映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) パワハラの由来 「投影」としての世界

◆パワハラで、「病む人」と「病まない人」の違い

 世の中には、ひどいパワハラ上司というのがおり、それはそれで問題なのですが、その部下になった人すべてが、メンタルを病むわけというわけではありません。
 病む人もいれば、平気な人(病まない人)もいるのです。この違いについて、この記事(と続きの記事)では、解説していきたいと思います。

 ところで、現代の人間社会は、大人の中でも「いじめ社会」であることを、別の記事では解説しました。
 人間社会は、つねに攻撃のターゲットを探しているのです。
心の葛藤(苦しみ)と超越的体験―どこからアプローチするか? いじめ社会と精神活性

心の葛藤(苦しみ)と超越的体験―どこからアプローチするか? いじめ社会と精神活性

 そのため、私たちは、いつなんどき、理不尽な形で、攻撃にさらされるかわからない状況にあります。
 そのため、以下に述べるような、人間の心理構造によく通じておき、人格の統合を進めておくと大変良いのです。

 ところで、以前、別の記事で、映画『マトリックス』シリーズを素材に、私たちの生きて見ている世界が、通常信じられているほど、「本当のリアルな世界」ではないことについて解説しました。
 私たちは、生育歴の中で、埋め込まれた「信念」によって、心身のすべてががんじがらめに拘束され、その結果としてフィルタリングされた世界を、「現実」として見ているということです。
 フィルタリングされ、貧弱にされた、カスカスの「出涸らしのような世界」です。
 そのような世界に、真の生命力に溢れた現実はないのです。
映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) 残像としての世界

映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) 残像としての世界

 そのため、映画『マトリックス』が描く世界像(世界の構造)は、決してフィクションというわけではなく、むしろ、実際の状況そのものということなのです。

 さて、ここでは、もう一歩さらに進んで、一般には、本当の意味で理解されていない(理解できない)、「投影 projection」という現象について解説していきたいと思います。

 別の記事では、精神分析のフロイトや、その系列の心理学的知見を引用して、私たちの心理的構造について、色々と解説しました。
「自信がない」と「能力」は関係ない

「自信がない」と「能力」は関係ない

 そこでは、私たちの「自信が持てない」「自信がない」という感情は、能力とは関係なく、自分の心理的人格的要素としての「超自我 super ego 」が、「お前はできていない」「お前はダメだ」「お前には価値がない」というメッセージを出し続けるから、そのような感情や気分になるということを解説しました。

 この「超自我 super ego 」とは、私たちは、幼少期の頃、親から取り込み、内部で人格化した「内なる他者」です。
 幼少期に理想化した価値観や感情が、その淵源にあるので、意識の上で同一化されている要素もありますが、基本、無意識(潜在意識)の感情(欲求)として、私たちを背後から「操っている」のです。

 「超自我 super ego 」を、交流分析(TA)では、「保護的な親」と「批判的な親」に分けましたが、「批判的な親」の要素を普遍化して、キャラ立てを強くしたのが、ゲシュタルト療法でいう「トップドッグ(ボス犬)」です。
 これが、いつも、私たちにガミガミと、「お前はできない」「お前は足りない」「お前はダメだ」「お前には価値がない」「いつもお前が悪い」「お前は恥ずかしいやつ」「お前は生きていてもしょうがない」などの否定的なメッセージを言ってくるのです。
 当然、個人によって、その激しさの強度は多様です。

 それを言われる(責められる)側を、ゲシュタルト療法では、「アンダードッグ(負け犬)」と呼びますが、アンダードッグ(負け犬)は、トップドッグ(ボス犬)に責められると、
「私はできない」「私は足りない」「私はダメだ」「私には価値がない」「いつも私が悪い」「私は恥ずかしいやつ」「私は生きていてもしょうがない」と感じることになるのです。
 交流分析(TA)でいう「順応した子ども」「インナーチャイルド」です。
 
