別の記事で、神秘的な思想家 G.I.グルジェフのいう「自己想起 self-remembering 」を取り上げ、「気づき awareness 」とそのあるべき姿について少し解説を加えました。
→気づき awarenessと自己想起 self-remembering
今回は、それらと関係する、「気づき awareness 」や「自己想起 self-remembering」、「覚醒 awakeness 」について、興味深い事例をもとに、少し見ていきたいと思います。
ところで、神秘思想家グルジェフ Gurdjieff については、ミュージシャンの中に信奉者が多いことでも有名なのですが、特にピアニストのキース・ジャレット Keith Jarrett (彼にはグルジェフの曲を演奏した一枚があります)や、キング・クリムゾンのロバート・フリップ Robert Fripp など、即興演奏を重視するミュージシャンにその信奉者が多いことは注目すべきことでもあります。
実は、それは、「即興演奏/即興表現」というものに内在した或る性質、必然的な事態であるとも考えられるからです。
実際、世の優れた即興演奏家の中には、あたかも、その演奏(音楽)が、通常の慣性的な時間感覚に逆らい、離脱し、あたかも時間の流れに逆行して、「今ここ/現在」の時空を切り拓き、時空を創出するかのような印象を受けるものがあります。
その謎については、まずは、優れた即興演奏がもつ「フロー体験」「ZONE」との関係によって、解明される点があります。
フロー体験の領域(状態)においては、標準的なタイプの時間は、ある意味で、「超脱」されていくのです。
そのため、フロー体験においては、慣性的な時間に対して、「優位な」「超越的な」スタンスが得られているとも言えるのです。
→「フロー体験とは何か フロー状態 ゾーン ZONE とは」
その即興音楽の中では、私たちは、時間の水平的な流れに対して(私たちが普段、音楽を聴くときはただ時間に流されているわけですが)
あたかも、その流れの上に立っているかのような、「離脱的で、超越的、垂直的な在り方」をしているかのようにも感じられたりするのです。
あたかも、存在(時間)を対象化し、それを超えているかのような「存在論的な印象」を受けるのです。
「存在論的な感覚」も、存在に対して、あたかもその上位に立つかのようなメタ(超越)的で、意識的な、「垂直的な」印象を与えるものだからです。
かつて、批評家の間章が、エリック・ドルフィー Eric Dolphy の演奏に感じとった「存在論的な感覚」も、おそらくそのような離脱的、垂直的な印象だと推察されるのです。
エリック・ドルフィーの軽やかさは、反慣性的で、反重力的な性質のものなのです。
そして、これは、自己想起 self-remembering の持つ覚醒感 awakeness と、即興演奏とのある種の親和性でもあるのです。
今回は、そのような親和性を明確な方法論として位置づけているキース・ジャレット Keith Jarrett の言葉を引いて、この内実を見ていきたいと思います。
キース・ジャレット Keith Jarrett は、別の記事「マイルス・デイヴィスと存在力/共振力の浸透」でも触れた、マイルス・デイヴィスの下でも演奏していた素晴らしいピアニストです。
→マイルス・デイヴィスと存在力/共振力
マイルスのグループでは、前衛的な側面を担っており、同じ鍵盤奏者のチック・コリアは、マイルスに「あいつ(キース)に引っ張られないようにしろ」と指示を出されたようです。
そして、ソロで、ECMレコードから、作品を出しはじめた頃から、「完全即興演奏」を試みるようになっていったのです。
その著書『インナービューズ』における、そんな彼の言葉は、とても示唆に富んでいます。
その中で、ジャレットは、気づきや覚醒、熱望(欲望)、演奏や経験について大変興味深い考えや洞察の数々を示しているのです。
それは彼が、上記のような事柄について、とても意識的で、明確に方法論的であったことをうかがわせるものであるのです。
そこで、彼が語っている覚醒 awakeness というのは、当然、グルジェフのいう自己想起 self-remembering に近い存在論的な状態のことを指していると思われるのです。
それは、別の記事で引いた(「変性意識」というワードを広めた)チャールズ・タート博士の言葉によれば、「ある種の透明さ」「その瞬間の現実により敏感で、より存在しているという感じ」として体験されるようなものなのです。
