世間には、やたらと、噛みつくように「人を批判ばかりしている人」というのがいます。
いわゆる「他責的」な人たちです。
「お前が悪い」「お前が間違っている」と、内容のないことでも、他人を責め立てる人々です。
現在は、ネット社会となって、安易に表現ができるようになったため、そういう人々を目にする機会が増えましたが、昔から、職場や身の回りにも、一定数、そういう人はいたものです。
そのため、別の記事、「映画『マトリックス』のメタファー(暗喩) パワハラの由来その1/その2 「投影」としての世界」」でとりあげたように、「パワハラ」的な現象や、問題事象となってしまう事柄も色々と出てきてしまうのです。
さきの記事では、病んでしまう側の心理について色々と解説しましたが、当然、「パワハラをする側」の心理というものも存在しているのです。
また、「パワハラ」ほど、目立たない現象ですが、「大人のいじめ」のような事柄も起こるわけです。
これは、別の「心の葛藤(苦しみ)と超越的体験―どこからアプローチするか?」でも触れたように、そもそも、人間社会の構造自体が、「いじめ社会/生贄社会」であることにも起因するのですが、その構造的歪みによって、より特定の個人の心理が暴走してしまう面もあるのです。
そして、これら、「批判や攻撃ばかりしている人」の人のふるまいも、当然ながら、心の底に、そういう事象を引き起こす「心理構造」の要因があるために、そのようなふるまい、行動が起こっているのです。
さて、さきの記事では、「パワハラで病んでしまう人」を素材に、私たちの心理構造についてさまざまに解説しました。
その際、下記の心の構造や機能が、それらを引き起こすことを解説しました。
①心の非対称的な構造
②抑圧
③投影
です。
今回も、これらをもとに、色々と見ていきたいと思います。
さて、さきの記事では、私たちが病んでしまう原因となる、「2つ」の私たちの潜在意識(無意識)の要素や、人格的要素を解説しました。
これらは、カップル(二個一)として存在しています。
ひとつは、私たちの中の、自分自身を攻撃したり、責めたり、支配したりする心理的要素です。
精神分析でいう「超自我 super ego 」、交流分析(TA)のいう「批判的な親」、ゲシュタルト療法の「トップドッグ(ボス犬)」などです。
それらが、私たちの心の中に、もともと存在しているということです。ある種、サディズム的な要素です。
そして、一方、攻撃されたり、責められたりする側の心理的要素も存在しています。
精神分析でいう「エス es 」、交流分析(TA)のいう「適応した子ども/インナーチャイルド」、ゲシュタルト療法の「アンダードッグ(負け犬)」などです。
こちらは、ある種の、マゾヒズム的な要素です。
この心理的要素(構造)は、主に成育歴によって、その特徴を形成しますが、カップル(二個一)として、私たちの中にあり、そのダイナミスム(力動性)と葛藤で、私たちの「性格」(キャラクター)を形づくっているのです。
「そして、その時その時で、その(トップドッグ(ボス犬)とアンダードッグ(負け犬))の占有比は変わり、どちらかの感情に強く同一化し、憑りつかれ、憑依され、その感情そのものになってしまいます。
人が、落ち込んでいるときは、アンダードッグ(負け犬)に同一化しています。
人を責めているときは、トップドッグ(ボス犬)に同一化しています。
また、通常の個人は、どちらかに多く占有されている傾向を持っています」
ということなのです。
つまり、もともとの心理構造(因子)の上にあって、ときどきで、さまざまな感情(欲求)や反応が出てくるのです。
さて、人を責めているときに、私たちが同一化してしまう、「トップドッグ(ボス犬)」とは、交流分析(TA)のいう「批判的な親」、精神分析のいう「超自我 super ego 」のある支配者的要素です。
これらも、誰の中にもありますが、当然、「批判的な親」の元で育ったり、自分が「批判的」に感じた体験が多く蓄積していると、その人格要素が強く育ちます。
そして、重要なことは、②「抑圧 repression 」です。
自分の中にある、反対側の心理要素、
