さまざまな言葉・語録・参考ヒント〈第二集〉

ここでは、自己変容や自己超越、並外れた創造力や天才性についての、優れた洞察や名言を集めています。味読して、何かしらのヒントにしていただければと思います。〈第二集〉です。→〈第一集〉

  1. グルジェフ/ウスペンスキー
  2. クリシュナムルティ
  3. 村上一郎
  4. 吉田嘉七
  5. エマニュエル・レヴィナス
  6. スタニスラフ・グロフ
  7. ゴーピ・クリシュナ
  8. ジョルジュ・バタイユ
  9. ホルヘ・ルイス・ボルヘス
  10. ヘルマン・ヘッセ
  11. 菅靖彦
  12. ルーミー
  13. グロデック
  14. アーサー・ヤノフ
  15. F.ニーチェ
  16. D.W.ウィニコット
  17. ジェイムズ・ヒルマン
  18. アントナン・アルトー
  19. R.D.レイン
  20. ノーマン・O・ブラウン
  21. スタニスラフ・グロフ
  22. ジョン・ウィア・ペリー/吉福伸逸
  23. ユング/ミール・セラノ
  24. C.G.ユング
  25. 野口晴哉
  26. 津村喬
  27. ジェームズ・ブラウン
  28. キューブリック/トム・クルーズ
  29. デイヴ・リーブマン
  30. フランシス・ベイコン
  31. ミシェル・レリス
  32. マルセル・デュシャン
  33. キース・ジャレット
  34. ルネ・ドーマル
  35. アレイスター・クロウリー
  36. F.ニーチェ
  37. アンゲルス・シレジウス
  38. ラレ・バフティヤル
  39. ヘルマン・ヘッセ
  40. モーリス・ブランショ
  41. M.A.アストゥリアス
  42. H.v.ホーフマンスタール
  43. ヒトラー/ヘルマン・ラウシュニング
  44. カール・ロジャーズ
  45. 孫子
  46. ワーナー・エアハード
  47. ポール・ウィリアムズ
  48. リヴィング・シアター
  49. ロック/S.フォスター&M.リトル
  50. リチャード・バック
  51. カルロス・カスタネダ
  52. ジョン・C・リリー
  53. レックス・ヒクソン
  54. 荘子
  55. アントナン・アルトー
  56. チャールズ・モーガン
  57. 親鸞/唯円
  58. 般若心経
  59. アルチュール・ランボー
  60. ガストン・バシュラール
  61. ヘルマン・ヘッセ
  62. C.G.ユング
  63. ジェラール・ド・ネルヴァル

グルジェフ
「もし、君たちが、明日を違ったものにしたければ、まず今日を違ったものにしなければならない。もし、今日が単に昨日の結果であるなら、明日もまったく同様に、今日の結果となるだろう」

ウスペンスキー 浅井雅志訳
『奇蹟を求めて』(平河出版社)

クリシュナムルティ
「〈真理〉は、途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです。それが私の見解であり、私はこの見解を絶対的に、かつ無条件に固守します。無限で、いかなる条件づけも受けず、どんな途によっても接近することのできない〈真理〉は、組織化しえないものであり、また、特定の途をたどるように人を導いたり、強制したりするような、どんな組織体も形成されてはならないのです。もし、あなたがたが、最初にこのことを理解されるなら、ひとつの信念を組織化することが、いかに不可能であるかがおわかりになるでしょう。信念というのは、純粋に個人的なことがらであって、組織化することはできず、また、してはならないものなのです。もしそうするなら、それは生命のない結晶体になってしまいます。それは、他人に押しつけずにはすまない教義や宗派、宗教になるのです。」
 「これこそ、世界中の誰もがしようと試みていることなのです。〈真理〉は狭められ、おとしめられて、無力な者たち、かりそめに不満を感じる者たちの慰みものにされています。〈真理〉を引き下ろすことはできません。むしろ、ひとりひとりが、そこへ上る努力をしなければならないのです。あなたがたは、山頂を谷底へ運ぶことはできないのです」

M.ルティエンス 高橋重敏訳
『クリシュナムルティ』(めるくまーる)


たまきはる曠野のいのち夏草をおほひて遠く果てきいくさは

たまきはるいのち生きむと思ふ日のわが道はかたくただかたくあれ

村上一郎『激攘』
(思潮社)

きれいに日の当たった
芝生の上である。
青空にはたはたと
ひるがえるユニオンジャックである。
感情のやりばに困った
硬直したような手は
まるで他人の身体である。
刀をわたしおわったら
疲れがいちどに出たようだ。

吉田嘉七『ガダルカナル戦詩集』
(創樹社)

 プラトンが哲学の発端に置いた驚きは、自然のものと可知的なものを前にしての驚きである。驚くべきものとは、光の可知性そのものである。光は夜に裏打ちされているのだ。驚きは自然よりもさらにいっそう自然な何らかの次元について生じるのではなく、ひとえに可知的なものそれ自体を前にして生じる。可知的なものの異様さは、そういってよければ、それが可知的でいうことそれ自体に、いいかえれば何がしかの実存があるというそのこと由来している。
 存在の問いとは、存在がみずからの異様さを体験することなのだ。つまりこの問いは、存在を引き受けるひとつの仕方なのである。「存在は何か」という存在をめぐる問いが、決して答えをもたなかったのはそのためだ。存在には答えがない。この答えが求められるべき方向というものはまったく考えることはできない。問いそのものが、存在との関係の発現なのだ。存在は、本質的に馴染みのない異様なもので、私たちに突きあたる。私たちは夜のような息苦しいその抱擁に見舞われるが、存在は答えない。存在とは、存在するという禍いなのだ。哲学が存在をめぐる問いであるなら、哲学はすでにして存在の引き受けである。そして哲学がこの問い以上のものだとすれば、それは哲学が、問いに答えることではなく、この問いを克服することを可能にしてくれるからである。そして、存在をめぐる問い以上のものがあるとすれば、それは真理ではなく善である。

エマニュエル・レヴィナス 西谷修訳
『実存から実存者へ』(講談社)

 強いショックとともに車がトラックにぶつかったのは、ちょうどそんなときでした。車が止まったので、あたりを見廻すと、奇蹟的に自分がまだ生きていると気づきました。それから驚くべきことがおこりました。めちゃくちゃになった金属のなかに坐っていた私は、自分の身体が形を失って融けはじめるのを感じたのです。私のまわりにいる警官、破損した車体、鉄梃で私を救い出そうとしている人びと、救急車、近くの垣根に咲いている花、そしてテレビのカメラマンなど一切のものと、私は融合しはじめたのです。負傷したと感じ、傷を負ったところがみえてもいましたが、それは自分と何の関係もないと思われました。負傷した部分は、身体以外に多くのものをつつんで急速に拡がっている網状組織のほんの一部分にすぎなかったのです。太陽の光が異常に明るく黄金色に輝き、世界全体が微光を放って燦然たる美しさでした。私は自分をとり巻くドラマの中心にいて至福を感じ、豊かさに満たされ、数日間はそのような状態のまま病院で過ごしました。(中略)自分という存在が、一定の時間内に枠づけられた、限定的な肉体という概念を超えているように感じるのです。自分自身がより大きな、制約されない、創造的な、まさに神聖とも言うべき宇宙の網の目の一部分であるように思うのです。

スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳
『魂の航海術』(平凡社)


 心臓の動悸は激しくなった。精神を集中するのがますます難しくなってきた。しかし、心を落ちつけて、また深く定に入る。同じ感覚がよみがえってきた。今後こそ注意を散らすまいとしていると、その感覚はだんだん上昇してくるようであった。自分がゆれているような感じがしてきた。しかし、あくまで蓮華の像から心を離すまいと努めた。すると突然、滝が落ちてくるような轟音とともに、一条の光の流れが脊髄を伝わって脳天にまで達するのを感じた。

 こうした事態の進展に驚きながらも、すぐさま自己をとりもどして、あくまで精神集中の対象に心をおいたまま同じポーズをとり続けていた。光はますます輝きをまし、音もだんだん大きくなった。身体がぐらっとゆれたとたん、自分が光の輪に包まれて、肉体の外にぬけでた感じがした。
 このありさまをはっきり伝えるのは難しい。私は一点の意識となり、広々とした光の海の中にひたっていた。視界がますます拡がっていく一方、通常、意識の知覚対象である肉体が遠くにどんどんひきさがっていって、ついに全くそれが消え去ってしまった。私は今や意識だけの存在になった。身体の輪郭もなければ内臓もない。感官からくる感触もなくした。物的障害がまるでなくて、四方八方にどこまでも拡がる空間が同時に意識できるような光の海につかっていた。
 私はもはや、私ではなくなっていた。もっと正確にいえば、私は肉体の中に閉じこめられた点のように小さな意識ではなかった。点にしかすぎない肉体を包みこむ大きな意識の輪が私であった。そして筆舌につくせない歓喜と至福の明るい海に没入していった。

ゴーピ・クリシュナ 中島巖訳
『クンダリニー』(平河出版社)


 私の経てきた道程を一瞥してみよう。――あれから十五年になる。(いや、もう少し古い話かもしれない。)私は夜晩く、どこかから帰るところだった。レンヌ通りには人影はなかった。サン=ジェルマン大通りのほうから来て、私はフール通り(郵便局側)を横切った。私は片手に雨傘を開いて差していたが、雨は降っていなかったと思う。(私は飲んではいなかった。嘘ではない。私には確信がある。)私は必要もないのに傘を開いていたのだ。(でなければ、もっとあとで述べるように必要があってのことだった。)当時、私はひどく若くて、混沌としていて、無意味な陶酔にかぶれていた。まったく当を得ない、目くるめくような、それでいてすでに気苦労と苛酷さをいっぱいに詰め込んだ思想、身心を責め苛む思想が輪舞を踊っていたものだった。……この理性の難破の中に、不安が、孤絶した失墜が、怯懦が、劣等性が、わがもの顔におさまり返っていた。しばらく以前のお祭り気分がまた始まっていたのだ。たしかなのは、あの気楽さが、同時にあの角立った「不可能」が、私の頭のなかに爆発したということである。おびただしい笑いをちりばめた空間が私の前にその暗黒の淵を開いた。フール通りを横切りつつ、私はこの「虚無」のなかで、突如として未知の存在となった……私は私を閉じ込めていた灰色の壁を否認し、ある種の法悦状態に突入していった。私は神のように笑っていた。傘が私の頭に落ちかかってきて私を包んだ。(私は故意にこの黒い屍衣をかぶったのだ。)かつてどこの誰も笑ったことのない笑いを私は笑い、いっさいの事物の底の底が口を開け、裸形にされ、私はまるで死人のようであった。

 神聖の領域には非常な透明性が行きわたっているから、私たちは不透明な意図から出発しつつも、なお、光り輝く笑いの底へと滑り落ちてゆく。

ジョルジュ・バタイユ 出口裕弘訳
『内的体験』(平凡社)

 階段の下の方の右手に、耐え難いほどの光を放つ、小さな、虹色の、一個の球体を私は見た。最初は、回転していると思った。すぐに、その動きは、球体の内部の目まぐるしい光景から生じる、幻覚にすぎないことを知った。〈アレフ〉の直径は二、三センチと思われたが、宇宙空間が少しも大きさを減じることなくそこに在った。すべての物(たとえば、鏡面)が無際限の物であった。なぜならば、私はその物を宇宙のすべての地点から、鮮明に見ていたからだ。

 私は、波のたち騒ぐ海を見た。朝明けと夕暮れを見た。アメリカ大陸の大群集を見た。黒いピラミッドの中心の銀色に光る蜘蛛の巣を見た。崩れた迷宮(これはロンドンであった)も見た。鏡を覗くように、間近から私の様子を窺っている無数の眼を見た。一つとして私を映すものはなかったが、地球上のあらゆる鏡を見た。ソレル街のとある奥庭で、三十年前にフレイ・ベントスの一軒の家の玄関で眼にしたのと同じ敷石を見た。葡萄の房、雪、タバコ、金属の鉱脈、水蒸気、などを見た。熱帯の砂漠の凹地や砂粒の一つ一つを見た。インヴァネスで忘れられない一人の女を見た。乱れた髪を、驕りたかぶった裸を見た。乳房の癌を見た。以前は木が植えられていたが、歩道の土の乾いた円を見た。アドロゲーの別荘を、かのフィレモン・ホランドの手になる、プリニウス英訳の初版本を見た。あらゆるページのあらゆる文字を同時に見た(子供の頃の私は、閉じた本の文字たちが、夜のうちに、混ざり合ったり消えたりしないのが不思議でならなかった)。夜を、同時に昼を見た。(中略)あらゆる点から〈アレフ〉を見た。〈アレフ〉に地球を見た。ふたたび地球に〈アレフ〉を、〈アレフ〉に地球を見た。自分の顔と自分の内臓を見た。君の顔を見た。そして眩暈を覚え、泣いた。なぜならば私の眼はあの秘密の、推量するしかない物体をすでに見ていたからである。人間たちはその名をかすめたが、誰ひとり視てはいないもの、およそ想像を絶する、宇宙を。

 ホルヘ・ルイス・ルヘス 鼓直訳
『アレフ』(岩波書店)

 

 彼は目を閉じているのだと、私は思ったが、見れば、彼は目を開いていた。しかしその目は見ていなかった。視力を持っていなかった。じっと動かず、内部か、あるいは遠いかなたに向けられていた。彼はまったく身動きもせずにすわったまま、呼吸もしていないように見えた。彼の口は木か石で刻まれているようだった。彼の顔をあお白く、石のようにどこにも血の気がなかった。トビ色の髪の毛がいちばん生き生きしているものだった。両手は前のベンチの上にのせられていたが、石か果実のような物体のように無感覚に動かず、血の気がなかった。しかし、たるんではいず、ひそんだ強い命を包む堅い、みごとなさやのようだった。(中略) 私は金縛りにあったまなざしで、彼の顔を、このあお白い石化した仮面を見つめ、これがデミアンだと感じた。私といっしょに歩いたり話しているときのいつもの彼は、半分のデミアンにすぎず、一時的にひと役を演じ、調子を合わせ、好意から片棒をかついでいるにすぎなかった。ほんとのデミアンはこんなに、石のように古めかしく動物的に無情に美しく冷たく死んでいて、しかも前代未聞の生命にみちた隠微なものなのだ。そしてこの静かな空虚、このエーテルと星空、この孤独な死が、彼の身辺を包んでいる。

ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳
『デミアン』(新潮社)