 さて、私たちの意識は、トップドッグ(ボス犬)とアンダードッグ(負け犬)の両方に同一化します。
 そして、その時その時で、その占有比は変わり、どちらかの感情に強く同一化し、憑りつかれ、憑依され、その感情そのものになってしまいます。
 人が、落ち込んでいるときは、アンダードッグ(負け犬)に同一化しています。
 人を責めているときは、トップドッグ(ボス犬)に同一化しています。
 また、通常の個人は、どちらかに多く占有されている傾向を持っています。
 
 そのため、私たちが、通常、単一の感情と見なしている「罪悪感」「自責感」「羞恥心」「無価値観」などの感情は、決して単体の感情ではないのです。
 どれも皆、深い次元では分裂と葛藤によって起こっている「ダイナミックな感情」ということなのです。
 これら複合的な感情を、単一の感情と見なす、現代の凡庸な心理学や社会的通念が、決して、これらの感情を取り去ることができないのは、その洞察力の根本的な欠落に拠るものなのです。
 そのため、これらの感情を取り去るには、静的なアプローチではなく、それらを構成している感情エネルギーを、深部からダイナミックに解放しないかぎり、決してなくならないのです。
 本人も、凡庸な社会的通念を超えて、そのことを理解しないといけないのです。
 また、セラピスト側も、本やネットの情報、他人の噂話などの薄っぺらなものではなく、心をあつかう実践現場で、数多くの人々の感情的変容をまじかで見て、その構造を実感していなければ、決して理解できないことなのです。
 しかし、(一般の人々には、イメージがつかないかもしれませんが)本当に心の深い領域があつかわれる現代セラピーなどは、残念ながら、実際にはほとんど存在していないのです。
 そのため、そういうことがわかっている人も、ほとんどいないという事態になってしまっているのです。

 

◆パワハラで、「病む人」の構造

 以上、私たち個人の中で、
「私はできない」「私は足りない」「私はダメだ」「私には価値がない」
などの感情をつくりだす、心理的構造について見てきました。

 それは、人間が元来持っている「心のシステム」が、その不均衡、非対称性を強くすると、葛藤や苦痛が強くなるということです。

 個人の中で、苦しみ(苦痛)を引き起こす、基礎的なメカニズム(心理構造/基盤)と言えるものです。
 これが、第一のメカニズムです。
 このメカニズムの中でも、恒常的に、苦痛の大きな人はいますが、これに、別のメカニズムの作用が加わってくると、苦痛はさらに大きくなります。
 
 ところで、前述の中では、「その時その時で、その(トップドッグ(ボス犬)とアンダードッグ(負け犬)の)占有比は変わり、どちらかの感情に強く同一化し、憑りつかれ、憑依され、その感情そのものになってしまいます」と説明しました。
 ここに、この「その時」をつくりだす、もうひとつの重要な、別のメカニズムが存在しているのです。
 その連携/連動で、人は、アンダードッグ(負け犬)になってしまい、憑りつかれてしまい、「私はダメだ」「私には価値がない」「私がいつも悪い」「私は恥ずかしいやつ」「私は生きていてもしょうがない」などと大きな苦痛を感じてしまうのです。

 それが、「抑圧 repression 」です。
 これも、精神分析の概念です。
 「抑圧 repression 」とは、その感情(欲求)を、意識の上で「感じないように」「認めないように」するために、その感情(欲求)を「抑え込む」、心の働かせ方です。
 俗に、「心にフタをする」「感情にフタをする」などという言い方がありますが、それに近い事柄です。
 この通俗的な言い回しは、人が「抑圧」の現象とその影響を、なんとなくは感じていることを示しています。

 では、なぜ、人は、「抑圧」したり、「感情にフタをする」ことをしたりするのでしょうか?
 それは、人が、その感情(欲求)を感じたり、認めたりするのが、苦痛だと思っているからです。
 意識の上で、その感情(欲求)を「認めないように」「苦痛を感じないために」抑圧しているのです。
 (しかし、実は、ここに落とし穴があるのです)

