじめ、苦痛は消滅していくことになるのです。
しかし、当然ながら、私たちは、苦痛を感じたくありません。
そのため、多くの人びとは、記憶の中に、そのような苦痛を見つけると、逆にそれらを感じないように、さらに強くフタをします。
感じないように、抑圧するのです。
その苦痛を、潜在意識の中に押しやるのです。
しかし、そのことで、意識下の苦痛は、ボイラーのように、エネルギーをグツグツと煮えたぎらせ、より力を強めていくことになるのです。
シャドー(影)のような存在になっていくのです。
そして、そのような感情が、心の中で、どんどん降り積もり、蓄積していくことで、私たちの心は重く憂鬱になり、不調をきたしていくことになるのです。
病気にまでならなくとも、生きづらさや自信のなさ、秘められた苦痛を増大させていくことになるのです。
さて、このようなジレンマが、前段でみた「猿の状態/二元的状態」と同じことであることがわかると思います。
苦痛はなくしたい。しかし、苦痛をなくすには、その苦痛を感じる必要がある。
しかし、苦痛を感じたくないので、いつまでも、その苦痛はなくならない。
私たちの自我(エゴ)は、このような、逆説的な事態になっているのです。
このような寓話が、古来から在ることからもわかるように、私たちの心は、このような二元的葛藤や拘束を、いたるところで起こしているということなのです。
「自我(エゴ)とその「シャドー(影)」という、二元的なゲームです。
では、どのように苦痛を消滅させるのでしょうか?
さきも述べたように、「苦痛を受け入れていく」ということです。
セラピー的な大枠でいうと、「自己受容」していくということです。
ただ、当然、強い刺激を一度に感じるのは、逆効果ですので、少しずつ、抵抗のないレベルから感じていき、エネルギーを抜いていくことです。
しかし、そのことだけで、苦痛は消滅してしまうのです。
意外と、あっけないのです。
そのため、セラピーなどでは、地道で丁寧なアプローチで、この溜まった苦痛のエネルギーを抜いていくことを行なうのです。
というのも、人が恐れているほど、実際の苦痛は、それほど大きなものではないからです。
「クローゼットの中の骸骨/押入れの中の死体」という成句があります。
よく、これをパロディ的に使って説明されますが、「苦痛とは、感じないようにしていると怖ろしいものに感じられる」という特性(逆説)があります。
しかし、実際に感じてみると、苦痛は、それほど大したものではないのです。
「押入れの中に死体がある」と信じて、押入れを開けないで、固く戸を閉ざしていると、恐怖感(シャドー/影)はどんどん増していきます。
しかし、実際に、押入れを開けてみると、死体などはないのです(幻想)。
そのように、戸を閉ざしていること(抑圧していること)自体が、恐怖感(シャドー/影)を増大させているのです。
この逆説も、猿の譬えと同様の、相互的な拘束状態です。
以上、見たように、「二元的な囚われの状態」は、たしかに一見厄介なものですが、真摯に心に向き合い、丁寧にアプローチすることで、超えられないものではありません。
しかし、現代社会がよく勘違いしているような、「頭で考えること」や「知的に解釈する態度」からでは、決して超えることのできない事態となっているのです。
そもそも、思考とは、感じないようにするための抑圧の機能でしかないからです。
ここでは、禅でいう、「分別智」(思考)ではなく、「無分別智」が求められているのです。
フリッツ・パールズが、セラピーの要点として、「思考を離れ、感覚になれ」と言ったのも、そのような意味合いからなのです。
そして、「考えるな、感じろ! don’t think,feel!」という、ブルース・リーの台詞が、セラピーなどで引かれるのも、この文脈での話なのです。
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。