 まさにシャーマン的体験で起こるのは、宇宙規模のトータル・リコール(全面想起)のプロセスだと言っていい。自分の過去や出生時の記憶はむろんのこと、過去生の記憶、祖先の体験の記憶、原人の記憶、動物の記憶、植物の記憶、植物を上昇する水の記憶、物質の記憶、はじめて陸地にあがった両生類の記憶、そして果てはビッグ・バンの記憶に至るまで、宇宙が創世して以来の過去の記憶と、これから起こるであろう未来の記憶とが一緒になってめくるめく情報宇宙を形成し、意識に混入してくる。そうしたさまざまな記憶の浮上は、必然的に、われわれの固定されたアイデンティティを揺るがし、多彩な記憶を死と再生の心象劇へと重層的に編成していきながら、アイデンティティそのものを宇宙規模へと押し広げていく、いわゆる個人的アイデンティティから宇宙的アイデンティティへのシフト、それがシャーマン的人間の最大の特徴だと言っていいだろう。

菅靖彦『変性意識の舞台』
(青土社)


 暗い夜の闇の中で、誇示(みえ)のために事をなす人が、純粋な動機の人からはっきり浮き立って見える。夜、偽善があばかれる。普通の事物は夜の闇に覆われて姿を消し、昼の光の中で正体を現すのに反して、誇示(みえ)の人は夜あばき出される。

 「誰も見ている人がいない今、一体誰のために私はこのことを為るのか」と彼は考える。
 これに対してこう答える人々がある、「誰か見ている者がある。だが、お前がその誰かを目のあたり見るまではお前は誰でもないのだ」と。

『ルーミー語録』
井筒俊彦訳(岩波書店)

 人間は、決して、この子どもらしさから抜け出すことはありません。人間が、完全におとなになり切ることはないからです。まれに、そう見えることがあっても、表面だけのことです。子どもが、大きい子のまねをするように、ぼくたちは、おとなのまねをしているだけです。
 深く生きようとすれば、たちまち、ぼくたちは子どもになります。エスには、年齢がありませんし、エスこそは、ぼくたちの本当の姿ですから。最大の悲しみ、あるいは最高の歓びの瞬間の人間を見てごらん。顔は子どもの顔になり、身振りも子どもらしくなり、声はふたたび柔らかくなり、心臓は子どものときのように躍り、目は輝くか曇るかします。 たしかに、ぼくたちはこうしたことを隠そうとしますが、それは明らかです。注意さえすれば、すぐに、気づきます。ぼくたちが、他人のうちのこれほど目立った兆候を見過ごすのは、ぼくたち自身のうちの、それに気づきたくないからです。

G.グロデック 岸田秀他訳
『エスの本』(誠信書房)

 抱いてもらいたいと思っているのに抱きあげてもらえぬたびに、黙らせられたりあざけられたり無視されるたびに、あるいは限度以上に無理じいされるたびに、傷が蓄積されていく。この傷のプールを、私は原初的なプールと呼ぶ。このプールに傷が蓄積されるたびに、子どもはそれだけ現実の自分からはなれ、神経症に近づいていく。
 現実の体系に加えられる攻撃が蓄積するにつれ、現実の人格が押しつぶされはじめる。ある日、ある出来事がおこる。たとえば、子どもを子もりにあずける。100回目のことで、それ自体、けっして精神的な外傷を与える性質のものではない。しかしそれが、現実と非現実のバランスを逆転させ、子どもは神経症になる。こうした出来事を、私は原初的大情景と呼ぶ。そのとき小さな子どもは、これまでにつもりつもってきた軽蔑され、拒否され、剥奪されてきたという思いから、「あるがままの自分では愛してもらう望みがまったくもてない」と、はじめてさとる。そのとき子どもは、自分の感情から分裂することによって、破滅的な認識から自分を守り、ひっそりと神経症の世界にすべりこんでいく。

 原初的大情景に直面する以前に、子どもは笑いものにされ、拒否され、無視され、恥かしめられ、かりたてられるなど、無数の小さな経験、すなわち、原初的小情景をへている。そして、ついにある日、子どもはこうした有害な出来事のいっさいが持っている意味を要約するようである――「彼らはありのままの私を愛していない」それは破滅的な意味を持っている。したがって決定的な出来事は否定され、葬りさられ、非現実的な自我の闘争がそれにとって代る。その後、経験はこの覆いによって緩和されるので、自分が現に苦しんでいることに子どもが気づかぬことがしばしばある。闘争が子どもを苦痛から守ってくれるのである。(中略)
 大情景のおりに生ずる分裂は、子どもが統合性をそなえ結合している人間であることに終止符をうつ。

アーサー・ヤノフ 中山善之訳
『原初からの叫び』(講談社)

 両親の存続。――両親の性格や意向の間にあった未解決の不協和音は、子どもの本質のなかで響きつづけて、彼の内面的な受難史を形成する。

ニーチェ 池尾健一訳
『人間的、あまりに人間的』
(筑摩書房)

一人でいられる能力 Capacity to be alone
 いろんな形の体験が一人でいられる能力の確立に付与するけれども基本的なものはひとつである。その充分な体験がない限り一人でいられる能力はできてこない。そのひとつというは,幼児または小さな子どものとき、母親と一緒にいて一人であったという体験である。つまり一人でいられる能力の基盤は逆説である。それは誰か他の人がいるときにもった“ 一人でいる” To Be Alone という体験なのである。

 おそらく満足な性行為のあとでは両者とも一人であり、一人であることに満足しているといってもさしつかえないであろう。他者(彼もまた一人なのだが)と一緒にいながら一人であることを楽しむことができるということはそれ自体健康な体験である。

 さて、次の言葉、つまり Melanie Klein の仕事から生まれた言葉を用いることにしよう。一人でいられる能力は個人の中の心的現実 Psychic Reality に良い対象がいるかどうかによって決まる。(中略)個人のなかに内的対象との関係ができあがると、内的関係に対する自信が生じてくるとともに、それ自身満足な生活が可能となる。すると一時的に外界の対象や刺激がなくても安心してやすむことができるようになるのである。

 他の人と一緒にいて一人であるということは、未熟な自我が母親に自我を支えてもらうことによって自然な均衡を得るといった人生早期の現象である。時の経過とともに、自我支持的な母親をとり入れる。すると母親やその家族が実際に四六時中一緒にいなくても一人でいられるようになるのである。

D.W.ウィニコット 牛島定信訳
『情緒発達の精神分析理論』
(岩崎学術出版社)

 一人一人の人間は、この世界に召命されてやってくる。この考え方はプラトンの最もよく知られた著作『国家』の最後に出てくる、エルの神話に由来する。わたしは、この考え方を簡潔に要約できると思う。
 わたしたちひとりひとりの魂は生まれる前から独自のダイモーン(守護霊)を与えられる。それがわたしたちがこの世で生きることになるイメージやパターンを選んでいるのである。わたしたちの魂の伴侶、ダイモーンは、そこでわたしたちを導いている。しかし、この世にたどり着く前に、わたしたちは彼岸で起こったことをすべて忘れ、白紙でこの世に生まれ落ちたと思いこむ、しかし、ダイモーンはあなたのイメージのなかに何があるのか、そしてそこにはどんなパターンがあるのかを忘れない。あなたのダイモーンはあなたの宿命の担い手でもあるのだ。(中略)
 あなたの運命の、内なるイメージは今日も、昨日も、また明日もとぎれることなく存在している。あなたという人格は、プロセスや発達の結果ではない。もし発達などというものがあるなら、あなたこそ発達する本質的なかたち(イメージ)である。ピカソがいうように、「わたしは発達などしない。わたしはわたしである」のだ。

 子供たちは二つの生を同時に生きようとしている。一つには、彼らが生まれもってきた生。もう一つは自分の生を生きねばならぬ場所での生、周囲の人々と共に生きなければならない生である。宿命のもつイメージ全体は、小さなどんぐりのなかに詰まっている。小さな肩が巨大な樫をつめこんだ種子を担っている。そしてその召命は、周囲の環境から発せられる叱咤の声にも負けぬほど、強く大きく子供たちに訴えかけ続けているのである。

 ゲニウス(守護霊)の才能は、歳やサイズや、教育、訓練などには縛られていない。だから、子供はみんな身の程しらずだし自分ではどうしようもないものを欲しがるのだ。(中略)ダイモーンは子供ではない。またインナー・チャイルドでさえない。――実際、ダイモーンは幼い子供の体のなかに宿っている魂、つまり完全なヴィジョンと、未熟な人間とを混同することを絶対に許さないだろう。

 両親の影響力とは、実は両親に影響力があるという考え自体の影響力なのだ。どうしてわたしたちは両親の力の幻想にこだわってしまうのか。どうしてこの考え方に安心させられたり、支えられたり(ペアレント)するのか。わたしたちは、ダイモーンがかつて自分の人生を生きるように呼びかけたということ、いや、いまだに召命を与え続けていることを認めるのを恐れているのではないか。召命を拒んで、いまだに台所に隠れたままだということを認めたくないのではないか。わたしたちは、宿命が要求していることに直面せず、両親をだしに使って逃げているのだ。

ジェイムズ・ヒルマン 鏡リュウジ訳
『魂のコード』(河出書房新社)


 ヴァン・ゴッホのつねに活動をつづけている透視力にくらべれば、精神病学などというものは、もはや、ゴリラど
ものたむろする世界にすぎぬ。そしてこのゴリラども自身、強迫観念につきまとわれ、責めさいなまれているのだが、彼らは、いかにも人間くさい不安や窒息が生み出すこの上なくおそるべき状態を一時的にごまかすために、こっけいな、専門的用語法しか持ちあわせていないのである。

アントナン・アルトー 粟津則雄訳
『ヴァン・ゴッホ』筑摩書房


 最近では珍しくない。自分の出生について、あるいは子宮内の生活について、ほかならぬ自分の記憶として人が語るのを聞くことが私にはめずらしくない。

 それは一度だって忘れられたことのない記憶であることもあれば、一度は忘れられていたのだが心理療法の過程で、あるいは幻覚剤の体験で、あるいはサイケデリックな出来事のなかで、あるいはなんらかの原初的、根源的な治療のなかで“自然”に思い出させられた記憶であることもある。

 私は自分の生のサイクルの胎児段階を見ると、共感的共鳴とでもいうべきもの、当時感じていたことを現在どのように感じているかということが現在の私の中にひきおこす振動とでもいうべきもの、の感じを体験する。(中略)
 私は少なくともこう考えることはできる。神話、伝説、物語、夢、空想、行為は、われわれの子宮経験の強い反響を含んでいるかもしれない、と。
 もしそうとするなら、後になって出てくる病気がヒステリー的(つまり子宮的)と呼ばれるのも、正当かつ適切といえよう。
 受胎から着床、さらにそれに続く誕生以前の冒険が誕生後の心像の中に神話的に表現される可能性を私は真剣に考えている。ある神話は別の神話よりそう考えさせるに足るだけのものをより多くもつ。

 着床は誕生と同じくらいに、恐ろしくもすばらしいことだったであろう。
 われわれの生涯を通じて反響しつづける。そしてさまざまな経験と共鳴しあう。
 吸われたり、ひきこまれたり、引っぱられたり、引きずりおろされたりする経験と共鳴しあい、救われたり、蘇ったり、助けられたり、歓迎されたりする経験と共鳴しあい、また中に入ろうとしながら入れないという経験、疲労や消耗で死にそうになる経験、狂わんばかりの絶望的で無力な経験。それら等々と共鳴しあう。

 私の考えを簡潔に述べてみよう。誕生とは逆転した着床である。そして誕生後の世界に受容される時、誕生前の世界が初めてわれわれを胎内に受け入れてくれたことへの共感的共鳴がわれわれの中に生まれるのである。

  私は感じる
  自分が
  砕けやすい岩にしがみついているのを
    激しい流れの中に
  洗い流されてしまいそうな岩にしがみついているのを
  命がけでぶらさがり
  何とか足場を探ろうとするが
  自分が今やっていることができるようになるとはどうしても思えない

  いつもそこにたどりつこうとする
  あらゆるものが私をかすめて去る
  私は回転の中にあるのを感じる
  まるで私が回っているように
    次第に速く速く回る
  そして永遠に回転しながらとんでいく(中略)

  つぶつぶの集まったようなものの中に入る
     着床し
     定着し
     つかみ
     根をはる  

 多くの人々が自分は生まれたことはないと感じる
 別の人々は自分は着床しなかったと感じる。
 また別の人々は今、着床したばかりだが、うまく適合できず、思いわずらい、悲しみながら月が欲しいと泣く。月が、子宮に埋もれる前の胞胚であったころの自分が欲しいと。

 ある意味では、どの段階で止まることもできる
 どの段階で自己の連続性を失うこともできる。
 その時切り離された自己の過去は同じことを繰り返そうとする傾向がある。
 生のサイクルをさえくり返そうとする。

…………………………………………………………

 彼女は十二年間心理療法家だった。
 ある日二十四歳の男が彼女の診療所に現れた。彼は精神病院を脱走したのだが、そこで(三回も自殺に失敗した後で)回復のみこみがない精神病だと言われた。そしてもし彼がロボトミーの手術を受けなかったならば、おそらく一生監禁されていなければならなかったろう。

 彼は生まれてこのかた(と私に話した)いわばマンホールにこびりついているように感じていた。中に入ることも外に出ることもできない。

 二年前彼女の診療所で、彼は身体をねじったりよじったりする動作をするようになった(おそらく型通りの緊張病の動作であったろう)。

 彼は生まれようと努めているのかもしれない、と彼女は思った。

 彼は椅子から床へすべり落ちた。
 そして彼女は助産婦の役を果たしつつ彼の出生を助けた。
 それは約二十分で終わった。彼は生まれた。

   彼は生まれてはじめて、マンホールから出たと感じた。
   彼は自分がすっかり変わったと感じた。
   もはや絶望的でも狂乱的でもなかった。

 ひき続いて彼は何回か「誕生」を経験した。
 今や彼にはガールフレンドがいる。彼は働いている。表情も動作も話しぶりも普通だ。

 十六歳の少女が精神病だと診断された。
 彼女はもの憂げな表情で、眼はどんよりとし、皮膚はつやがなく乾いていた。
 彼女は床の上で十五分ほどもがき、のたうち、ひきつり、苦しんでいたが、遂に「外に出た」と感じた。

 十五分たった時の変化は著しかった。
 彼女の眼は輝き、ほとんどきらめいていた。
 皮膚は暖か味をおびて湿っていた。
 彼女が言うところでは、自分は今まで経験した記憶がないような感じをもって驚いている、ということだった。

 彼女は自分が常にへんなものに影響されている、と感じてきた。
 しかしこの時まで、なにかに影響を与えていたという経験はなかった――そして影響を与えるという感覚が起こってくるまで、この感覚がそれまで欠落していたことに気がつかなかった。したがって、彼女は述べた、自分はいつも接触を恐れると同時になにかにしがみつきたいという欲求を感じていたのだ、と。今や突然、この感じは消えた。
 二年後、彼女は相変わらず「正常」だときいた。

R.D.レイン 塚本嘉寿他訳 
『生の事実』(みすず書房)


 象徴的意識は、見ることと見ないことの中間にある。それは自然的理性の自明の真理を見ない。あるいは、目に見える聖者を見ない。小麦と毒麦を区別しない。したがって、ロジャー・ウィリアムズが見てとったように、象徴的意識は寛容あるいは寛大さを実践するに違いない。なぜならわれわれは、自分のしていることを知らないからである。自由の基盤は無意識の認知である。すなわち不可視の次元、まだ実現されていないもの、新たなものに余地を残すものの認知である。

  Cf. Morgan, Visible Saints.