 「その感情(欲求)を認めたくない/感じたくない」という信念や考えは、基本的には、親の性格や生育環境に由来しますが、一般通念とも、深く結びついた学習的態度です。
 例えば、「怒り」や「憎しみ」は、一般的には、良くないものとされています。
 そのため、そういう感情を「悪」だと信じている人は、自分の中に「怒り」や「憎しみ」を発見すると、慌てて、それを「抑圧」します。
 「私の中に、そんな悪い感情(欲求)はない」と澄ました善い人の顔をするのです。

 では、そのように「抑圧された感情(欲求)」は、どこにいくのでしょうか?
 どこかに、消えてしまうことはありません。
 潜在意識(無意識)の中で、グツグツと地獄の釜のように、エネルギーを煮えたぎらせていくことになるのです。
 そして、そのエネルギーは、意識の上からは、抑圧され、排除されているので、はっきりと意識されることはありません。
 そのため、それは、「内なる他者」として、忍び寄る「シャドー(影)」として、私たちの意識の下から、背後から、外から、脅かしてくることになるのです。
 抑圧されたエネルギーというものは、決して消えないのです。
 そのため、抑圧の強い人は、抑圧した感情(欲求)に、つねに何か圧迫されるような感覚を持っています。
 「怒り」や「憎しみ」を抑圧している人は、いつもどこかに、自分が「怒られているような」「憎まれているような」「脅かされているような」「嫌われているような」感情を、どこかに持つことになるのです。

 そして、前に触れたトップドッグ(ボス犬)というものは、多くの場合、「怒り」「責める」などの攻撃性を表現する役割を持つものです。
 そのため、自分の中のトップドッグ(ボス犬)を「抑圧」している人というのは、そのことで、自分が、意識の外から責められている「アンダードッグ(負け犬)」側になってしまっているのです。
 自分が責められている受け手になってしまうのです。
 本当は、自分の中に、怒り、責めている存在がいるのに、それを「自分のものではない」と排除してしまったことで、主観的には、「私はできない」「私は足りない」「私はダメだ」「私には価値がない」「いつも私が悪い」「私は恥ずかしいやつ」「私は生きていてもしょうがない」という感情に苛まれることになってしまっているのです。

 さて、この「抑圧」に関係して、その延長として、さらにもうひとつ、重要な心のメカニズムがあります。
 それが、「投影 projection 」というものです。これも精神分析の概念です。
 このシステムは、抑圧して、自分の意識から排除した感情(欲求)が、「他者」に映し出され、その人自身の感情(欲求)に見えてくるという現象です。
 例えば、「怒り」「攻撃」を強く抑圧している人は、なぜか、或る人が自分に「怒っている」「責めている」ように見えてくるのです。
 自分の感情を、「人のもの」にしてしまうのです。

 さて、以上で、パワハラで病んでしまう人を理解する心のメカニズム(要素)が出そろいました。
 おさらいしますと…

①心の非対称的な構造
 心が、そもそも持っている構造です。
 中立的には、精神分析の「超自我」と「エス」のような構造ですが、生育的な偏向が強く出ると、交流分析でいう「批判的な親」と「順応した子ども/インナーチャイルド」のカップル、ゲシュタルト療法でいう「トップドッグ(ボス犬)」と「アンダードッグ(負け犬)」のカップルのように、私たちの中では、苦痛を生み出す「責める者」と「責められる者」のカップルが、生まれるということです。
 また、大部分の人は、これらのカップル、ゆがみ(非対称性)を持っているということです。

②「抑圧」
 人は、抑圧によって、或る感情(欲求)を意識から排除すると、その感情(欲求)は、「内なる他者」や「シャドー(影)」として、自分の意識の背後から、私たちを脅かしてくることになるということです。

③「投影」
 抑圧された感情(欲求)は、自分のものではなく(自分はそんな感情を持っていない)、外部の、他人の、その人の感情(欲求)のように見えてくる、感じられてくるということです。

