インドにしばらく滞在し、その渾沌とした泥土のようなエネルギーの中にいると、ふと、ユングの言葉が思い出された。それは、彼が、南米人ミゲール・セラノとの会話の中で発した言葉です。
セラノは(彼はインドで修行的探求に取り組んでいたのですが)、インドの文化においては、通常の私たちが重視する意味での「個人/人格」的な要素が大した価値をもっていないことに触れたのです。
「インドは、ペルソナを知らないのです。元型を知っているだけなのです。もちろん、人格(パーソナリティ)の考えが必ずしも良いとは限らないと私は考えています。多分、それは全く逆ではないでしょうが……」
「そうです。インドは元型なのです」とユングは言った。「だから私はインドに行った時にスワーミーやグルを訪問しようとはしませんでした。(中略) スワーミーなのものがどんなものか知っていましたし、その元型についてはっきりとした見解を持っていました。そして極端なまでの人格の分化が西洋のように存在しない世界で彼らを知るには、それで充分だったのです。私たちはより多くの多様性を有してしますが、それは皮相的なものにすぎないのです……」ミゲール・セラノ『ヘルメティック・サークル』小川捷之他訳(みすず書房)
たしかに、インドでは、「個人」間の距離は、通常の私たち日本人が持つようなものとしては、おそらく存在してはいません。
しかし、そこには、私たちの考える「個人」よりも、もっと手前に、もっと大きく相互浸透的な力(磁場)が、働いているように感じられるのです。
セラピーなどで語られる「我と汝」などという概念が、紙切れのように稀薄なものに感じられるような、分厚い「大地/霊性の力」です。
そこには大きな力、ユングらが「元型」と呼んだような、根源的で、不動な、得体のしれない祖型的なエネルギーが沸騰しているのです。
「蓮の花(ロータス)」は、インドの宗教的な象徴として重要なものです。
それは、蓮が、汚れた泥土の中で育ちつつも、美しく清廉な花を咲かせるものだからです。
美しい蓮の花も、汚れた泥土も、ともに元型的なイメージを持つものです。
しかし、この地では、とりわけ、汚れた「泥土」のもつリアリティと深さに想いが惹きよせられるのです。
物乞いする貧者が街にあふれ、汚いごみはうずたかく積り、乾いた塵埃と悪臭の中で、死者は荼毘にふされているからです。
破壊と創造との一体性が、より自然に、深いレベルで、日常的に感じられるからです。
そこには、小奇麗になった私たち日本人が、忘れがちなエネルギーの源(深淵/根)があるのです。
禅は、中国で生まれ、日本で洗練された花を咲かせました。
それは、私たちの文化と習合し、そのもっとも先鋭な要素にもなっています。
ところで、禅の開祖となった達磨大使は、インド人でした。
達磨大使のあの眼は、たしかにインド人の眼です。
インドの人々は、あのようなギロリとした眼で、人のことをジッと見るのです。
伝説ではない、本当の達磨大使が、どのような想いをもって、一人中国にやって来て、面壁九年したのかは知る由もありません。
しかし、この地では、そのような達磨大使の根っこに、たしかに、彼個人に還元しきれない、深い〈何か〉を感じることができるのです。
蓮の花を咲かす深く広大な泥土のひろがり。清濁がひとつになった力強い元型的な根 root を感じる想いがするのです。

※変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
および、
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』
をご覧下さい。