 実現されるべき最後のものは、受肉である。顕わにされるべき最後の神秘は、人間性と神性の身体における一体化である。最後の身振りは、この人を見よ (ecco homo)である。文字から霊への転向は、比喩形象の影から身体の現実への転向である。彼は影から身体へ移る (de umbra transfertur ad corpus)。あるいは精神分析なら、昇華の抽象から身体の現実へ、と言うかもしれない。『コロサイ人への手紙』第二章十六節から十七節。「だから、あなたがたは、食物と飲物のこと、あるいは祭や新月や安息日のことで、誰にも批評されてはならない。これらは、やがて来たるべきものの影であって、その本体はキリストにある」。
  Tertullian in Auerbach, “Figura,”33.

ノーマン・O・ブラウン 宮武昭他訳
『ラヴズ・ボディ』(みすず書房)

 第三の型が死と再生の戦いである。この局面のさまざまな段階は出生の第二段階に関連づけると理解しやすい。すなわち、そこでは子宮の収縮はつづいているが、子宮頚部は口を開けている。分娩道に蠕動がはじまり、強い圧力が自動的に加えられ、生へのあらがいと同時に、しばしば窒息の危険がたかまる。この出産の最後の段階で、胎児は、血液や粘液、羊水、そして尿や糞など、さまざまな生体分泌物と直接ふれあうことになる。経験的な観点からいって、この型はなかなか複雑で、そこにはいくつかの重要な要因がみられる。荒々しい闘争の雰囲気、サド・マゾ的な展開、強い性的興奮の逸脱した諸形式、糞尿体験、浄化の要素(火によるカタルシス)などがそれである。
 LSDの被験者がこの段階で経験するのは、身体からほとばしるエネルギーの強力な流出であり、爆発物とふれあうような巨大な緊張の集積である。これらともっとも典型的に結びついているイメージは、自然の猛威、黙示録的な戦争場面、そして攻撃的な科学技術の誇示といったイメージである。エネルギーの巨大な総量は、目ざましい破壊的および自己破壊的な経験のなかで放射され消費される。時に性的興奮は不自然な昂揚状態に達して、狂躁忘我のヴィジョンや種々の倒錯行為やリズミカルで官能的な踊りによって表現されることがある。死と再生の戦いにおけるスカトロジックな面には、嫌悪すべき生体分泌物との親密な交渉がふくまれている。被験者自身、汚物のなかをのたうちまわり、下水溜めでおぼれ、腐敗した臓物のなかをはいずりまわり、血をすする経験をしているのである。そのあとになってしばしばあらわれるのが、霊的再生への準備段階として浄火の中をくぐり抜ける経験である。
 この段階では、被験者自身はかならずしも無力でなく、その状況も希望がないわけではないという感じをもっているため、前段階の「出口なし」の型とは区別される。つまりここでは苦しみも明白な目的をもっているである。それにつづいておこる情緒は、苦悶と恍惚の混合したものである。この状況において生じるイメージは善の勢力と悪の勢力との戦いである。すなわち、神の審判のドラマであり、聖人たちの誘惑の情景であり、煉獄や、殉教者の死の情景である。宗教性と死と不安と性と攻撃と糞尿との奇妙な混合は、この局面の根底に典型的にみられるものであるが、そのために、「ワルプルギスの夜」の瀆神的な儀式や悪魔的な狂躁、あるいは、異端審問の獣性に関連したイメージが、しばしばあらわれることになるのである。
 死と再生の型は、出産の第三の臨床段階と関連している。分娩道の蠕動が終り、つづいて爆発的な救済と安らぎがおとずれる。へその緒が切られ、母との肉体的な分離が完了し、子どもは解剖学的に独立した存在として新しい人生に向けてスタートする。
「死と再生」の局面は「死と再生の戦い」の終結と解決をあらわしている。受苦と苦悶は、肉体的。情緒的、知的、道徳的、超越的なすべての水準における徹底した絶滅体験において絶頂に達するのである。これは一般的に「エゴの死」というように言われ、個人の過去にまつわる一切のものの瞬時における崩壊とみなすことができよう。この絶滅体験のあとにしばしばあらわれるのが、白銀や黄金の光に輝くまばゆいヴィジョンであり、重圧がとれたあとの、のびのびとした解放感である。宇宙はえもいわれぬ美しさで輝いてみえ、被験者は浄化された自分を感じ、そして罪のあがないと救いと解脱(モークシャ)と三昧を語るようになる。

スタニスラフ・グロフ 山折哲雄訳
『魂の航海術』(平凡社)

ジョン・ウィア・ペリー
 「精神病にはそれ自体方向性があり、精神医学の治療を施すより、そのままにしておく方がよいという考えに対しては、驚くほどの偏見が存在しています。こういった角度から精神病を見ると、それは自己再組織化のプロセスということになる。病気や不調ではなく、再秩序化のプロセスなんです。要するに、崩壊は再統合化プロセスの不可欠な部分を構成している」

 「精神病や分裂病と呼ばれるすべての患者がこの範疇に含まれるわけではありません。おそらく半分の人にあてはまると思います。しかし、それが最初の体験の場合には、刷新プロセスである場合が非常に多いようです。数多くの観察結果からすると、その期間は約六週間――四〇日です。
しかし、しかるべく対処すれば「障害となる症状」は数日のうちに消えてしまう。
 このプロセスが生じてくるのは、こうした人の場合、魂に深遠な変化やプロセスが必要となり、魂自体の再組織化と再編成が起こるからです。この時点に差しかかると、自我からエネルギーが引き出されて――個人的問題やコンプレックスから引き出されるともいえます――そのエネルギーが神話的、象徴的な形で魂の深層へと引きもどされる。この魂の深層レベルでは、イメージや感情が一体となって機能する。そのため、この深層レベルは神話や儀式の源ともなっている。そうなると、当人はこの世の中ではなく、それとはまったく異なる神話的世界に生きていることになる。彼らはそこで起こるいろいろなことを描写する。ところが、それは外部で起こっていないために、狂っているように聞こえてしまう。すべてが内面で起こっていますからね。問題はこれがあくまでも内面世界の出来事であり、エネルギーが魂の深層部へ入りこんだときに起こるこのプロセスが――あの論文で私が述べているように――自己イメージと世界イメージの両方を溶解してしまう点にある。物事の見方、体験のし方、感じ方、関係性――そのすべてが脱構造化されてしまう。しばらくの間、あらゆることが混乱状態になり、さまざまな対立が始終衝突を繰り返す。このプロセスの再統合の局面を表す二つの要素は、再生と世界創造でしょう」
→参照「英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)」

 「言葉では説明しづらい人物ですね。わたし自身、彼には二週間に一回会っていました。チューリッヒにいた一年半の間、隔週一回、ユングと面接していたわけです。彼と直接会話することができたのは、きわめて幸運なことです。ユングはすべてに関して、スケールの大きな人物でした。広大な意識を持ち、身体のつくりも大きく、その影響は強力でした。加えて、進行しているあらゆることに対して鋭い注意力をもっていました。あらゆる種類のことに関して関心を示し、どんなことが起こっても、それに関して豊饒な連想力をもっていました。彼と話していると、地平が驚くほど広がっていくような感覚を抱かされたものです。歴史や文化に対する造詣をとおして、視野が拡がり、魂の深みが伝わってくる。彼の存在そのものが、つねに強烈な体験でした。ユングはまた、相手が知りたがっていることに関して、きわめて直観的な感知力をもっていました。相当サイキックだったんです。」(中略)
 「彼女はそれに関してユングに尋ねたいと思い、何を準備すればいいかなど、六つほどの質問をリストにしました。ユングは疲れているときには、対話をするよりも一方的にしゃべることを好みます。彼女がユングに会いにいった日は、ちょうど彼が疲れている日だったので、ユングは一方的にアフリカについて話したわけです。ところが、彼はその話のなかで彼女が書き上げたリストの順番のままに答えていきました。(中略)リストを見ないままで、彼女の質問もないままで、質問に答えていったんです。彼女はそのことに深いショックを受けていました。信じられなかったわけです。わたしとの対話でもだいたいユングはそういう調子でした。ユングは、話を説明するためによくたとえ話をもち出しますが、たとえば、そのたとえがわたしが数日前に見た夢だったりするわけです。彼の話はいつも的を射ていました。だからこそ、わたしにとって彼との出会いが強烈な衝撃だったわけです。ユングの展望の広さや自覚の地平が並はずれていただけでなく、彼がつねに的を射た話をしていたからです。」

吉福伸逸『無意識の探検』
(TBSブリタニカ)

「インドは、ペルソナを知らないのです。元型を知っているだけなのです。もちろん、人格(パーソナリティ)の考えが必ずしも良いとは限らないと私は考えています。多分、それは全く逆ではないでしょうが……。」
「そうです。インドは元型なのです」とユングは言った。「だから私はインドに行った時にスワーミーやグルを訪問しようとはしませんでした。(中略) スワーミーなのものがどんなものか知っていましたし、その元型についてはっきりとした見解を持っていました。そして極端なまでの人格の分化が西洋のように存在しない世界で彼らを知るには、それで充分だったのです。私たちはより多くの多様性を有してしますが、それは皮相的なものにすぎないのです……。」(中略)
「オチウィエイ・ビアノは、白人は頭で考えると言うので、気狂いだと考えていました。なぜなら、頭で考えるのは、気狂いだけだということはよく知られていると言うのです。このプエブロの酋長の断言に私は大いに驚かされ、では、どのようにして考えるのかと聞いてみました。彼は当然心(ハート)で考えると答えたのです。」

ミゲール・セラノ 小川捷之他訳
『ヘルメティック・サークル』(みすず書房)


 
私はそれをかつて「過大成長」と名づけたのであるが、さらに経験をつんだ結果、それはある意味の意識水準の上昇に他ならないことが明らかになってきた。つまり、より高くより広い何かの関心事が視界の中に入ってきて、地平線が拡大されたため、解決できなかった問題がその緊急性を失ってしまったのである。その問題は、それ自身としては、論理的にいえば解決されたわけではない。新しい、より力強い生の方向が出現したために、見劣りするようになっただけである。それは抑圧されたわけでもなければ、意識されなくなったのでもなく、新しい光につつまれて現れたのであり、そのために全く別のものになったのである。心のより低い段階では最悪の葛藤や破局的な激情の嵐をひき起こすきっかけになったものが、より高い人格の水準に立ってよくみれば、高い山頂から見下ろした谷間の嵐のように思られたわけである。それによって雷雨と嵐が現実性を奪われたわけではないが、その人はもはやその中にいないで、その上に超然としている、というわけである。しかしわれわれ人間は、心という観点から見れば、谷でもあり山でもあるわけだから、自分が人間的なものの彼岸にいるように感ずるということは、ありそうもない幻想のようにも思われる。たしかに人間は激情を感じるし、それによって心をゆさぶられ、悩まされるということもたしかである。しかし同時にまた、高い彼岸的意識の存在が感じとられるということも事実なので、そのような意識状態は、人が激情にまきこまれてしまうことを防げ、自分の激情を客観としてあつかって、「私は、自分が今悩んでいるということを知っている」と冷静に言うことができるのである。(中略)それらは決して解決されるわけではなくて、ただ成長することによって越えてしまうだけなのである。

 ところで、この人びとは、みずからの解放をもたらす進歩を達成するために、何をしたのであろうか。私が見てとることのできた限りでは、彼らは何もしなかったのである(いわゆる「無為」Wu Wei )。ただ、物事が生じるままにしておいたのであった。呂祖師 der Meister Lu Dsu がこの書で教えているところによれば、光は、日常の仕事を投げすてなくてもその固有の法則に従って回るからである。物事を生じるがままにさせること、行為することなく行為する(無為にして為す)こと、つまりマイスター・エックハルトのいう自己放下は、私にとって道に至る門を開くことのできる鍵になったのである。人は心の中において物事が生ずるままにさせておくことができるにちがいない。このことはわれわれにとって真の技術なのであるが、多くの人びとはそのことを知らない。彼らの場合、意識は常に助力したり、矯正したり、否定したりして、介入しようとし、どんな場合にも、魂の過程が単純に生成してくるのをそのままそっとしておくことができないからである。仕事はたしかに、全く単純だといえるだろう(もっとも、単純ということほど難しいことはないのであるが……)。ここでの仕事はただひとえに、まず魂の発達の過程で浮かんでくる空想の断片を客観的に観察するところにある。

C.G.ユング 湯浅泰雄他訳
『黄金の華の秘密』(人文書院)

 すべて調和というものは、一つ違っても調和ではないのです。そういうことは体が知っている。
 私は、初めは病気を治すつもりで治療ということをやっておりました。そのうちに、人間が病気になるということは全く無駄なことだろうか、と思うようになりました。そう思ってよく観ると、病気をする人は、病気しないといけない状態になっている。そして病気をして経過すると、今までの疲れが抜ける。眠っている力が出てくる。ひょっとしたら、病気はそういう居眠りしている力を喚び起こすためになるのではないだろうか。(中略)
 病気を全うするということを考え出したのは、病気を自分の体力で経過した人が、その後みんな元気になるということをみたからです。顔色を見てもスーッと透き通って、濁りがなくなっているのです。(中略)それを経過の途中で止めたり、抑えたりした人は、病気をやっていよいよ弱ってくるし、病気をやった後も濁った顔になっている。そしてまた病気をするのです。本当は病気をやっているうちは蒼くとも、経過し終えたならばスッキリと透き通って、綺麗になってこなくてはならない。働いても疲れない体になっていなくてはならない。それがそうならないというのは、経過を全うさせなかったからです。

 病人になっている人達は、自分で病気を治そうとはしない。しかし自分の体は自分で丈夫にするより他にない。お腹が空いても、今忙しいからといって、他人に食べてもらうわけにはいかないし、他人に気張ってもらっても、自分の大便は出てきません。自分が弱ったからと言って、他人に頑張ってくれと一生懸命頑張らせても、自分が丈夫になるわけではないのです。(中略)病気を治療するとか、治療してもらうとかいう考え方が、もう本当でないのです。自分自身で元気に丈夫になっていくのです。