「エス 」「適応した子ども/インナーチャイルド」「アンダードッグ(負け犬)」を、強く抑圧していると、
「超自我」「批判的な親」「トップドッグ(ボス犬)」により同一化し、憑依されやすくなってしまうのです。
「抑圧 repression 」とは、その感情(欲求)を、意識の上で「感じないように」「認めないように」するために、その感情(欲求)を抑え込み、「意識」の上から排除する、心の働かせ方です。
俗に、「心にフタをする」「感情にフタをする」などという言い方がありますが、それに近い事柄です。
人が、或る要素(感情/欲求)を「抑圧」したり、「感情にフタをする」のは、その感情(欲求)が、自分の中にあることが、苦痛だったり、恥ずかしかったりするからです。
「こんな気持ち/感情(欲求)は私の中にはない」と、意識の上で、その感情(欲求)を認めないように、感じないために抑圧するのです。
「その感情(欲求)を認めたくない/感じたくない」という信念や禁止、羞恥心も、多くは、親の価値感情や性格に由来しますが、一般の社会通念とも、深く結びついた学習的態度です。
たとえば、自分の中にある、「エス es 」「適応した子ども/インナーチャイルド」「アンダードッグ(負け犬)」を認めたくないという心理は、今の社会に全体に浸透していることでもあります。
なぜなら、これらの感情(欲求)は、「弱さ」「もろさ」「自信のなさ」「無価値観」「罪悪感」「悲しみ」「寂しさ」「怖れ」「恥ずかしさ」等として、体験されるものだからです。
そのような「弱さ」「無価値観」「自信のなさ」につながるものを、今の社会、特に資本主義社会は、価値のないものとして否定しているからです。
なぜなら、資本主義社会というのは、基本的に、弱肉強食、経済的に「勝つこと」「勝者である」が、「正」であり、唯一価値あることとしている社会思想だからです。
「弱者」「貧者」は悪なのです。
そのゲームの中では、経済的弱者や敗者は、必然的に、価値の低い存在となっているのです。
かつ、現代社会全体が、学校教育における競争から、そのようなロジックを促進するように組み上げられているのです。
そのような一元的な価値観、平板な価値観が、社会を覆っているのが、この社会だからです。
その結果、自分の中に、「弱さ」「もろさ」「劣等感」「無価値観」「罪悪感」「怖れ」「恥ずかしさ」等の感情があることは、憎むべきこと、否定すべきこととして、抑圧するようになっているのです。
虚勢を張るマッチョイムズが、現代社会の常態となってしまっているのです。
そのような社会通念の中で、自分の中の「アンダードッグ(負け犬)」を否定抑圧して、トップドッグ(ボス犬)に同一化すること、憑依されることは、ごく普通の姿ともなってしまっているのです。
そして、そのような「抑圧」が強く働くと、連動して、「投影 projection 」ということが起こってくるのです。
「投影 projection 」とは、抑圧して、自分の意識から排除した感情(欲求)が、「他者」に映し出され、その「他者」自身の感情(欲求)に見えてくるという現象です。
例えば、自分の中の「認めたくない欲求(感情)」「劣等感」「無価値観」などを憎しみ、嫌い、強く抑圧している人は、或る人が、実際以上に、自分の嫌いな「認めたくない要素」「劣等性」「無価値性」を持っているように見えてくるのです。
そのような「劣等性」や「要素」を持った、憎むべき人のように感じられるのです。
自分の感情を、「人のもの」にしてしまっているのです。
そうなると、トップドッグ(ボス犬)が、「アンダードッグ(負け犬)」に対して、いつも支配し、イライラし、攻撃しているように、その人に対しても、ムラムラと敵意と怒り、攻撃性が湧いてくるのです。
「お前は間違ったことをやっている」「お前は悪党だ」「お前は劣ったやつだ」という感情が出てくるのです。
(しかし、深層心理では、その人自身の要素に対して、そのような感情が湧いているのです。
そして、そのような人格構造の人が、社会や組織の中で、自分のアンダードッグ(負け犬)や抑圧しているものを、投影しやすい弱い立場の人を見つけた時などは、実際に、衝動が湧いてきて、攻撃的な言動をとったりしてしまうのです。
