
先日、朝、洗面をしていてふと思ったのです。
はじめに、子どもの頃を思い出したのです。
(小さな子どもの頃から洗面をしているからでしょう)
そういえば、子どもの頃は、
「ただ生きているだけで苦痛だったなぁ」ということを、です。
とても抑圧的な歪んだ家庭環境で育ったので、
子どもの頃は、ただ生きていることだけで苦痛だったのです。
苦しみしかなかったのです。
小さな頃は、夜寝る時に、
「明日の朝、目覚めることがなければいいなぁ」と思っていました。
家庭や学校や、生きることのすべてが、苦痛でしかなかったからです。
(フランクルの『夜と霧』の中に、苦しい悪夢から目覚めた後、自分が強制収容所の中にいることを思い出し、さらに絶望するという挿話がありましたが、毎朝そんな感じです)
子ども時分に、心の底から、何かを「楽しい」と感じたことも一度もありませんでした。
表面的には、人並みを装って、笑いも楽しみもしていましたが、あくまで演技や気晴らしであり、心の底では、苦痛しかなかったのです。
小学校で、将来の夢を書きなさいと言われた時も困りました。
生きていること自体が苦しみでしかないのに、将来の夢などあるわけもないのです。また、社会のイメージというのもまったくなかったのです。
その時、「なるべく早く死にたいな」「自殺する勇気が出たら、さっさとこの人生からおさらばしよう」と考えたことを覚えています。
そのアイディアは、自分に安堵感を与えました。人生を今だけ苦痛に耐えればいいものとすることができたからです。
二十代よりさきの自分をイメージすることはできませんでした。
(本当の喜びや楽しさの感情というものを感じたのは、中学生になって、ビートルズを聴いてからでした。「楽しいとか嬉しいとかはこういう感情なのかもしない」「だから、みんな(普通の子)は未来に希望を持つとかそういう感じをもったりするのか」と学習できたのです。それまでは、楽しさや希望を本当には感じることはなかったのです)

洗面の時に、そんな子ども時分を思い出すと同時に、
ふと、今と過去の、その彼我の差にあらためて感じ入ったのです。
あの子どもの頃は、「ただ苦痛」しかなかったのに、
今は逆に、「ただ快」のみがあるのです。
ただ心地よい「虹色の次元」が透過し、ひろがっており、「宇宙的なひろがり」が、多次元に感じとられとているのです。
基本的な感情や感覚は、「快」であり、「心地よさ」であり、多少調子が悪くなっても、本質的なことではなく、表面的な些細なことでしかないのです。
ポール・シニャックの絵に、『七色に彩られた尺度と角度、色調と色相のリズミカルな背景のフェリックス・フェネオンの肖像 Opus 217. Sur l’émail d’un fond rythmique de mesures et d’angles, de tons et de teintes, portrait de M. Félix Fénéon 』という作品がありますが、あんな感じなのです。
「快」は、深層の、宇宙的な虹の透過によって起こるのであり、そのことで「苦痛」は溶解されてしまうのです。
また、それらが、抑圧や解離ではなく、統合としてあるのです。
存在のスケール感も、全然違います。
「普通の人間(あの頃の子ども)」の要素が、「5」くらいだと、今の自分のひろがりは、「100」くらいあり、それは、虹の次元、拡張された存在感として感じられているのです。
シニャックの絵で喩えれば、背景のひろがる色彩の部分が、より本質的な自分、身体(存在)という感覚なのです。
人物の部分は、むしろ、「仮面」「役割」の部分という感じです。
そして、これらは、さまざまな取り組みの旅路やプロセスとして起こってきたことなのです。
そのため、今では、私は多くの人びとに、「苦痛は消滅する」ことを、請け合うことができるのです。
それは、心や宇宙の原理からしても、そのようになっているからなのです。
そして、私自身も、「生きているだけで苦痛な世界」から抜け出すことになったからなのです。
【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)を含むより総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、よりディープな
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については、基礎から実践までをまとめたこちら↓
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』