 人間というものは、物質を集めて体にしていった凝集力といいますか、そういうものが実体であって、集まった物は集められた物でしかない。体なんていうのはもともとないのです。だから気が一つになると気だけになってしまっても、別段、不思議ではないのです。
 合掌行気をやって掌で呼吸をしておりますと、掌だけになってしまうのです。初めのうちは自分が掌で呼吸している。その内にだんだん掌が大きくなって、自分全部が掌になり、この家全部が掌になり、この空間全部が掌になり、そこでその掌が呼吸しているのです。

野口晴哉『愉気法1』(全生社)

 気功は重層的な心的抑圧を自分で解決していてくプロセスを進めることの出来る一種の心身療法である。

 心理療法は、心身療法でなければならず、特に筋肉に書き込まれた抑鬱やコンプレックスを読みとり解決していく技術なしに、これ以上心理療法の質は高まらないと思われる。

 その「私」が過剰に緊張していることに気付けば、それをゆるめていくプロセスに入る。するとまたもう一層の緊張システムが見えてくる。地層を掘りながらもぐっていくようなものである。どうぞリラックスしてといわれても、自覚できる緊張はゆるめられるが、自覚していない緊張は自分で解くことができない。つまり、「緊張かリラックスか」という二者択一の問題ではなく、緊張は重層的ということがとても大事な点だ。

 ゲシュタルト心理学の「図と地の反転」ではないが、何もないところに充実した球があると思うと、自分の腕のほうが実体がないように思え、ただそこに気の流れがあって球を支えているというふうに感じられてくる。気感というのは、しばしばこの「図と地の反転」を伴っている。いったんそうなると、腕が球を動かしている日常的感覚は消滅して、気の球が気の流れにしたがって勝手に動いているような感覚になってくる。

 それ自体はやはり拡張された毛細血管の感覚をともなっているが、両手を向き合わせて動かしてみると両手が電磁場の中におかれていて、動かそうと思った動きとわずかながら違う動きをするので客観的な「場」があることがわかる。そのようにして気・血・水が相互に連携して動いていることがすこしずつ経験されていくのである。これは「ごまかしなく、自分のからだを実験室にして気を体験していく」ためのひとつの参考である。

 宗教的回心と似たところはあるが、特定の神や仏のイメージを必要としない。自分の体の中に「別次元」があるという回心である。そうすると気功をしていくということは「日常的な、相対的な快感から非日常的な、絶対的な快感へ」という道筋であることがわかる。この「深まっていく快感」を頼りに、練功者は「生命の根源への道」をたどる。

津村喬『伝統四大功法のすべて』
(学習研究社)

 どこの教会にも歌と手拍子があふれ、普通はこれにオルガンとタンバリンが加わり、それから白熱した説教があった。俺は音楽以上にこれが好きだった。俺はあるリバイバリスト(信仰復興論者)の集まる礼拝に出かけた時、じつに燃え尽きんばかりの説教師を見たことがある。説教師は雄叫びをあげ、足をドンドン踏み鳴らし、それからガクッと膝を落とす。人々は説教師に引きずられ、呼び掛けに答え、叫び、手拍子を打ちならす。この礼拝を見てからは、チャーリーさんと教会に行くたびに、俺はまじまじと説教師を観察したもんだ。それから家に帰って熱演の真似をした。俺も説教をしてみたかった。そこにすべての答えがあると思ったんだ。
 皮膚の黒い人種が教会の礼拝に参加するのは、幾多の試練や苦難、それに俺たちが人間の本質について理解しているもろもろの事柄のためだ。口ではうまく説明できないが、俺は人々からそれを引き出すことができる。こういった能力を持つのは俺だけじゃないが、俺はこれを自分のものにしているし、俺のステージの多くがその教会から生まれたことは間違いない。

ジェームズ・ブラウン 山形浩生他訳
『俺がJBだ!』(文藝春秋)

テイクを繰り返し、「何が足りない?」と聞くと―
彼(キューブリック)は、「マジックだ」と。

トム・クルーズ


 歴史を振りっても大勢が言うと思う。マイルスとの演奏は、誰も、他で再現できなかった。その時しかできなかったんだ。変わったわけじゃない。マイルスと一緒に演奏した時は、彼に力を引き出されたんだ。

デイヴ・リーブマン
『マイルス・エレクトリック』

フランシス・ベイコン
「思うに、写実的な絵(イラストレーション)は、描かれている形態が何なのかを知性を通して直接的に伝えますが、一方、非写実的な絵はまず感覚に作用し、それからゆっくり少しずつ現実の姿と溶け合ったイメージを形成するのです。どうしてそうなるのかは、わかりません。現実自体が非常に多義的であり、姿かたちも実はたいへん曖昧なのだ、ということに関係があるかもしれません。だから、非写実的で曖昧な記録のほうが現実に近づけるのでしょう。」
「唯一、自分の絵に望むのは、直接的に見えてほしいということです。こんなことを言うのはうぬぼれかもしれませんが、ときどき思うのは、優れた作品には直接性があるということなのです。」
「自分が望んだイメージを描くにあたって非合理な方法をとった場合、自分で理解できる描き方をした場合と比べて、神経組織をより強烈に刺激する絵ができるのはどうしたか、ということを私はかねてから分析しようとしてきました。非合理な描き方をしたほうが合理的に描いた場合より姿かたちのもつリアリティーを強烈に表現できるのは、なぜでしょう。たぶん、直観的な描き方をしたほうが、絵が直接的になるのでしょう。」
「もうひとつ言いたいのは、深層が必然性を保ったまま表面化するということです。脳の働きに干渉されることなく、必然的なイメージがストレートに湧いてくるのです。いわゆる無意識から無意識という泡に包まれたまま、つまり新鮮さを保ったまま、まっすぐ出てくるという感じです。」

デイヴィッド・シルヴェスター 小林等訳
『肉への慈悲』(筑摩書房)

 美となりうるものは、理想的な、来世的な、調和的な、論理的な秩序の存在を暗示し、しかも同時に――原罪の傷痕として――体系全体を狂わせてしまう、一滴の毒、支離滅裂のきざし、一粒の砂を含むものに限定されるだろう。あるいは、逆にいって、理想美のしずくに照らされれば、この滓なり毒なりが美となるだろう。したがって美は、破壊されるものと再生されるものの作用によってのみ存在し、あるときは潜在的な嵐に引き裂かれる静けさとして、あるときは自制し無感動の仮面の下に内面の嵐を抱えこもうとする狂乱としてあらわれるであろう。美のすべては、つねに、活力として働く次の二つの極のあいだに示されるだろう、すなわち、一方は、不朽・至上・造型の美のまっすぐな要素と、他方は、不幸・災難・罪業と隣りあったおぞましい歪んだ要素と。あらゆるものは、われわれの内部構造の神話的解釈として、われわれのさまざまな矛盾を唯一の一致のなかに解消させる限りで、われわれを感動させるのだが、それと同じように、美は、理論的にいえば、擾乱の様相よりはむしろ、渾然とした格闘や絡み合いの様相、より正確にいえば、直線と曲線の交接、規則とその例外の婚姻ともいうべき、一種の接触(タンジェンス)の様相を帯びるであろう。しかし、すぐにわかることだが、この接触の形態そのものも所詮、実際には到達しえない理想の極致にほかならぬものであり、また、いかなる美的感動――もしくは美の近似値――も究極的には、おぞましい要素をその至高の形態のもとに表現するあの間隙、すなわち、強制的な未完成、われわれが空しく埋めようとする深淵、われわれの滅びにむかって口をひらく亀裂のうえに、植えつけられるものなのである。

 エロチスムや放蕩の本質そのものに、屈折したり違犯したりしようとする(少なくとも、度を越えた派手な行動をして限界を越えようとする)欲求があるとすれば、愛の行為には、それがどんなにあっさりと行なわれようとも、あの罪業の、あの既成的な枠の破壊の、原初的な痕跡が見出されるのだ、たとえ愛の行為が、少なくとも反社会的な完全なる裸体生活への潜航を意味しているからだとしても。

 エロチスムと、人間の肉体(全裸に近い、あるいは象徴的に衣服を脱ぎ棄てたというべき)が中心となるそのほかの活動は――たとえば、《闘技》とよばれるスポーツに結びつく活動――とを本質的に区別するのは、あの歪んだ要素の存在であって、この歪んだ要素とまっすぐな要素の交叉から――臨終の恐怖の傷痕として――聖なるものの(ル・サクレ)の感情(すなわち、平俗を超えていると同時にそこから排斥され、比類なきものであると同時に法律の保護外に置かれ、魅惑にみちたものであると同時に拒絶されたものであるゆえに、めくるめく尖端に位置する、隔離された、あるいは《禁忌(タブー)とされた》なにものかの感情)が炸裂するのであり、この聖なるものの感情こそ、われわれがもはや無限小の裂孔によってしか接触(タンジェンス)から引き離されないあの瞬間に、突如として、二つのもの――歪んだものとまっすぐなもの――の悲鳴をあげる結合を照らしだす火花なのである。

ミシェル・レリス 須藤哲生訳
『闘牛鑑』(現代思潮社)


可能なものは極薄(※)である。

inframince アンフラマンス。infra+mince 薄さより下のもの、薄さ未満、薄さでさえない有り様―引用者

厚さ 以下の 以下の‐厚さ

可能なものは何かになることを含んでいる――ひとつのものから他のものへの移行は、極薄において起こる。

(人が立ったばかりの)座席のぬくものは極薄である。

大量生産による〔同じ鋳型から出た〕二つの物体の差(寸法上の)は、最大限(?)の正確さが得られたとき、極薄である。

時間の中で、ひとつの同じ物体は、一秒たてば同一物ではない――同一律といかなる関係?

タバコの煙がそれを吐き出した口と同じように匂うとき、二つの匂いは極薄によって結ばれる(嗅覚的極薄)。

70+40=110 大声でまた小声で(とりわけ心の中で唱えると) 70+40は、110以上になる――(極薄によって)
美的恍惚(エステティック・エクスタティック)

水および、たとえば溶けた鉛あるいはクリームを、同じ型の容器に入れ、中身の液体(水、溶けた鉛あるいはクリーム)をほとんど動かさぬようにしながら、容器をまわしたときの容器の内壁との接触の差――二つの接触の間の差は極薄である。

色を塗っていない側から見たガラス絵は、ひとつの極薄をもたらす。

矢印記号の慣習は、受け入れられた移動の方向に関して、極薄の反応をうみだす。

眼は極薄の現象を定着する。

寓意(一般)は極薄の適用である。

極薄の愛撫

色彩と極薄 透明性は色彩を極薄に“やわらげる”。

極薄な分離。
同じ鋳型(?)で型打ちされた二つの物は、たがいに極薄の分離値だけ異なる。
すべての“同一物”は、どれほど同一であっても(そして同一であればあるほど)、この極薄の分離的差異に近づく。

双子を二滴のしずくに似させているような言語上の一般化(「瓜二つ」)を便宜的に受け入れてしまうより、二つの“同一物”を分ける極薄の間隔を通りぬけようとするほうがいい。

やすりかけ―― 研磨――
極薄のやすり。紙やすり――布やすり 漆みがき しばしぱこれらの操作は極薄に達する。

色以上に極薄な匂い

反映――ある種の木材の上での 表面でたわむれる光。パースペクティブによって動かされる極薄。

極薄の隔離!
いかにして隔離するか――

極薄を模倣し仮定し希望する透明
滑る石鹸 滑り摩擦。スケート

無為の極薄の住人

すれすれ。ひとつの平面をもうひとつの平面とすれすれに置こうとするとき、人は極薄の瞬間を通過する――

マルセル・デュシャン 岩佐鉄男訳
『極薄(アンフラマンス)』(ユリイカ/青土社)


 実は、ぼく自身、自分のことを音楽家だというふうには、考えていない。どういうことかって言うと、ぼくは自分の演奏を聴いていてほんとうは音楽が問題なのではないということがよくわかるんだ。ぼくにとって、音楽というのは、目覚めた状態、覚醒した awake 状態に自分を置き、その知覚、意識 awareness、覚醒  awakeness を認知し続けることにかかわったものなんだ。

 ぼくにとって、音楽のすべての形式は、それ自体は、なんの意味もない。その音楽を演奏している人間が覚醒した状態にいるからこそ(仮面の表情の奥で覚醒しているからこそ)、その音楽は意味を持ってくるんだ。演奏している人間が覚醒しているなら、その人間の演奏するあらゆる音楽が重要になってくる。この覚醒こそ、最も重要なものなんだ。

 自分を覚醒した状態にするためのひとつの方法は、できるだけ自然のままので、自発的な状態でいることだ。きみが自発的な状態でいれば、自分のくだらないアイディアと良いアイディアの区別がよく聞こえてくる。なにもかも準備した状態では、そのような経験を持つことはけっしてないだろう。

キース・ジャレット 山下邦彦訳
『インナービューズ』(太田出版)


私は死んでいる。なぜなら欲望がないから、

私は欲望がない、なぜなら所有していると信じるから、
私は所有がしていると信じる、なぜならあたえようとしないから、
あたえようとすると、なにももっていないことがわかる、
なにももっていないことがわかると、手に入れようとする、
手に入れようとすると、自分がなにものでもないことがわかる、
なにものでもないことがわかると、なにかになろうと欲する、
なにかになろうと欲すると、見えてくる。

ルネ・ドーマル 巖谷國士訳
『類推の山』(河出書房新社)