「ある種の透明さ」「その瞬間の現実により敏感で、より存在しているという感じ」―そのような「けはい」は、実は、キース・ジャレットの音楽を聴くとき、私たちのうちに呼び覚まされる感覚のひとつでもあるのです。
さて、そんなキース・ジャレットは語ります。
「実は、ぼく自身、自分のことを音楽家だというふうには、考えていない。どういうことかって言うと、ぼくは自分の演奏を聴いていてほんとうは音楽が問題なのではないということがよくわかるんだ。ぼくにとって、音楽というのは、目覚めた状態、覚醒した awake 状態に自分を置き、その知覚、意識 awareness、覚醒 awakeness を認知し続けることにかかわったものなんだ」
「ぼくにとって、音楽のすべての形式は、それ自体は、なんの意味もない。その音楽を演奏している人間が覚醒した状態にいるからこそ(仮面の表情の奥で覚醒しているからこそ)、その音楽は意味を持ってくるんだ。演奏している人間が覚醒しているなら、その人間の演奏するあらゆる音楽が重要になってくる。この覚醒こそ、最も重要なものなんだ」
「自分を覚醒した状態にするためのひとつの方法は、できるだけ自然のままので、自発的な状態でいることだ。きみが自発的な状態でいれば、自分のくだらないアイディアと良いアイディアの区別がよく聞こえてくる。なにもかも準備した状態では、そのような経験を持つことはけっしてないだろう」
「ぼくにとって、“欲望(want)”というのは、覚醒した状態、目覚めた状態にいることであり、きれいな音を出すとか、耳に心地よい快適な音を出すとかということではない」
キース・ジャレット『インナービューズ』(山下邦彦訳、太田出版)※太字強調引用者
彼にとって、音楽を通して、「何が目指されているのか」が伝わってくる言葉です。
「ミニマリズムによって弾かれる1音と、覚醒した状態にある誰かによって弾かれる1音との間には、信じられないほどの違いがある。覚醒した状態にある人間は、眠った状態におちいりたくない。かれはそのひとつの音を、可能な限りのあらゆる方法で弾いて、覚醒した状態を持続するよう努力するだろう。この時彼は、聴衆から緊張を取り除こうとしているのではない。むしろ、緊張の存在に気がつくようにしているのだ」
「とにかく、彼は音楽を聞くためにやって来たのだから、ぼくは音楽で対処する。『きみにはある期待がある』これはぼくが彼に語りかけているわけ。『きみは期待している。しかし、その期待は過去にもとづいているもので、現在にもとづいたものではない。きみがそういう期待をもっていることを否定はしない。 でもぼくは期待以上のものをあげよう。きみに“ 今”をあげよう。きみが自分の期待をのぞきこむことのできる鏡をあげよう』」
(同書)※太字強調引用者
彼の、音楽を通した、聴衆との交流、交感の狙いが伝わってきます。
「こういったことが、ぼく自身、自分のことを音楽家だというふうには、考えていないという理由なんだ。(たとえばトリックのようなものは)音楽上の興味としてはあるかもしれない。しかし、人生はまた別のものだ。ぼくはなんとかその中間に位置したいと思っている。ぼくはたしかに音楽をやっているけれど、それは音楽的理由だけのためにやっているのではない、ということなんだ。でも、ぼくはこういうことを教えようとしているのではない。経験しようとしているんだ。この経験こそが、コミュニケーションだ」
「自分が何を弾いているのかということもたしかに重要だけれど、もっと重要なことは、『これはどこから来ているのか?』『今、こう弾きたいという衝動はどこから来たのか?』ということだ」
(同書) ※太字強調引用者
さて、以上、キース・ジャレットの言葉を見てみましたが、通常の音楽家とは、演奏に求めている事柄が、ずいぶんと違うことがわかるかと思われます。
また、グルジェフについても、決して生半可な理解で言及しているのではないことも分かります。
そして、このような彼の言葉が、彼の音楽を聴くに際して、(多くの音楽家の場合、逆になってしまうのですが)邪魔にならないばかりか、かえって覚醒的 awakeness なものにするという点も興味深いことであるのです。
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