以前、日本のNLP(神経言語プログラミング)をテーマにした際、初期のNLPの文化的背景にあったカウンター・カルチャーのことについて少し言及しました。
→「日本のNLP(神経言語プログラミング)はなぜ退屈なのか」
今回は、そのような当時のカウンター・カルチャーの雰囲気を生き生きと伝える本を取り上げて、その精神的な姿を少し見てみたいと思います。
その本は、ポール・ウィリアムズが青年の頃、1970年に書いた『ダス・エナーギ』(MOKO訳、春秋社)という本です。
著者のポール・ウィリアムズはすでに亡くなっていますが、SF作家フィリップ・K・ディックの友人で、ロック雑誌の発刊や、主に音楽関係の執筆などをしていた人物です。
著者の回想によると、この本は、22歳の時、(当時多かった)コミューン生活の中で、書かれたもののようです(著者曰く「突然、自らを書き始めた」と)。
そして、その内容を、「私のなじみの仲間たちには周知のことであり、また、深夜、ごく親しい友人や面白い未知の来客と話しこんでいるうちにいつのまにかゆきつく類のもの」(同書)と表現しています。
本の中では、詩とも散文ともつかないような断章(フラグメント)で、当時の彼(彼ら)が感じていた直観的な思想が、霊感に充ちた速度感で書き留められています。
「ただひとつの罪、
それは自分を憎むこと。
それは否定的な行為。
その反対は信じること。
悪いものなんてない。
悪い、といってみるのは、
いりもしない松葉杖のようなもの、
思い切って捨ててしまうまで、
悪くない脚もなおりはしない。
なおる、とはより健康になること、
健康になる、とは溢れるエネルギーの流れを
エンジョイすることだ。
エネルギーの流れが、
僕たちをハイにする。」「正しいとは、どんなことか?
正しいとは、正しいと感じること。
直観的な気づき。
いまこの瞬間、なにをするのが、
君にとって正しいのか、君は正確に知っている。
ほかの誰も知らず、他のなにものも関係ない。
なんなら自分を一個の装置になぞらえてみるといい。
君は人の体と人の心を
重ね合わせた存在。
君が結びつけられて
その一部になっている心の潜在意識を通じて、
君はすべての人間の意識とつながり
交流することができる。
君の潜在意識を通じて。
君は感受性豊かな計器。
肉体的、感情的、精神的な全人類の延長。
一個人である、独特な延長。」
「どんなときにも、何が正しいかがわかり、それを実行する。
それ(感じる)にはなんの努力もいらない。
そのように君は設計されている。
それが君。
ほかの誰とも同じ人間ではなく、いまこの瞬間は、
ほかのどこにも存在しない。
君は一個の装置。
テーブルが見えるか、それとも声が聞こえるか?
そしたら、なにが正しいかが感じられるはず。」「自分の行動に責任をもち、
正しいことをする。
過去に生きるのはやめにして、
過去から学ぶことにしよう。
いま、正しいことをしよう。」(同書)
そして、人生のさまざまな局面にフォーカスを当てて、自由と解放を促していきます。
「なるがままにまかせておけば、
なにかが起こる。
恐れはいつも未知の先取り。
人のエネルギーの流れに問題が起こるのは、
たいていがリラックスできぬせい。
なるがままにすることへの恐れ。
なるがままにまかせておけば、なにかが起こる。
未知への恐れ。
理性はいう、『取り引きしたいな。
まず、なにが起こるのか教えてくれ。
そしたら、なるがままにまかせるよ』
くそったれが!
先のことは、誰にもわからない。
絶対に。
未来―次の瞬間―は知ることができない―未知。
理性はそれを信じたがらない。
怖いから。」「君は選ばなくてはならない。
なにも見ない(知覚しない)方がいいか、
それとも本当のあるがままの世界をみたいか?