1.存在の可能性は各個人の経験を通じてのみ顕現する。
2.この書は各個人の意識の聖性を啓示する。
3.すべての男女は神聖なる個であり、主権者にして不可侵、唯一にして必要である。
4.各個人は無限の可能性を有する。ゆえに各無限の総和も無限にして同一である。
5.《獣》の作業は人類に開かれている可能性を提示することである。
6.これを達成するために、《獣》は人格を捨て、各個人に共通する非個人的本質となり、感じ、語る。
7.歴史の現時点に於いて必要とされる本質的真理は、《獣》のHGAであるアイワスによって啓示される。アイワスという名前自体が《法》そのものの観念および《永劫の術式》を表現している。かれは《沈黙の神》の寵児と称される。あたかもかれのメッセージは霊的均衡を妨害するものではなく、現存する錯誤の修正手段であると宣言しているようである。
8.個人の顕現した特質はかれの本質の表現であるが、かれの本質は表現を調査しても発見できない。
9.ゆえに人類は現象的顕現の背後にある内奥の真理を求めねばならない。これを発見すれば、現実的特質のみでも十分に本質を表現できるという自らの可能性の全体像を意識するであろう。
10.自然は各個人のすべての可能的現実体験に於いての自己実現を意図している。この意図を完成させる作業に従事する適性を有する個人も、あるいは人知を越える存在も、ほとんど皆無といえる。
11.常人は自らの虚栄の幻影像にそって一個の理想を神や英雄と称し、これを建造し、崇拝する。
12.私は人類に訓戒を与える。現実に直面することを恐怖するあまり、自分のなかにこしらえた避難所に身を隠すことをやめよ。私は人類に命令する。他者もまたそれぞれの無限の可能性を実現するために存在していることを認識せよ。また、他の存在と結合することによって自らの不完全性を充足させていることを認識せよ。
13. 個人は自らの可能性という高みに登攀しなければならない。可能性はすべてかれの本質のなかに内在している。可能性は実現によって自己充足する。実現は不完全感から生ずる痛痒を癒し、無上の喜びを与えてくれる。
14.愛の行為はすべて創造の悦楽を再燃させ、宇宙を再創造する。新たなる力と可能性があらゆる既存の達成から再生される。
15.人間の可能性は無限であり、実現を要求している。《獣》はこの事実を保証するために選ばれている。この作業に協同する女はかれの理念にかたちを与える。ふたりの共同が人類を鼓舞し、ふたりのあとに続かせる。結果として人類は各個人の意識の精妙なる本質を自覚するであろう。
16.かくして《獣》は《光》と《生命》の根源であり、宇宙の本質を明瞭に理解した者に《光》と《生命》を惜しみなく与える。女の機能は《獣》の光を反射して、いまだ五里霧中ながらも熱望する者たちを照らすことにある。《獣》は個の原型であり、《女》はかたちの原型である。獣は女を通じて自らを表現できる。
17.《獣》と《緋色の女》はこの教義を開陳する権限を有する唯一の者たちである。
18.創造的天才は個的存在の精髄であり、かれらによって惜しみなく顕現される。
19.すべての可能性はかれらによって実現され、かれらのものとされるであろう。
20.達成のための一般的方法は、ABRAHADABRAという言葉によって説明される。その効能は次のように解説されよう。自分を宇宙の完全なる表現とするために、いかなる要素が欠落しているか、熱望者たる者、それを自分の手で実現しなければならない。続いてかれは自分に欠落している観念を補充すべく、あらゆる手段を講じる必要がある。究極的には、およそ考えられるかぎりの観念をあたってみても、自分のなかには不十分な要素は皆無であるという段階にまで至らなければならない。

…………………………………………………………

 われわれの宇宙観はまったく肉眼に依存しているということである。すなわち筋肉と神経組織の機械的システムの機能に依存している。(中略)また私は、“宇宙”が各人の生存期間中体験の枠内にあることも見抜いた。

アレイスター・クロウリー 江口之隆訳
『魔術日記』(国書刊行会)

 わが兄弟よ、あなたがひとつの徳を持ち、それがあなた自身の徳であるから、それは他の何びととも共有すべき性質のものではないはずだ。(中略)
 むしろこういうべきなのだ。「わたしの魂に苦しみやよろこびを与えるもの、わたしの内臓の飢えでもあるものは、言葉に言いあらわしがたく、名前を持たないものなのだ」と。
 あなたの徳は、馴れ馴れしい名前で呼ばれるには、あまりにも高貴なものであらねばならない。そして、もしあなたがそれについて語らなくてはならないときは、口籠り、吃ることになってもなんら恥じることはない。
 吃りつつ、こう言いなさい。「これがわたしの善だ。わたしはこれを愛する。わたしにはすっかり気にいっている。わたしの欲する善はこういったものしかないのだ。(中略)
 わたしが愛するのは大地の徳である。そこには利口な駆引はあまりなく、万人に共通な理性はもっともすくない。
だが、それは鳥のように、私のところに来て、巣をつくった。それゆえにわたしはそれを愛し、胸に抱く。――いま、それは、わたしのところで、黄金の卵をかえそうとしている」と。
 あなたは吃りながら、このようにあなたの徳を讃えなければならない。
 かつてあなたは、あなたを苦しめるさまざまの情熱を持ち、それを悪と呼んだ。しかしいまはそれがすべて徳なのだ。苦しめる情熱から生まれたものだ。
 そしてたとえあなたが肝癪持ちの血すじであろうと、好色家、狂信者、または復讐狂の後裔であろうと、――
 結局、すべてのそうした苦しめる情熱は徳となり、すべての悪魔は天使となったのだ。
 かつてはあなたはあなたの地下室に野性の犬どもを飼っていた。しかしついには犬どもは小鳥に変わり、愛らしい歌姫となった。
 あなたの毒から、あなたは香油を醸しだしたのだ。あなたはあなたの憂愁の牛の乳をしぼってした、――いまはその乳房から甘い乳を飲んでいる。

 わたしの感じ方は、すでにあなたがたとはちがっている。わたしが足もとに見るこの雲、わたしがあざ笑うこの黒く、重いかたまり、――こんなものが、あなたがたにとっては暴風雨の雲なのだ。
 あなたがたは高められたいと願うとき、上方を仰ぎみる。だがわたしはもう高みにいるから、下方を見おろす。
 あなたがたのなかの誰が、高められて、しかも同時に哄笑することができるだろう?
 最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を笑うのである。

 そうだ、われわれが生きることを愛するのは、生きることに慣れたからではない。むしろ愛することに慣れたからだ。
 愛のなかには、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある。
 人生を愛しているこのわたしの見るところでは、やはり蝶やシャボン玉、ないしはこれに似た人間たちこそ、幸福を、最もよく知るもののようだ。
 これらの軽やかな、愚かしい、小さく可愛らしい、うごきやすいものたちがひらひらと飛ぶのを見ると、――ツァラトゥストラは心誘われ、涙をもよおし、歌をくちずさむ。
 わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう。
 わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。――かれによって一切の物は落ちる。
 怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!
 わたしは歩くことをおぼえた。それからはわたしはひとりで歩く。わたしは飛ぶことをおぼえた。それからは、わたしは飛ぶために、ひとから突いてもらいたくなくなった。
 いまはこの身は軽い。いまはわたしは飛ぶ。いまはわたしはわたしをわたしの下に見る。いまはひとりの神が、わたしとなって踊る思いだ。

ニーチェ 氷上英廣訳
『ツァラトゥストラはこう言った』
(岩波書店)

 わたしのとどまる場所はどこか。わたしとあなたはどこにもとどまるところはない。わたしの行くべき最後の場所はどこなのか。それは何人も見つけないところ。わたしは一体どこにゆくべきか。神を超えて荒野へとわたしは行かねばならない。

 わたしが死に、生きるのではない。神自身がわたしの中で死に、わたしが生きるようにと絶えずわたしの中で生きているのである。

 あなたが死に、神があなたの生命になったとき、はじめて崇高な神々の仲間にあなたは入るのである。

 あなたの心は、純金のように混ざりけなく、岩のように堅く、水晶のように透明であれ。

 神に向かって叫んではいけない。水源はあなたの中にあるのだ。あなたが出口をふさがなければ、水源は絶えず溢れ出る。

 あなたの外面的な目がここで見ている薔薇は、永遠に神の中で咲いている。

アンゲルス・シレジウス 植田重雄他訳
『瞑想詩集』(岩波書店)

 スーフィーは、シャリーア(聖法)を越えた知識の外的状態を真に理解すると同時に、瞑想と唱名によって内的真理との合一を試みる。到達する者とは、まず神を目指して、さらには神の中へと旅したのち、神によって知る者の意である。探求の目標は、個我(エゴ)を退け、「絶対存在(絶対者)」が、自分自身を通して、自分自身を知るようにさせることである。「巡礼、遍歴、道、とは個我から『自己』への旅にほかならない」と、ファリード・アッディーン・アッタールは述べている。(中略)
 この死の瞬間、魂の多様性(感覚的および超感覚的能力)は消え去り、存在一性のヴィジョンが空になった魂を満たす。このとき、人は絶対的一者性の中に神を見る。その後、人が多様性の意識に戻ったとき、霊は万物に戻る。
 「存在一性論」の究極の意味は、「存在する真実の姿で事物を見ること」である。つまり、すべては自分自身の存在という鏡に反映されていると気づくことである。それは万物を神とは別個のものであると見なす人間の世俗的意識の消滅であり、人間が神から離れていたことは一度たりともなかったと気づくことである。そして、絶対的一者性としての神は、遍在していると同時に超越していると気づくことである。

ラレ・バフティヤル 竹下政孝訳
『スーフィー』(平凡社)


 ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。――各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。新しい神々を欲するのは誤りだった。世界になんらかあるものをあたえようと欲するのは完全に誤りだった。目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんら義務も存しなかった。――そのことは私の心を深く揺り動かした。(中略)各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事にあるのみだった。(中略) 肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。(中略) 私は自然から投げ出されたものだった。不確実なものへ向って、おそらく新しいものへ向って、おそらくは無へ向って投げ出されたものだった。この一投を心の底から存分に働かせ、その意志を自己の内に感じ、それをまったく自分のものにするということ、それだけが私の天職だった。それだけが!

ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳
『デミアン』(新潮社)

 その後で何が起こったか私はほとんど語らないだろう。そのとき起こったことは、すでにずっと前から起こっていたのだ。いや、ずっと前からというより、測り知れぬほど前からかもしれない。しかし、私は夜ごとの生活のなかでずっとそれを感じていた。私とその予感とは、そこで秘かになれ合っていたわけだ。その部屋に誰か人がいるということを知るには、更に足を一歩すすめる必要もなかった。もし私が前進すれば、誰かが急に私の前に現れて、すぐ近くから、はかり知れぬほど近くから私に触れるということも知っていた。これまでになく深い夜に包まれたこの部屋のすべてを、私は知っていた。私はそれを見抜き、自分の中で感じていた。私はそれを生きさせていた――生ではなく、生よりもはるかに強く、この世のいかなる力も打ち破ることのできないひとつの生命によって。この部屋は呼吸していなかった。そのなかには影もなければ記憶もなく、夢もなければ深さもなかった。私は耳を傾けたが、誰も語らなかった。私は見つめたが、誰も住んではいなかった。だが、そこにはこの上もなく大きな生命があった。私がそれに触れ、それもまた私に触れたひとつの生命、他の生命と同じ生命があった。それはその肉体で私の体を押しつけ、その唇で私の唇に印を押した。その眼は開かれていた。この世で最も生き生きとした、最も深い眼で私を見つめていた。このことを理解しない人は、死んでしまうだろう。なぜなら、この生命は自らの前から遠ざかる生を、偽りのものに変えてしまうからだ、

モーリス・ブランショ 三輪秀彦訳
『死の宣告』(河出書房新社)

――ニド!……
「鳥の姿の山の精霊」がさえずった。
風に運ばれてきた男の一人がふりかえった。そこで、彼の仲間が彼をニドと呼ぶようになった。
「鳥の姿の山の精霊」は、彼らがこの地に到達するために海で殺してしまった、彼らの父でもあれば母でもある、雨水色の動物の霊魂だったのだが、魚の匂いのする、小指のように女性的なこの動物は、金色の瞳の奥に、二つの黒くて小さな十字架を秘めていた。
 その死によって、彼らは湿潤な海岸に達することができたのだが、そこにはどこか秘教的な雰囲気が漂っていた――遠くに点在する黒楊、森、山々、はるかな谷間で静止したまま流れている川……「樹の国」だ! 彼らは金剛石の光沢のように澄んだ海岸の自然を進み、近くの丘の緑の頂にまでやってきた。それから渇を潤すために、初めて川に近づいた時、三人の男が水面に浮かび上がるのを目にした。
 ニドは、水に写ったおのれの姿を見て唖然としている仲間たち――動きまわる奇妙な植物――を安心させるようにいった。
 ――これはわれわれの仮面であり、その背後にわれわれの顔が隠れているのだ! これはわれわれの分身なのだ! これは、この地にやってくるためにわれわれが殺してしまった、われわれの母たる、「鳥の姿の山の精霊」なのだ。蘇ったわれわれの守護霊! われわれの記憶!

M・A・アストゥリアス 牛島信明訳
『グアテマラ伝説集』(国書刊行会)

 というのも、そうした瞬間にあって、身辺の日常的な出来事を、いちだんと高くあふれんばかりの生命で(ちょうど器に水を入れるように)満たしながら立ちあらわれてくるもの、それはまったく名のないもの、いやおそらく名づけえぬものだからです。(中略)これらのいずれも、またこれらと似た多くのものはすべて、ふだんはあたりまえのものとして眼をとめることなく通りすぎてしまうのですが、ある瞬間とつぜんに――この瞬間を意志で呼び寄せることはとうていわたしにはできません――心を動かす崇高なしるしを帯び、いかなる言葉もそれを言い表わすには貧しすぎると見えてくるのです。それどころか、眼前にないものが一定のかたちをとって心に浮かぶときも同じであり、そのときそのものは、静かに急速にたかまってゆく神秘の感情の波によって縁いっぱいに満たされるという不可思議な運命にめぐりあうのです。

 それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへと――どこからかはわかりませんが――流れこんだ、という感覚でした。(中略)たとえば、ある別の日の夕方、園丁が置き忘れた、半分水のはいっている如露をくるみの木の下にみつけ、この如露と、木の下で翳になっている水と、はっきり見えない端から端へ水面をすいすい泳ぎまわっている一匹の水すましと――これらつまらないものの組み合わせが、かの無限なるものを現前させ、わたしをふるえおののかせます。頭のてっぺんから足の爪先まで戦慄が駆け抜け、とつぜんなにか言葉をわめきたくなります。

 これら物言わぬ、ときには命ももたぬ被造物が、みちたりた愛の姿で立ちあらわれてくるので、その幸に恵まれたわたしの眼も周囲のいたるところに生命を見いだすのです。すべてが、存在するものすべて、思い出すことすべて、混乱した思いに触れてくるものでさえすべてが、しかるべきなにものかに思えてきます。わたし自身の重苦しさ、つね日頃の頭のうっとうしさすら何ものかに思え、自分の内部にも周囲にも、恍惚とするような、まさに限りないせめぎあいを感じます。これらせめぎあう物質のいずれのうちへも、わたしは流れこんでゆけるのです。そのとき、自分の身体が、すべてを解き明かしてくれる暗号でできているような気がします。

H・v・ホーフマンスタール 檜山哲彦訳
『チャンドス卿の手紙』(岩波書店)