 極端な事例を考えてみたいと思います。
 さて、例えば、或る人Aさんがいます。
 Aさんは、自分の持っている「怒り」や「攻撃性」を認めたくない、強く抑圧する傾向を持っている人だとします。
 強く抑圧することで、自分の「怒り」や「攻撃性」を意識したり、表現できなくなっているような人です。
 そんなAさんが、仕事に少し厳しいように見える上司Bさんの下に配属されます。
 Aさんは、自分の中のトップドッグ(ボス犬)を、無意識のうちに、その上司Bさんに「投影」します。
 そのことで、Aさん自身は、無意識のうちに、アンダードッグ(負け犬)により同一化して、憑依されてしまいます。
 そのため、Aさんにとっては、上司Bさんが、だんだんと、とても「怖ろしい人」「自分を責めている人」に見えてきます。
 そのうち、Aさんは、自分が、パワハラを受けている感じがしてきます。
 ところが、まわりの人からは、その上司のBさんは、少し細かい人には見えるけれど、決してパワハラ的には見えません。
 しかし、Aさんには、上司のBさんが、ことあるごとに、自分を監視し、睨みをきかせ、激しく責めてくるように感じられてくるのです。
 実際に口頭で、言ってくるわけではないのですが、
「お前はできてない」「お前は足りない」「お前はダメだ」「お前には価値がない」「いつもお前は間違っている」
 
と心の中で思っているように思われてしょうがないのです(実際には、自分の中のトップドッグ(ボス犬)の声です)。

 その結果、Aさんは、だんだんと追い詰められた気分になっていき、メンタルの調子を崩していくことになるのです…

 さて、一方、もし仮に、この場合の上司Bさんが、「本物のうるさいパワハラ上司」であったとても、Aさんが、自分の「怒り」「攻撃性」とつながり、意識し、同一化している人であったなら、調子を崩すことなかったでしょう。
 トップドッグ(ボス犬)が、上司に投影されずに、自分が、アンダードッグ(負け犬)に憑依されることもなかったからです。
 パワハラ上司Bさんは、「怖ろしい人」ではなく、単なる「クソ上司」としか思われなかったからです。
 上司に、「腹を立てている自分」を感じられているからです。その自分の怒りと、コンタクト(接触)がとれているからです。分裂していないからです。

 

◆「投影」としての世界

 さて、以上、パワハラを例にとって、私たちの「心の構造」と「見えている世界」との関係を解説してきました。 
 この例は、少し特殊なものではありますが、このような「投影」という事態は、実は、私たちの見る世界の「すべてにおいて」起こっていることなのです。
 私たちは、「自分の心の構造」を世界に映し出し、それを「現実」だと思い込んで、体験しているのです。
 私たちは、いわゆる「客観的な世界」などを見ることはないのです。
 というより、実際のところ、人間の人生で、「客観的な世界」などは存在していないのです。
 どこまで行っても、「自分の心」が映し出されている世界を見ているだけなのです。
 そういう意味では、ある種、仏教的なあり様と言えます。

 今回、タイトルに「パワハラの由来」と付けましたが、パワハラなども、当然、物理的な言動レベルで認定されるパワハラもありますが、心の構造が「投影された」だけの心的現実である場合もあるのです。
(これは、私が企業に勤務していた時に、見た風景でもあります。実際にひどい上司はいますが、大元の作用原因では、マインドゲームが働いているのです)
 そのように、私たちは、「世界」というものを見て、体験しているのです。
 基本、この世界は、「投影としての世界」なのです。

 そしてまた、投影とは、なにも、人物にかぎった話ではなく、「物事」や「観念」においても、すべて同様に起こっている現象なのです。
 私たちが、物事や観念について、見たり感じたりしてみて、そこに「何かのけはい」「何か気になるもの」「何かひっかかるもの」を感じときには、すべて背後に「強い投影」が働いているのです。
 そこには、何か「心的要素」が潜んでいるのです。

 映画『マトリックス』においては、私たちの表象のすべてが、機械マトリックスによってつくられたものでした。
 同じように、この私たちが見ている現実も、実は、すべて「投影」によって、色づけられ、形づくられている世界なのです。

 そして、その「投影」の世界から離脱するには、強い「投影」が生じないように、心の分裂的な要素を、セラピー的に「統合」していくしかないのです。

 そして、そのように統合された後の世界は、私たちにとって未知でもある、まったく新鮮な、新しい世界であるのです。

【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
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