あるがままの世界を見るのは簡単だ。
壁をとり払って、
自己防衛と先入観で身を護るのをやめ、
無力で傷つきやすく愚かな者になればいいのだ。
だが、これは難しいことでもある。
それつらく、あまりに生なましく、対応が要求され、
信じがたいほどの深い関わりあいが必要だから。
その道程の90パーセントは、
休むことのない狂気の苦しみだ。
その道を歩き通したとき、
正気の世界が待っている。」「僕たちが全面的覚醒―自覚―に到達したとき、
この地球の生命の流れに
ふさわしい位置を発見することだろう。
地球の生命の流れの中に
自分たちの占めるべき位置を発見したとき、
僕たちは全面的に目覚めるに違いない。
もはや誰も、全生命との調和から逃れることはできない。
それは、息をしないでいることが不可能であるのと同じくらい
不可能なことだ。」(同書)
そして、
「みんな知りたがる、
なにをしたらいいんだ?
われわれは地球を救おうと、ゴミを拾い集め、
人類同胞を解放し、戦争をやめさせて
至福千年をもたらそうとしている。
でも、まじめな話、いったい自分になにができるんだろう?よろしい、まじめな話をしよう:
リアリティ(本当の実在)に到達すること。
君自身の本当の実在に到達すること。
君自身になれ。
途方もなくハイでリアルな存在になり、
君のヴァイブレーションですべての人々に影響を与えること。
どんなにそれがむずかしくても、
ほかのすべてを投げうって、
君に考えられる最も夢のあるリアルなことを始めることだ。
君自身になれ。
君自身の本当の実在に到達せよ。自分自身でいられる君の力を信じること。
ほかのなにかになろうと思うな、それは実在しない。
ただ君自身でいるそのことが、世界を変える。
なんとかしようと、あたりをうろつきまわるな。
大胆で率直で正直で精力的であればいい。
君はなすべきことを知っている。
もし君が知らないと思うなら、まったくなにもしないでいること。
したくなるまで。
この方法に失敗はない。
純粋な受容は純粋な創造に向かう。
君自身がどんな存在かを想像し、
あとは一瞬もためらわないことだ。君の中の強いものを取りだし、
それを活動させる。
解き放て。
人がどう思おうと気にするな。
君の全筋肉を動員し、
それを限界まで鍛えあげるんだ。
きっと驚くだろう、その心地よさに、
そして、うまくやってのけた自分に。
純粋なエネルギーを外に放射するだけで、
―ハイにコンタクトする究極なコミュニケーション方法だ―
君は素晴らしくなる。自分であれ
自分であれ
自分であれ! 」(同書)
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さて、以上、ポール・ウィリアムズの言葉を見てみましたが、当時のカウンター・カルチャーの雰囲気が、よく伝わって来ると思われます。
少しナイーブすぎると感じられるかもしれませんが、当時は、逆にそのようなスタンスが戦略的に新しかった(有効だった)のでしょう。
これらの直観の内にある可能性を見極め、より実効的なものとして、精査・再構成していくことも現代的な課題であると思われるのです。
また、このような直観的な思想が、60年代の後半にゲシュタルト療法が普及する追い風にもなっていったのは、事実であったわけです。
当時のクラウディオ・ナランホの言葉は、このような思潮ともさまざまに響き合っていたわけです。
→クラウディオ・ナランホによるゲシュタルトの基本姿勢
そしてまた、現在、ゲシュタルト療法を、心理療法だけの枠に閉じ込めないで、その原初の精神の息吹を思い返すためにも、参考となるものでもあるのです。
そしてまた、時代の風景を広く見ていくと、前段に触れたNLP(神経言語プログラミング)なども、そのような新しい時代の方法論として、自らを構成していこうとした様子がより見てとれるのです。
彼らが持っていた、過去からの囚われを一気に乗り越え、新しい未来の創造に、
身を投じていこうという姿勢も、そのような精神の現れであったわけなのです。
【ブックガイド】
ゲシュタルト療法については基礎から実践までをまとめた解説、拙著
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。