「私が大衆を熱狂させるのは、大衆を、私の政治の道具にこしらえるためである」とヒトラーは説明した。「私は大衆を呼び醒ました。大衆を、大衆以上のものに引き上げた。大衆に、意味と機能とを与えた。人々は、私が大衆の低次の本能に訴えた、と言って非難したが、私が行なったのは別のことである。私が理性的思考をもって、大衆のところに行っても、彼らは、私を理解しない。しかし、私がそれ相応の感情を大衆に呼び醒ませば、彼らは、私が与える簡単なスローガンに従うのである」
 「大集会では、思考は排除される」とヒトラーは叫んだ。「私がこの心的状態を必要とするために、この状態が私の演説の最大の音響効果を保証してくれるために、私は、皆にこの集会に出席を命ずる。ここでは、皆が好むと好まざるとにかかわらず大衆の一部になる。“インテリ”もブルジョアも、労働者と同様、大衆の一部になる。私は国民を混ぜ合わせる。私は大衆としての国民にのみ語りかける」
 「大衆に対する感化の技術において」と、しばらく考えてから、ますます熱心に彼は続けた。「私に匹敵するものはないことを私は意識している。(中略)大衆が大きくなればなるほど、一層、操縦しやすくなるのだ。そして、農民・労働者・サラリーマンなど、階級を混ぜれば混ぜるほど大衆の典型的な性格が現れてくる。インテリの会合や、利益団体などとかかわりあってもだめだ。今日、君が論理的な説明によって達成したことも、明日になれば、正反対の説明によって吹き消されてしまうのである。群衆としての国民、つまり、熱狂的に、われを忘れて、人の言うことを受け入れやすくなっている状態の国民に語ったことは、催眠状態で与えられたことばのように、あとまで残る。消しがたく、あらゆる論理的説明に抵抗する。」

 「個人的幸福の時代は過ぎ去ったのだ」とヒトラーは応じた。「そのかわり、われわれは集団的幸福を感ずることになる。語り手と聴き手が一体となったと感じるナチの集会ほどの幸福が他にあろうか。これが、わかちあうことの幸福なのである。それを、これと同じ密度で感受することのできたのは初期のキリスト教徒だけである。そして彼らもまた、共同体の中のより高い幸福のために、個人的幸福を犠牲として捧げたのであった。時代の大転換をこのようにして感じ、体験するならば」とヒトラーはしめくくった。「もはや細部の問題、個々の失敗を思いわずらうにはおよばない。その時こそ、たとえわれわれの道が別の方向に向かっているように見える時も、結局、どの道を通っても前進できるのだということがわかる。その時、われわれは史上かつてなかった規模で世界を革命せんとする不退転の意志を持つ。」

ヘルマン・ラウシュニング 船戸満之訳
 『ヒトラーとの対話』(学芸書林) 

 私は、種々の行動の変化がグループそのものの中で起こるのを見てきた。身ぶりが変わる。話す声の調子が変わり、ある時は強くある時は穏やかに、一般的には技巧が少なくなり、自発的になり、感情がこもってくる。メンバーは、お互いに対して驚くほど深い考えと援助力を発揮する。(中略)
「私は、以前より、開かれ自発的になりました。自分自身をいっそう自由に表明します。私は、より同情的、共感的で、忍耐強くなったようです。自信が強くなりました。私独自の方向で、宗教的になったと言えます。私は、家族・友人・同僚と、より誠実な関係になり、好き嫌いや真実の気持ちを、よりあからさまに表明します。自分の無知を認めやすくなりました。私は以前よりずっと快活です。また、他人を援助したいと強く思います」

 最初の直接的感情が否定の形で表明されるのはなぜだろう。この形が、グループの自由さと信頼度を試す一番よい方法だという推論も成り立つだろう。ここはほんとうに私が自分を出せる場だろうか。ほんとうに安全な場だろうか。罰が返ってくるのではないだろうか。もうひとつのまったく別の理由は、深い肯定的感情は否定的感情より表現しにくく、また危険を伴うことである。もしかりに、私はあなたが好きだというなら、私は弱みをもつことになり、最も恐れている拒否にあうかもしれない。あなたは嫌いですという場合は、せいぜい攻撃を受けるぐらいで、それなら身を守ることができる。理由はどうあれ、そうした否定的感情は最初の〈今、ここで〉の感情として表明されやすいのである。

 あらゆる集中的グループ経験に共通してみられるすばらしい点のひとつは、多くのメンバーが苦痛と悩みをもっている人に対して、援助的・促進的・治療的態度で接する自然で自発的な動きが見られることである。その端的な例として、私は大きな工場の責任者を思い出す。企業の重役グループでは彼はむしろ低い地位のメンバーであった。彼は、自分は〈教育に毒されていない人間〉だといった。初めグループの人は彼を見下げる態度に出ていた。メンバーが自分自身を深く見つめ、自分の姿をあからさまに表明するようになると、その人はメンバー中最も感受性が強いことがはっきりしてきた。彼は理解や受容がどういうものかを直観的に知っていた。彼はもうちょっとで表明されそうなことを鋭く見通した。みんなが話し手に気をとられている時、彼はしばしば黙ったまま悩んでいて援助を求めている人を見出した。彼は深い意味で知覚が鋭く、促進的な態度をもっていた。私はグループでこういう能力が現れることをよく経験しているので、治癒的ないし治療的能力は普通考えられるよりはるかに多く人間生活に見出されるのではないかと考える。しばしば、それは、自由に動いていくグループ経験の風土によって許可されること――を必要とする。

カール・ロジャーズ 畠瀬稔他訳
エンカウンター・グループ』(創元社)

 

戦争とは詭道――正常なやり方に反したしわざ――である。それゆえ、強くとも敵には弱く見せかけ、勇敢でも敵にはおくびょうに見せかけ、近づいていても敵には遠く見せかけ、遠方にあっても敵には近く見せかけ、〔敵が〕利を求めるときはそれを誘い出し、〔敵が〕混乱しているときはそれを奪い取り、〔敵が〕充実しているときはそれに防備し、〔敵が〕強いときはそれを避け、〔敵が〕怒りたけっているときはそれをかき乱し、〔敵が〕謙虚なときは、それを驕りたかぶらせ、〔敵が〕安楽であるときはそれを疲労させ、〔敵が〕親しみあっているときはそれを分裂させる。〔こうして〕敵の無備を攻め、敵の不意をつくのである。これが軍学者のという勢であって、〔敵情に応じての処置であるから〕出陣前にあらかじめ伝えることのできないものである。

 孫子はいう。戦争とは国家の大事である。〔国民の〕死活が決まるところで、存亡のわかれ道であるから、よくよく熟慮せねばならぬ。それゆえ、五つの事がらではかり考え、〔七つの〕目算で比べあわせて、その実情を求めるのである。
〔五つの事というのは〕第一は道、第二は天、第三は地、第四は将、第五は法である。〔第一の〕道とは、人民たちを上の人と同心にならせる〔政治のあり方の〕ことである。そこで人民たちは死生をともにして疑わないのである。〔第二の〕天とは、陰陽や気温や時節〔などの自然界のめぐり〕のことである。〔第三の〕地とは、距離や険しさや広さや高低〔などの土地の情況〕のことである。〔第四の〕将とは、才智や誠信や仁慈や勇敢や威厳〔といった将軍の人材〕のことである。〔第五の〕法とは、軍隊編成の法規や官職の治め方や主事の用度〔などの軍制〕のことである。およそこれら五つの事は、将軍たる者はだれでも知っているが、それを深く理解している者は勝ち、深く理解していない者は勝てない。
 それゆえ、〔深い理解を得たものは、七つの〕目算で比べあわせてその時の実情を求めるのである。すなわち、君主は〔敵と味方とで〕いずれが人心を得ているか、将軍は〔敵と味方とで〕いずれが有能であるか、自然界のめぐりと土地の情況とはいずれに有利であるか、法令はどちらが厳守されているか、軍隊はどちらが強いか、士卒はどちらがよく訓練されているか、賞罰はどちらが公明に行なわれているかということで、わたしは、これらのことによって、〔戦わずしてすでに〕勝敗を知るのである。

『孫子』金谷治訳(岩波書店)

 
ワーナー・エアハード
「あなたはあなたの宇宙における神である。あなたが全ての始まりである。これまで自分が全ての始まりでないというふりをしてきたのは、そうすればそこにプレイヤーの一員として参加できたからにすぎない。だから望みさえすればいつでも、全ては自分から始まっているということを思い出せるはずだ。」

ウィル・シュッツ 池田絵実訳
『すべてはあなたが選択している』
(翔泳社)

みんな知りたがる、
なにをしたらいいんだ? 
われわれは地球を救おうと、ゴミを拾い集め、
人類同胞を解放し、戦争をやめさせて
至福千年をもたらそうとしている。
でも、まじめな話、いったい自分になにができるんだろう?

よろしい、まじめな話をしよう:
リアリティ(本当の実在)に到達すること。
   君自身の本当の実在に到達すること。
    君自身になれ。
途方もなくハイでリアルな存在になり、
君のヴァイブレーションですべての人々に影響を与えること。
   どんなにそれがむずかしくても、
    ほかのすべてを投げうって、
   君に考えられる最も夢のあるリアルなことを始めることだ。
君自身になれ。
君自身の本当の実在に到達せよ。

自分自身でいられる君の力を信じること。
  ほかのなにかになろうと思うな、それは実在しない。
ただ君自身でいるそのことが、世界を変える。
  なんとかしようと、あたりをうろつきまわるな。
大胆で率直で正直で精力的であればいい。
  君はなすべきことを知っている。
もし君が知らないと思うなら、まったくなにもしないでいること。
したくなるまで。
この方法に失敗はない。
純粋な受容は純粋な創造に向かう。
君自身がどんな存在かを想像し、
あとは一瞬もためらわないことだ。

君の中の強いものを取りだし、
  それを活動させる。
    解き放て。
 人がどう思おうと気にするな。
君の全筋肉を動員し、
  それを限界まで鍛えあげるんだ。
きっと驚くだろう、その心地よさに、
  そして、うまくやってのけた自分に。
純粋なエネルギーを外に放射するだけで、
―ハイにコンタクトする究極なコミュニケーション方法だ―
   君は素晴らしくなる。

     自分であれ
     自分であれ
     自分であれ!

ポール・ウィリアムズ MOKO訳
『ダス・エナーギ』(春秋社)

 

 この劇は《多数》から《ひとり》への、《ひとり》から《多数》への航路である。精神的航路であり、政治的航路でもある。また、内面の航路であり、外面の航路でもある。俳優のための、観衆のための航路である。海図は図解によって示される。この航路、すなわち上演、を準備するために、俳優は無政府主義者の思想やさまざまの精神的形而上的教義を学ばなければならない。

 海図は恒久的な革命に向かう垂直な上り段、すなわち八段から成る梯子をもって描かれている。各段は《式典(ライト)》《啓示(ヴィジョン)》《アクション》より成り、また各段ごとで革命のひとつの局面が成就するようになっている。《式典》と《啓示》の場面は主として俳優によって演じられるが、《アクション》の場面は俳優によって導入され、彼らに助けられて観客が演じる。《アクション》は俳優によって語られるテキストによってはじまる。《式典》は基本的に肉体と霊魂の祭礼儀式(セレモニイ)であり、閃光(フラッシュ・アウト)によって頂点に達する。《啓示》は俳優によって演じられる知的イメージとシンボルと夢の場面だ。《アクション》では政治的状況を観客が演じる。この状況は特定の都会で起こった事件として具体的に表されるが、いま、ここで、とりうる革命行為に通じる。
 劇が表す革命は、美しい非暴力的無政府主義者の革命である。
 海図は、カバラ、タントリック文学、《義浄》などさまざまの教理から引き出されたインフォメーションを含む。海図に取り入れられるインフォメーションは、垂直的な上り段のかたちで配列されている。劇の目的は、非暴力的革命行為を可能にする存在の状態に至らせることにある。

リヴィング・シアター 斎藤偕子訳
『パラダイス・ナウ』(白水社)


ロック(岩)

 昨日の晩、暗くなる直前に探検していたとき、パワー・ホールを見つけた。そこに今、座っている。このパワー・ホールは、かなり固い火山岩らしきガラス質の岩の頂上にあいた自然の穴で、真下に向かって一メートル半ほどの深さがある。穴は卵型になっていて、入り口は人の肩がぎりぎりで滑り込めるくらいしかあいていない。今ぼくはその中に座って、穴に発生するパワーを吸い込んでいる。……かすかに水のちょろちょろ流れる音がしているのを、マントラとして使っている。もちろん、この中にはまったく水気はないから、内側の壁から三メートル以内に地下水流があるに違いない。(中略)
 もし、ぼくが地平線上のどこかの目的地にたどり着こうとして歩きまわっていたのなら、こんな穴の中でわざわざ数時間を過ごしたりは絶対にしないだろう。でも、明日も、穴の英知をもっと受けとりに来るつもりだ……。
 自分を中心にすえた、ぼく自身の神話を創造しなければならない。自分を判断する権利を他者に与えたり、他者の目を通して自分を見ていたりする自分に気づいたら、必ず、安全を得るためには自分自身だけに頼る必要があるんだ、と自分に言い聞かせなければならない。他者の承認を求めれば求めるほど、結局自分が安全でなくなるのだ。自分は、砂漠の何千もの岩々の中にある美しい一個の岩のようなものだと思う。ある岩の行動は近くの岩の位置に影響を及ぼすだろうが、他の岩の承認や指導を求める岩はひとつもない。岩にとって、他の岩は本当は必要ないのだ。たまたま、普通は一緒にいるだけだ。この涸れ河でのように。
 ぼくの使命は自分であること。そして、自分がどういう人間かということについて、岩たちと同じくらいに努力と憂慮を傾けて、それを達成することである。ぼくの神話は岩だ。まわりにある岩たちはすべて、ぼくと同じくらい美しい。岩は、自分がいったい岩なのかどうかなんて、考えてみることができるのだろうか? そこで、ぼくはクレオソートの木のまわりにある岩全部に向かって、どうやってそれほど自信が持てるようになったのか、聞いてみた。
 「岩のみんな、どうしてそんなに自信があるんだい?」
 「なぜなら私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、いったい何がどうなっているのか、教えてくれ、頼むから」
 「私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、どうしてお互いにけんかしたり言い争ったり、自分のことを印象づけようとしたりしないんだ」
 「私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、ずいぶんたくさんいるから、きっとたっぷり愛を交わすんだろうね」
 「私は岩だから。ただの美しい岩だから」
 「岩のみんな、ぼくも岩になりたいよ」
 「あなたも岩だ。ただの美しい岩だ」
 太陽はとっくに沈んで、ぼくは火が消えないように見張っている。確かに空腹だ。が、たいしたことはない。目があいている限り、火の番をしていよう。
 LSDもやった。
 ESTもやった。
 マインド・ダイナミクスもやった。
 イエス・キリストも試した。
 パールズロジャーズユングもマハリシもメヘール・ババも読んだ。
 車をかっ飛ばした。
 美しい女たちとも寝た。
 死にかけもした。
 刑務所にも行った。
 何年もぶっつづけでラリッぱしにもなった。
 犯罪者にも億万長者にも天才にも音楽家にも会った。
 愛されもし、愛しもした。
 少々旅行もした。
 疑似‐神秘体験も、幻想的・心理的洞察も経験した。
 英雄にもなった。
 浮浪者にもなった。
 そして、そのどれも、ぼくを強烈に変えはしなかった。
 そして、そのすべてが、少しずつぼくを変えた。
 ぼくは岩だ。
 変わる必要はないのだ。
 ただ、何であれ、やってくるものを経験する必要があるだけだ。
 探求は終わった。
 ぼくは存在する。そして、もしかすると自分が存在するということを忘れてしまうかもしれない。
 でも今は、変化の探求が、美しく在ることを避ける最高の方法だったのを知った。
 ぼくは存在する。
 ぼくは岩だ。ただの美しい岩だ。