しかし、そのような言動の背後には、もともとの「抑圧的な人格」と、その「独自の心理内容」、その「基盤となる心理構造」があるのです。
そして、その人が、攻撃しているのは、本当のところは、その人の抑圧している「アンダードッグ(負け犬)」「シャドー(影)」、その人の「分身」でしかないのです。
そのため、「他責していると成長しない」というのも、そういう意味でもあるのです。
精神分析では、「投影」を「防衛機制」としています。
それは、自分の「自我ego」が、身を守るためにとっている振る舞いなのです。
「自分は正しい」「悪く劣っているのはあいつだ」とすることで、自分が守られるからです。
しかし、実際は、他人を責めることで、自分の抑圧と分裂を、維持してしまっているのです。
自分の嫌な部分を切り離し(disown)、分裂した状態を維持することになってしまっているのです。
人格の分裂を温存してしまっているのです。
別の記事でも触れているように、大人の社会も、「いじめ社会」です。
そういう意味では、「他責的」な傾向というのは、この社会が持っている標準的な態度とも言えるのです。
そのため、この社会が、そういう「他責的なふるまい」の間違いを正す、決定的なロジックを見出せないのも当然とも言えるのです。
それは、「同じ穴のムジナ」だからです。
さて、ところで、一方、現代社会の凡庸で薄っぺらなロジックから離れて、本質的な次元に目を向けると、社会が抑圧排除している、「エス es 」「適応した子ども/インナーチャイルド」「アンダードッグ(負け犬)」などの重要な意義や価値を見出していくことができます。
現代社会が抑圧しているアンダードッグ(負け犬)的な感情(欲求)―「弱さ」「もろさ」「劣等感」「無価値観」「罪悪感」「怖れ」「恥ずかしさ」等々は、トップドッグ(ボス犬)の圧政下では、そのような質感として現れてきますが、交流分析(TA)が「フリーチャイルド/自由な子ども」と呼んだように、本来の生命的な「エス es 」の要素も持っているからです。
それらは、しばしば、「無邪気さ」「素直さ」「無垢」「純真さ」として現れてきますが、私たちの人格の最低部にあって、私たちの人格と生命力を基礎づけるものとなっているのです。
そのような「人格の基礎」がなくて、私たちは、本質的な意味での「真の自己実現」や「精神的達成」など、この人生で得ることはできないのです。
フロイトの「エス es 」の元ネタをつくったグロデックは書きます。
「エス」は、私たちの人格の基礎、根っこにあるものですが、そのような存在 Being の「根」がなければ、何ものも育たないのです。
高い樹木というものは、地下に、その何倍もの根の深さを持っているものなのです。
さて、今回は、「他責的」な心理を素材に、私たちの心のシステムについて解説しました。
ところで、現代日本は、このさきどんどん状況は悪くなり、逼迫していくことが予想されます。
そうなると、「貧すれば鈍する」で、人々の心は、ますます荒廃していくこととなるでしょう(今でも十分荒廃していますが)。
そうなると、「抑圧」と「投影」は増大し、「他責的」な心理は、ますます加速され、自滅的な水準へと移行することが予測されます。
そのような「末世」の中を、これからサバイバルしていくためにも、私たちは、自分の心の変容と統合をすすめていくことが、最大の頼り(武器)となるのです。
どのような状況であれ、世界を体験しているのは、私たち自身の心なのですから。
天国を体験するか、地獄を体験するかも、心自身が決めていくことなのです。
【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)を含む、「自己超越」のためのより総合的な方法論については、
拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
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