S.フォスター& M.リトル 高橋裕子訳
『ビジョン・クエスト』(VOICE)

 彼はごく単純なことを話した――つまり、カモメにとって飛ぶのは正当なことであり、自由はカモメの本性そのものであり、そしてその自由を邪魔するものは、儀式であり、迷信であれ、またいかなる形の制約であれ、捨てさるべきである、と。
「捨てさっていいのですか」と、群衆の中からひとつの声があがった。
「それがたとえ群れの掟であっても?」
「正しい掟というのは、自由へ導いてくれるものだけなのだ」ジョナサンは言った。
「それ以外に掟はない」

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 彼は、即座にあの友が、今の自分と同じように、まさしく聖者なんぞではなかったことを悟ったのだった。
 無限なんですね、ジョナサン? 彼は心の中でつぶやいた。それならぼくがいつかすっとそっちの側の海岸に姿を現わし、何か目新しい飛び方でも披露できるようになるのも、そう遠い日ではありませんね!
 フレッチャーは自分の生徒たちは、厳しい教師と見られるように振舞おうと努めたが、しかし彼は突然、ほんの一瞬にしろ、生徒たち全員の本来の姿を見たのだ。そして彼は自分が見抜いた真の彼らの姿に、好意どころか、愛さえおぼえたのだった。無限なんですね。ジョナサン、そうでしょう? 彼は思った。そして微笑した。完全なるものへの彼の歩みは、すでにはじまっていたのだった。

リチャード・バック 五木寛之訳
『かもめのジョナサン』(新潮社)

 

「見る者にとって、人間は輝く存在なのだ。わしらの輝きは、わしらの卵のようなものに入ったイーグルの放射物の一部でできている。その部分、そこに入れられたひと握りの放射物が、わしらを人間にしてるんだ。知覚するこということは、そこに入れられた放射物と、外部にある放射物とを適合させることなんだ」

「新しい見る者のいう知覚とは何なんだい、ドン・ファン?」
「彼らのいう知覚とは、連合の状態だ。つまり、まゆのなかの放射物が、それにぴったりする外の放射物と連合するようになるんだ。あらゆる生き物が意識を開拓できるようにしているが、連合なんだ。見る者がこういうことをいうのは、生き物のあるがままの姿を見ているからだ。白っぽい光の泡のように見える輝く姿をな」
 私は、知覚を完成させるために、まゆのなかの放射物と外部の放射物がどう適合するのか訊いた。
「なかの放射物と外の放射物は、同じ光の繊維なんだ。感覚のある生き物はそういう繊維からできた小さな泡、顕微鏡でやっと見えるような光の点で、無限の放射物にくっついているんだよ」
 ドン・ファンは、さらに説明をつづけた。生き物の輝きは、たまたまそれぞれの輝くまゆのなかにもっているイーグルの放射物の、特定の一部分によってつくられている。見る者が知覚を見ると、生き物のまゆの外部にあるイーグルの放射物の輝きが、まゆのなかの放射物の輝きをより明るくしているのがわかる。外部の輝きが、内部の輝きを惹きつけているのだ。いわば、罠にかけて固定しているといったところか。その固定が、あらゆる種の意識なのだ。
 見る者はまた、まゆの外の放射物がなかの放射物に対していかに独特な圧力を加えるのか、も見ることができる。この圧力が、それぞれの生き物がもっている意識の度合を決定している。(中略)
 前にもいったように、古い見る者たちは意識を扱う術の熟練者だった。彼らがその術の熟練者だったのは、人間のまゆの構造を操作することを学んだからだ。まえにわしが、彼らは意識していることの謎を解いたといったのは、彼らは意識は生き物のまゆのなかの輝きだということを見て、実感したということだ。彼らはそれを、意識の輝きと呼んだんだよ」
 彼の説明によると、古い見る者たちは、人間の意識というのはまゆの残りの部分よりももっと強烈な琥珀色をもった輝きだということを見た、という。その輝きは、まゆの右端を縦に走っている。古い見る者にとっての熟練とは、その輝きをまゆの表面から内部へと拡げることだった。(中略)

 人間の第一の注意力は、動物の意識だ。それは体験過程を通して複雑に、極端に弱くなっていて、無数の側面のうちの日常世界を引き受けている。いいかえると、人間が考えうることのすべてのことは第一の注意力の一部なのだ。
「第一の注意力は、ふつうの人間のすべてなんだ」ドン・ファンはつづけた。「わしらの人生を完全に支配しているのだから、第一の注意力はふつうの人間がもっているもののなかではもっとも価値がある。たぶん、人間で唯一の役に立つものだろうな」(中略)
「見る者が見るものでいえば、第一の注意力は、極端な光沢までに発達した意識の輝きということになる。だがそれは、いわばまゆの表面に固定された輝きなんだ。既知のものを覆う輝きだ。
 第二の注意力は、意識の輝きがもっと複雑に、もっと特殊化された状態だ。それは、未知のものとかかわっている。それは、人間のまゆの内部の、使われていない放射物が使われるときに現われるんだ。
 わしが第二の注意力を特殊化されたものという理由は、使われていない放射物を利用するためには、最高度の訓練と集中力が必要なふつうとはちがった複雑な戦略が要求されるからなんだ」
 ドン・ファンによると、以前私に夢見の技術を教えているときに、夢を見ているということは第二の注意力の前兆だということをその集中が認識している必要がある、といったはずだという。その集中は、日常世界を扱うのに必要な自覚とは別のカテゴリーに属している自覚の一形態なのだ。
 ドン・ファンの説明によると、第二の注意力の左側の意識とも呼ばれている。そしてその領域は、無限といってもいいほど広大なものだ。(中略)
 意識の熟練者である古い見る者たちは、その専門技術を自分の意識の輝きに応用して、はるかかなたの限界まで拡大した。彼らの狙いは、自分のまゆの内部の放射物を、一束ずつすべて輝かせることにあった。そしてそれには成功したが、奇妙なことに、一束ずつそれを輝かせるということが、第二の注意力の泥沼にはまるのを助長してしまったのだった。
「新しい見る者たちは、その誤りを正したんだ。そして、意識の熟練を自然な終局点にまで発展させた。それで、意識の輝きが一撃のもとに輝くまゆの境界を越えて拡大したんだ。
 第三の注意力は、意識の輝きが内部からの炎に変わるときに得られる。内部からの炎というのは、一度に一束ではなく、人間のまゆの内部にあるすべてのイーグルの放射物を燃えたたせる輝きのことだ」
 ドン・ファンは、新しい見る者たちが生きながら個としての自分たちを自覚しつつ、第三の注意力を獲得しようとした計画的な努力に畏敬の念をもっている、といった。(中略)
 さらに彼によると、死の瞬間、すべての人間は不可知へ入り、なかには第三の注意力を獲得する者もいる。しかし、それはあまりにも短い時間で、イーグルの糧を純化するだけだ。
「人間の最高の業績は、チラチラする光のように食われるべくイーグルの嘴の方へ動いていく解体した意識にならずに、生の躍動を保ったまま意識のそのレヴェルへ達することだ」

カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
『意識への回帰』(二見書房)

 

 (意識の振動レベルの)「+12」のレベルにおいては、人は身体の中にいるが、地球上のトリップにまつわる仕事はしていない。「+12」にいるという証は、人の感じる、宇宙的愛、バラカ(神の祝福)、神の慈悲、宇宙エネルギーである。人は、この興奮を誘う特殊な喜びのエネルギー、至福、アーナンダの使者、弁(バルブ)、あるいは回路として機能する。(中略)
 あたかも、私は新しい空間へと導く内部スイッチが入れられたかのようであった。このように突然、新しい空間に入りこむという飛躍があった。あらゆるものが輝き、反響し、喜びに溢れるものとなった。他の人々を、こうした美しい状態に連れていきたいと思った。大気の中に、シャンペンの泡のようにきらめくものを見た。床の上のほこりは黄金の塵のように見え、小鳥のさえずりは銀河の中心から宇宙を貫いて反響してくる声となった。私自身が「オーム」と唱える声も、同様だった。
 あらゆるものが透明になった。宇宙エネルギーが私の身体に入りこみ、身体全体から他人に送られるのが見えた。私自身のオーラを見、他人のオーラを見た。なにもかも完璧だと思った。すべてのものが生きていた。すべての人々がかけがえのない存在であり、喜びに溢れていた。

 +6は、意識の焦点をきわめて小さな点に合わせる状態である。その点の大きさをどのくらいにするかは、当人がどこに行きたいかに応じてなされる選択の問題である。その点の中に、自分の記憶、感情、思考プロセス、これらの場所の地図、周囲で起こっていることの全体的知覚などをもちこんでいることを人は確信する。つまりは、その人の48の地図のすべてを、言語を用いずに、直接的な体験としてその点の中にもちこむのである。
 通常、48や+24でもち歩いている、そして、+12において部分的に捨て去る、言語のスクリーンをここでは完全に手放すのだ。+6に到達すると、そこには、言葉、文章、構文、文法、言語、数字、量的な物差し、計算、通常の論理や思考、通常のリアリティなどは存在しない。人は、完全に、非日常的なリアリティ、非日常的な存在、非日常的な直接的知覚や体験、そして非日常的な直接的記憶の貯蔵庫に身を浸す。(中略)
 一度、その点に入りこみ、その点となるや、身体に下降することも、他人の頭や身体の中に入りこむことも、地球を飛び出し、外宇宙、銀河、宇宙へと入りこんでいくことも可能となる。自分の一つの点としてのアイデンティティを保っているかぎり、どんなに遠くへ行こうとも、またどんなに深く下降しようとも、人は+6の状態の中にいる。このことが、+6を+12や+3と区別するきわめて簡単な方法であることを私は発見した。+12においては、身体はまだ存在するが、+6においては、身体は存在しないのである。+6の中では、人は、多少なりとも、依然として自己であるが、+3においては、その自己を失い、本質(エッセンス)、すなわち、宇宙的な乗り物のパイロットの一人となる。

ジョン・C・リリー 菅靖彦訳
『意識(サイクロン)の中心』(平河出版社)

 マザー・セレナが五十年間もの間毎日瞑想していた礼拝堂に坐っていた私は、彼女が癒しために名前を読んでいるのを聞いているうちに、自分が意識の中を上のほうに昇っていることに徐々に気づき始めた。上昇しながらも、マザー・セレナが世界の安寧と平和のために祈りを捧げているのが依然として聞こえ、ニューヨーク市の北部ウェストサイドのトラックの音にさえ微かに気づいたままでいた。この霊的な上昇は、エレベーターのイメージに生きいきと移り替わっていた。エレベーターは、様々な階――探査するために私が停まることもできたであろう、天界域――を通過していったが、その終着地を垣間見ることへの切望が、私をこの幻視的エレベーターへ留まらせた。とうとうエレベーターは最上階に到着し、ドアが開き、私は金色の光の界域に足を踏み入れた。私の身体はこの光と同じ色および性質になっていた。私は浮かんではいなかったが、私のいつもの身体と同じように反応する、この金色の身体に充分に気づいていた。また、自分が何かの表面を歩いていることにも気づいていた。私は直観的に、これが最上部ではないということ、まだ究極的な眺めではないということを感知した。上に向かって円を描きながら強烈な金色の中に消えて行く階段があるのに気づいて、私は昇り始め、そして上昇するにつれて光がますます濃くなっていくことを実感した。通常の表面を歩いているという私の気づきは消え始めた。私の身体は光と溶け合い始め、すぐに身体はなくなり金色の強烈さだけがあった。私は依然として、意識の個別的な中心としての自分自身に気づいていたが、今やさらに昇っていくといういかなる感覚もなかった。なぜなら、身体的な隠喩が不適切になったからである。(中略)
 それに続く動きは薄膜の浸透に似ており、なんのあても努力もなしに自発的に起こった。なんの意外感もなしに薄膜の反対側に出ていた。すべてが澄み渡っていた。〈存在〉の重い金色の濃密さは、まるで夏の湿気からいきなり秋の清澄さへと移ったかのように失せ、消散していた。(中略)この明るさはあまりに全面的だったので、「私」の余地はまったくなかった。けれども、特定の「私」が不在にもかかわらず、気づきが充分にそこにあった。この強烈な、圧倒的な存在あるいは明るさは、実体ではなく、単に気づきの清澄さだった。

レックス・ヒクソン 高瀬千図監訳
『カミング・ホーム』(コスモス・ライブラリー)

 

 昔者(むかし)、荘周、夢に蝴蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として蝴蝶なり。自ら喩(愉)みて志に適うか、周なることを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に蝴蝶と為るのか、蝴蝶の夢に周と為るか、周と蝴蝶とは、則ち必ず分あらん。此れをこれ物化と謂ふ。

 むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか。それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。

『荘子』金谷治訳
(岩波書店)

 それは、ヴァン・ゴッホが、ついに、あの天啓状態に達していたからであって、この状態においては、物質の圧倒的な流出をまえにして、無秩序な思考が逆流する、
 そこでは、思考することは、もはやおのれをすりへらすことではなく、
 もはや存在しないのだ。

 そして、そこでなおすべきことは、肉体を寄せ集めることだけだ、つまり

 かずかずの肉体を積みあげることだけだ。

 このようにして、意識や頭脳をこえてとり戻されたのは、もはや霊体の世界ではなく、直接的な創造の世界である。

 (中略)
 かくして、ヴァン・ゴッホは、自殺して死んだ、なぜなら、意識全体の協力も、彼を支えることができなかったからだ。
 なぜなら、精神も、魂も、意識も、思考もないとしても、
 雷酸塩が、
 爆発寸前の火山が、
 石のような不安が、
 忍耐が、
 よこねが、
 焼けつくような腫瘍が、
 むけたかさぶたがあったからだ。
 そして、ヴァン・ゴッホは、おのれの健康が反乱を起すという、時迫った警告を、卵でもかえすように身内であたためながら、眠っていた。
 なぜであろうか。
 健康というものが、うろつきまわるさまざまな病気の過剰であり、無数の腐った傷口による、限度をこえた、おそるべき生への情熱であるせいだ。たがやはり、それは生き続けさせねばならず、
 永続させねばならぬ。
 焼けた爆弾を、おさえつけられためまいを感じない人間、かかる人間は、生きているねうちはない。

 (中略)
 卑劣な猿どもや、濡れしょぼった犬どもから成る人類をまえにすれば、ヴァン・ゴッホの絵は、魂も、精神も、意識も、思想もないような時代の、次々と結ばれまた離れる原初的な要素以外の何もないような時代の絵と思われたことだろう。
 正真正銘の健康に導くための熱に苦しめられている肉体のように、はげしく痙攣し、いたるところ物狂おしい傷を負った風景。
 皮膚の下の肉体は、過熱した工事場だ。
 そして、外では、
 病者が、輝きを帯びる。
 彼は、
 はじけ開いたあらゆる毛穴を通して、
 光るのだ。
 真昼の、
 ヴァン・ゴッホの、
 風景画のように。

アントナン・アルトー 粟津則雄訳
『ヴァン・ゴッホ』(筑摩書房)

「天上のヴィジョンが地上のヴィジョンのなかへはいってそれを経験する人間の目を変える。するとその人間は男や女を、ある種の唯心論が主張するうつろな空なる存在としてではなく、また唯物論者が言うような、理性に自足し信頼するものとしてでもなく、その主調となる性質が不確実にある存在として見る(中略)。かかる状態は、ボッチチェリもそのような状態にあったと思われるが、許しとか憐憫とか咎めとかまた哲学上のあらゆる判断が驚異のなかに溶け合っている状態なのだ。」
 「驚異のなかに?」とルイスは言った。「知識とか悟性のなかにではなく?」
 「きみにはそれが漠然とした明確ならざるものに思われような?」とナルヴィッツは答えた。「数週間前ならわたしにもそう思われたことだろう。そのころはまだわたしも知ることと理解することとを願っていた。無知こそ死すべき状態と不死なる状態とをひき離す主たるものと考えていたし、死こそかずかずの神秘へ至る扉であろうと思っていた――死後にいっさいが明らかになるだろうと。もちろん今でも、より大いなる知識と悟性とが不死の状態に到達しえないとは言うつもりはない。が、それらが神を特徴づける本質だとは、もう思わない。これまでわれわれが全知と呼んできたものは驚異の無限の力と考えるほうがいい。知るというのは静的だ。流れのなかの石だ。が、驚異は流れそのものだ――ふつうの人間にあっては疑いにおおわれた細流であり、詩人や聖者にあってはきらめく小川であり、神にあっては大河であり、神の心の交わりをことごとく運んでいく。地上においてさえ、知識が増せば増すほど、驚異が深まるというのは、ほんとうではあるまいか?」
 「では瞑想の目的は驚異の能力を発展させることなのですね?」とルイスは言った。「それは神をまねることですか?」
 ナルヴィッツは微笑した。「きみは、ナーマンのように、もっと困難なことがきみに要求されないことに、失望しているのか? それは十分困難なことだとわたしには思われるが。魂は精神のように固まる。固まった精神は新しい知識を拒むし、魂は神のなかや子供たちのなかや穏やかな聖者たちのなかにある驚異を拒む。この説はとくに新しいものではない。」

チャールズ・モーガン 小佐井伸二訳
『泉』(白水社)


親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

親鸞/唯円『歎異抄』

 全知者である覚った人に礼してたてまつる。
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
 シャーリプトラよ、
 この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
 これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。
 シャーリプトラよ。
 この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
 生じたということもなく、減したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャーリプトラよ。
 実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、知識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのである。
 (さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみも原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顚倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
 過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られた。
 それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
 ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
 ここに、智慧の完成の心が終った。

『般若心経』中村元他訳
(岩波書店)


精霊

 彼は愛情だ、現在だ、泡立つ冬にも夏のざわめきにもその家を開け放ったじゃないか、彼は飲物を、食べ物を浄めた彼、次第に遠ざかる場所の魅惑であり、停止する土地の超人的な歓喜である彼。彼は愛情と未来だ、力と愛だ、おれたちは狂熱と倦怠のうちに立ったまま、彼が嵐の空を、恍惚とはためく旗に囲まれて過ぎてゆくのを眺めるのだ。
 彼は愛だ、完璧で再び発明された尺度としての、思いもかけなかった驚くべく理知としての愛だ。そしてまた、永遠だ。宿命的な諸特質によって愛されている機構なのだ。おれたちは皆、彼の譲歩に恐怖を覚えた。おれたちの譲歩にも。おお、おれたちの健康の享受、諸能力の躍動、彼への、その限りない生を通じておれたちを愛する彼への、自分勝手な情愛と情熱……
 おれたちが彼を思い起す、すると彼が旅をしてくる……崇拝が立ち去っても、鳴りわたるのだ、彼の約束が鳴りわたるのだ。「引っ込め、このさまざまな迷信、古くさい肉体、それらさまざまな所帯、さまざまな年令。そんな時代は崩れ去ってしまったのだ!」
 彼は立ち去ることはないだろう。どこの天から再臨しもしないだろう。女たちの怒りや男たちの浮かれ騒ぎやまたあの罪のすべてを償いもしないだろう。彼が存在し、愛されていることで、事は片付いているのだから。
 おお彼の息吹き、彼の頭、彼の疾駆、形態や行為を完成するおそるべき神速。
 おお精神の豊饒さよ、宇宙の測り知れぬ広大さよ!
 彼の肉体! 夢見られてきた解放、新たな暴力によぎられた優雅の粉砕!
 彼の視力、彼の視力よ! 歩みすぎるにつれてかき立てられる、いっさいの古い昔のいっさい拝跪と苦しみ。
 彼の日よ! 高鳴りうごめく苦悩の、さらに激しい音楽のなかでの絶滅。
 彼の歩みよ! 往昔の侵入のかずかずよりも、さらに途方もない移住。
 おお、彼とおれたち! 失われた慈愛よりもさらに思いやりにあふれた倨傲。
 おお、世界よ! そして、新たなる不幸の明るい歌よ!
 彼は、おれたちすべてを知り、おれたちすべてを愛してきた。この冬の夜、おれたちは知ろうじゃないか、岬から岬へ、ざわめき荒れる極地から館へ、群衆から浜辺へ、まなざしからまなざしへ、力と感情の限りを尽くして、彼に呼びかけ、彼を眺め、それから彼を送り返すことを、また、潮のしたをかいくぐり、雪の砂漠の丘にも登って、彼の視力、彼の息吹き、彼の肉体に、また彼の日に、つき従って行くことを。

アルチュール・ランボー 粟津則雄訳
『イリュミナシオン』(集英社)

 想像力は、語源が暗示するように現実のイマージュを形成する能力ではなく、現実を越えそして現実を歌うイマージュを形成する能力なのだ。それは超人間性 surhumanite の能力である。人間は彼が超人である度合いに応じて人間なのだ。人間の条件を越えるようにみちびく諸傾向の総体によって人間を定義しなければならない。活動する精神の心理学は当然、例外的精神のそれ、すなわち旧いイマージュに接木される新しいイマージュである例外的なもの(異常なもの)に誘われる精神のそれなのである。想像力は事物や劇以上に発明するものであり、新しい生命や精神を発明し、影像(ヴィジョン)の種々の新しいタイプを所有する眼をひらかせるのだ。想像力は自分が「種々のヴィジョン」を所有するかどうかを知るであろう。もしそれが経験とともに教育される以前に、夢想とともに教育されるならば、またもしも経験がおのれの夢想の証としてその後に到来するならば、それはヴィジョンを所有するであろう。たとえばダヌンツィオのつぎの言葉のように。

  最も豊かな事件は、われわれの心のなかで魂がそれに気がつくまえに到来するものである。そして可視のものの上に眼をひらきはじめるときには、すでにわれわれははるか以前から不可視のものに所属していたのである。

 不可視のものへのこの所属。これが原初の詩(ポエジー)であり、自己の内的運命に興味を覚えることをわれわれに可能ならしめるポエジーなのである。これはわれわれにたえず驚嘆する能力を返してくれることにより青春あるいは若返りの感化を与えてくれるのだ。真のポエジーとは目を覚まさせる機能のことである。

ガストン・バシュラール 小浜俊郎他訳
『水と夢』(国文社)

 デミアンは言った。「今日あるような世界は、死ぬことを、滅びることを欲している。実際それは死滅するだろう。 (中略) ぼくたちもたぶんいっしょに滅びるだろう。ぼくたちも打ち殺されるかもしれない。ただぼくたちはそんなことではかたづけられないのだ。ぼくたちの遺物と生き残ったものたちとのまわりに未来の意志が集まるだろう。人類の意志が現れるだろう。(中略) 人類の意志は今日の共同体や国家や国民や団体や教会の意志とは断じて等しくないことがわかるだろう。自然が人間にたいして欲していることは、個々の人間の中に、きみやぼくの中に書かれている。」

ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳
『デミアン』(新潮社)

 しばらくの間、じっとその地球を眺めてから、私は向きをかえて、インド洋を背にして立った。私は北面したことになるが、そのときは南に向いたつもりであった。視野のなかに、新しいなにかが入ってきた。ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒の石塊がみえたのである。それはほぼ私の家ほどの大きさか、あるいはそれよりももう少し大きい石塊であり、宇宙空間にただよっていた。私も宇宙にただよっている。(中略)
 私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべてが脱落していくのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめく苦痛であった。しかし、残ったものもいくらかはあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったことのすべてで、それらのすべてがまるでいま私とともにあるような実感であった。それらは私とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事からなり立っていた。私は私自身の歴史の上になり立っているということを強く感じた。これこそが私なのだ。「私は存在したもの、成就したものの束である。」

 (中略)それから自分自身に立ち返って、約一時間目覚めていたが、その間は全く違った状態であった。まるで恍惚状態(エクスタシー)にいるようであった。私は、あたかも宇宙空間を浮遊しているように、また宇宙という子宮のなかで安心しきっているかのように感じた。――そこは途方もない真空状態であったが、しかしあらんかぎりの幸福感に満たされていた――。「これは筆舌に尽くせぬ、永遠の至福だ、あまりに素晴らしすぎる」と、私は考えた。(中略)私はただ、「今いるのはざくらの庭だ。今、行われているのは、マルクトとティフェレトの結婚式だ」と考えつづけていた。その結婚式で、私がどういう役割を果たしているのか、はっきりしなかった。結局、結婚式が私自身であった。私が結婚式であった。私の至福は歓喜に満ちた婚姻の至福であった。

C・G・ユング 河合隼雄他訳
『自伝』みすず書房

廃嫡者(エル・デスディシャドー)

私は冥き者、――妻なき者、――慰めなき者、
崩れはてた塔に住む、アキタニアの君主。
私の唯一の星は死んだ、――星ちりばめた私の琵琶には
「憂鬱」の「黒い太陽」が刻まれた。

墓の夜の中で、私を慰めたお前よ、
返してくれ、ポシリポの丘とイタリアの海と、
傷ついた私の心を、あれ程喜ばせた花と、
また、枝々が薔薇に絡まる葡萄の棚を。

私は愛神(アモール)か光神(ポイボス)か、キプロス王かヴァロワ公か、
私の額は、今もなお、女王の口づけに赤らむ。
人魚の泳ぐ洞穴のなかで、私は夢を見た……

そして私は二度勝ち誇って地獄の河を渡った。
オルペウスの七絃琴の上で、交わるがわる
聖女の吐息と妖精の泣声とを奏でながら。

ミルト

私はお前を思う。ミルト、神々しき美女よ、
輝く千の火花なす、誇り高いポシリポの丘を、
東邦の輝きに浸るお前の額を
編んだお前の髪の黄金と絡まり合う、黒い葡萄の房を。

私が酔心地を飲んだのも、やはりお前の盃の中、
微笑むお前の眼の、束の間の光のなか、
酒神の足もとで、私の祈る姿が見えた時だ。
詩神は私をギリシアの児の一人としたのだから。

私は知っている、何故、彼方で火山がまた花咲いたかを……
それは昨日のこと、お前がすばやい足で、それに触れたからだ。
そしてたちまち地平線が灰で覆われたのだ。

さるノルマン伯爵がお前の陶土の神々を壊ちてこの方、
ウェルギリウスの月桂樹の葉陰には、常に、
色薄い紫陽花が緑の桃金嬢(ミルテ)に咲き交じる!

アルテミス

十三番目の女が帰って来る……それはまた、最初の女だ。
いつも同じ女だ、――同じ束の間だ。
おお女王よ! 最初の女(ひと)か最後の女(ひと)か?
王よ、唯一の恋か最後の人か?……

揺籃から棺の中まで愛してくれた女を愛そう。
私ひとりが愛した女は未だ優しく私を愛する。
それは死だ――死の女だ…… おお幸福だ! 苦しみだ!
差出される薔薇は、「喪の花(ローズ・トレミエール)」だ。

火に充ちた手をしたナポリの聖女、
菫の心持つ薔薇、聖女ギュデュールの花。
お前は天空の砂漠の中に十字架を見出したのか?

白薔薇たちよ、落ちよ! 我らの神々を辱めて。
白い幽霊たちよ、燃えるお前の天から落ちよ。
―――深淵の聖女は、私の眼には更に聖女だ!

アンテロス

お前は訊く、何故、私の心がかくも怒り狂うのか、
首を圧えられながらも、頭をもたげるのか、と。
それは私がアンタイオスの種族の出だからだ、
私は勝ち誇った神に向かって、投槍を持ち直す。

そうだ、私は復讐神に魂を吹き込まれた者の一族だ、
私の額はあの荒ぶる神の唇の印をつけられている、
ああ、血まみれのアベルの蒼ざめた顔の下から
カインの強情な赤みが、時として私に現われる!

エホヴァよ! 汝の魔力に打ち敗られたその末裔は
地獄の底から叫ぶのだった、「おお、圧制!」と。
それはわが祖父ベルスか、父ダゴンか…

彼らは三度、私を地獄の河水(コキユトス)に浸けたのだ。
そして、私は、母アマクレタを唯ひとり護りながら、
その足もとに老龍の歯をまたしても播く。


黄金詩篇

何だ! 全てに感覚がある
ピタゴラス

人間、自由思想家よ! お前は自分だけが考えると思うのか、
生命があらゆるものに輝いている、この世界の中で?
お前の持つ力を、お前の自由は勝手に扱う、
然し、お前のあらゆる意見に、宇宙は耳をかさぬ。

獣の中に、うごめく精神を尊重せよ。
一つびとつの花が、現れ出た自然の魂なのだ。
愛の神秘は、金属の中に息う。
「全てに感覚がある!」そして全てはお前の上に力を及ぼす。

盲いた壁の中に、お前を覗う視線を恐れよ。
物質にさえも、言葉は与えられている……
不敬な事に、それを使うな!

しばしば暗い存在の中に、匿された神が住む。
そして瞼に覆われた眼が生まれ出るように、
清らかな精神は、石の殻の下に育つ!

ジェラール・ド・ネルヴァル
中村真一郎、入沢康夫訳
『幻想詩篇(シメール)』(筑摩書房)

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